第5章 願いを叶える者 汝の名は……

 別れた筈の少女が戻ってから僅かな時間で状況は変化した。

 その間、綾香達は何もしていなかった訳ではない。鈴音は空間に干渉して少女の援護と男の動きを阻害。綾香に至っては円を描くように走り、男へ向けて爆炎を浴びせつつ、ポイント毎に強い一撃を放っていた。

 しかし、少女と男の移動速度が速すぎるために掠りもせず攻撃は宙に消える。

 そんなさなか、二人の動きは急激に静かなものへと変化した。

 明らかに鈍い動きの少女に対し、鋭い罵声を浴びせながら叩き伏せていく男。

 その言動や姿を垣間見た綾香は気づいたのだ。

 少女の願いが定まっていないのではなく。竜也自身が何のために行動しようとしたのか、その目的を見つけられていないのだと。

 少女は綾香の問いに対しこう答えていた。出来うるなら生き延びて貰いたいと。

 だと言うのに願いの為に戻ってきたのだという。

 だから不思議だったのだ。最初に出会った時の竜也なら、生き延びる事を選択した筈である。

 そんな彼が何かを感じ取った。だから戻ってきたのだ。

 でも記憶が戻り、自分の存在がどういうものであるかを認識し、生まれかけた感情と自らの力によって引き起こされる現象とを無意識のうちに秤にかけた。その結果本来持っている力を否定して封じ込めている。

 破壊された木々の間から見えた竜也の顔を目にして心がざわついた。

(アイツ、答えも見つけてないのに、諦めようとしてんの?)

 疲れ切った表情と生気を失ったような瞳、それは全てを諦めようとしている者が見せる光景である。

 とっとと逃げ出せばいいと男は言った。それは正解にも見えるかも知れない。

 だが、竜也にとっては間違いだ。どんな心の変化かは解らない。何を求めているかも解らない。それでも彼は行動を起こした。

 自らの存在を喪うかも知れないのに。

 それは自分でも認識していない譲れない想いがあるからの行為。

 なら、綾香に取ってやるべきことは一つだけだ。

 どんな結果を生むかは解らない。それでも彼に望みを認識させること。

 それこそが今必要な事だから……。

 走っていた足を止め、真っ直ぐに男を見据える。両手に魔力を集中させ飽和限界まで引き上げた。

 竜也に対して意識を集中している男へ駆け寄ると、手にした魔力を直接叩きつける。

 予想外の衝撃に対して綾香へと視線を向けた男は眉根を寄せて声を漏らした。

「正気か? きさま」

 鈴音から見ても無謀な行動だ。あの戦闘速度を見せられてなお、接近戦を挑むなどと自殺行為にも等しい。

 男の言葉に対して綾香は何も言わない。代わりに出てきたのは。

「いつまで悩んでんのよ。アンタは!」

 鋭い一喝。言葉に呼応するように繰り出される拳は男によって阻まれる。

「感じることがあったから、引っかかる感情が生まれたから戻って来たんでしょうが!」

 男から繰り出される掌底によって身体を飛ばされる。だというのに彼女は止めようとしない。

「だったら、周りの事なんか気にするな! その感覚を追い求めなさい」

 火炎球を生み出して解き放つ。そのあとを追いながら接近していく。

「それでも、僕は沢山の人を消滅させたんだ……」

 風に吹き消されそうな弱々しい声音が綾香の耳に届く。

「アンタがどんな事をしてきたのか、あたしは知らないし、知ったこっちゃない。あたしも、鈴音も、そこの男も自分の願いの為に戦ってんのよ!」

 火炎球は閃光により撃ち落され、あとを進む綾香にも数条の光が迫りくる。

「アンタがどれだけの時間を生きてきたのか、どんな重責を負わされているのかもあたしには理解できない。だとしても、譲れない願いの一つくらいはアンタにだってあるはずよ!それを全力で叶えなさい」

 向かい来る閃光を両手に込めた魔力で打ち払う。

「たとえ、世界を滅ぼす存在だったとしても、アンタは世界に生まれたのよ。なら、アンタにだって……幸せになる権利があるんだから!」

 絶叫にも近いその言葉と共に、極限まで収束させた灼熱の塊を解き放った。

 フレアにも近い爆発が男を中心に広がっていく。

 吹き荒れる余波に綾香の身体は弾き飛ばされ、宙を舞った。

 そのまま受け身すら取れずに地面へと叩きつけられる彼女。

「ぐうっ」

 衝撃が呻きとなって口を突く。

 起き上がる事の出来ない彼女に対して光の矢が降り注いだ。

 右の脇腹、左肩、首筋を掠り、焼けるような痛みが綾香を襲う。

 どうやら、狙いをつけずに撃ったようで致命傷には至らなかったが、楽観視出来るほど軽い傷でもない。

 肌を貫くような熱波が収まった爆心地には、右半身をごっそりと失った男の姿があった。

「恐れ入った。体積を減らされていたとはいえ、ここまで破壊されるとは」

 見る見るうちに修復していく男の体。しかし失った分の体積が戻る訳ではない。

「油断は出来ぬという事か……後に回そうかとも思ったが、気が変わった。確実に目的を達成させるためにそちらから消去する事としよう」

 竜也から完全に目をそらし、綾香と鈴音へと向き直った男。

「深層領域、全プロテクト解除、封印武装解放」

 淡々と告げられる短い言葉、一体何を示しているのか綾香達には理解が出来ない。

 ただ、その行為が今までの様な小手先による攻撃ではない事がひしひしと伝わってくる。

 やがて生まれる白銀の槍、目につく装飾がある訳でもないのだが、彼女の目には槍が纏う呪文のような物が見て取れる。

 

 暗い闇、何処までも堕ちていく感覚が竜也の意識を蝕んでいく。

 既に彼の視界は現実世界を捉えておらず。映しているのは荒廃した大地の映像のみ。

 何かを得たいと考え、行動を起こしたものの、目にしているこの光景が脳裏の傍らへとこびり付いて離れない。

 それが行使する力を無意識に抑制する事になっていた。

 三度の起動実験によって引き起こされた悪夢、一度目は日本を中心にアジアを巻き込んで誰も侵入出来ない領域を作り上げた。

 二度目はフランス地方を不可侵領域とし、海に大穴を穿った。

 そして三度目、ロンドンへと投下された彼は、綾香達の同存在と出会い。

 空と大地を黄昏色に染め上げた。

 全て消滅したくないという意識の暴走によって引き起こされた現象だ。

 兵器である彼はそれを忘れる事が出来ない。ゆえに博士は夢であると思い込ませる事で彼の精神を保とうとしたのだ。

 博士を失い。世界を転移した事による生命維持を優先させる為、竜也は無意識に記録を封印した。

 少女が表に出てくることがなければ、……追撃者が現れることがなければ、恐らくは普通の日常を謳歌することも出来た筈だ。

 しかし、封印は解かれ事実を知った。

 動かせない身体から意識を逸らした竜也は思ってしまう。

(これだけの出来事を起こした存在であるのなら、僕を破壊しようとしている人達の方が正しいのではないか?)

《それは違う。主はただ願っただけ。行動を起こしたのは我じゃ。責は全て我にある》

 事実がどうであるか、誰が起こしたかではなく。存在している事によって起きた現象が竜也の心に影を落としている。

 少女も理解している。それでも意思を伝えなければと感じたのだ。

《残されたナノマシン容量では出来ることが限られておる。このまま終えるか、最後まで抗うか主が決めよ》

 先が長くないのなら、このまま消えても良いのではないかそう意識した時。

「いつまで悩んでんのよ。アンタは!」

 鋭い罵声が竜也の耳に届く。視界は現実世界を映していないのに、他の音は届いてこないのに、その言葉はストレートに響いてきた。

「感じることがあったから、引っかかる感情が生まれたから戻って来たんでしょうが!」

 竜也の心にある葛藤を指摘する叫び。言葉に飾りはなく、ただ伝えたいという意思が感じられる。

「だったら、周りの事なんか気にするな! その感覚を追い求めなさい」

 世界など気にするなと言い放ったその声に、かすかな震えで言葉を紡ぐ。

「それでも、僕は沢山の人を消滅させたんだ……」

 声の相手に届いているか解らないほどに弱々しい音。そこに返ってきたのは柔らかさを含む声音。

「アンタがどれだけの時間を生きてきたのか、どんな重責を負わされているのかもあたしには理解できない。だとしても、譲れない願いの一つくらいはアンタにだってあるはずよ!それを全力で叶えなさい」

 譲れない願い? 生きたいという感情なのか、それとも……。

「たとえ、世界を滅ぼす存在だったとしても、アンタは世界に生まれたのよ。なら、アンタにだって……幸せになる権利があるんだから!」

 ひと際大きな絶叫が、想いが彼の魂にズキリとした痛みをもたらした。

(なんで、なんで、違う世界だっていうのに、博士と同じような事を言うヒトが居るんだ)

 視界を埋めていた荒野の光景にノイズが走る。

 壊れていく景色の代わりに表れたのは言葉だった。

「……笑顔? んん? 珍しいものでも無いよな? そこら中で見れるじゃん」

 さして繋がりが深いわけではない男の子、その口から出た言葉。欠けたピースを埋めるかの様に現れる表情、何故終わりを迎えるかもしれないこの状況で呼び出されるのだろうか、その言葉をかわきりに次々に表れてくる光景。

 窓際で談笑しながら佇むクラスメイト。

 満面の笑みで食事を提供してくれた食堂のおばさん。

 廊下を駆けていく男子たち。

 困ったような苦笑いを浮かべる担任。

 普段冷静な姿の少女が見せた転げまわるような笑顔。

 そう、それらは彼がこの世界で体験したこと。取るに足りないであろう日常の一コマ。 だというのに、一つ光景が映る毎に、冷たい感覚が頬を伝うのは何故なのだろうか。

 呼び出されていく記憶によって彼の意識は埋められてゆく。

 沢山の人がいて、全て同様の表情である筈なのに、込められている想いも、表している感情も違う。

 でも、竜也が感じた感情は同じだったのだ。そしてその言葉が思い出された。

「とりあえず。家にでも来る? どんな身の振り方するにしても当面生活する為の宿くらいは無いと不便でしょ?」

 この世界で初めて感情を生み出した少女の姿、恐怖を何処かに押しやり、彼の手を伸ばさせた最初の笑顔。

 飾っていたのかは解らない。ただ、その笑顔があったからこそ、彼は差し伸べられた手を握る事が出来たのだ。

 意識を埋め尽くした笑顔の数々、改めて認識した事でようやく自らの願いに気が付いた。

(そうか、そういう事だったのか……)

(僕は世界を滅ぼすかもしれない。それでも……)

 意識にある笑顔、そこから感じる物が心を動かす。

(自分が消滅するかも知れない。それでも僕は……)

 想いがあふれ出る、それは何かに縛られたものではない。

「それでも僕は……それでも、僕は!」

 自然と言葉が呟かれる。事の善悪ではなく。彼自身が感じた唯一の願い。それは……。

「あの笑顔を守りたいんだーーー!」

 あふれ出る想いによる絶叫。決して譲る事の出来ない願い。

 その一言は視界を、感覚を現実世界へと引き戻す。

 虚ろだった竜也の瞳は光を宿し、動くことの出来ない程損傷した身体からはとめどないエネルギーの本流が流出し続ける。

 彼に覆いかぶさっていた瓦礫は弾け飛び、秒にも満たない瞬間に輝いた光が世界を止めた。

【精神エネルギー数値抑制限界を突破。生命活動維持のため、深層領域全プロテクトを強制解除】

 彼の網膜に流れるワーニングテキスト。それと共に彼の意識は心の奥底へと落ちていく。

 目も眩むほどの光を浴びた先、大きな門が現れる。封印を示す南京錠は三つ、そのどれもが鍵を差し込まれず、捻じれ壊れていく。

 一つ壊れる毎に門は開き、全ての門が開いた先には暗い穴が口を開けている。

 竜也の意識は迷うことなくその穴へと身を投じた。

 何処までも落ちていくような感覚を纏いながら闇は深く、濃い物へと変化する。

 やがて、感覚から解き放たれた彼は、何もない広い空間へと降り立った。

 着地点から外周へと広がるように波紋が揺れていく。

 色のない水面の上に立っているような感覚、音もなく、景色もなにも見えない。

 一人だけ世界から取り残されたかのようにも錯覚出来るだろう。

 波紋が見えなくなった途端、空間にノイズが走った。

 何もなかった筈の空間は赤茶けた大地と、黄昏色で塗りたくった空によって彩られる。

 その中に白衣を着た一人の男性が現れた。銀色の髪に片手の指が三本しか見当たらない。その姿は、記録にある人物と同じである。

「博士……」

「この空間までたどり着いた君なら、この光景が何であるかは想像出来るだろう? かつて起こしたかもしれない景色、そしてこれから起こすかもしれない光景。君はこれらを引き換えにしても力が欲しいと願った。だから私に出会った」

 ゆったりとした足取りで竜也に歩み寄る白衣の人物、目の前で立ち止まった彼は再び口を開く。

「ここは君の魂、現実世界とは時間的に切り離されている。私はエミュレーターのような物だ。そして君に対する最終安全装置でもある。何を想い、どのような意思の下でここまでたどり着いたのか分からない。それでも、真に願うなら、私の問いに答えよ」

 博士はジッと竜也を眺めたままの姿で言葉を区切った。

 どれだけ観察していたのだろうか、視線を荒野へと向け言葉をつなぐ。

「文明の限界点に生まれ、世界を食らいつくした終焉の魔獣、その名は?」

 優し気な表情を浮かべた博士はさらに言葉を繋げる。

「本当に君が願っているのなら、答えはもう君の中にある」

「博士、僕は貴方によってこの世界に飛ばされた。幸せっていうものは多分まだ見つかって無いと思う。……でも初めて出会ったんだ。笑顔っていうものに」

 荒野の景色は今まで出会った沢山の人が見せる多くの笑顔によって埋められていく。

「こちらの人は、この表情が当たり前にあるものだって言っていた。日常的に意識することなく溢れているものだと」

 一人一人違う表情、そこに込められた感情ですら単一ではない。

「それでも僕にとってそれは眩しい物だった。宝物にすら見えるんだ」

 談笑する姿、困ったような照れ隠しの笑み、おなかを抱え声を上げるほどの笑い顔。

 そのどれもが竜也には初めてのもの。

「同じ表情なんてないのに、僕には暖かいと感じた。尊いと思ったんだ」

 言葉を紡ぐたびに頬を冷たいものが流れていく。

「この感情が正しいのか、間違っているのか解らない。それでも、それでも僕は守りたいと思ったんだ」

 両手を胸に抱き祈るように唇を動かす。

「だから、あの笑顔を守りたい。そのために力を貸してほしい」

 そしてありったけの願いを込めてその名を叫ぶ。

「フェンリーーーーーーール!」

 叫びは空間に広がり、映していた光景はガラスの様に弾けていく。

「コードファイナル、認証を確認。事象変異領域を急速形成。領域内全ナノマシンを分解、コアシステムを基に再構成開始」

 博士の口から機械的な音声が流れ、空間が、彼の意識が変革していく。

「君の行動が正しいかどうか、私にも判別はつかない。ただ、その願い、想いの尊さに間違いはないと私は思う。どのような結果になるか解らないが、悔いの無いように全力を尽くしなさい。願わくば、未来に幸多からん事を」

 プログラムによって紡がれた言葉なのか、残されていた博士の意思なのかは解らない。

 ただ、声色はとても優しく包み込むような物だった。

 意識は闇を超え彼を構成していた意識は一人の少女と出会った。

「主の願い。確かに聞き届けた。解き放たれた我が制御出来るか解らぬ。じゃが、この魂を賭けて汝の願いにこたえよう」

 彼を形作っていた意識は霞の様に変化して少女と統合される。

【領域内全ナノマシン活性化、コアシステムに従い体組織形成開始】

 光の中、粒子となって漂っていたナノマシンが一つの獣を形作っていく。

【残存ナノマシン容量計測、10%、フィールド解放後の活動可能限界まで10セコンド。ナノハザードによる暴走回避のため、残り1セコンドにて通常モードへと強制置換を実施】

 白金の体毛に覆われた一匹の魔獣が創り上げられると光が弱くなっていく。

【最優先脅威目標設定。ラグナロクシリーズ、タイプオーディン】

(今だけは願う。創主よ。我が宿主のささやかな願いを、純粋なる願いを叶えさせよ。我はどうなってもよい。だが、あの願いだけは全てに変えても叶えたいのじゃ)

 滅びをもたらす終焉の魔獣は初めて願った。自分の存在とは対極にあるだろう願いを。


 それは知覚する事すら難しいほどに刹那の出来事だった。

「あの笑顔を守りたいんだーーー!」

 初めて耳にする竜也による感情の発露。

 耳に響いた言葉、それが指し示す事柄を二人の少女は理解できない。

 しかし、叫びに乗せられた感情の強さは痛いほどに伝わってくる。

 同時に男の後ろ、瓦礫に埋まっていた彼が眩い光によって包まれた。

 覆いかぶさっていた物を跳ね飛ばし、ドーム状の小さな空間を創り上げる。

 中で何が行われているのか解らない。周囲の状況ですらコマ送りの様に瞳に映っていた。

 そんな中、音でも声でもなく。その言葉が直接心に響き渡った。

(あの笑顔を守りたい。そのために力を貸してほしい)

 命令ではなく懇願、控えめながらもしっかりとした意思。

「なんだ。ちゃんと言えるじゃない」

 綾香の口からこぼれた安堵の吐息。痛みと傷から発せられる熱によって朦朧としかけた意識を奮い立たせ身体を起き上がらせる。

 人にとってはささやかに思えるかも知れない願い。

 日々を暮らす人たちにとっては当たり前の様に目に出来る表情、だというのに、自分が消えるかもしれない。その土壇場で守りたいと願ったのだ。そのために力を貸してと懇願したのだ。

 だれがその想いを置き去りに出来ようか、それは綾香が望む願いにも含まれている。恐らく鈴音も同様に感じているだろう。

 だったら、全力を尽くそう。その先にある物が何であるかではなく。

 ただ一つの願いを叶えたいという純粋な思いに答えるために……

 意思を固めた時、光は弾け、中から白金の巨大な狼が姿を現した。

 その姿は確認した一瞬で見えなくなり、代わりに男の左腕が音も血しぶきすら出さず宙を舞った。

 先程までの戦いでは身体を離れた物はすぐに砂の様な物へと変化して風にさらわれていたが、宙を舞う腕は原型を留めたままだ。

 再生を始める筈の肩口は一向に変化しない。

 異質な状況を察知したのか男は綾香達を無視し、その姿を消した。いや、激突音と衝撃、それに続いて光の瞬きが続いている事から目に映らない程の超高速で戦闘を行っているのだと理解した。

 動きの鈍る身体を起こし、綾香は最後の仕上げに取り掛かる。


 魔獣フェンリルと化した少女は音すら置き去りにする速度でオーディンへと飛び掛かった。

 白金の体毛は光を反射し、さながら粒子の波にすら見えるだろう。目にする事が出来れば。

 すれ違いざまに左腕を食いちぎり、間を置かず転回すると男の頭を目掛けて宙を蹴る。

「ようやく本来の姿に戻ったか、待ちかねたぞ魔獣」

 少女にだけ理解できる高速言語で呼びかける彼、襲い来る魔獣に対し、絶え間ないレーザーを浴びせながら手にした槍を構えなおす。

「ん? 傷が再生しない? 貴様、何をした」

 魔獣の咢をかわす為に紙一重で身体をよじるオーディン。

 辛うじてかわせた筈だった。しかし、咢は右脇腹を薙ぎ、体制を崩される。

 抉られた部分はまたしても再生しない。そこで男は理解した。

 フェンリルは物質ではなく。次元そのものを抉っているのだと。

 だが、魔獣の動きは鈍くなっていく。白金の体毛はレーザーによって貫かれ、赤い色で染められていく。

 こと攻撃能力、スピードにおいては魔獣の方が遥かに上であり、男は勝ち目を見いだせない。

 しかし、活動限界の問題もある為、避けるという余分な行動を起こせないフェンリルは男の攻撃をまともに受けざるを得ないのだ。

「コード、ファイナル。グングニール。我が敵を貫く!」

 魔獣を正面に捉えた男は封印武装を完全開放した。

 槍を包み込んでいた呪文の羅列は弾け飛び、周囲のエネルギーを収束、光へと変換した。

 光は真っ直ぐにフェンリルを捉えると次の瞬間、白銀の槍を構えた男が魔獣の喉元から尾に至る部分までを一突きで貫いた。

 オーディン自体は全く動きを見せていない。

 光によって捉えられた物体へと強制転移したのだ。

 槍から放たれる光は照準光であり、届く場所であるなら、時間も空間も無視して瞬く間に出現出来る。それがグングニールの能力、次元を食い破る魔獣に対抗するため封印武装を使用したのだ。

 身体を貫かれたフェンリルは大量の体液を滴らせる。普通に考えれば絶命に近いだろう。

 だが、そのボロボロの体でなおも前へと動いていた。

 喉元を貫かれても咢を動かし、そのままオーディンの腕を食いちぎった。

 貫いていた槍は制御を失い砂に変わり、魔獣の身体には大穴が穿たれている。

 一方のオーディンも両腕を失い右脇腹を抉られている。

 両者の体は戦闘を行うには限界が近いほど疲弊していた。

 着地した魔獣は残された力を振り絞り天高く跳びあがる。

 脅威となる物へ引導を渡すために。

 跳躍距離は数キロメートル、壊れかけた身体、薄れかけた意識、残された思考のすべてで排除対象を睨みつける。

 今、まさに降下しようとしたその時。網膜にメッセージが流れていく。

【最優先脅威目標……変更、魔導士、綾香】

『えっ?』

 フェンリルに溶け込んだはずの意識が虚を突かれたように声を漏らす。

 既に目標は変更され、一心に力を発動させるために魔導を束ねる一人の少女へと、視点が収束する。

 降下は開始され、動きを止めることも出来ない。

 身体を包む風は強くなり、少女の姿は急激に大きくなった。

 何を思ったか、彼女は魔獣を見上げると、その表情にありったけの笑顔を浮かべて見せた。

 それは終わりを悟ったが故の笑顔、もし消えるにしても相手の心にしこりを残さないようにというささやかな願いを託した行為。

 近づく笑顔を目にした魔獣は全ての意志を導入して叫ぶ。

「止まれーーーーーーー!」

 それは竜也の意志か魔獣であるフェンリルの意志か……。

 激突する瞬間、視界は暗くなり、グシャっという何かが潰れた音、広がっていく冷たい感触が身体を包み、意識が完全に途絶えた。


 爆発にも似た衝撃音と潰れる音、それから遅れる事数秒、トサっという軽い落下音が男の耳に届く。

 軽い落下音は自分が落ちた音、自由を失った身体を起こし、ふらつく足取りで爆発音の中心へと歩み寄る。

 抉れた大地はさながらクレーターの様に大きく、中心には衣服をまとわぬ人型の代物が赤い液体に浸され転がっている。

「ふ、ふふふ、ははは。何が笑顔を守りたいだ? 行動を起こした結果がこれではないか、所詮お前は魔獣にすぎぬ。どれだけ綺麗事を並べ立てようが、本質は破滅をもたらす魔獣だ。解っただろうこれで」

 あざ笑う男の言葉は風に乗り広がっていく。

「全力の貴様を打ち倒すという願いは叶わなかったが、それでも戯言にすがろうとする魔獣という面白い物を見ることが出来た。これで良しとしよう。だが、まだコアは壊れていないようだな。再稼働は不可能だと思われるが、万が一ということもある」

 滑りながら、人型に近づいた男は収束された光の玉を中空に生み出す。

「こちらのダメージも計り知れないが、それでも貴様を破壊するには十分の力が残っている」

 横たわる人型の表情、目から流れる雫を目にした男は少しばかり目を伏せる。

「小僧の生い立ちに同情を感じないわけでもないが、お前を壊す事が使命であり願いだ。故に消えてもらう」

 光の玉が人型の真上に形成されていく。 

 大きさが人を丸ごと包んでしまえるほどにまで届いた時、ソレは姿を消した。

「ん? この反応は」

 男が気づいた時、彼は別の光景を視界に映す。

 削り取られた大地の上方、肩口辺りで切り揃えられた黒髪の少女が見下ろしている。

 次の瞬間、何も変化していない大地へと彼は張り付けられていた。

 残っている体躯は全く動かない。自ら視界を埋めるように先ほど形成した光の玉が現れた。

 解き放たれた力は男を包み、爆風が大気を揺らす。

 土煙が収まり、出てきたのは全く変化していない男の姿。

「なんのつもりだ? 攻撃能力を持たない片割れが、何をしようというのだ?」

 近づいてくる少女の姿を視界にとらえつつ問いかける。

「動きを拘束したところでお前に勝ち目はあるまい? 攻撃主体だった相方はあの通りだ。空間転移は魔力の消費も激しかろう? 無意味な行動を何時まで続けるつもりだ?」

 言葉を投げかけつつその姿を観察する。

 衣服のあちこちは擦り切れ、白い修道服は紅い色が滲んでいる。身に着けた眼鏡はひび割れて、既に用途を満たしてはいない。

 先程フェンリルが起こした衝撃波によって吹き飛ばされていたようだ。

 加えて、空間転移の代償なのか、肩を揺らし激しい呼吸を繰り返している。

 どう見ても戦闘を行える状況ではない。頭のいい魔導士ならば引き際というものを理解している筈だ。

「……確かに、貴方にとって無意味な行動かも知れない。私の行動も、彼の行動も」

「彼? ……ああ、小僧の事か」

「他愛のない感情に思えても、私を含んだ殆どの人にとって、当たり前の様な出来事だとしても、彼にとってそれはかけがえのない感情だった」

 眼鏡を外し、後ろへと放り投げる少女。その顔立ちは整っているが幼い。だというのに、眼差しは鋭く。強い意思がこもっている。

「笑顔……だったか、そんなものが何の役に立つ? 人一人救うことが出来ず。守ろうとしたものですらこのざまではないか。そもそも、その魔獣を理解出来るほど永い時を過ごした訳ではあるまい? ならば何故それが真実だと言い切れる」

 責めている訳ではない。男には不思議だったのだ。感情が示す一面を守りたいと願った魔獣と、それを肯定する少女、何処に繋がりがあったのか、何故そこまでこだわるのか。

「そうね。貴方には理解できないでしょう。普通を知らずに育った者の気持ちなんて、私や綾香も彼の気持ちを完全には理解できない。それでも、彼の生い立ちを知り、自らの感情すら定まっていなかった人が、消滅を覚悟の上であの願いを口にした。その想いを、ようやく見つけられた願いを、何故偽りだと言えるの?」

 普通の生活を知らずに育った鈴音達、生まれてから人の感情を知らないまま世界を追われた少年、程度の違いはあれど、近い物を感じていた。

 あの瞬間に聞いた、笑顔を守る為に力を貸して欲しいというささやかな願い。

 それは痛いほどに心に響いた。初めて得ることが出来た感情、純粋で曇りのない想い。

「全てをかけて叶えたいと願った想いを、誰が笑えるというの? そうでしょう……あやかーーー!」

 届くはずのない叫び、聞き届ける者のいない呼びかけ、その姿を無駄なモノとして男は捉えていた。

 声が風にさらわれ、小さくなり消えようとする。

 その時、男の身体に変化が表れた。光る文様が体躯に表れる。同時に中空へと持ち上げられる身体。

「馬鹿な、何故魔導式が発動している。あの片割れは死んだはず。――まさかお前が起動しているのか?」

 大地に佇み男へ向け両手を掲げる少女、周囲を見渡した男は驚愕する。

 自らの周囲を囲むように浮き上がる魔導式、いくつもの文様が浮かび上がり大きな陣を創り上げていく。

「まさか、散発的な攻撃はこのための布石か?」

 魔導式が浮かび上がった場所は全て綾香が力を込めて爆炎を放っていた所。

 そうであるのなら、なおの事おかしい。他者が刻んだ魔導式を起動出来る等と言う現象は、魔導に対して研究の進んでいるあちらの世界でも前例がない事だ。

「在りし時に生まれたもの、祖は灯にあらず」

 唄うように風に乗る声色、それは消えた筈の少女と同じ音を奏でる。

「輝きにあらず。世が二つの景色へと分かたれし楔」

 声色は徐々に強く、大きなものとなり近づいてくる。言霊に答えるよう、作られた魔導陣は回転を始めオーディンへ向けて収束していく。

 無論、男とて黙ってみている訳ではない、近づいてくる声色へ向けて閃光を解き放っているが、機能低下のせいか、はたまた、こちらへ両手を向けた少女の妨害なのか、全く手応えがない。

 それどころか、外界への干渉力が封じられ始めているのだろう、閃光そのものを生み出す事すら出来なくなってしまった。

「祖は全ての源、分かたれる前に在りし原初の一」

 陣はその形を失い。シャボン玉に近い形状のエネルギーへと変化した。

「アーキテックフレイム!」

 その声色が途切れるや否や男は眩い光によって包まれた。

 光はシャボンの中を荒れ狂い、虹のように目まぐるしく色を変えていく。

 それは身体を焦がし、燃やし、抉り取る。瞬時に再生を行ってはいくのだが、行われる破壊は留まるところを知らず、復元されるものすら強引に削り取っている。

「それで……、誰が死んだってえのよ。あちこち身体を痛めはしたものの。こちとらピンシャンしてるわよ」

 いつもと変わらぬ口調で現れた長い黒髪の少女、傷を負ったのか右目を瞑り、だらりと垂れ下がった左腕を抑えながら、空に浮かぶシャボン玉へ視線を向けている。

「あがいても無駄よ。アンタがさっき言ったように、こっちも消耗はしてるけど、今のアンタならあたしにも倒すことが出来る。それは対象を焼き尽くすまで止まらない」

 彼女が示す通り、光は七色に変化し、交じり合い姿を変えつつも消えずに燃え盛る。

「アンタは竜也の行動をあざ笑った。アイツにとって譲れない唯一の願いを! 確かに見かけは散々かも知れない。それでも竜也は目的を達成した」

「達成……だと? 我を破壊、出来ずに……か?」

 くぐもった声が辛うじて綾香の耳へと届く。

「はなっからアンタを倒そうなんて考えてなかったわよアイツは、他に被害を出さぬよう。力を削り、あたしたちがアンタを倒せるようになる事、それが目的だったんだから」

 男は絶句しているのか言葉を紡がない。

「鈴音の熱弁なんて初めて聞いたけど。その通りよ、自分に出来る事をやり尽くし、この瞬間まで導いた。経過はどうあれ、その行為を笑う事なんか誰にも出来やしないわよ! それが出来るのは事を起こした竜也だけでしょうが!」

 恫喝が響く。その言葉に項垂れる男。

「アンタは負けたの! あたし達じゃなく。魔獣でもなく。眼中にもとめていなかった少年の願いに! あいつが願ったから、その想いに答えたいと思ったから力を貸した。それだけよ!」

 言いたい事を言い終えたのか、踵替えしてクレーターに横たわる人型へと歩んでいく綾香。

「ああ、そう、だな。こちらの完敗だ。執着のあまり、見落としたものが、多かった……。小僧のように純粋な願いを抱けたのなら、どれだけよかった、だろうか……。今となっては、かなたに……みえ……」

 言葉をすべて言い切る前に男の体は完全に消失した。

 それと共にぺたんと地面に座り込む鈴音。彼女は光が外界へと被害を漏らさないよう、空間を閉じる事で抑え込んでいたのだ。

 それと同時に人除けと、脱出不可能な空間を形成するという離れ業をやってのけた。

 どれ程彼女の体に負担が掛かるかはその姿が物語っている。

「ご苦労様、助かったわ」

 綾香の声を耳に残し、疲れ切った表情をしながらも立ち上がった鈴音は、ふらつきながらも綾香と共に、横たわる彼の元へと足を踏み出す。

「こんな事を聞くのは可笑しいかも知れないけど、綾香、あなたどうやって助かったの?」

 それは当然の疑問だろう。どう考えてもあの瞬間、助かる可能性は無かった筈なのだ。

 鈴音はそれを理解していたから、最後のあがきとしてあの男の前に立ちはだかった。

「あたしも不思議だったわよ。あの咢に食らいつかれていたら確実に消されてた訳だし、だからこそ、アイツの心にしこりを残さないよう精一杯の笑顔を作って見せたんだけど」

 危なげない動きで滑り降りていく綾香、その後ろをふわりとした動きで降りていく鈴音。

 地面に転がったマネキンの様な竜也を見下ろしながら口を開く。

「突き飛ばされたのよ。思いっきり、咢が届くよりほんの少しだけ早く、前足であたしを払いのけた。おかげで衝突の爆風にも巻き込まれなかったし、男に気付かれる事も無かったわ。まあ、加減なく飛ばされたからあちこちぶつけたし、軽い脳震盪を起こしてたみたいで気を失ってたわけ」

「彼の感情がそうさせたのかしら?」

「どうかしら? 弾くことが目的じゃなくて、止まりたかったみたいなんだけどね。経過はどうあれ、あたしは生きてる。それはアイツが起こした行動の結果だと思う」

 横たわった彼の体は血の様な物体で半分が覆われていた。衝突に耐え切れなかったのだろう。身体の全体がひしゃげたように見える。

「綾香」

「ん?」

「彼の事、どうするつもり?」

 それは聞いておかなければならない事だった。

 心は紛れもなく綺麗な少年だった。でも身体には制御不可能な魔獣が同居している。

 再起動の確率は低いと言っていたが、どうなるか解らない。

 この世界には存在しない技術の塊であるからだ。ゆえに決めなければならない。

「あたしはさ、連れていきたいと思うんだ。確かに制御出来ない力を持ってるかも知れない。それに目が覚めるかどうかも判んない。でもさ、あたしは聞いたから、竜也の心からの願いを、もし、目が覚めるような事があるなら、その時は本当の意味で力を貸したい。……ダメかな?」

 すがるような視線が鈴音に向けられる。視線が交わるなり、少女は大きく息を吐いた。

「そう言うと思ったわよ。好きにしたらいい。綾香の考えに異論はないわ。ただ、目が覚める事は期待しない方が良いかも知れない」

 竜也に視線を落としながら、そう呟いた。

 軽く頷きながら抱き起そうとする綾香。

「綾香、待った」

「なに?」

「その体では抱き上げるのもつらい筈よ。彼が身に着けていた衣服の重さから考えると相当な重量があるはず。二人でおこなった方が良いわ」

 その忠告で服の事を思い出した綾香は鈴音と向かい合うと、二人で竜也を抱き起した。

「……うそ。そんな」

 愕然とした表情を浮かべる綾香。鈴音も思いは同じだった。

「なんで、こんなに……軽いのよ」

 そう、彼の体は軽かった。殆ど重さを感じない程に……。

「これが彼の選択による結果なのね。本当に全ての力を使ったんだわ」

 淡々と漏らす鈴音の言葉が胸に響く。それがどれだけの選択だったのか、どれだけの想いだったのかを感じ取る。

 気丈な筈の少女、その瞳からは止まる事のない雫が流れ続けていた。

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