第5話 元帥館にて
ラシン邸。別名を"元帥館"という。
首都アースヴィッツ官庁街の近郊に位置する屋敷は豪壮なつくりで、建国の前から国民に親しまれている。白塗りの高い壁で四方を囲い、門を東西南北に設け、敷地内には主殿と離殿、営舎と呼ばれる三つの建物があり、当主の在る屋敷は主殿。その家人が離殿に住まう。営舎は言葉のとおりでなく、門人や家人の鍛錬場であった。屋敷はラシン家の住まいである他、国技であるモルト剣術の総本山でもある。
ウィレの名家の屋敷と違い、石造りの屋敷の建物は高さを持たない。全て平屋づくりで、出入りする者はこれを御殿と呼んでいた。
キルギバートは布包みを抱いて門の前に立った。
かつてはモルト剣術を学んだ門弟であり、国技大会で得た証書さえ提示すれば自由に屋敷の出入りができる。だが、この時は常とは違った。ラシン家の家人たちが門の前で鉄杖を組んでキルギバートの行く手を阻んだ。
「何をする」
「通すわけにはいかん!」
「見覚えがないか。シレン・ヴァンデ・ラシン様の弟弟子、キルギバートだ」
数年前までは足繁く通っていただけに、門番たちも銀髪碧眼の青年の顔はよく覚えているらしい。たじろぐように顔を見合わせた。その様子の奇妙さにキルギバートは眉をひそめた。
「どうしたんだ」
「大殿の隠居後、人を軽々しく通すなと師範たちからきつく言われているのです」
「何故だ?」
「大殿は、その、御病気ですので……」
「本当に御病気か」
門番たちが決まりの悪そうな顔をした。事情として言いづらいのだろう。
そこへ声が飛んだ。
「何をしている」
振り向いた先に、道着姿の男が立っていた。撫で付けた黒髪は襟足で逆立っていて、黒々とした顎髭が汗で光っている。
「シレン様……!」
キルギバートが青い目を丸くしたのと同じように、男の方も黒い目を見開いた。
「キルギバートか!」
☆☆☆
邸内へと通されたキルギバートは離殿に通された。玄関から応接間までは三方に設けられた扉を隔てて数歩の距離しかない。シレンが客人を通すべく扉を開けて、中へと促した。
「よく、寄ってくれた」
「いえ、こちらこそ顔を出せず……」
応接間は板張りの床に、天井の高い作りの広々とした部屋である。応接というが飾り気はない。部屋にある応接の席さえ取っ払ってしまえば、すぐにでも道場として使えるだろう。事実、戦前はそうなっていた。
硝子製の人の背丈ほどある窓戸が壁面を覆っていて、さらに"雨戸"がその外に設けられている。その向こうは庭だ。シレン・ラシンお気に入りの植物庭園があるが、今は雨戸に仕切られて見ることができない。
部屋の照明をつけつつ、シレンが「入ってくれ」と促した。
席は高さのない座椅子で、横長の低い机に早々と茶が乗っている。シレンが門前に出た際に置かれたらしい。気の利く"ラシン家近習"の仕業だとすぐにわかった。
「無沙汰など、気にするな。あの騒動の中では、仕方のないことだ」
騒動、というのはウィレ・ティルヴィア西大陸における最後の地上戦のことだ。モルト軍とモルト国家元首親衛隊の内紛は、今日までモルトに深いしこりを残している。
「むしろ、厄介事を全て押し付けてしまったな」
「そのような事は。……グレーデン閣下をお守りくださりありがとうございました」
「シュレーダーを、この手で首を刎ねてやろうかと思った」
吐き捨てるようにシレンが言った。
「だが、あれ以上の大事にできん。グレーデン閣下は私にとっても恩人だ。政局を見るために逃さざるを得なかった。すまぬ」
座椅子につくなり、シレンは机に頭がつくかと思う程に深く謝したので、キルギバートは慌てて膝を立てた。
「お顔をお上げください! 地上で共に戦った同志ではありませんか!」
渋々と顔を上げたシレンに、ようやく腰を落ち着けたキルギバートは互いに煎茶の入った茶碗を手に取った。先に啜ったのはシレンだった。
「昔はこれを美味いと思っていたのだがな。ウィレから輸入した茶葉は、輸送の間に変質してしまう。……ウィレから少しばかり持って帰ろうとも思ったのだがな。結局、できなかった」
キルギバートも中身を啜った。不味い、そう思った。
「ウィレに行き、肉や魚、野菜、茶、色々なものを食べたり飲んだりしました」
「うむ……」
「舌が肥えるとはこういうことかと、この茶で思い知っています」
互いに声を立てて苦笑した。
キルギバートは茶碗に目を落とした。薄茶色の水面の中に、地上での思い出が浮かんできていた。シレンは外に続く窓戸に目をやった。
「キルギバート、庭へ出ないか。良い天気の間にな」
キルギバートは顔を上げた。月面都市では、天気はあらかじめ決まっている。
「雨が降る前に、花を見ながら話がしたいのだ」
「……わかりました」
二人して席を立った。窓戸を開けた先にある景色を観てキルギバートは「ほう」と溜息を吐いた。草木と花に彩られた緑豊かな庭園が広がっている。
木履を履いて、そのまま出た。道着に木履のシレンはいいが、軍服姿のキルギバートは靴下に木履と少々珍妙な姿だったが、当人は庭の景色になごんでいる。
「懐かしいですね」
「そうか?」
肩ほどの高さになった樹木の幹をキルギバートが撫でた。
「ええ。それもこれも丁寧に植えたのです。シェラーシカ殿の嫁入りのために」
「そうだったな……」
シレンは目を細めた。
「お前が庭木の苗やら花の種やらを実家で仕入れたものを大汗かいて運んできた」
「こんなもの、どこで使うんだと思っていたものが急に幾つも必要になって、あの時は父と一緒に慌てたものです」
キルギバートは遠くを見るように目を細めた。その父も、もうこの世にはいないのだ。だがノストハウザンで死にかけた時に見た幻影は、今もまぶたの裏に焼き付いている。
「良い思い出です。家族がいて、大勢の友人がいて、仲間がいて、オルク様やライヴェ様がいた。ここに来られてよかった」
シレンはキルギバートの背中を見つめていた。
「……それだけか? お前がここに来た理由は」
ややあって、キルギバートは踵を返してシレンへ向き直った。
「ゲオルク・ラシン元帥閣下の、軍への復帰をお願いするためにここへ来ました。今のモルト軍にはあの御方が必要なのです。シレン様、御父上に会わせていただけますか」
「それは――」
沈黙が、しばらく続いた。
互いに見つめ合ったまま微動だにせず、時間だけが流れた。
「その包みは」
先に声を発したのはシレンだった。
「"あの剣"か?」
「はい。北方州からずっと、預かっておりました」
シレンの目つきが険しくなり、眉根が寄った。
「ずっと持っていたのか」
「私から渡すように言われ、どんな時も肌身離さず持ち歩いておりました。あの戦闘でも一緒にグラスレーヴェンの操縦室の中に入れ、戦傷の間は枕元に置いておりました。これは――」
シレンの目からただ一筋だけ涙が零れた。
キルギバートも目を潤ませて、絞り出すように続けた。
「オルク・ラシン殿、ライヴェ・ラシン殿の形見。御魂が守ってくださったのだと」
シレン・ラシンは膝から崩れ落ちた。
キルギバートが駆け寄り、その背に手を掛けた。
「兄上……!」
雨が降ってきた。その中で二人の男は泣いた。
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