第7話 ひとり、姉と弟

 扉を開けた瞬間、消毒液と薬品が漂わせる独特のにおいが濃くなった。待合の椅子と、そこかしこにたむろする病衣を着た患者が、ウィレ・ティルヴィア軍の制服を着た少年たちを見止めたが、すぐに何事もなかったかのように目を逸らした。


「やっぱり慣れねぇな」


 リック・ロックウェルがしかめっ面で呟いた。軽口にしては元気のない声音で、表情も少し神妙だった。ゲラルツは玄関口で腕を組んだまま壁によりかかっている。


「行きたくないそうだ。あいつも色々あるからな」


 リックの言葉にカザトは頷き、二人は行くべき場所へと赴いた。


 西館の地下へと、階段を使って降りる。看護師の姿は少なく、医療用ロボットは廊下の片隅で電源を落として眠っている。やや薄暗い廊下の突き当りに、目指す部屋はあった。


 先を進んでいたリックが、カザトに道を譲った。


「行ってやれ。多分、お前の方がいい」


 リックにカザトは何かを言おうと口を開いた。だが、その口をすぐに閉じた。


「いんや、違うな。オレも怖ぇんだよ。オレにだって年下の兄弟がいる。とてもじゃないが、この先はな」

「……ああ、わかってる」

「ごめんな」


 脇へとよけたリックの横を通り抜け、カザトは扉に手を掛け、引き開けた。


「――」


 想像していたにおいはない。この部屋の住人には必要のないものだからだと、カザトは悟った。


――陽は昇り 雪が落ちて 春はくるよ


 歌が聞こえた。


――さむい さむい 冬は終わるよ


 その歌はカザトも知っている。ウィレ・ティルヴィア東大陸に生きる人々は皆が知っている"子守歌"だ。


――春はくるよ 子どもたちの胸へ


 寒い冬の夜、毛布の中で縮こまっていると、母親が歌ってくれる。歌の名前もない。ただの子守歌だ。眠りについた子どもを安らげるための、慈悲に満ちた人の声による旋律。だが、それが響いているここは「安置室」だ。


 寝台に腰を掛けたファリアがそこにいた。歌っていたのも彼女だ。

 そのファリアの胸に、小さな子どもが抱かれていた。男の子だった。

 近づいて、カザトの瞳が収縮した。小さな子どもではない。カザトと同じ歳だとようやく気付いた。少年の青白くなった顔は痩せこけ、腹の上で交差するように横たえられた腕は枯れ枝のように細かった。


――陽はのぼり 光はあなたを 包むよ


――草の香り おひさまのにおい


――春はくるよ あなたの――


 我に返った時、カザトはファリアを抱きしめていた。間に挟んだ男の子の肌は、やはり冷たかった。そしてようやく、ファリアの歌が止まった。


「どうして――」


 カザトの胸の内から、くぐもったファリアの声が聴こえた。


「どうしてここに来たの」


 困惑と怒りと嘆きがごちゃ混ぜになった、硬く、重さをもったどす黒い声だった。今まで聴いたことのないファリアの声に、カザトは腕を離し掛け、それから抱きしめ直した。ここでファリアを離したら、彼女が二度と帰って来れなくなりそうな気がしたからだ。


「どうして私たちの間に入ってきたの、カザト君――」


 ファリアは、かつて少年だったものを片腕で抱いたまま、カザトの襟首に手を伸ばし、恐ろしい力で握りしめた。

 思わず、胸の内へと目を落とした。みしりと音がしそうなほどにファリアの表情はこわばっていた。


「あなたは何も知らないのに……!!」


 カザトはたじろぎかけた。ファリアの声に宿っていたのは純粋な憎悪だ。

 戦場で、こんな憎悪に満ちた声を投げかけられたことはあった。だが、仲間からこんな声を受けるのは初めてで、カザトの胸の中に恐怖が泡立ち、広がっていく。それでも離してはいけないと思った。無理を通した。「人の領域に立ち入るな」と立ち塞がったジストを乗り越え、いつになく冷たくファリアを見捨てるように命令しようとした魔女の声を振り切り、リックとゲラルツを連れてきて、エリイに見送られ、シュトラウスに戻って来た。


 そして一目見てわかった。ファリアは壊れかけている。

 そんな彼女を見捨てることなどできない。


「ファリアさんが、心配だったから」


 どうしても、どうしてもできない。


「ファリアさんに、ここまで導いてきてもらったんです」


 カザトの心に泡立っていた恐怖が、不安が消えていく。


「ファリアさん、に、今日まで守ってきてもらったんです。ずっとずっと家族と同じくらい、大事、に、思ってきた人だから、どうしても、心配で」


 少々無様な涙声になってしまったが、それでもカザトは言い切った。


「ごめんなさい。俺にだって何かできたかもしれないのに。もっと早く、知ってさえいれば」


 カザトはファリアが抱いている男の子の顔を見た。寂しさと、病の苦しみがしみこんだ顔は、どこかしょんぼりとしょげているように見えた。頬に手を当てる。すでに死んだ者の肌に手を当てたことなど今までない。


「この子の名前、なんて言うんですか?」

「……ケント。ケニーって呼んでいたの」


 子守歌をなぜファリアが歌っていたか、今ならわかった。自分と同じくらいの歳の男の子ができること――友人を作ったり、外で元気に遊んだり、あるいは姉弟以外の家族から愛を分け与えてもらったり――を、この子はできなかった。


「ケニー君。初めまして」


 春の温かさも、病室で一生を終えた少年には無縁のものだった。

 病室で戦地に行った姉の帰りをひとりで待つ日々は、この子にとってどんなものだったのだろう。


「それと……。ごめんなさい、お姉ちゃんを取って」


 "ファリアの弟"の顔を撫で、カザトは泣いた。


「ごめん、ケニー君――」


 そしてラインアット隊が結成されて初めて、ファリア・フィアティスは人前で子どものように声をあげて泣いた。




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