第3章 新たな生活、忍び寄る影
真っ暗な部屋に浮かび上がるテーブルと五脚の椅子。そのうちの二つはすでに主を失い空虚な姿をさらしている。
残りの3つには老人、青年、少女が身を委ねており、互いの顔を向き合わせていた。
「さて、集まってもらったのは他でもない。アレの討伐部隊編成についてだが、博士のナノマシンは馴染んだ時期の筈だ。互いに知り得た情報を開示しようではないか」
しわがれた声ながらもハキハキとした口調で老人が口火を切る。
「まず私だが、情報の欠損が大きくてな。知り得たのは転移装置の設計に関して位だ」
テーブルに表示される転移装置の概要と作成方法、それのみ。欠損があるにしても博士の知識から得られた情報としてはあまりにも少ないと感じる内容である。
「……ではこちらが知り得た情報に関してですが、周知されている情報と被る為、有益となる物のみを表示します」
紳士的な風貌をした青年が表示した内容、それは転移におけるメリット、デメリット、必要となるコストだった。
「次元転移の成功率が50%、さらに固定次元への到達率は20%以下、と言うことはアレは次元の渦に飲まれた可能性もあるのね」
集まった3人にとっては、望ましい結果が生まれやすい情報の筈だったが、少女は沈んだ表情を見せている。
「成功率が50%もあるのなら、アレの生存している可能性はあるわけだな。こちらに戻ってくる可能性は20%と言うことだろう。危険性は十分にある。問題は転移1回に掛かるコストか、先行量産型とはいえ、ヴァルキュリアシリーズが100体分とは、成功率に見合わん物だな」
「問題はそれだけでは無いです。転移可能個体は、ラグナロクシリーズレベルのナノマシン保有量を持つ者のみ。私達の様な非戦闘個体やヴァルキュリアでは、転移後に身体を保持することが出来ません」
青年の言葉に頭を抱える老人。恐らく危険性とコストを秤にかけているのだ。
「でも、討伐者は必ず送らなければいけません」
「それはどういう意味だ? 危険性の問題か?」
珍しく強い口調を見せる少女に訝しげな表情を浮かべる老人。
「私が得た情報は、いま我々に起こっている事についてです。現在にいたるまでの間、身体に変調はありませんでしたか?」
「特に変わった様子はありませんね」
自分の身体を見回して変化を探る青年と老人。
「変わった事か、以前より抜け毛が多くなったくらいか? それが何だと言うのだ?」
気にも止めない口調で老人は問いかける。
「私達は、身体をナノマシンに変換することで、擬似的にですが永続的に生存出来るようになったはずです。……ですが、その特性は失われました」
『なんだと!?』
驚きの声が部屋中に響き渡る。
「博士の残した最後のトラップです。……彼は自らが失われた後にアレを追撃出来ないよう、自分の身体にウィルスを忍ばせていたのです」
「そのような物ナノマシンの入れ替えを行えば良いだけであろう?」
少女の言葉を真剣に受け取らず、楽観的な物言いの老人。
「対策を取れるような仕掛けを博士が仕組むでしょうか?」
対象的に深刻な表情で青年は身体を眺め続ける。
「このウィルスの特性は一度でも馴染んでしまったら、接触した物質の崩壊因子を活性化させてしまう事、解除方法が現時点ではないと言う事、ナノマシンの入れ替えはすでに試しましたが、因子の消去は出来ずに、私の施設すべてがウィルスによって浸食されました」
絶望的とも言える内容に男性2人は言葉無く少女を眺めている。
「……だ、だが、身体に変調は見られないのだ。時間をかけて対策をとれば良いのでは無いか?」
なおも希望的な物言いをする老人に対して、彼女は静かに首を振る。
「この3人でもっとも時間が残されて居ないのが貴方なのですよ。博士は特別な事を施したのではなく。元々持っていた機能を活性化させただけ。人間をやめた我々を人間へと戻したのですから」
少女の言葉にピンとくる物があったのだろう。青年はスクリーンを展開しなにやら計算し始める。
「もしや、博士のウィルスにあったのは、老化現象の活性化?」
「ええ、その通りです。私や貴方のように若い段階で変質した者は肉体的には若いままでしたが、彼のように年代を重ねた上で変質した場合。肉体年齢はその当時のまま、老化現象が再発したと言うことは、もっとも影響を受けやすいのが彼なのですから」
「でも、それは普通の人間が老化していく場合でしょう。我々は変質してから長い時を経ている。通常の老化現象よりも進みが早い筈」
「ならばどうしろと言うのだ。解決策など無いではないか!」
怒りと恐怖に彩られた表情で声を荒げる老人。
「だからこそ、アレの討伐を行わなければならないのです。唯一ウィルスの影響を受けない個体から正常なナノマシンを手に入れるために」
こうして、討伐するという目的と素材回収と言う目的が合致した彼らは、実行に移すための準備を進めていく。
ただ、少女は全てを話した訳ではない。知り得ていた博士の知識で決定的な事、それは次元転移が一方通行であると言う情報だ。
知識が正しいのであれば、何をやっても手遅れである。それを信じる事が出来なかった。
あるいは彼女にある感情が、冷静な判断力を失わせているのか、本人ですら把握出来ていない。
うっすらと窓辺から浸透する白い輝き、部屋の端から染め上げるよう、ベッドに横たわる彼の姿を浮かび上がらせる。
輝きが目元に届いた所で閉じていた目蓋がゆっくりと開いた。
少女達の館で過ごし始めてすでに七日、周期的に繰り返される出来事の筈ではあるが、その動きにはぎこちなさが残っている。
家主の二人に関しては、未だまどろみの中にいる頃であろう。
時間にして朝の五時、早朝から働く者以外では活動している人すら居ない。
音を立てずに身を起こした彼は窓に歩み寄り、そっと手を伸ばした。
風に包まれるような柔らかさで窓は開き、ひんやりとした空気が部屋の中を満たしていく。
目前に広がる街の姿を飽きる事無く眺め続ける彼は、一見すると変化がないように感じられる。しかし変化が訪れなかったわけではない。
彼が過ごす部屋の片隅に置かれた本棚、七日前には全く物が置かれていなかったが、びっしりと本が並べられている。
種別は全て教科書、小学校で使われる物から高校に至るまでの全教科、普通の感性であれば七日でこの物量を覚えさせられたら、間違いなく途中で逃げ出すのでは無いだろうか?
おおかたの想像通り、並べられた本には使われた形跡がほとんど無い。
窓辺で佇んでいた彼は唐突に窓を閉めると、足音すら立てずに部屋の外へと歩き出す。
ひんやりとした空気に浸された廊下を抜けて、一階へと降りる。
向かっている先は食堂、未だ数日しか経っていない筈なのに、到着するなり、なれた手つきで朝食の準備を始めていく。
トマトに、レタス、キュウリを食べやすい大きさに切りそろえると、大きめの皿に盛りつけた。
いかにも料理人のような手際をしているが、未だに味という物を正しく理解出来ているわけではない。
実のところ見よう見まねなのだ。二日ほど前に調理していた鈴音の姿を観察し、彼は食材の使い方や調理法を記憶、そっくりそのまま再現している。
ふいに動きを止めた彼は、辺りの様子に耳を澄ませると、トースターに食パンをセット。
一呼吸置いてから水を入れたやかんを火にかける。テーブルに食器を並べ、フライパンと卵を手にガス台へと歩み寄る。
火加減を調整しつつそれを焼き始め、白身が堅くなりかけた所でふたを閉めると火を止めた。
やかんの温度が上昇し、沸点まであとわずかと言う時点で食堂のドアが開く。
のろのろとした動きで入って来るのは、長い黒髪をなびかせた少女。
眠そうな表情を浮かべてはいるものの、きちっと整えられた髪型に、清涼感溢れる白い修道服、使っているのか見分けにくいほどに自然な化粧姿と、身だしなみに関しては完璧に仕上がっている。
「おはよ~。あんた、朝早いのね。ふああ」
ふらつきながらもテーブルにつく少女の前に、スッと差し出されるティーカップ。
いつの間に注がれたのか、そこには程良い香りを漂わせた紅茶。
「おはよう。綾香、今日は少しだけ早いみたいだね」
名うての執事すら真っ青なタイミングで紅茶を差し出した彼は、注意深く少女の姿を眺めている。
カップを口元まで運んだ少女は、しばし香りをたしなむと、紅茶少しを口に含んだ。
「――ふう、美味しい。っていうか、いつの間に覚えたのよ、紅茶の入れかたなんて」
穏やかな笑顔を浮かべつつ、少女は疑問を口にする。
それはそうだ。この館にいる二人の少女は食事関連のことは一切教えていない。
なぜなら、二人とも得意な方ではないからだ。
強いて言うなら鈴音の方が料理に関しては秀でているだろう。綾香にしてみれば紅茶にかんしても飲めればいいという位の感覚、入れるタイミングもまちまちの為、出来たときの味が定まっていないのだ。
そんな入れ方を参考にしたところで、美味しい紅茶の入れ方など学べる筈もない。
しかも味音痴とも言える彼が、美味しい紅茶を入れると言う事は難しい。
その証拠というか何というか、はじめの頃は薄すぎたり、渋くて苦い物だったりと散々だったのだ。
それを警戒して香りを確かめてから口に含んだのである。
「昨日、入れた紅茶を飲んでた時の笑顔が柔らかかった様な気がしたから、少しだけ工夫してみたんだ」
呟きながら微笑む彼の表情も穏やかで、見ている綾香が思わず赤面する程である。
(な、なによ。そんないい笑顔しながらさらっと言われたら、ちょっとドキドキするじゃない)
いつもより高鳴っている鼓動を深呼吸しながら押さえ込み、少女は再度カップを傾ける。
微笑ましいやり取りが交わされる食堂のドアが、音も立てずにスッと開く。
綾香と同じ白の修道服を纏い。肩口に切りそろえられた黒髪は乱れの一つもない。
化粧が施された様子は全くないのにどことなく清涼感を感じる表情。
眠気を感じさせる動きが全く無い程しっかりした足取りで、綾香に向かい合う様席につく少女。
「おはよう。相変わらすギリギリの行動なのね。綾香は」
「うっさいわね。起き抜けの開口一番がそれなわけ?」
降りかかる言葉へ脊髄反射のごとく返される台詞。最初の頃は相性が悪いのかと、首を傾げていた少年も、毎日のように繰り返されるやりとりに、挨拶のような物なのだと理解して気にする事も無くなった。
席に着いたばかりの少女に差し出されるティーカップ。
「ありがとう。貴方はいつも早起きなのね。健康的でいいと思うわよ」
感情のこもっていないさらっとした挨拶、そのままカップを口に運んだ少女は、ほ~っと息を吐いた。
「おはよう。鈴音はいつもしっかりしているね」
「何があるか解らないから、常に気を配っているだけよ。綾香みたいにゆるんで居たら、いざというときに対応が遅れるわ」
事務的な口調で答える鈴音の姿にムッとした視線をぶつける綾香。
返事を貰えたことに満足したのか少年は台所へと歩いていく。その後ろ姿を見ながら鈴音は口を開いた。
「綾香、頼んでおいた事はやってくれたのかしら?」
「ん? ああ、学力と身体測定だったわよね」
綾香の答えに傍目では解らないほど小さな動きで頷く彼女。
「学力は一日目はからっきし、でも教科書を渡してからはがらっと変わって優等生よ。何をしたら、たかだか一日でそこまで出来るやら」
「それは全教科と言うこと?」
「そ、人でも変わったんじゃ無いかって言うくらいにパーフェクト。身体能力は最初から桁外れね。なんせ体育教師の動きを見ただけで寸分違わずに再現するんだから」
彼女達が話している最中に並べられていく料理の数々、彼の事を話しているにも関わらず当の本人は朝食の準備に余念がない。
「そう、……後は魔導に関してなのだけど」
「そこが一番の問題よ。――うん。大抵の事はすぐに覚えられるのに、モグモグ、んん。魔導だけは駄目ね。何をしても発動すらさせられないわ」
料理を口に運びながら、対して問題とも思ってない様子を見せる。
「ちょっと、話してる時くらい、手を止められないの? 行儀が悪いわよ」
「何言ってんのよ。せっかく美味しい料理があるのに時間をおいて味を落とすとか、もったいないじゃない」
「――はあ、せめて喋るときは口の中を空にしてからでお願いしたいわね。飛ぶから」
ため息混じりの指摘に彼女は渋々従った。
「んく。で、彼を学校に行かせようと思ってるみたいだけど、無理じゃない? 必修科目でしょ、魔導は。それに戸籍だって解らないじゃない」
「他の教科が飛び抜けているなら特例としての入学は可能よ。あの学校は御祖父様の経営ですもの。……戸籍の前に私の調べて来たことを見せるわね」
そう言うなり綾香へ一冊のファイルを手渡した。無言で中身を読み始める彼女。
一通り目を通した後、鈴音へと返した。
「解った事って相変わらず彼が正体不明で、あの衣服も今の技術じゃ再現すら出来ない物だっただけよね。御祖父様のコネを使っても成果が得られなかったと」
「そうでもないわよ。少なくとも彼が日本の人間ではないと言うことが解ったし、得体が知れないと言うことも判明したわけでしょう」
「それは今までだって解ってた事じゃない」
紅茶を口に運びつつ、ジト目でにらむ綾香。
「推測か確定したのかで、動き方が変わるわ、今までは記憶を失っているだけかも知れない少年だったけど、日本には居ないと解ったのだから」
スッと差し出される一枚の書類。それを手にした綾香は首を傾げる。
「何これ、彼の戸籍じゃない。今さっき日本に居ないって言ったばかりでしょ?」
「そう、居ないと解ったから出来た事よ。御祖父様に頼んで偽造してもらったの」
「はっ? 居ない人間をでっち上げたってこと?」
「全くの創作物ではないわよ。現実にいた人間の戸籍を流用して造ったの。下手なことをすると粗が出るから」
カップに手を伸ばしながらしれっと一言。
「現実にいた人間って、それ、誰かの戸籍が消えたって事じゃない。そっちの方が問題だと思うけど」
眉ねをよせつつ食ってかかる綾香に醒めた表情で口を開く。
「誰の戸籍も消えてないわよ。本来死亡届が出されるはずだった人物の戸籍を流用しただけだから。名前を見て解らない?」
「名前?」
訝しげに書類へ視線を落とした彼女の動きが止まる。
「片瀬竜也……この名前って、つい先日病死したうちの使用人じゃない」
「もともとが養子のようなもので、葬儀は内密で済ませるつもりだったみたいだから、ちょうど良かったのよ」
「それにしたって、彼の事、知らなかった訳じゃないし、複雑だわ」
書類をテーブルへ戻しつつカップを口に運ぶ。
「気持ちに関してはともかく、年齢的にも、身体特徴としても近い人間がいたのだから利用させてもらったわ」
「そこらの感覚は、冷めてるわよね鈴音って」
ひとしきり話も済んだのか鈴音は、テーブルに用意された食事に手をつけ始める。
諦めにも似た表情で眺める綾香も、止めていた食事を再開させた。
微妙な雰囲気が漂う二人を穏やかな笑顔で眺めつつ、並んでいる料理を口に運ぶ少年。
未だに美味しい、不味いという感覚は理解出来ないものの、二人が好んでいる味は理解することが出来たようで、食べ物を口に運んでいる二人には微笑が見て取れる。
「しっかし、最近の食事は、ホントに美味しいって感じるようになったわ」
満足げに一息ついた綾香が紅茶を口に運びつつ満面の笑みを彼に見せた。
「そうね。バランスもいいし、綾香が当番の時でなければ、おおむね満足出来るわね」
対象的にそれほど表情は変えないながらも、穏やかな声色で空気を振るわせる鈴音。
内容に関しては若干、毒舌しみた物が含まれてはいるが……。
「そこ、一言多い。せっかく落ち着いた気分で居るのに」
「あら、ごめんなさい。思ったことは口にしないと気が済まない性分だから。――そうそう、これの中身覚えておいて、これからの貴方に関して書いてあるから」
いつものように行われるやり取りの最中にスッと差し出される先程の書類。
「片瀬、竜也?」
「そう、あんたの名前、ずっと名無しのまんまじゃ、生活するにも大変だしね。まあ館の中にいる分には良かったんだけど、学校に連れて行きたいんだそうよ。鈴音は」
学校という単語に一瞬首を傾げるが、記憶に引っかかる物があったのか綾香を見て問いかける。
「最近連れて行ってもらった、広い建物のこと?」
「へえ、あんたにしては察しがいいじゃない。そうよ、あれやこれやと丸一日近くかけて回った建物。本当にあの時は果てるかと思ったわよ」
げっそりと呟く綾香の姿にクスリと笑みを漏らす鈴音。
連れ回す筈が彼によって翻弄されている姿がたやすく浮かんできたのだろう。
「笑ってんじゃないわよ。解っててあたしに連れて行かせたんでしょうが」
「……それはね。ここですらぐったりしている姿が見えたのだもの、広くなればそれだけ苦労は増えるだろうなとは思ったわ」
心底楽しげな表情でカップの中身を口に含む少女。
「人の不幸は密の味ってやつ? まあ、鈴音も調べ物やらなにやらあっただろうから、これ以上文句は言わないけど。……で、今日からでいいの?」
「ええ、御祖父様のお墨付きも貰ってるから準備は万端よ」
何が行われるのか見当も付かないまま進む話を聞き、楽しげに微笑みを浮かべる二人の表情を、彼の視線は追い続けていた。
朝もやの残る道を二人の少女に引かれるまま、建物の影と日向が作り出す光景を歩む。
まばらに植えられた木々と、大きさのまちまちな家々が作り出すコントラストは、迷路のような印象を感じてしまう。
歩を進める度に映る景色は姿を変え、小柄な羽ばたきを見せる雀は、止まっているのではないか、と思われる時に動きがあることを知らせてくれた。
登校時間と言うことなのだろう、目的地に近づくにつれ、制服に身を包んだ人の姿が増えていく。
すれ違っていく人達からチラチラと視線を向けられて少しむず痒い。
「ねえ、なんか視線を集めている気がするんだけど、何かしたのかな?」
「さあ? 見たい奴がいるなら見ればいいじゃない。気にする事じゃないわ」
少し突き放し気味の口調で呟くと、綾香は口を開かなくなった。
「私達と一緒に貴方が歩いているのが、ものめずらしいだけよ。新しい出来事は興味を惹かれるものでしょう?」
動きや表情には変化が見られないが、やわらかな声色で鈴音が付け加える。
「なるほど、確かにそうかもしれないね」
彼自身も目新しいと感じたから問いかけたのだ。他の人も同じように感じるのは当然かもしれない。
不意に建物の影がなくなり、開けた空間が視界を覆う。山でも入るのではないかと思われるほど広大な土地に建てられた四角い建物、大小5つほどの棟が組み合わさって出来ているソレは目的の建物だ。
その周囲には何に使われるかわからない水を貯めた設備や、半ドーム型の施設。
グラウンドと呼ばれる大きな広場には半袖、短パン姿の人が運動と言われる行為を行っている。
「さて、ここからは任せていいのよね?」
くるりと踵替えした綾香は相方の少女へ問いかける。
「ええ、構わないわ。もともと貴方に事務的な事柄は期待出来ないし」
「うっさいわねえ。どうせ根回しの下手な女ですよ。あたしは」
ぺろっと舌を出した彼女は若干急いだ様子で中へと駆け込んでいく。
「何かあるのかな?」
「授業前のホームルームが始まるのよ。……この表現じゃ理解出来ないわよね。簡単に言えば、連絡事項などを伝えたり生徒がそろっているかの確認を行うのよ」
鈴音に手を引かれたまま建物の中へと入り、廊下を抜けつつ、一つの部屋へと辿り着く。
上の方に取り付けられた札には職員室と言う表示が見えた。
小さくノックをした彼女は、扉を開けるなり、迷うことなく一人の男性に向かって進んでいく。どうやらこの部屋にいる人達は年齢が高い人がいるらしい。
「先生。連れてきました」
「ん~君が聞いてた子か、なんか不思議な雰囲気持ってるね。……あっ、すまんすまん。自己紹介がまだだね。君たちの担任を務める事になる鎌倉裕也、主に魔導学を教えてるよ。よろしく片瀬竜也君」
さわやかそうな外見に浮かぶ、ニコニコした表情は、見る人から見たら胡散臭さを感じるかも知れない。
「見ての通り、とことん胡散臭いけれど、一応先生よ。何かあったら教えて貰うといいわ」
さらっと自らの担任に毒を吐く彼女に悪びれた様子はない。日常茶飯事なのだろう。
「あのねえ、仮にも先生なんだから、もう少しばかり敬ってくれてもいいと思うんだけど?」
「あら、これでも十分敬っているつもりですよ」
「そうかい? 歯に衣着せぬ発言が出来るのは君のいいところだとは思うけど、抑えた方が良いときもあるよ。……これでクラスのみんなから嫌がられないんだから、人徳というかなんというか不思議なものだよ」
あきれているのか、関心しているのか、いまいちつかみどころのない表情を浮かべ両手を挙げてみせる。
「先生、それは良いですけど。そろそろホームルームの時間では?」
「あっ、そうだねえ~、うんうん。うっかりする所だった」
間延びする口調が耳に残る。面白い人物という認識を持ってしまう。
「そういう抜けた部分があるから、生徒に敬われないのでしょうに」
「こればかりはね~、しかたないさ~、性分だもの」
悪びれた様子もなく席を立った先生は、帳面のような物を左手に抱えると、こちらへ向き直る。
「それじゃ教室に行こうか、転入生を紹介しないとねえ~」
散歩にでも出かける足取りで先を進む先生、廊下にはまばらに生徒の姿も見ることが出来る。やんわりとした口調でなにやら声をかけている先生に、にこやかな笑顔を向ける生徒達、そんな光景を眺めていると、隣を歩いていた鈴音が不思議そうな表情を浮かべていた。
「なにか、楽しい事でもあった? 表情がほころんでいる気がするのだけれど」
「……ん~~? そう見えるのかな? 自分では解らないんだけど」
首を傾げて思案してみるも何が楽しいのか判別出来ない。そんな彼の耳に鐘の音が飛び込んできた。
廊下に響くその音色と共に、ゆったりしていた生徒の動きは一変する。
突風でも吹き荒れたかの勢いで教室へと駆け込み、ガタガタと騒がしい音をまき散らす。
それも鐘の音がやむ頃にはピタッと止んで、廊下を静寂が包み込んでいた。
あまりにも急激な変化に大きく目を開いたまま惚けている竜也。
「な、何が起きたの?」
「ああ、本鈴が鳴ったからねえ、教室で授業の準備やらを始めたんだよ。ホントは予鈴のうちにやっておいて欲しいんだけどねえ~」
特に気にした様子もなく歩み続ける先生。ただ、先程まで感じていたゆるっとした仕草は消え、シャキっとした動きに変化していた。
どうやら鐘の音には人を変質させる魔法のような効果でもあるらしい。
ひんやりとした雰囲気が漂う通路を進み、階段を登って二階へ、二つほどの教室を過ぎた先でぴたりと足を止めた。
「ここが君の学舎になる教室だよ。心の準備はいいかな?」
笑みの形に造られた唇は変わらぬまま、にこやかに細められていた目蓋が不意に見開かれる。
じっと見つめられること数秒、満足げに彼は頷くなり扉を開いた。
先生に続くように竜也が入っていくと教室内の様子がざわつき始める。
「はい、静かに~、日直、礼をお願いね」
教壇と呼ばれる木の箱に近づいた先生は呼びかける。
「起立、起用付け、礼」
短い三つの言葉が部屋に響くなり、そこに集った人達がほぼ乱れることなく立ち上がり、直立の姿勢を保ち、腰から上の部分を前方へと下げた。
それはさながら機械のような無機質さが感じられ、何とも不気味に見えてしまう。
「着席」
揃えられたかのようなタイミングで椅子に座った人達は先生へと視線を向けていた。
「んじゃ、転入生を紹介するねえ。片瀬 達也君。雨宮家の執事を務めているそうだよ」
白い棒を手に、壁へと埋め込まれてる板のような黒い物に達也の名前を記載していく。
「さあ、みんなに挨拶して」
促されるまま、視線の集まる位置へと立たされた彼は、今朝覚えたばかりの言葉を口にする。
「初めまして、片瀬 竜也と言います。雨宮家で住み込みの仕事をしています。執事とはいいましても判らないことが多く、皆さんに教えて貰えたら嬉しいです」
若干、この言葉で正しいのだろうかと悩みながらの発言であったため、見ている生徒達からはぎこちない姿に映っているだろう。
「彼、魔導に関してはからっきしなんだけど、他は優秀でね。特待生ってことで転入を許可されたそうだよ。多分勉強は出来るだろうから、クラスのみんなは相談してみるのもいいかもね」
さらっと口にした言葉には、少しばかり棘が含まれている様な気がしないでもない。
時季外れに行われた転入理由が付け加えられた。
「彼の面倒は、鈴音君と綾香君に任せるよ。あっ、出来れば問題とか起こさないでくれると助かるなあ~」
「まあ、綾香だけなら、いらないトラブルも呼び込むかもしれませんが、大丈夫だとは思いますよ。それに先生は頼りないですからね」
軽口で自分の要望を告げる先生に、グサリと鋭い言葉で切り込む鈴音。どうやら彼女の毒舌は根っからのものらしい。
そんな一言にドッと湧き上がる生徒一同。先ほど感じた機械的な印象は也を潜めている。
鈴音に連れられて綾香の隣へと座らされた竜也、表情を目にした綾香がボソッと一言。
「なんか良いことあった?」
「……特に思い当たるところはないけど」
「ふーん。まあいいか」
彼女には、何故か楽しげに見えたのだ。
その理由は物珍しそうに教室内の様子を見回しつつ、ニコニコとした表情を浮かべているからなのだが、自分でそれを確認できるわけもなく、問われた理由が未だに分らない。
室内には先生を含めると四十程の人がおり、それぞれに個性がある点から綾香達以外と接したことのない彼にとって興味が尽きない。
後ろの方にいる生徒は、席に座りつつなにやら小さな本を読んでいたり、教科書を机に立てて頭を擦りつけていたりと様々だ。
「はい。このまま授業を始めるよ。手早く準備しようか~」
騒がしくなっていた空気が落ち着いた頃合いを見計らって、先生は授業を始めていく。
「まずはおさらいと行こうか、この国で魔導が広がった背景についてだけど説明出来る人は居るかな?」
教科書を片手に生徒一人一人に対して視線が向けられる。何故だか必死に目を合わせまいと顔を微妙に反らす生徒達。
「だ~れも目を合わせてくれないね。仕方ないから指名しようか、転入早々だけど、竜也君、言ってみよう」
迷った表情を浮かべながらも目星をつけていたらしい。本当に知識があるか否か試そうという意味もあるようだ。
指名された彼は一瞬戸惑った表情で綾香へと視線を送ったが、彼女が無言で促してきたので、席を立ち口を開く。
「魔導が知られるきっかけになったのは1989年に国の象徴となる人物が延命された事で、理屈も方法も解らなかった現象によって起こされた奇跡を解明しようとした事から始まります。当初は新薬の成功ではないかと噂されていましたが、一人の魔導士によって引き起こされたことが判明、有益な技術であるのなら世に広めるべきだと言う理念のもと、研究が行われ、現在に至ります」
つい先日覚えたばかりの文面を思い起こしながら言葉に変換していく。
「そう、よくスラスラと出てきたね。今の説明にあった一人の魔導士って言うのが当学園の理事長である雨宮氏だ。まあ魔導なんて言っても特殊な事をしているのではなく、本来人が持っている、封じられた七割の脳機能を利用した、誰にでも扱える物だと言う事実が、魔導が普及している背景にあるね。例外もあるけど」
満足げに頷きなから補則説明をしていく。黒板という物へと要点を書きながら、彼の授業は続いた。
やがて、ジジジジっと震える様な小さな音が聞こえ始めた頃、黒板に書いていた手を止めて生徒達の方へと振り返る先生。
「そろそろ時間だね。ここまでにしておくから、早めにノートを取っておくように」
「早いよ先生。いつもノート取れない内に消し始めちゃうんだからさあ」
一人の生徒から不満の声が上がった。指摘のとおり、この先生は書かれた内容を消すまでの時間が早い。
そのため書き終える事が出来ている生徒とそうでない生徒の差はかなりあるのだ。
「ん~まあ、足りない部分は書けている子に見せて貰うなりして欲しいかな。コミュニケーションが活発になるし、復習も出来るから良いでしょ?」
一見、自堕落なのかとも思える発言ながら、どうやら人と人の繋がりという物を尊重しているらしい。
「ん? こっちをじっと見てるけど、ノートのほうは大丈夫か?」
自分を見つめ続ける竜也の姿を目にした先生は、ツカツカと歩み寄るなり彼のノートを手に取った。
数ページめくった彼の目は大きく見開かれる。
彼が見ている限り、竜也は一度も視線を外していない。それなのに、どういう訳か黒板に書かれた内容のみならず、補足される言葉などが解りやすくノートに記載されていた。
はっきり言って下手な教科書や参考書などでは太刀打ち出来ない程解りやすい。
「書けてる。なんて物じゃないな。流石としか言えない」
惚けた様子で言葉を漏らす先生に、生徒達はざわつき始める。
「うそだろ?」
「あの先生があそこまで褒めるとか無かったよね」
口々に呟かれる言葉を遮るようにチャイムの音が室内に響き渡る。
「あっ、時間だね。それじゃ、次の授業準備をよろしく~」
ノートを竜也に返した先生は教材をまとめると足早に教室から出て行った。
ぴしゃりと扉が閉まる音がするなり、数人の生徒達が竜也を取り囲む。
「ねえ、どんなノート書いたの? 見せてよ」
「これだけど」
一人の女生徒に問われた彼はノートを差し出す。一斉に覗き込む一同。
「ちょっ、これどうやって書いたんだ? 黒板の内容だけじゃなく先生の言葉とか綺麗にまとまってるぞ!」
「黒板と先生の表情を見ながらかな? 先生重要そうな事を言ってる時、目を見開くみたいだったから」
「それ手元見てる暇無いよね? ずっと黒板と表情を見比べてたんでしょ?」
ポニーテール風に髪をまとめた女の子からの問いかけにコクリと頷く竜也。
「うわ~人間業じゃねえなそれ、ノートを見ずにどこに何を書いてるか把握してるって事だし」
あまりの出来事に感心を通り越して呆れ返った表情を浮かべる男の子。
そこに集まっていた生徒達は、互いに顔を見合わせ頷き合うと一斉に親指を立てた。
何事も無かったかのように席に戻る一同、何が起こったのかと惚ける彼の姿はどことなく小鳥を連想させ可愛らしく見える。
「まあ、一気にとけ込めたのは良い事じゃない?」
隣で様子を眺めていた綾香は微笑ましい物を見る目で息を吐いた。
そんな風景を、教室の端から射貫く様な視線が向けられていた事に、誰も気づいていなかった。
チャイムと共に授業が始まり、終了と共に次の準備を行う。そんなサイクルに一つの変化が起こっていた。
それは……ノート争奪戦である。
さながら食堂に人気メニューを求めて群がるようで、我先にと走る者や、ノートを手に出来なかったが故に少しでも仲良くなって優先度を高めて貰おうとする者など、彼が休憩や準備をする暇など無いほどに、入れ替わり立ち替わり訪ねてくる。
思惑含みだろうと竜也がクラスに馴染むならと、見て見ぬふりをしていた綾香だったが、三時間目の授業後に忍耐が切れたようで……。
「流石に目障りよね」
ぽつりとため息を漏らすような言葉が呟かれた。
騒がしかった生徒達は一瞬で静まり、竜也に対して控えめな言葉を残しつつ自分達の席へと戻っていく。
急激に静まった周囲に若干の戸惑いを見せつつも、次の授業準備を行う竜也。
「せっかく良い雰囲気だったのに、もう少し言い方とかあったのではなくて?」
いつの間にか歩み寄っていた鈴音が、蜘蛛の子を散らした綾香に対してもの申す。
「端から見てる鈴音は良いかも知れないけど、休憩時間ごとに巻き込まれる身にもなりなさいよ。気が休まる時間も無いじゃない」
「人気が集まるのは良いことだと思うのだけど、……貴方の言葉でいらないトラブルを呼び込む事になるかも知れないわね」
意味深な言葉を投げかけた鈴音は席へと戻ってしまう。
「……何? それ」
彼女が示した言葉の意味を掴みかねて、綾香は小首を傾げた。
四時限目の授業も終わり、昼食時間を含めた昼休み、食事の前にお手洗いへと行っていた綾香は教室に戻るなり戸惑いの表情を浮かべる。
てっきり人だまりが出来ているだろうから、どうやって竜也を連れ出すか、等と考えを巡らせていたのに、当の本人は影も形もない。
更に言えば彼を頼っていた生徒達は何事も無かった様に食事をしていたりする。
食堂へいって昼食を済ませる者もいるので全員というわけではないが、どことなく様子がおかしい。
「ねえ、竜也知らない? 昼ご飯食べようと思ってたんだけど」
近場にいた女子に声をかけてみる。
「彼なら、その……」
言いにくそうに顔を背ける彼女、他に聞こうかと周囲を見渡しても、同様に視線をそらされてしまう。
ちなみに綾香が怖くて視線を反らしたと言うわけではない。
相方の鈴音に聞こうかと姿を探してみるも見当たらず。まあ彼女に関しては騒がしいのが苦手だから教室内にとどまっていないだけだが。
「――まさか」
鈴音が残した意味深な台詞を思い出した彼女は教室から駆けだした。
「オラよっ!」
ゴズッ、と言う鈍い音と共に一人の男子生徒が壁へと叩き付けられた。
強い衝撃を受けたためか、口元からは血の様な赤い滴りが垣間見える。ひと気の無い校舎裏の一角、三人の男子に囲まれていた。
「転入早々、随分と人気あるじゃねえか、特待生の肩書きは伊達じゃねえってか? あん!」
怒気を纏った言葉と共に繰り出される拳が生徒の左頬に吸い込まれる。
全く加減をしていないのか殴られた彼は身体を浮かし、ノーバウンドで壁に打ち付けられる。普通の人間なら脳震盪でも起こして病院送りになりそうな勢いはあったが、何事もなかった様に立ち上がった。
言うまでもなく殴られているのは竜也である。人気が出ると言うことはそれだけに恨みや妬みを買いやすい。
綾香が人を散らしたのが決定的な原因だった。恨みを買おうが、大勢の人によって囲まれていたなら、彼が手を出される事も無かっただろう。それを鈴音は示唆していたのだ。
因縁をつけている生徒は教室の端からじっとにらみつけていた男子。見た目はそれほど目立った不良というわけでもないが、顔つきや纏っている威圧感はトラブルを生み出す常習者そのものだ。
他の二人は行われている行為をニタニタと半笑いを浮かべて眺めているだけである。
特に手を出すつもりはないらしい。
「ひとつ質問があるんだけど、いいかな?」
既に何度も殴られている筈なのに全く堪えた様子を見せない竜也は、当然のように疑問を投げかける。
「んだと? 何を聞きてえか知らねえが、言ってみろ」
苛立ちによって若干トーンを上げながらも先を促してきた。
「何をそんなに怒っているんだい?」
表情を変えないまま問いかけられた言葉にプツンという音が響いてくる。
「てめえの存在が腹立つからだよ!」
罵声に乗せて三発もの拳が繰り出される、みぞおち、右頬、左頬と流れるように抉った衝撃は竜也をきりもみ状態で宙へと舞わせ、地面へと叩きつけた。
その際に当たりどころが悪かったのだろう、頭部からは大量の血が溢れ出し取り巻きの二人が慌てふためいている。
「そ、そろそろやめておけ、これ以上は殺人犯になるぞ」
「すでに遅くないか? 頭から血が出てるぞ、こ、これ以上関わったら俺達もやばいって」
無論普通に殴ったところでこれほど派手に打ち上がるほど人の体はやわではない。
魔導によって身体能力を強化したうえで殴っているのだ。
「ちっ、いいか、てめえが気に入らねえ理由は単純だ。あいつと一緒に生活してるって事が気に食わねえんだよ。鈴音は俺が狙ってたんだ。横からかっさらう様なマネしやがって、俺のモンに手出しやがったら、その時は殺すぞ!」
今まで殴られようが、血を流そうが、平然と立ち上がっていた竜也だったが、〈殺す〉という一言を聞いた瞬間に身体を縮こまらせ大きく震えだした。
その様を目にしてようやく留飲が下がったのか、その場を離れようとする不良。
「聞き捨てならない言葉が聞こえたのだけど、気のせいかしら」
凛としたよく通る声色、決して威圧的ではないものの、感情の乗っていない言葉には不気味な迫力が備わっている。
「す、鈴音」
「ふう、貴方に呼び捨てにされる覚えはないわ。あと、何時から私は貴方の物になったのかしら?」
白い修道服のすそを揺らし、肩口に切りそろえられた髪を抑えながら彼女は歩み寄ってくる。眼鏡によって表情は読みにくいものの、身も凍るような視線が不良をとらえていた。
「貴方には前にも言った筈よ。興味の対象にすらならないと。……ひと月も経っていないのだけど物覚えが悪いのかしら?」
「俺はお前をモノにするまで何度でも……か」
「もう、しゃべらないで貰えるかしら? 耳障りだから」
台詞の途中で動きを止めた彼は全身分厚い氷によって包まれていた。
「今までも何度か同じようなことが合ったみたいだけれど、今回はやりすぎたようね。うちの使用人をここまでしてくれたのだもの、相応の沙汰は覚悟して頂戴」
「ひ、ひいい」
情けない悲鳴を残すと氷漬けになった彼を置き去りにして取り巻きの二人は走り去ってしまった。
「私も聞いていいかしら?」
「な、何を?」
震える身体を抱きかかえながら竜也は恐る恐る問い返す。
「逃げようとは思わなかったの?」
「解らないんだ。何が良くて、何が悪いのか」
震える彼を見下ろすように眺めて見るが酷いものである、制服はズタボロ、身体のあちこちからは出血が見られる。
「痛かったのではなくて?」
「……痛いって、何?」
その言葉によって鈴音は悟った。人の姿をしているものの、人では無いのだろうと。
「そう、それも判らないのね。正直、貴方の事はどうなっても良いと思ってたけど、今は少し考えが変わったわ」
少しばかり優しげな吐息が彼女の口からあふれ出た。うずくまっている彼に手を差し出すとゆっくり立ち上がらせる。
傍目にはわかりにくいが、彼女の表情が少しだけ微笑んでいるよう彼の眼には映った。
ザッザッザッ、と走り込んでくる音とともに綾香が姿を現す。
「竜也、大丈夫? って鈴音? ……珍しいじゃないアンタが人の心配しているなんて」
たどり着くなり驚きの声を上げる彼女。かなり急いで来たのだろう、整えられていた髪は乱れ、肩で息を吐くほど身体を上下させている。
「別に、彼を助けようとは思って無かったわ、少し癇に障る台詞を耳にした物だから、仕置きをね」
「なるほど、それがコレかあ。……って、大丈夫なのここまでやって」
「死んではいないわ。解凍さえすれば普通に生活もおくれる。ただ、氷が解けた時この学園からは立ち去ってもらうけど」
「まあ、ここまでやったんだからしょうがないだろうけどね」
視線を竜也に向けて上から下まで流し見る。ボロボロの衣服と血に染まったシャツ、そして……。ある物が見えないことに首を傾げた。
「ねえ、鈴音。酷い状態だったのよね。……あれ? 何処行くの?」
竜也に関して聞こうとしていたのだが、鈴音は既に歩き出していた。
「後始末よ。彼の事は任せても良いわよね?」
「良いけど、服とかどうしようか?」
綾香の台詞に小さな煌めきが放られてくる。危なげなく手にした彼女はそれが鍵である事を確認した。
「図書室、書庫の鍵よ。予備の制服もそこにあるから着替えさせると良いわ、それと先生にはこちらで言っておくからケアの方はお願い」
いつもより口早で言葉を並べ立てた彼女は足早に校舎へと入っていく。
「あそこまで感情を見せるとか、初めてかも知れない。アンタ、相当気に入られたようね」
肩でも貸そうかと竜也に寄り添ってみたが、意外にしっかりと立って居たりする。
ぐるりと一週まわってみたが怪我らしき物も出血のあとも見られない。
「歩ける?」
「うん、大丈夫」
彼の手を引き歩きながら考える。鈴音が治療したのだろうかと。知っている限り治療の魔導など彼女は扱えないはずなのだが……。
結局、竜也には傷の一つも見つからなかった。制服を着替えた彼はいつもの姿と変わらない。
五時限目も始まり、今から教室に戻るにしても中途半端である。
なにより、昼食を食べ損なっていた綾香の空腹は限界に達していた。
「ん~今月は厳しいんだけど、背に腹は替えられないか、食堂に行くわよ」
「昼食、食べてなかったんだ」
「そりゃあね。食事なんかより、アンタの方が心配でしょ? 食べ物は代わりが効くけど、竜也には代わりなんていないんだから」
さらっと口にした綾香は、ピタリと動きを止めると一瞬静かになる。
「食堂に行くのでは?」
「わ、わかってるわよ」
若干、頬を赤らめながら部屋を出る彼女。
自分が漏らした台詞を思い返して、やたらと恥ずかしい内容であった事に気がついたのだ。
(油断した~。つい考えたことをそのまま言っちゃったじゃない。クラスの誰かとかに聞かれてたら告白か何かと勘違いされかねないわ)
ぎこちない足取りで先を行く彼女に対し、何故顔が赤くなっているのだろう? と首を傾げる竜也。
未だに人が見せる表情の意味は解らないのだが、周囲に漂う雰囲気に嫌な物はなかった。
ガランとした食堂に辿り着いた二人は真っ直ぐに注文口へと進む。
「おや、綾香ちゃん。珍しいねえ」
食堂のおばちゃんが綾香の姿を見かけるなり言葉をかける。そして意味ありげにチラリと竜也へ視線を向けると首を縦に振り始めた。
「なるほど、彼氏が出来たもんで、耐えきれなくなっちゃったのかい。隅に置けないねえ」
「え? いや、ちょっと、彼とはそういう間柄じゃなくて、と、トラブルがあったから昼食を取り損ねただけで……」
おばちゃんの言葉に慌てふためく綾香、そんな姿に、かんらかんらと笑い声をあげている。
「照れてる様子をみるとまんざら気が無い訳じゃ、無さそうだね」
綾香は顔中を真っ赤にしながら目線だけを竜也に向ける。
「一つ、質問しても良いですか?」
表情を変えず。いつもの口調で言葉を紡ぐ彼。
「なんだい? 答えられるものなら良いよ」
「彼氏って何ですか?」
出てきた言葉に綾香の顔はますます赤くなり、おばちゃんは盛大に吹き出した。
「ぶはははは、まさかそういう質問が来るとは思わなかったよ。私が口で説明するよりか、自分で感じ取りながら解って行くと良いさね。しっかし、こりゃとんだ天然さんだわ。一筋縄じゃ行かなそうだよ」
意味ありげなウィンクを見せるおばちゃん。
「何も食べて無いんだっけ、もう材料が残ってないから、ちょこっとした物しか出せないけど良いかい?」
「空腹を満たせれば何でも良いです」
「あいよ。出来たら呼ぶから、席に座ってな」
近くのテーブルで向かいあう二人。未だ気持ちが落ち着かないのか顔を仰いで熱を逃がそうとする彼女。
「なんか、雰囲気の良い人だね」
彼は食堂の奥でにこにこと微笑みながら、調理をしているおばちゃんを眺めて、そんな感想を口にする。
「あれはからかってるのよ。滅多にやらない行動をあたしがしてるから」
「ほい。お待ち」
「うわっ、早い。……え? 随分と凝ってません?」
「そうかい? 余り物でこしらえただけなんだけどねえ。あっ、お代はいらないよ。まあ、代わりと言っちゃなんだけど。暇なときにでも進展とか聞かせて貰えれば十分さね」
「だ~か~ら~、そういうのではないって言ってるじゃないですか」
からかうおばちゃんにムッとした表情を向ける彼女、でもそこには険悪な空気は存在していない。
「まあ、冗談は置いておいて、鈴音ちゃんから聞いたよ。その子が酷い目にあったんだってね。先生達がてんやわんやって状態だったのさ、何でも三人も退学者が出るとかで」
「三人?」
先程見た氷着けの生徒以外にも居たというのは竜也の口から聞いたのだが、主に殴っていたのは一人だけらしい。
「そうさね。後で綾香ちゃん達が来るかも知れないからって彼女に頼まれていたのさ」
彼女の言葉に思わず目を見開く綾香。色々細かい部分の調整は行っていると思ったが、まさか食堂にまで声をかけていたとは。よほど気に入る部分が竜也にあるのか、もしくは今回の件が相当腹に据えかねていたのか、どちらにしても初めて見せる行動ではある。
「あんまり、邪魔してもなんだね。冷めないうちに食べな」
料理の器を並べたおばちゃんは後片付けへと戻っていく。
目の前に置かれたのはけんちんうどんだ。正直、素うどんにネギや揚げ玉を散らしたような簡単な料理が出てくると予想していた。
「ご厚意に感謝して、いただきます」
手を合わせてから箸を握る綾香に習って竜也も箸を手にする。
「いただきます」
目の前で美味しそうにうどんを啜る彼女を見ながら、具材を口へと運んでいく彼。
「なんか、落ち着く味だね」
彼の口から漏れ出た言葉に目を丸くする綾香。
「珍しいわね。初めて食べるものでしょ? なのにそんな風に感じられるなんて」
「うん。僕もそう思う。色々な具材があって刺激が強いのかなと思ったんだけど、控えめな甘みとか塩辛さとかがぶつかり合っていなくて、包み込んでくれるような感じがする」
感じ入るような視線を器に向けたまま、初めての感覚を精一杯口にしている。
(味の良し悪しを判別出来ない人にとっても落ち着かせる程の料理かあ。……今度おばちゃんに教わろうかしら? まあ、再現出来るかどうかは不安だけど)
穏やかな表情で食べ続ける彼の姿にそんな考えが浮かんでくる。
(ん? いや、まってよ。そんな事したら、またおばちゃんにからかわれるわよね)
思いあぐねながらうどんをひと啜り。
油断していた喉に冷めていなかった熱いうどんが流れ込む。
「けほっ、あっつ」
慌てて水をくんでくると喉に流し込んだ。
こちらの様子に気がついたのか、彼は不思議そうに眺めていた。
「何でもないわ、ちょっとむせただけ」
ナプキンで口元を拭うと再び口を開く。
「六時限目の授業には出るようにするけど、身体の事とかは答えないで良いから、上手い具合に話を合わせてね。あんまり心配とかさせたくないし」
綾香へ視線を向けた彼はコクリと首を縦に振る。どうやら口の中が塞がっているらしい。
20分も経っただろうか、二人とも食事を終えて、休憩時間に入るチャイムを待ってる。
やがてジジジと震え始める館内スピーカー。
「それじゃ教室に戻ろっか」
席を立って歩き出した所にチャイムの音色が流れてくる。
静まっていた廊下がざわめき出し、賑やかな雰囲気に彩られた。
笑い声やら、ふざけあう男子の姿など、色々な音と情景が溢れているのに、どことなく落ち着いた気分を抱く事が出来る。
それが竜也にとっては不思議なことだった。
さしたる間を置かず教室に辿り着いた二人、部屋に入るなりクラスメイトが一斉に駆け寄って来た。
「もう大丈夫なのか?」
「酷い怪我してたって聞いたけど」
「ごめんな、もう少し勇気をもって止めることが出来ていたら」
集まったみんなから矢継ぎ早に声を掛けられる。
「はいはい。とりあえず、落ち着こうか、そんなに一気に話しかけられても混乱するだけでしょ」
さらっと指摘した綾香は竜也から離れて自分の席に着く。
ふと、鈴音の方へ視線を向けると、大きく目を見開いた彼女がそこにいた。
何やら驚いているようだ。こちらの視線に気が付いたのが歩み寄ってくる彼女。
「ねえ、綾香、あなた彼を治療したの?」
「ん? してないわよ。鈴音がやってくれたんじゃないの? 着替えさせた後は傷なんて見当たらなかったけど」
「私がそんな魔導を使えないって、綾香は知っている筈よ」
さも当然のように言葉を紡ぐ鈴音。それじゃ誰が治したのかということになるが。
「そうよね。不思議には思ってたんだけど、該当するのが鈴音くらいしか思い当たらなかったから。彼は魔導が使えないし」
ちらりと視線を送ってみるが竜也は変わった様子をしていない。
「考えられるのは彼自身がなんらかの方法を使って傷を治したって事ね。これに関して考えても仕方ないわ。大事にならなかっただけ良しとしておきましょう」
自分に言い聞かせるような言葉を口にすると綾香から離れていく。
時計を見るとそろそろ授業が始まる時間だった。
授業が始まり、相変わらず黒板と教師に視線を向けたままノートを取り続けるという、妙な特技を発動させている竜也、一体どうやったらそんな行為が出来るのか、コツがあったら教えてもらいたいものだ。等と考えつつ教師の話に耳を傾ける。
「みんなは知ってるかな、こんな例えがあるのを、進歩しすぎた科学っていうのは魔法と区別がつかないって話なんだけど。未だに黒電話を使いつつ、ようやく家庭用のゲーム機が出てきたような現状では魔導の方が遥かに技術としては進歩してるし、実感沸かないような話だけどね」
一瞬聞き流そうとしていた綾香は教師の言葉にハッとなった。
(もしかして、竜也は科学の方に秀でた才能を持っているのかしら? いや、この時代でそこまで進歩した科学なんて聞いたことないし、そもそも魔導が広まってからは娯楽分野くらいでしか科学なんて見ないけど)
グルグルと考え事をしている内にチャイムの音が飛び込んでくる。
授業の終わりとともに騒めき出す教室内、気が付くと綾香の周りに二人の女子が集まっていた。
「ねえ、綾香。学校終わったら、彼、借りていってもいい?」
ショートカットの似合う活発な雰囲気、如何にも運動が出来そうな少女がそう切り出す。
「いいけど、何するの楓?」
「大したことじゃないし、危ない事でもないから」
と言葉を繋げたのは長い髪をポニーテールに結い上げた少女。
「あなたに聞いたんじゃないんだけどね。美枝」
「ごめ~ん。つい」
舌をペロッと出すしぐさは同姓から見ても可愛らしく見える。
「歓迎会よ。って言っても大それたものじゃなくてささやかにだけど。行き付けの洋菓子店あるじゃない。そこに連れて行こうかと思ったんだ」
「ああ、シュートレーゼね。ってあそこ高くない?」
名前の挙がった店は本格的な洋菓子専門店ではあるのだが、一品あたりの値段が高い為、学生にとっては行きづらい場所だったりする。
「だから、ささやかになのよ。彼一人ならあたし達二人でごちそうする事も出来るし、綾香も来れれば良いんだけど。今月ピンチなんでしょ?」
「ええ、ご察しの通りよ。行きたいのはやまやまだけど、資金がないわ、ホントは鈴音について行ってもらった方があたしも安心ではあるんだけど」
鈴音へとアイコンタクトを送ってみるが静かに首を振るだけである。
「仕方ないわよ。彼女は人と関わり合うの苦手じゃない」
「そうなのよね。もう少し人の輪に入ってくれると付き合いやすくなるんだろうけど」
「まあ、そういう部分が今回は良い方へ向いたんだし、彼女のポリシーは尊重しなきゃ」
なんだかんだと楓は人の様子をよく見ている。活発そうな見た目からは予想出来ないほど相手の事を考えて、それから行動に移すのだ。
「というわけで、借りてくね。キッチリ送っていくから、その点は安心して」
そこで言葉を切った彼女は綾香の耳に口元を寄せて。
「手も出さないから心配しなくても良いわよ」
ボソッと一言。
その瞬間に綾香の耳が真っ赤に染まる。
「ちょ、そ、そういう関係じゃないから」
「わっかりやすいなあ。照れなくても良いわよ。……それに、転入初日で嫌な事を体験しちゃったでしょ、なるべく楽しい学生生活して欲しいじゃん。それだけだからさ」
竜也に視線を向けながら優しい横顔を見せる楓。
「でもさ、楓ちゃんが人の事を心配するのは見慣れてるんだけど、今回は何時もより入れ込んでないかな?」
あっけらかんとした口調ながらも鋭いツッコミを入れてくる美枝。こちらは人の事を観察しているというより楓の人柄に惚れ込んだ追っかけという方が正しい。こと楓に関しては他の誰よりもよく観察している。
「確かにそうかも、ただ、恋愛感情じゃないんだよなあ。何て言うか守りたくなるって言うか」
「母性本能がくすぐられるってやつかな?」
「おっ、それだね多分、よくわかってるじゃん美枝」
歯を見せて笑い合う姿は友達というより姉妹だろうか。ふと視線を感じた綾香は楽しげな笑顔を見せながらこちらを見ている竜也を目にする。
(気になる子でもいるのかしら?)
ちょっとだけ、楓か美枝のどちらかに気があるのかな、等と考えては見たものの、そうではないらしい。
彼の視線は室内を俯瞰するかのように動いていた。
「あっ、そろそろホームルームだね。んじゃ、後程お借りします~」
軽い手つきで敬礼のポーズを取った楓は戻っていた。
「美枝は戻らないの?」
「う~ん。ちょっと彼を見てて思ったんだけど、動物的っていうか、生まれたての赤ちゃんみたいな印象あるかも?」
こちらの言葉は届いているのか否か、ポツリと呟くなり歩き出した。
彼女の指摘? に意識しながら観察してみると確かに、あちこちに顔を向け楽しそうな雰囲気のある場所を探しているように見える。
(へえ、意外によく見てるわね。楓にしか興味無いのかと思ってたけど)
逆に考えれば、美枝ですら興味を持つほど魅力的なのだろう。
まあ、それが恋の対象ではなく、保護の対象になっているのは不思議なところだと思うが……。
ホームルームでは、退学となった三人の事をサラッと言ったのみで、騒ぎが起こるでも無く淡々と注意事項などが伝えられた。
「はあ、一応トラブルは起こさないでねって、言っておいたはずだったんだけどねえ」
去り際に愚痴とも取れるため息をついた先生は教室から出て行った。
少なくとも今回のトラブルは、綾香が起こしたものではないので、強く言えなかったのだろう。
竜也は先の宣言通り、楓と美枝に連れられて早々に教室から姿を消していた。
「あら? 彼は?」
歩み寄ってきた鈴音が開口一番に問いかけてくる。
「楓によるささやかな歓迎会だそうよ」
「ああ、さっきの目配せはそういうことね」
「何のことだと思ったのよ」
「てっきり、お金を貸してという意味かと思ったわ」
全く通じてなかったらしい事に今更ながら意思疎通の難しさを痛感する綾香。
「長い付き合いだから通じるかと思ったんだけどね。ホントは彼について行って欲しかったのよ」
「そう、……でも良かったの?」
「まあ、楓なら大丈夫でしょ。クラスでも上位の魔導実力者だし、トラブルは未然に防げるから」
綾香の言葉に首を振る鈴音。
「そうではなくて、彼を取られたりとかの心配はないの? と聞きたかったのよ。少なくとも綾香は彼の容姿に惹かれていたのでしょう?」
改めて言葉にされると恥ずかしいものはあるが、その通りなので否定できない。
「そ、それはそうだけど、大丈夫よ。恋というより、保護とか母性の方が強いらしいし」
「綾香が納得しているならいいわ。それに丁度二人だけでの話もしたかったし、館に戻りましょ」
既に荷物をまとめていた彼女は返事も待たずに教室から出ていく。
手早く荷物を鞄に詰め込んで先を行く彼女を追いかけた。
慣れた道を、これまた見慣れた相方と共に歩く。何でもない行為のはずだか、物足りなさを感じるのは気のせいだろうか?
「不満そうね。そんなに行きたかったのなら、ついて行けばよかったのではなくて?」
「あ~ソレは無理、目の前でデザートとか食べられたら我慢できないし、それに一緒に行きたかったというのとは違うのよね」
普段の綾香が見せない表情に、不思議なものを感じつつもそれ以上ツッコんでこない。
「ただ、見慣れた景色って、きっかけがあると見え方が変わるんだな、と思っただけ」
「そうね。一人転入生が入っただけで、クラスの様子があそこまで変化するとは私も思わなかったわ」
いつもなら、色ボケした貴方なら確かにそうでしょうね。等という毒の籠った言葉が飛んでくるはずなのだが、珍しく同意を示す相方。
「何だかんだで影響、受けてるのかもね」
返答はないものの、戸惑っている表情が伺える。
当たり前だと思っていた日常、それが彼というフィルターを追加したそれだけで全く違う見え方に変化する。魔導だ魔法だ等と学びはしているけど。こういった感覚こそが本当の意味で魔法だったりするのではないだろうか?
口にすれば顔から火が飛び出そうな程恥ずかしい考えではあるものの、素直にそう感じている自分が何処か誇らしげに思える。
だからなのだろう、ふと見慣れた光景を目にした時、味気ないなと言う印象を受けたのは。
代り映えのない建物、木々の並び、漂う空気から感じるかすかな香り。
それを安心と受け取るのか、詰まらないと感じるのか難しいところではある。
館に辿り着いた綾香達は着替えを早々に済ませると、リビングに集まっていた。
珍しく鈴音が紅茶の準備をしている。
いつもなら面倒な事なので互いに擦り付けあったのち、じゃんけんで負けた方が紅茶を入れるのだが。
「ホントは綾香に頼みたいと思ったけど、彼が入れる紅茶の味に慣れてしまったせいで貴女が入れる物じゃ満足出来なくなってしまったわ。困ったものね」
「あ~、そういう事、はいはい。どうせあたしの入れる紅茶は不味いですよ~」
「違うわよ。不味いのではなくて、ムラがあるのよ。貴方、紅茶の抽出時間を適当にしているでしょ?」
鈴音の言葉に目を丸くして見つめてしまう。
「ちょっと、鈴音、何があったの? 論理だてて指摘するなんで今まで無かったじゃない」
「……そう言えば、そうね。何故かしら、彼を見ていて、貴女も正しく指摘すれば出来るようになるのかもしれないと思ったのよ」
どうやら、自覚していない内に影響を受けまくっているらしい。
「ははは、二人して影響受けすぎね」
「そのようね」
ごく自然な動作で差し出された紅茶から、心を落ち着ける香りが漂ってくる。
悔しいけど、鈴音の入れる紅茶は半端なく美味しい。
「さて、一息つけた訳だけど。二人きりでの話って?」
口にしたカップをテーブルに戻し、綾香は切り出した。
「彼の件よ。昼のトラブルで分かった事が二つ、そして傷に関する事」
「傷に関しては鈴音は治してないし、あたしも手を付けてない。外的に治癒した感じというより、自然に治ったっていうのがあたしの見立てかな」
彼の様子を思い出しながら言葉を紡ぐ。
「私が見た時の見解だと、よほどの高位魔導を集中的に行使しなければ決して助からない程に傷を負っていたわ。血痕の範囲も広かった。だからこそ、三人を退学にするよう掛け合ったのだから」
「そんなに酷かったの? ……任せていいわねって言葉はその意味だったのね」
あの時に掛けられた言葉の意味を思い返してみる。
「保険の先生にも声を掛けて、魔導の準備もして貰ったのだけど。杞憂に終わった様ね」
「あんたにしては色々と動いてたから不思議ではあったんだけど、なるほどね」
教室へ戻った際に彼女が見せた表情は、戻ってこれるはずがないという驚きだったのだ。
「どういった経緯で傷が治癒されたのか不明だけれど、もしかしたら関係があるかもしれないわね」
「何が?」
「彼、痛覚が存在しないのよ」
「……嘘、そんなことあり得ないでしょ?」
「確認したわ。彼は痛みを知らない。痛いという事がどういう事なのかすら理解していないわ。でも、死という概念だけは把握している」
淡々と告げる彼女の言葉に眉根を寄せる綾香。
「おかしくない? 痛みを知らないのに死ぬってことは理解してるとか」
「他の事には全く反応しなかったのに、ソレを暗示する言葉が出た途端、彼は酷く脅え始めた。だから、彼の前では禁句よ。下手をすれば寝た子を起こす事にも繋がりかねない」
「そういう事、彼、魂が二つあるんだったわね。普段の姿を見てると忘れそうになるけど」
確かに、ここまでの話は、彼自身にも他の人達にも、聞かれると都合が悪い事ばかりだ。
「何か、謎が解けるよりか、どんどん複雑で深まっていくばかりね。これ」
「それを覚悟の上で面倒みると決めたのでしょう?」
「まあね。ただ、分不相応な重責を背負わされているんじゃないかって思うわ。あいつ」
少しばかり温度の下がった紅茶を口に含む。香りが薄れ、少し味気が失われている。
目の前で同じようにカップを傾ける鈴音は息を吐いて一言。
「今朝の綾香が言った台詞、一理あるわね」
「ん? あたし何か言ったっけ?」
「美味しく出来たものは冷めない内に食べないと勿体ないって言葉よ」
言われた言葉に、今朝の自分を思い返す。
「ん~~。言ったかも知れない」
話し合う事も済ませて若干気が抜けたのだろう。ぼ~っとし始めた頭を覚ますように冷めた紅茶を傾けた。
ピンポーン。
ゆったりしかけた所に飛び込んでくるチャイムの音。
「あれ? 誰か来るんだっけ?」
「彼女達ではないの? 送り届けると言って無かったかしら」
「確かに言ってたけど、早くない? 二時間くらいは余裕あるかと思ったんだけど」
いささか気怠くなっていた身体を起こして玄関に向かう綾香、その後ろをしっかりとした足取りでついていく鈴音。
玄関を開けた途端二人の鼻に何ともウットリするような甘い香りが漂ってくる。
「お~来た来た」
短い髪形の似合う活発そうな少女、そしてポニーテールに結い上げた髪形が可愛らしい少女と見慣れた少年の姿。
そのいずれもケーキの箱を持っていたりする。
「……ねえ、楓、貴方達そんなに使って資金大丈夫なの?」
三人の姿を目にして綾香は問いかける。少なくとも箱の大きさや数から考えるに一万に届くかどうかというくらいのお金が掛かるはずなのだ。
「これねえ~、実は、お金かかってないんだ~」
間延びする口調が会話に割り込んでくる。
「はい?」
あまりの内容に会話に割り込まれた事実も置いといて聞き返す。
「長くなるけど~話してもいいかな?」
長い髪を揺らしながら綾香と鈴音に同意を求める美枝。一応空気感を読んではいる様だ。
「その前に、手に持っているものは、お土産という事でいいのかしら?」
綾香以外の生徒には滅多に絡んでこない鈴音が躊躇することなく訪ねている。
ケーキの魅力には敵わないのだろうか、それとも別の考えがあるのか。
「そうだね。貰ってきた物だけど、食べるなら皆での方が楽しいのかなって思って、二人に提案してみたんだ。もしかしてダメだったかな?」
少し遠慮がちに問いかける竜也の姿は、ご主人に対しておねだりしている犬の様にすら感じられる。
いつもの鈴音であれば間違いなく突っぱねるはずだ。何故なら彼女は自分の領域に他人を入れる事をとことん嫌がる。
理由は単純だ。リスクを負いたくないのである。異分子を自分の領域へ入れる事は制御不可能な出来事を自ら招きこむ事と同じ、だからこそ、竜也を連れてきた時にも綾香が面倒を見る事が納得させるための最低条件だったのだ。
「そう、だったら、少しだけ時間をもらってもいいかしら? リビングでお茶会にしましょう」
予想外の言葉に綾香は勢いよく鈴音の方へ振り向いた。
「良いの?」
「さすがに館全域は許可できないけど、リビングとその周辺なら問題ないわ。準備してくるから、彼女達の相手をお願い」
くるりと踵替えした鈴音の表情は何処か柔らかい感じが漂っている。それに気が付けたのはおそらく竜也だけだろう。
「良かった。どうやら怒ってはいないみたいだね。……僕も手伝ってくるよ。あっ、ケーキの箱、預かってもいいかな?」
楓と美枝から箱を預かると鈴音を追いかけて中へと歩んでいく竜也。
「ねえ、鈴音ってあんなにフレンドリーな感じだったっけ? 前に来た時は確か門前払いされた記憶があるんだけど」
「表情は変わってないのに~なんか違う気がするねえ」
二人が口にしたことは間違いじゃない。以前に彼女達を連れてきた時、鈴音は「自分の場所に容易く人を入れたくはないの、申し訳ないけど、お引き取り願えないかしら?」と言った感じで丁寧な口調ながらも冷淡な対応をしたのである。
「う~ん。分からないわ。あたしも初めて見る反応だったから」
鈴音の姿を思い返しながら首をかしげる綾香。
「ケーキの力かな?」
「ん~~違うんじゃないかな? 私の見立てだと彼の言葉に全く邪念が無かったのが理由かと思う」
楓と美枝、各々に考えを口にしているが、美枝の言葉が正解なのかもと思えた。
昼休みの一件以来、鈴音の竜也に対する態度が変わった。声は掛けるものの一歩離れてみている感じだったが、今は距離を離さず支えている様な雰囲気だ。
「母性本能でも刺激されたかな?」
自ら口にしたものの、ソレは無いなと首を振る綾香。その程度の感情で変われるほど素直な性格ではない。
「何を間の抜けた事を言っているかしら?」
「うをっ!?」
唐突にかけられた言葉で心臓が飛び出しそうになる。
「準備出来たわよ」
「早いわね」
「彼がサポートしてくれたからね。本当に役に立つわ。綾香と違って」
「悪かったわね。不器用な女で、ったく。いつになっても変わらないわ。その毒舌は」
「そう? まだ言い足りないところだけど」
鈴音とのやり取りを見ていた二人が同時に吹き出した。
『あははは』
「うん。思い過ごしだね。変わって無いわ」
「いつもの感じだね~」
その反応に思わず顔を見合わせる綾香と鈴音。
「とりあえず。中に入りましょう」
鈴音に促されるままに館の中へと足を踏み入れる一同。
楓と美枝の二人はアンティーク調のデザインが施された内装を物珍しげに見渡している。
「趣きがあっていいね。仄かな明かりが心を安らげてくれる」
「私はちょびっと苦手かも~、なんて言うかホラーの雰囲気が漂ってくるって感じで」
相反する二人の感想に綾香は思わず苦笑する。どちらの例えも間違いではないだろう。
ただ、見え方に関しては人それぞれあるという事だ。
(前のあたしだったら気が付かなかっただろうなあ)
多分、楽しい雰囲気であったならそれでいいか、って放置していた物事だろう。
短い廊下を抜け、リビングへと進むと、いつものテーブルが白い布によって飾り付けられていた。
上には人数分のティーセットに取り皿、中央にはケーキが並べられている。
あたし達四人が席に着くのを確認すると、竜也はケーキを取り分けた。そして流れるように紅茶をカップへと注いでいく。
「本当に執事なんだねえ。動きに無駄がないわ」
流れるような動きを目の当たりにして楓は感嘆の声を漏らす。
一方鈴音と綾香の二人は違和感を感じていた。いつも家事などは任せているものの、執事としての動き方など一度も教えてはいない。あくまで設定のようなものだ。
全員にいきわたり、竜也が腰を下ろしたのを確認した鈴音は口を開く。
「それで、一体何があったのかしら? どう見てもこのケーキの量が無料でもらえるとは思えないのだけれど」
楓へと視線が送られたが彼女は小さく首を振る。
「あ~、私じゃ言葉足らずになりそうだから、美枝に任せるわ。説明って苦手なのよね」
「ほいほい。任されたよ。こんな事があったんだ」
軽い口調で美枝は語り始めた。
ホームルームが終わり、竜也を連れ出した楓と美枝は学校から少しばかり離れた空き地にある、丸太小屋のようなデザインの店へと足を運んでいた。
ウッドデッキ横、控えめに設置された看板には〈シュートレーゼ〉とこれまた控えめに書かれていたりする。
人目を惹きそうに無い看板の店には既に何人かの女性客が訪れていた。
店内はアンティーク調で、それほど狭くなく。三つ程テーブルがあり、ちょっとしたお茶会などを開くにはうってつけである。
中へと入った三人は、ケーキの並べられたショーウィンドウへと歩み寄ると竜也に声をかける。
「さあ、好きなケーキを選んで。……数はそれほど買えないけど転入祝いだから、奢るわよ」
「うん。二人で出し合うから~、三個くらいなら選んで貰っていいと思うよ~」
二人の言葉に不思議そうな表情を浮かべる竜也。
「ありがとう。でいいんだよね? あと、僕は二人の事が解らないんだけど。どうして、こんなに良くしてくれるの?」
彼の言葉にまだ自己紹介すらしてなかった事に気が付いた楓。
「ごめん。まだ自己紹介してなかったね。私は和泉楓、綾香とは付き合いの長い友達よ」
ニッコリと微笑みながら竜也と握手をする。
「そ~言えばしてなかったわ~。私は玉川美枝、楓ちゃんの追っかけやってます。綾香ちゃんとは顔見知りな感じだよ」
結い上げている髪を右手でいじりながら左手で握手する。
「何でお祝いするのかっていうのは、簡単に言えば興味があるから、後は嫌な事を忘れて欲しかったってとこかな?」
そう、口にするなり、楓は照れくさそうに頬を掻く。
「――? 嫌な事?」
何を指示しているのかが判らず。彼は小首をかしげている。
「ああ~深く考えなくてもいいよ」
「うん。分かった。それで、質問なんだけど、こういった物って女性は好きなものなのかな?」
「ん~~人にもよると思うけど、綾香ちゃんと鈴音ちゃんは好きな筈だよ」
オウム返しのように繰り出される質問へきちっと答える美枝。
「そうなんだ」
小さく呟いた竜也は何を思ったのかノートを取り出し、ペンを走らせ始めた。
その視線はケーキにくぎ付けなのだが、瞬く間にノートは埋まっていく。
「あれ? 楓ちゃん達、珍しいね。何かの記念日?」
調理人の姿で現れたのは店主である男性。スタッフは他にいないらしく。一人で店を切り盛りしている。
「他のお客さんは良いんですか? 私達はもうちょっと選ぶのに時間かかりそうですけど」
「大丈夫だよ。今ご案内が済んだところだからね。……で、その子は楓ちゃんの彼?」
からかうような口調の店主を見据えてきっぱりと。
「違います。転入生ですよ。綾香のところにいる執事さんです」
「なるほど。面倒見のいい楓ちゃんらしいね。で、美枝ちゃんは何時もの追っかけかな?」
「ピンポーン。大正解です~」
店主の軽口に対して輪をかけて軽い言葉を変えす美枝。
「それで、彼は何をしてるんだろうね? ケーキを見ながら何かを書いてるけど」
あまりに不可思議な行動を目にして、素直な感想を示す店主。それは楓達も知りたいところではあった。
「ちょっと見せてもらってもいい?」
「あ、ごめんなさい。選ばないとだよね。書くのに集中してたもので」
と書いていたノートを楓に手渡した。
その内容に思わず息をのむ。各ケーキの材料や作り方が事細かく記載されているのだ。
「あの、店長、彼が書いていた中身なんだけど……」
店主がノートの中身を見た途端。
「え? ……これ、レシピじゃないか。……しかも、分量も作り方も全く間違いがない」
「はえ? 本当ですかそれ、彼、食べてすらいないんですよ」
楓はあまりの驚きで思わず問い返す。
「もとから知っていたのかな?」
店主の言葉に竜也は首を振る。
「初めて見ました。作った事も無いです。ただ、二人が女性なら好みそうだというので、観察していたら自然と書けてしまったので」
ケーキを観察する事で、物質の状況、変化状態を逆算で展開していき、レシピへ落とし込むという離れ業をやってのけたのだ。……もちろんこんな事、人間には出来ない。
「楓ちゃん。美枝ちゃん。ちょっと彼、借りていい?」
飛びつきそうな勢いを見せる店主の言葉に思わず頷いてしまう二人。
そして、30分ほど経った後、店主と竜也は姿を現した。
「し、信じられん。あんなにも正確で速いケーキ作りを初めて見た。しかも味も見た目も完璧。ぜひうちで働いて貰いたいな」
「すいません。その判断は僕には出来ないので」
「そうだよね。雨宮家の執事さんだからなあ。う~ん」
残念そうな表情を浮かべながらも言い聞かせるように言葉を紡ぐ店主。
「仕方ないね。あっ、待たせたお礼というか、正式な商品ではないけど。彼が作ったケーキは持っていっていいよ。出来は完璧なんだけど売り物にするわけにはいかないから」
こうして、大量のケーキを三人は手にしたのである。
「それがこのケーキなのね。大したものね。目にしただけで店主お墨付きの物が作れるなんて」
若干ウットリとした視線をケーキに注ぎながら、ほうっと息を吐く鈴音。
「んじゃあ、うちでも作れるの?」
「出来ると思う。材料さえあれば」
綾香の問いかけに曖昧な答えを返す竜也。
「言い切らないわね。何か理由があんの?」
取り分けられたケーキにフォークを差し込みながら更に一言。
「作れるという部分がちょっと問題で、完璧に再現するのは無理だけど、近い物を作るなら出来るから思うって言ったんだよ。何しろここには専門の器具は無いからどうしても代用しないといけないし……」
「それはそうね。今回は専門店で何一つ欠けていない状態だったのだから、ただ。全てがそろっていても完璧な再現なんて難しい事よ」
鈴音は補足を入れつつケーキを一口、甘過ぎず上品な味わいが口の中いっぱいに広がって、恍惚とした顔で微笑んだ。
取り分けられたケーキは特段変わった所のないショートケーキである。適度な大きさの苺が載せられており、スポンジの間にも生クリームとのバランスを保つように苺の姿が見える。
「んん~~。美味しい」
綾香の前ですら滅多に見せない程に緩み切った表情で漏らした言葉に、三人の女性陣が視線を集める。
『キャラが違う』
全く同時に放たれた言葉は綺麗にハモっていた。
「ねえ、綾香、彼女って、家の中ではいつもこんな感じなの?」
学校で見せる毒舌交じりの冷淡な姿からは想像出来ない光景を目にして、楓は問いかける。
「違うわよ。ぶっちゃけると外でも中でも殆ど変化無しなくらい。何時でも自然体」
「そうなんだ……」
フォークを口に運ぶ度に顔中に広がる微笑みを浮かべる鈴音を眺めつつ、楓は呆けたように口を開けてしまう。
「んんん~、使い捨てカメラが有ったらなあ~。写真に収めてクラスの男子に売りつけるのに」
「それは止めといた方が良いわよ。氷漬けになりたくないなら」
冗談とも本気とも取れる口調で呟く美枝を窘める綾香。
「まあしたくなる気持ちも解らなくも無いか。いい表情してるもんね。男なら一瞬で落とせそうなほど魅力的だもの」
心底羨ましそうな声色を出す楓だったが、ふと竜也に視線を向けて問いかける。
「ねえ、貴方はどう思う? あの表情なら惚れるなあ、とか思わない?」
「……ん? んん? その、惚れるってどういう事なのかな?」
「――え!? それ、本気で言ってる?」
小鳥の様に首を傾げた竜也から、普通の男子ならしてこないような質問が飛び出してきて面を食らってしまう。
「楓……、残念ながら本気よ。そもそも恋愛だの、好きだの嫌いだのと言う感情を知らないようなの、彼」
困ったもんだわ。といった風な口調の綾香を見て楓は納得する。
「なるほどね。これはかなりの難敵だわ、綾香が何時になく消極的なのも判るなあ」
「ちょっ、誤解を生むような発言しないでよ」
「違うの?」
ジッと見つめられ思わず言葉に詰まる綾香。
「案外、自分の気持ちに気が付くのは難しい物よ。特に拗らせた性格の人はね」
自分が話題の対象から外れた為か、鈴音は毒の入った鋭い一言を浴びせかける。
「うわ~っ、きっつい一言だねえ~。さすが鈴音ちゃん」
「まあ、拗らせてるのは綾香だけじゃないもの。私もその一人よ。十数年生きてもどうありたいのかすら見えてこないのだから」
自嘲気味な一言にまたしても視線が集まってくる。
「……なに? 私、おかしな事言ってるかしら?」
「いや、おかしいというより、アンタが自分の事をそんな風に考えてたなんて思いもよらなかったって言うか」
「言葉にしたことは無かったわね。逆に綾香は直接的に感情を表すタイプだから周囲の視点で見ると分かり易くて良いわ」
呆けた表情の綾香に人間味を帯びた姿を見せる鈴音。そんな二人を眺めていた竜也は暖かい感覚に包まれていた。
「なんか良いわね。憎まれ口を叩き合いながらも、しっかりとお互いを認めてるんだもの、良いコンビよ」
どうやら楓も同様の感覚を抱いていたらしく。竜也の心を代弁するような一言を漏らす。
ちらりと楓の姿を流し見た竜也はその表情に注目した。
短い髪の間から見える視線は二人を眺め、口元は微かに微笑みの形を表している。
それはどこと無く心をくすぐる横顔だった。
「ん~~? 竜也君は楓ちゃんに興味があるのかな?」
一見すると、熱い視線を向けているように見える竜也を目撃した美枝は、鋭く問いかける。
彼女にしたら、ただ事ではない。
「多分違うと思う。彼女に興味があるのではなくて、その表情が気になる感じかな」
自分の中に生まれている感情を何とか言葉にして答える彼。それを観察していた美枝は警戒色を解いて表情を緩ませた。
「な~んだ。そういう事なのかあ~びっくりした。てっきり楓ちゃんに惚れちゃったのかと思ったから」
そう言って、はにかむ美枝を穏やかな微笑で眺める竜也。
「ん? わ、私の顔になにか付いてるかな? もしかしてケーキの食べ残しとか?」
先程まで楓に向いていた熱い視線が自分の方へと向けられた事で戸惑う美枝。
欠片ほども恋愛感情など抱かないのに、心がドキドキと跳ね上がっているのを知覚している。
「大丈夫、何もついてないよ。ただ、美枝さんの表情が柔らかい感じがしたから気になったんだ」
話す度に感情表現が豊かになっていく竜也、その姿を遠目で眺めていた鈴音は満足そうに頷いていた。
日も暮れて、楓と美枝が帰っていくと館の中は音を失ったかのように静まった。
二人の家主と竜也は分担しながら後片付けに勤しんでいる。
「それにしても、よく許可したものよね。何か理由でもあったの?」
竜也が洗った食器類の水気を拭き取りながら問いかける。
「私にも解らないわ。本当は断りたいと思っていたのだけど」
「……はあ? ねえ、今日の鈴音って何か変じゃない? 実は体調が悪いとか?」
手を休めて相方の顔を覗き込む。
「体調が悪いのなら、有無を言わさずに、お引き取り願ってるわよ」
「だよねえ。じゃあ、きっかけは竜也って事か」
名前を耳にして、何かあるのかと顔を向ける彼。
「何となく放って置けない感覚があるのは事実ね。それが異質なものか、そうでないのかは未だに解らないけれど」
そう口にしながら拭き終わっている食器を棚に戻す。
「で、どうだった? 初めての学校ってやつは」
「……不思議な魅力のある場所だったかな」
竜也は想いを巡らせながら答え始める。
「賑やかに見えるかと思えば、静かになったり、戻ったり、かと思えば包み込むような柔らかさが見えたり、飽きる暇が無いほど色々な刺激があった」
普通の人間であれば死に至るような出来事を体験しているにもかかわらず。
彼の答えに悲観的なものは無い。それは彼自身にとって取るに足らない出来事らしい。
言葉から感じ取れる内容に綾香と鈴音は視線を合わせる。
警戒を解くにはまだ早いのかもしれないという意思が、二人表情に表れていた。
月は昇り、静寂が支配する時間。街並みから離れた山の一角に野犬が集まっていた。
特に何かが存在しているわけではない。それなのに野犬達は唸り声をあげる。
一瞬、真昼にも相当するかのような鋭い光が辺りを占め、次の瞬間、何もない空間へと大量の風が巻き込まれていく。
再び訪れた静寂と共にソレは現れた。何の変哲もないように見える砂山、風の動きが止まった筈が意思を持つように動いている。
膨大な量を誇るソレはやがて人の姿へと変化した。周囲を取り囲む野犬達は唸り声を強くする。
本能で悟っているのだ。敵であると、自らを脅かす存在なのだと。
【次元転移完了。システムチェック開始、保有ナノマシン量70%、戦闘行動に支障無し。脅威対象サーチ開始……エラー、ネットワークシステムが存在せず】
網膜に表示される診断プログラムを確認しながらソレは周囲の状況を確認する。
「これが生き物か、この身体になってからヒト以外の物は初めて目にしたな。どうやら生態系はあちらより優れているようだ」
木々の状態、大気密度、物質の変異状況を細かく分析していく。
「最上位命令がアレの破壊、及びナノマシンの回収か、副次命令がこちらの人類を刺激するなだったか、ならば減少したナノマシンは周囲の物資で補わねばならんが」
【内臓兵装確認、相転移砲……破損修復不可能、フォトン砲……使用可能、レーザー……使用可能、エナジーフィールド……展開可能。封印武装……正常動作】
「やはり、後付けの高精密兵装は破損しているか、さて物質の摂取だけならばそこらの地形物で問題ないが、効率が悪い上に環境変化を起こすな。準備が整うまでヤツに気付かせる訳にはいかない」
周囲の状況を眺めるその目に飛び込んだのは、敵視する多数の眼光。
「ふむ、ヒトではなく、尚且つ精神エネルギーも接種可能か、無機物よりよほど効率がいいな」
呟くなり敵意の中心にその身体を進ませる。月明りに照らされた姿は切り揃えられた短めの白髪に黒のタキシード、整った顔立ちは無表情に彩られ、何を考えているか伺い知れない青年として現れた。
「さあ、どうした? 獣たち、敵だと認識しているのだろう? その肉を裂き自らの空腹を満たしたいのではないのか? 遠慮はいらん。来るがいい」
両手を開き呼び込むようなポーズを取る。その瞳は虚ろで視点すら定まってはいない。
警戒しながら野犬達は距離を縮めていく。
やがて、確実に仕留められる間合いに辿り着いた時、そこにいた十匹近い犬が一斉に飛び掛かった。
腕に、喉元、腹、足。柔らかいと思わしき部分の至る所に咢が食らいつく。
青年の虚ろな瞳に光が宿り、無表情だった顔は禍々しい笑顔に塗り替わる。
「食らいついたな。ふふふ、はははは」
飛びついた犬達は余りの感触に異質なものを感じ離れようともがく。しかし、どんなにもがこうとその体は離れることは出来なかった。
噛みつかれた部分には血の一滴すら流れず。衣服の飛び散りもない。
代わりに犬の咢は衣服との同化を始めた。
「ん? そうか、恐ろしいか、動きを見ているだけで手に取るように感じられるぞ。恐怖に脅えるお前たちの魂が」
音すら立てず。絶命する事すらなく。身体の自由を奪われ、感覚が消えていく。
「痛みは無かろう? 租借している訳ではない、頭を残したまま身体を取り込んでいるだけだ。なに、意識が消える前に何も感じることは無くなる」
震える事すら許されぬまま犬達は身体を失った。最後に残された顔からは一筋の雫が流れ出る。
「……ふう。どう言ったものかな。取りあえずは、ご馳走様が正しいところか、その精神エネルギーは物質以上に得るものがあった。弱肉強食等という言葉があるくらいだ。仕留めるはずの獲物に喰われただけ。運が無かったと諦めろ」
地面に転がった犬であった存在の成れの果て、頭部の一部に向けてそう、ソレは呟いた。
「効率は良いが量は足りんな。暫くは続けねばなるまい」
自らの身体を観察した青年は闇が渦巻く山深くへと進みゆく。
その日から、歪に削られた野犬の頭部が方々で散見するようになった。
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