第3話 それぞれの休暇
荷物を地面へと落とす。
朝霧の中で少年は我が家を見上げた。
「帰って、これたんだ」
半年以上も離れていた我が家は、いつからか思い出の中の存在となってしまった。瞼を閉じれば容易に思い浮かぶと言うのに、あまりに遠い存在になり果てていた。それでも、子どもの頃から住み慣れた我が家が今、目の前にある。
庭の生垣は冬の寒さによって色を失っている。春から秋にかけて敷地の壁を彩った草花もない。それでも、うら寂しいとは思わなかった。これこそが我が家なのだ。
唐突に、その扉が開く音がして、少年は思わず身構えてしまった。
自分の家だと言うのに、身を固くする少年の前に、寝起きで癖のついた髪を撫でながら寝ぼけ眼の中年の男が出て来た。ほとんど黒に近い焦げ茶の髪をした男だった。
「母さん、玄関の鍵が開けっ放しじゃないか。戸締りはちゃんと――」
言いつつ、男は玄関の前に立ち尽くしていた少年を見止めた。
少年も、男を見つめていた。
ふたりは互いに、凍り付いたように静止したまま見合っていたが、やがて――。
「カザト……?」
名を呼ばれたカザト・カートバージは少しだけ気まずそうな微笑を浮かべて頷いた。
「……ただいま、父さん」
その背後から、少しだけ老いた女性が顔をのぞかせた。柔和そうだが、どこか線が細く神経質そうな顔立ちの女は玄関の前に立ち尽くしていたカザトを見つけると、伴侶である男を押しのけて飛び出した。
「母さん!」
「カザト!!」
両親に抱きしめられ、もみくちゃにされる。知らず涙がこみあげてきて、家族はわんわんと声をあげて泣いた。
こうして、カザト・カートバージは家へと帰り着いた。
その夜。帰るなり夕方まで寝台で寝入ったカザトは両親と食卓を囲んだ。一緒に過ごしてきた家族なのに、こんなことは数年ぶりの事だった。父親は仕事で忙しく、母親とはどこかすれ違ったような日々を過ごしてきたからだろう。
カザトは食事を楽しむようにしながら、何気なく両親の顔を見た。
ふたりとも、髪には白いものが混じってきた気がする。父親は少し髪が薄くなり、腹が出たようだ。元々、工場の機械工だった彼には今こそ作業着が似合いそうな趣がある。母親の方は少し痩せた気がする。子どもの頃、手を握ってあちこちへ連れて行ってくれた手指の肌は少し緩んで、ところどころに皺ができていた。
ひょっとして、自分が出て行ったからだろうか。英雄に憧れて、なんて夢をもって、軍に入って家を顧みることなんてしなかったから。だから二人は老け込んでしまったのだろうか。そんなことを考えていると、どこか胸の内側から針で刺されているような痛みを感じる。
食事も終わりに差し掛かった頃、スープ皿が空になった頃に父親が口を開いた。
「父さんもな。実は軍の工場で働いてるんだ」
「どうして?」
「勤め先が、軍に協力するという事になって接収されたんだ。今は、軍の自動車を造ってる」
「そんな。どうして手紙で言ってくれなかったのさ」
「お前にそんなこと言ったら心配させるだけだろ。父さんたちは無事なんだから、それでいいじゃないかと思って」
「それは、そうだけど――」
カザトがいない間に、家の状況は随分と変わったらしい。暢気に自動車を組み立てていた父親が軍属になったなんて、普通の家庭からすれば一大事だ。
「お父さんはね。カザトが戦争に行ったなら、自分もって――」
「よせよ母さん。……まあ、いいじゃないか。それよりも――」
皿を重ね合わせながら、カザトの父は身を乗り出した。
「休暇はどれくらい取れそうなんだ? それなりの長さなら、じいちゃんとばあちゃんの家にでも――」
「
カザトの言葉に、母親は表情を曇らせた。
「ノストフォーバッハって、海軍の……それじゃぁ」
「うん。西大陸に行くんだ」
「カザト――」
いつになく神妙な面持ちの両親に、カザトは思わず匙を置いた。
「除隊、できないの?」
「え?」
「西大陸なんて、なんで行くの。あそこは戦争が始まった時――」
母親はそこで口を閉じた。"ウィレ軍兵士百数万が死んだ場所"とは、口が裂けても言えないだろう。それは兵士であるカザトに対してというよりは、家族として不吉な未来を拒むようなものだった。
「ねえ、カザト。除隊できない?」
「母さん……」
「母さんも父さんも知ってるの。南部で、北方州であなたが危ない目にあったこと」
母の声の後半はほとんど涙声になっていた。カザトは困惑したように父親の顔を見た。彼の方も母の肩に手を置いて、カザトを見ている。その瞳が自分を慈しんでいるようであり、そして憐れんでいるような色を帯びていることで、カザトはようやく気付いた。
自分が戦い続けた日々の裏で、家族にどれほど心配をかけていたか。いや、それはきっと、家族として当たり前のことかもしれない。
だが、自分が"英雄になりたい"という夢を追って戦場へ出ることは、一番身近な家族でさえ"賞賛"からほど遠いものなのだということに、カザトは気付いてしまった。
父親が口を開いた。
「"英雄"になる夢は、
その問いは"カザトに帰ってきてほしい"という思いと同時に、"カザトの夢の現実"を突き付けているようで――。
――お前は英雄になどなれない。
戦場で出会った、銀の髪をしたモルト兵が言っていた言葉が蘇った。
それでも――。
「父さん、母さん、ごめん」
カザトは机の上に置いていた手を握りしめた。
「それでも俺、戻らないといけないんだ」
「どうして――」
「戦ううちにさ、守りたいものができたんだ」
それは"惑星"だとか"平和"とか、そういうものではなくて。
「"戦友"ができたんだ」
両親の目は哀切を帯びていた。"ただの他人じゃないか"という、死地に向かう子を持つ人の親が思うであろう、当たり前の色を帯びた瞳を、カザトは真っ直ぐに見返した。
「その人たちは、俺にとってもう一つの"家族"なんだ。だから、その隣にならんで恥ずかしくない"英雄"にならなくちゃいけないんだ」
両親はただ、カザトの瞳を見つめていた。
その日の夜が、更けていく。
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