その八

 病棟はちょうどコの字を逆にしたような形になっており、廊下を一つ曲がると、その先に2つほどソファを並べた、そこの人間が、

『談話室』とか『サンルーム』と呼んでいるスペースがあった。


 叫び声はそこから聞こえている。


 女性が一人暴れている。


 柄の長いモップを振り回し、意味不明の言葉を叫びながら。


 時々モップがソファの背に当たったり、リノリウムの床を激しく打ち、鋭い音を立てている。


 女性はワインレッドのニット製のワンピースを着用し、半白になった長い髪を振り乱していた。


 尖った顎、土気色で潤いのない皮膚。


 深く刻まれた皺と、釣り上がった目尻。耳まで裂けた口(これは大袈裟な表現だな。単に口紅を大きく描いているだけに過ぎない)、そして半分茶色くなった歯の間からは、呼吸をするたびに舌が細かく上下する。


 これだけ見ていると、まるで本当に『魔女』が目の前にいるような錯覚すら覚える。


『室井さん、落ち着きなさい』


 さっきの看護師長が、極力抑えめに、彼女を説得しようとする。


『うるさい!ゆう子、またあんただね?!私より歌が下手な癖に!いつもいつも私の邪魔ばっかりして!』


 彼女はまたモップを振り上げた。


 あの筋肉男の若手看護師が後ろから抑えつけようとするが、彼女はそれを察したのか、ますます目を血走らせてモップで彼の顔を打った。


 額が割れて血が飛び散る。


『室井さん、いえ、みや子お嬢さん、落ち着いて。』


 今度は秋山院長がたしなめるが、彼女に効き目はまったくない。


 仕方ない。


 俺は前に進み出ると、彼女を睨みつけた。


『誰だ?!お前は!』


 彼女は俺に向かって叫び、もう一度モップを振り上げた。


 俺は出来るだけ身を低くしながら、軽く握った拳で、彼女の鳩尾みぞおちに当身をくれた。

『ぐっ』、


 彼女の目が白目をむき、モップを放り出して前のめりに膝をつく、


 その瞬間、師長と男性看護師が二人がかりで左右から彼女を抱きとめ、両手を脇に抱え込む。


 別の看護師二人が担架を持ってやってくると、彼女を乗せ、ベルトでしっかり固定する。


『保護室へ』


 秋山院長が彼女の脈を確認し、指示を出した。


 看護師二名が前後に担架を支え、そのまま彼女をどこかに連れて行った。


 周囲には他の入院患者達が様子をうかがっていたが、誰一人驚いたような様子を見せなかった。


 俺はポケットのシガレットケースから、シナモンスティックを取り出して一本咥える。


 いぶかし気な視線を感じたので、


『ご心配なく、煙草じゃありませんから』そういってわざとらしく端を噛み切って見せた。


『よくとっさに動けましたな?』


 秋山院長が俺の顔を見て感心したような表情を見せる。


『こう見えても探偵ですんでね。修羅場は飽きるほどくぐってます』


『あれが・・・・室井・・・・・いや、藤堂みや子さんでしょう』


 俺の言葉に、院長は何も言わずに俺の目を見た。

no』とも、『yes』とも答えなかったが、俺には直ぐに理解が出来た。


『あれではご本人からお話を伺うのは無理のようですな。』俺はシナモンスティックを齧りつくすと、院長の顔を見て、

『では、貴方にお話を聞かせて頂きます。無論、医師としての職業倫理ってやつに触れない程度で構いません』


 院長は仕方ない。とでもいうように、大きくうなずいてみせた。



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