第6話 ゲオルク
雨の中、キルギバートは主殿へと回った。庭を挟んで反対側、そのすぐ傍の雨戸で隔たれた部屋がゲオルクの私室である。
「父上」
やや間があり、戸の向こうからくぐもった声が聴こえた。
「……おう、シレンか」
「父上、キルギバートが来てくれました」
「そうか。……そこにいるのか」
キルギバートは少年の頃、剣の師に対して行っていたようにその場で拝跪した。分厚い戸板の向こうでも聞き取れるほどに太い声は変わらない。だが、声が枯れていた。具合が悪いのだと、すぐにわかった。
長い長い衣擦れの音がした。床を擦っている音だ。
「父上っ!」
頭上で戸板の開く音がした。頭を上げてはならない気がして、キルギバートは雨の中でその場に伏し続けた。
「よい、シレン」
「しかし、そのようなお姿を……」
「彼が、雨に濡れてしまうではないか。よいのだ」
何度か足音が頭上で往復した。シレンが迷っているのだろう。
「よく来た、我が弟子よ。顔を見せよ」
ゲオルクの言葉に、キルギバートは顔を上げた。
目の前に老人がいた。
シレン・ラシンに肩を貸されて立つ、白い寝着姿の老人。かつてモルト軍元帥であり、数百万のモルト軍人の頂にあった男は――。
――こんなに、折れてしまいそうなほど細く、潰れそうなほど小さかっただろうか。
シレンが支えつつ、老人は縁側に膝を折って座り込んだ。その様子を、キルギバートはただ身動ぎさえせずにじっと見つめていた。
「よく来た、よく来てくれたなあ。キルギバートよ」
その表情は老爺が孫に見せる笑みによく似ていて、とても悲しいものだった。手招いている様子を見て、シレン・ラシンは目を真っ赤にしつつキルギバートへ頷いた。
「キルギバート、もっと近くへ」
泥を膝でにじって、キルギバートは濡れ縁に胸先が触れるくらいまで近づいた。ゲオルクは笑った。生まれて初めて見るような屈託のない笑みであった。
「閣下……!」
「もう、そんなふうにせんでもよいのだ。隣へ来い」
濡れ縁に手を掛けた。だが、どうしてもその隣へゆくことが恐ろしかった。かつては拝跪し、戦場では山のように大きく感じたモルト最強の男。その隣へ座れば小さくなってしまった彼を受け容れなければならないような気がした。
「キルギバート、早く――」
シレンが呼んだ。父を超えることを宿命づけられた彼は、果たして幾日前からこの現実と戦っていたのだろう。木履を脱いで縁側へと上がり、キルギバートはずぶ濡れの軍服姿でその場にうずくまった。拝跪にならなかった。
「キルギバートです、閣下。ご無沙汰を、しておりました」
くぐもった声で告げるキルギバートの手に、温かい感触が伝わった。
ゲオルク・ラシンが握っている。そんな事など今まで一度もない事だったというのに、昔からしているかのような様子でゲオルクはキルギバートの手の甲を擦ってやった。
「グレーデンらは、元気か」
キルギバートは愕然とした。ゲオルクは、外で起きていることを、何も知らないのだ。いや、周りも教えていないのだろう。彼が慈しみ、人生をかけ、手塩にかけて育てたモルト軍が今どうなっているかなど、話せるわけがない。
「どうした、キルギバート」
――そんな事をすれば、この人は死んでしまう。
「今にも、涙が溢れそうだぞ」
キルギバートは拳を握ってうつ伏せて泣き声をあげた。使命を果たすことなど、頭から消し飛んでしまった。
その日、キルギバートは何もできずに兵営へ帰った。
あまりの
ゲオルクの病は重いようで、食事でさえ通常のものを食べることができない。少し食欲が出ても粥や汁物ばかり啜っていて、しかも吐き戻してしまう。しかも元帥館の台所は男所帯で食にはもとから無頓着である。こうなると元は平民のキルギバートの所帯臭さが炸裂したようで、彼は方々へ手を回し、シレンには直談判して栄養学に詳しい民間医や栄養士を雇わせた。嫌がるゲオルクを泣いて説き伏せ、東大陸時代に世話になったモン・マシ軍医の知り合いの医師をつけた。
朝顔を出し、午前のうちに辞して軍へ出仕し、そうして夕方になるとまた元帥館へと顔を出す。
甲斐甲斐しく世話を焼くキルギバートにいつもの猛々しさはない。子が老いた親を見るかの如く、食事に身の回りの世話まで喜んで行った。シレン・ラシンも喜んだ。ラシン家当主であり、彼はそもそも軍務に忙殺されているが、父のことは大きな心の負担であったに違いない。シレンに対して、それまで無任所で惰眠を貪るに等しい生活をしていたキルギバートにとっても恩人の世話は面倒どころか大きな喜びとなっていた。
任務を与えたはずのローゼンシュヴァイクは、駆けずり回る銀髪碧眼の青年を見て「馬鹿だな」と言ったきり何を言おうともしなくなった。
十日も経つと少し力が戻ったのか、ゲオルクは血色がよくなってきた。剣は振らないが、杖を床上で軽く振る程度のことを、するようになった。キルギバートはそういうゲオルクに変わらず世話を焼いている。鬱陶しがられるようになれば、きっと元通りになる日も近いだろう。それまでは誰が何と言おうと世話を続ける気で、彼は元帥館に通っている。
オルク・ラシン、ライヴェ・ラシンから託された布包みの中身は、まだ怖くて渡せていない。
そんな生活が数週間続いた、ある日のことだった。
元帥館を訪れたキルギバートはいつものようにゲオルクの部屋を訪れた。だが、そこにいるはずのゲオルクがいない。この日はシレン・ラシンも軍務のために屋敷を空けていて、広い元帥館はひっそりと静まり返っている。
庭園に出ても、誰もいない。主殿にいないということは、離殿だろうかとキルギバートが息をついた時だった。離殿から、床に何かが落ちて転がる音がした。
「まさか――」
キルギバートはすっ飛ぶようにして庭を駆け抜け、離殿へ土足で上がり込んだ。通い慣れた屋敷であることに、心の中で感謝した。音がした"道場の間"に駆け込み、勢いよく扉を開けた。
人が、倒れていた。
「閣下!!」
白いシャツと、乗馬用の筒袴を佩いたゲオルクだった。手のすぐ近くに抜き身の長剣が落ちていた。
「キルギバート――」
抱き起したゲオルクの身体は、やはりぞっとするほど軽かった。
「ご無理はいけません! すぐ床へ――」
「いいや、よいのだ。続けさせてくれ」
「なりません」
「私が、戻らなければ、モルト軍へ――」
キルギバートは抱き起したゲオルクの顔を見た。
「そのために、お前は来たのであろう。キルギバート」
「閣下……!!」
「わかっていた。ローゼンシュヴァイクの使いが来なくなり、代わりにお前が来た。お前であれば、私を説き伏せられようと、そういうことであろう」
杖にしがみつくようにしてゲオルクは立った。小鹿のように足が震えている。
「閣下。私は、閣下の御姿を見て、言えなくなったのです。臆しただけです」
「だが、お前は何も言わず、私に尽くしてくれた。来る日も来る日も」
「閣下、私は――」
「本当を言うとな、キルギバートよ。私はもう死のうとしておったのだ。二人の子を失って、もうどうでもよいと、そう思っていたのだ」
キルギバートは何も言えなかった。親を失い、生きる気力を失ったこともある彼にとって、家族の喪失がどれほどの重みを持つことかなど、言葉にできるはずもない。
「だが、お前が人として泣き、尽くす姿に、もう少し、ほんの一瞬だけでも生きたいと思えるようになった」
「閣下……、わたし、は……」
「もうよい、泣くな、キルギバート」
キルギバートは涙をこらえつつ、傍に置いていた布包みへと手を伸ばした。
「それはなんだ、キルギバート」
「閣下にと、預かっていたものです」
キルギバートは布包みを開き、それを大事に"二振り"抱えて差し出した。
「オルク・ラシン、ライヴェ・ラシン、両将軍が最後まで佩いていた遺品の短剣、ゲオルク・ラシン元帥に今お返しいたします。ラシン家の武名を継ぐシレン様、そして御父君のゲオルク・ラシン閣下の御武運を、お二人は最期まで祈っておられました」
ゲオルクは彫像のように動かず、差し出された短剣をじっと見つめていた。やがて、ゆっくりと腕を上げてそれを受け取った。腕の中で金属の擦れる音を立てて、それはやっと父の下に帰って来た。
「おお……、っ」
キルギバートは顔を上げた。
天魔鬼神よりも恐れた師で、モルトの軍神と呼ばれ畏敬した男の大きな目から涙が溢れていた。
「オルク、ライヴェよ……っ!!」
ゲオルクは手で顔を覆い、男泣きに泣いた。
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