エピローグ
さて、話は俺と彩香の物語に戻る。
新婚旅行から帰った後、毎週土日は会社で提携しているという栃木の結婚式場へ行って、式の段取りを決めていた。彩香は豊洲にある営業部とは別の、特に忙しくない総務部へ異動になり、すでに社宅での同居を始めていた。
六月のジューンブライドに向けて、俺も、彩香も浮足立っていた。
「っていうか、結婚式に理瀬ちゃん呼びます? 共通のお友達なんだし」
「迷惑だろ。一人じゃ移動できないだろうし」
社宅の狭いリビングで、そんな話をしながら夕食をとっていた時。
テレビの臨時ニュースが鳴った。
『中国で流行の新型ウイルス、日本国内で初確認』
その時はまだ、この新型ウイルスが長い長い困難の始まりになるとは、二人とも全く考えていなかった。
* * *
新型ウイルスが世界的に流行して、俺たちの、というか世界中の人々の生活が激変した。
政府から緊急事態宣言が出され、皆家にこもり、豊洲の街からはそれまでの賑やかさが嘘だったように、人が消えた。
俺の仕事は社会インフラに関わるもので、緊急事態宣言下でも止めることはできない。だから普通に豊洲にある会社まで通っていたのだが、最初の緊急事態宣言の豊洲では、本当に嘘のような光景が広がっていた。子供連れや電動自転車、ジョギングをする中年男性などで溢れていた豊洲の街が、もぬけの殻になってしまったのだ。
俺たちの結婚式は無期限延期になった。とてもそんな事を考えていられる状況ではなくなった。
悶々としながらニュースを見つめる日々が続き、最初の緊急事態宣言が終わった頃、俺に異動の辞令が出された。
会社全体の経営状況を取りまとめる部署だった。経営といっても、下っ端の俺は膨大なデータを整理するだけで、ただただ残業だけが増えていった。
結婚したら金がいるだろう、という館山課長の計らいだったらしい。事実、残業と昇級によって給料はかなり増えた。
こうして俺と彩香は、ほどなくして導入されたテレワーク制度を活用し、家でひたすら仕事をするという、結婚前は想定していなかったライフスタイルを強制された。
二人でいる時間が長くなっても、不思議と喧嘩をする事はなかった。
ただ、アメリカの状況だけは気がかりだった。もちろん理瀬のことだ。
アメリカでは新型ウイルスで日本よりはるかに大きな被害が出ていた。中国が発祥だったことから、よく似ている日本人は差別の対象にされ、町中を歩いていたら暴行を受けた、という事件も発生していた。
独り立ちを応援するためしばらくは理瀬と連絡を取らないつもりだったが、流石にこの状況では気になって、理瀬とは頻繁にメールを交わした。
予定していたハイスクールへの編入は中止。ドリスさんの家へのホームステイもやめ、式田さんの住むマンションで一緒に生活しているという。
アメリカ生活の長い式田さんがフォローしてくれるから、特に問題はないとの事だった。
しかし、俺は心配せずにはいられなかった。もし理瀬がアメリカで何か大きなショックを受けた時、俺がアメリカへ駆けつけて励ますという事も、新型ウイルスによる渡航制限で不可能になった。何かあった時にできるか、できないかは大きな違いだった。
理瀬から送られてくるメールは淡白で、とにかく大丈夫です、という事は書かれていた。理瀬も新型ウイルスによる社会の激変に気圧されているのだろう。それだけに、俺は理瀬のことを心配せずにはいられなかった。
俺は時折、理瀬がアメリカで差別主義者に暴行される夢を見た。その時は、脂汗をかいて、夜中の三時過ぎに目が覚めた。アメリカは時差の関係で昼間だから、心配になりすぎた俺はいっそ理瀬に電話でもしようかと思った。
しかし、その度に彩香が寝ぼけながらも「大丈夫ですよ、大丈夫……」と励ましてくれたので、なんとか持ちこたえた。
新型ウイルスは感染拡大と縮小を続けながらも、だんだん騒ぎは弱くなっていった。
その間に、俺の周囲にいた友人たちにも変化が起こった。
伏見は、キャリア官僚を辞めた。古川が逮捕され、出世で不利になった時点で退職を考えていたという。もはや官僚という肩書にこだわらなくなった伏見は、フリーランスでシステム開発のプロジェクトマネージャーになった。システム開発についても官僚時代に触っていて、もし官職がダメだった時の再就職先として勉強していたそうだ。
その伏見の、経理やその他雑務を担う助手として、照子が採用された。
意外だったが、伏見いわく、今は人手不足でエクセルをまともに操れる程度の人材であれば十分という事だった。音楽ソフトの経験のおかげで、照子はパソコンに強かった。
二人はもともと相性がよかったのだ。ちょうど照子の勤め先のドイツ料理店が緊急事態宣言で営業できなくなった事もあり、社会復帰としては順調に進んでいると思ってよい。
エレンも一応、普通の女子高生として育っている。リモート授業で友達と会えなくなったり、部活ができなくなった事などを嘆いていたが、現代を生きるうえで受け入れるしかなかった。ちなみにリンツ君とは上手くいっているようだ。
エレンと理瀬とは定期的にメールを続けているらしいから、ずっと無視されていた昔よりは絆が深くなったのだと思う。というか、これは理瀬が成長したからに違いない。
こうして俺達は、激しく変化する社会になんとかすがりつきながら、それぞれの人生を歩んでいった。
――駆け足で説明してしまったが、ここで一度、話のペースを戻そう。
新型ウイルス禍が始まった、翌年の十一月。
新開発されたワクチンの摂取が始まり、世界的にも新型ウイルスの流行は落ち着いていた。
俺と彩香は、無期限延期となっていた結婚式をする事になった。
新型ウイルス禍ということで、会社の上司などは呼ばず、ごく一部の親族と友人だけで行う形式だった。
彩香はウェディングドレスを着てちゃんとした式を希望していたから、俺がそう提案した時、とても喜んでいた。半分は諦めていたのだ。
前から知っていたが、結婚式において主役の新郎新婦はひたすら忙しく、朝から夕方まで息をつく時間がない。新型ウイルス禍のせいで二次会はしない事にしたから、親友たちとゆっくり話す時間はないと思われた。
招待客は、俺と彩香の親族の他、彩香の学生時代の友達がメイン。俺の実家は遠いから、友人を気軽に呼べなかった。
俺が招待したのは、会社の男友達の他に伏見、照子、理瀬、式田さんという四人だ。
もちろん彩香の合意は得ている。照子については結婚式に元カノ呼ぶか、という点はあったが、彩香と仲が良いこともあり、特に文句は言われなかった。
理瀬についても、彩香の方から提案してくれた。
「久しぶりに理瀬ちゃんと会いたいですよね?」
招待客を考えていた時、彩香の方からそう言ってくれたのだ。彩香も、理瀬の友人であり、久しぶりに会いたいという気持ちはあったらしい。式田さんはその保護者というか、理瀬がアメリカから一人で来るのは難しいという配慮だった。
理瀬は「行きます」とメールで返事をしてくれたものの、新型ウイルスの状況や航空便の運行状況などもあり、最後までわからないとの事だった。
ちょうどこの時、感染状況は落ち着いていたものの、海外から日本へ入国するには到着後に二週間の自宅待機が必要だった。そこまでしなくていいかと思ったが、どうせハイスクールに行ってないし、式田さんの仕事はほぼリモートでできるから別にいいとの事だった。
ちょうど式の二週間前くらいに日本へ到着する予定だったが、理瀬は何も連絡をしなかった。俺からメールはしたのだが。ダメだったか、と思って、俺も彩香も、理瀬の参加は諦めていた。
結婚式は、予定通りの日に行われた。
お決まりのキリスト教式の挙式のあと、披露宴。
俺はずっと、イベントをこなしながら理瀬の姿を探していた。しかし見つけられなかった。彩香の女友達が多くて見分けがつかなかったのと、照子や伏見の近くにはいなかったからだ。
披露宴では、最近のお決まりのパターンで二人の過去をスライドショーにしたものが放映された訳だが、この時のBGMは、照子の書いた曲が使用された。
照子がYAKUOHJIだとは、他の人には明かしていないので、俺たちだけのサプライズとなった。照子は歌詞にこだわらない形で音楽作りを再開しているという。新型ウイルス禍以降、久しぶりに会ったのだが、変わらない様子だった。
披露宴は終始、にぎやかに執り行われ、少しだけ友人たちと話ができる時間もあった。
新型ウイルス禍の最中にあるという状況を考えれば、上々だったと思う。
式が終わると、俺の運転で都内にある社宅へ戻ろうとした。せっかくの結婚式だから、普通に電車で帰るのは嫌だったのだ。
俺より彩香の着替えが遅いので、一人車の中で待っていた時だった。
LINE通話がかかってきた。エレンからだった。
意外な人物からの着信に首をかしげながら、俺は通話をとった。
『おじさん! ご結婚おめでとうございます』
「おう。結婚自体はとっくにしてるけどな」
『細かいことはいいんですよ。今から理瀬の家、来れますか?』
「理瀬の家? 豊洲のマンションの事か?」
『そうです。理瀬、結婚式行きたかったけど行けなかったって。今、私もそこにいるんですよ』
「なんだ、お前ら会ってたのか。理瀬と会えて良かったじゃ――」
電話の向こうで、「ちょっと、余計な事言わないで」という、別の声が聞こえた。
理瀬の声だった。
『理瀬、宮本さんが他の女の人と結婚するのが辛すぎて、式に行けなかったんですって!』
『違う!』
笑っているエレンと、裏で怒っている理瀬の声が聞こえる。
ああ。
なんだ、心配してたのに。元気じゃないか。
俺がいなくても十分、やっていけたんだな。
結婚式という一大イベントが終わった事もあり、俺は安心して泣きそうになっていた。
「理瀬ちゃんですか?」
ちょうどその時、彩香が助手席に乗り込んできた。
「なんでわかったんだ?」
「あなたが泣きそうになるのは理瀬ちゃんのこと考えてる時だけですから」
「……そんなに辛そうな顔してたか?」
「私が両親への手紙読んでた時よりずっと辛そうですけど」
「……理瀬、実は豊洲のマンションにいるらしんだが」
「えっ、マジですか!? 行きましょうよ、今から!」
「いいのか?」
「何がですか? 私も理瀬ちゃんに会いたいし。っていうか、伏見さんと照子ちゃんも呼びません? いつかのクリスマスパーティみたいにみんなで遊びましょうよ。新型ウイルスなんてもう、いいでしょ」
『おじさーん、どうするんですか? 理瀬は明日アメリカに戻るみたいですよ! 私もそろそろ家に帰るので、理瀬が一人になっちゃうんですけど』
「ああ、行く! 今から行く! 二時間くらいで着くから待ってろ」
こうして俺は、車を豊洲へ向けた。
走っている間に、彩香が照子と伏見に連絡して、豊洲のあのマンションへ集合をかけた。
彩香と結婚式の最中の話をしながら、車を走らせ、約二時間後。
豊洲のマンションへ着いた。
鍵は持っていなかったので、インターホンを押して入れてもらうことに。
「理瀬。いるのか?」
俺がそう言うと、特に返事もないまま玄関が開いた。
「理瀬ちゃん、緊張してますね。人見知りだから仕方ないですよ」
「そういうもんか? ちゃんと話ができるかどうか不安だな」
「もう、心配しないで、久しぶりなんだから楽しみましょうよ」
約一年ぶりに、高層階のあの部屋へ足を踏み入れると。
玄関に、理瀬がいた。
日本にいた時よりも髪をかなり短くしていたが、雰囲気は変わっていなかった。高校生なのに大人っぽくて、とても利口そうなあの理瀬だった。
「理瀬ちゃーん!」
彩香が、俺より前に飛び出してハグをした。アメリカで慣れたのか、理瀬は特に嫌がっていなかった。
「剛さんも! ほら!」
「えっ?」
彩香が理瀬とハグしたまま、片腕だけ広げた。俺も加われ、という意味らしい。
「恥ずかしがらないでいいから! ほら!」
彩香に手を引っ張られ、俺と彩香、理瀬は三人でぎゅっ、と抱きしめあった。
「理瀬ちゃんほんと久しぶり……すっかり大きくなって」
「身長、伸びてませんよ」
相変わらず落ち着いている理瀬の声を聞いて、俺は安心した。
「アメリカは、大丈夫だったか?」
「大変でしたけど……式田さんもいるし、今はなんともないですよ」
やはり人見知りで恥ずかしいのか、久しぶりに会ったというのに、なかなか話が弾まない。
そうしているうちに、玄関が開き、照子と伏見がやってきた。
「あーっ! なんかおもっしょいことしよる! うちも混ぜて!」
照子が無理やり俺たちに合流してきて、そのあと伏見も加わって、五人でハグをした。ハグというより円陣に近い形になり、最後はみんなで笑った。
その後は、照子たちの買ってきた酒とつまみで宴会が始まった。久しぶりに会うメンツだったので、お互いの近況報告だけでも話がはずんだ。
俺は嬉しかった。色々あったが、一度仲良くなった仲間たちがもう一度集まれたのだ。あの時絆を深めたことは嘘ではなかった。新型ウイルス禍でほとんどの人と接触しなくなり、忘れかけていた感覚が取り戻されたような気がして。
珍しく、薄い酒だけで酔ってしまった。
夜はふけ、疲れが溜まっていた彩香がまず寝落ちして、俺がベッドまで移してやった。伏見と照子は、早めに帰ることになった。「また飲もうな」と約束して。
俺と理瀬だけが、最後に残った。
「宮本さんは、これからどうしますか?」
宴会は盛り上がったが、理瀬と直接話すターンは短かったので、改めて二人になると、また緊張感が蘇ってきた。
「彩香が寝ちゃったからなあ。今日はここで泊まっていいか?」
「いいですよ。私は明日のお昼過ぎまではここにいるので。お水でも飲みますか?」
「ちょっと夜風に当たろうかな」
久々にここへ来たので、ベランダからの景色を見たかったのだ。
理瀬と二人で、外へ出た。かつて俺たちが眺めていた工事現場は、立派なマンションに変わっていた。おかげで展望が悪くなってしまったが。
「大変だっただろ」
「……はい。最初の方は大変でした」
俺と理瀬は、絶えず変わってゆく豊洲の風景を眺めながら、ぽつぽつと話しはじめていた。
「心配されると思って言わなかったんですけど、最初の方に式田さんが大学内で襲われかけた事件があって、すぐに警備員がきてなんともなかったんですけど、それを聞いてからは外を歩くのも怖くて、ずっと家の中にいましたよ」
「そうか。近くにいれば助けられたのにな」
「宮本さんは彩香さんがいるからダメですよ」
「お前を養子にでもするよ」
「それは嫌ですよ」
「なんでだ?」
「……宮本さんは、私の思い出の人、だからですよ」
「……」
「お父さんではないですよ」
「……まあな」
酔っていたこともあり、久々にピュアな気持ちを正面からぶつけられた時、俺はまともな返事ができなかった。
理瀬はアメリカで成長しているが、一方で全く変わっていない部分もある。
ある意味では、理瀬らしいと思う。この子はとても芯が強い。
「彼氏はできたか?」
「そもそも式田さん以外の人とほとんど話してないのに、できる訳ないですよ」
「そうだよなあ」
「……指輪、買ったんですね」
理瀬はベランダの柵に置いてあった俺の手を、じっと見ていた。
「まあな。結婚してるからな。独身だと勘違いされなくていいぞ」
「私が買った指輪、机の中に置いてありましたね。捨てなかったんですか?」
「ああ。捨てようかとも思ったが、思い出だからなあ。彩香には内緒だけど、俺、照子が高校時代にくれた手紙とか、まだ持ってるんだよ。どうしても捨てられなくてな」
「あきらめの悪い宮本さんらしいですよ」
理瀬は笑って、あの二つの指輪をポケットから取り出した。
「これ、もう捨てますよ。本物の結婚指輪を見たら、もうこの指輪はどうでもよくなってきました」
理瀬は腕を振りかぶり、ベランダから外へ、指輪を投げようとした。
「待て待て。不法投棄なんかするな」
俺はその腕をつかみ、理瀬の握られた手から指輪をはぎ取った。
あっけにとられている理瀬の前で、俺は結婚指輪をはずし、理瀬の指輪をつけた。
「一瞬だけだぞ」
「……不倫ですか?」
「バカ。そんなこと言うなら投げ捨てるぞ。お前が俺にこれを渡そうとした時は……和枝さんが亡くなって、お互いにまともな状況ではなかった。だから、だ。一瞬だけあの時に戻ろう。俺たちが付き合うかもしれなかったあの瞬間にだ。ほら、お前も小さいのをつけてみな」
理瀬はおそるおそる、という感じで小さな指輪をつけた。
俺は指輪がつけられたのを確認すると、握り拳で、理瀬とグータッチをした。
それが終わると、俺は指輪を外した。
「ほら。今、もう時間は戻った。俺はこの指輪を持っておく。諦めの悪い男だからな。その小さい指輪は、どうするかお前が決めろ」
「……持っておきますよ。もしこの先、他に好きな人ができても、ずっと、とっておきますよ」
「勝手にしな」
俺は指輪をポケットにしまい、部屋に戻ろうとした。
理瀬は、そんな俺を止めるように、背中へ抱きついてきた。
「……ありがとうございました。私のわがままな気持ちに、最後まで付き合ってくれて」
「何のことだか。俺が愛してるのは彩香だけだ」
「……ありがとうございました」
俺が素直じゃないのは、理瀬もよくわかっている。
ふたりとも、決してあの時の気持ちに戻ってはならない。それはわかっている。
だが今は、俺と理瀬が出会い、多くの時間を過ごしてきたこの場所で、少しでも長く、思い出に浸っていたかった。
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