第2話 攻守交代

 ホーホゼ夜戦はモルト軍の息を僅かに吹き返す結果となった。

 夜戦の立役者となったグレーデン師団の活躍は止まらなかった。12月上旬には西大陸南部に上陸したウィレ・ティルヴィア陸軍を寄せ集めの各師団と連携し、二度に渡って撃退。戦線を同月中旬までに膠着状態へと持ち込んでみせた。


 この善戦・敢闘に喜んだモルト軍首席元帥のベス・フォン・ベーリッヒはグレーデン大将率いる師団を軍団へと昇格させた。鉄狼グレーデン軍団と名を変えたモルト正規軍最後の精兵部隊は、南部への強行突破を画策するのだった。

 しかし、モルト軍の内部では崩壊の兆しが起きていた。政治的・軍事的内紛が激化していたためである。


 大陸歴2718年12月14日モルト西大陸方面装甲軍団「鉄狼」軍団司令部。


「500カンメル後退せよだと! シュレーダー、貴様何を考えている!」

『これは国家元首の御意志である。違背は許さん』

「またそれか! ウィレ軍を海へ叩き返し、今の戦線さえ守り抜けば、我が軍はまだ戦える。西大陸の工業力さえ押さえておけば、春には反撃が叶う! 軍を立て直せる時は今しかないのだぞ!」

『我がモルト・アースヴィッツ国の戦略は西大陸深くに敵軍を誘い込み、戦線が伸びきったところを撃滅するというものだ! 貴様の独断で戦略変更など許されん!』


 司令部ではグレーデンとモルト軍参謀総長・国家元首親衛隊長官シュレーダーが通信画面を介して睨みあっている。この年の夏以来、参謀本部という組織が一変し、作戦に統一性を欠いたこともモルト軍の苦境の原因であった。その苦境を脱そうとしている中で、軍上層部が下した命令は「後退」というものであり、全線の将兵にとって理解に苦しむ命令だった。


 グレーデンは一息入れ、幾分か調子を落とした声音で参謀総長を糾問した。


「本国からは大反撃を命じる命令書が届いている。それも今朝までな。命令を真逆の物とする正当な理由を伺いたい」

『作戦は常に変わる。戦況が流動的であることを貴官が解さぬわけがあるまい』

「そのとおりだ。よって今、モルト軍は一時的ではあるが優位に立っている。この優位性を手放すなど正気の沙汰ではない」


 グレーデンの言葉に、シュレーダーは眦を吊り上げた。


『貴官は、国家元首たるブロンヴィッツ閣下を愚弄する気か!』


 またこれだ、とグレーデンは息をついた。シュレーダーは自分への非難を、ブロンヴィッツへのものにすり替えて相手を非難する。ただ一人の指導者によって率いられているモルト軍人の弱点を狡猾に突いてくるのだ。


『国家元首への忠誠が疑わしい指揮官は反逆罪に問う。それが開戦以来の軍法である。貴官がこれ以上、命令に服さずに強情を張り続けるならば、参謀本部は軍団への補給、支援を打ち切ってもよいのだぞ』

「卑怯者め」

『私は偉大なるモルトの指導者ブロンヴィッツ閣下の忠実なる臣である。そのことを忘れるな。グレーデン』


 ここまでだ。議論は極まった。

 グレーデンは歯噛みを頬の内に隠し、頷いた。


「……よかろう。モルトに忠実なる軍人のひとりとして、貴官の命に従う。だが、後退の時機は見定めさせてもらう。一斉に軍を退いて、逆襲を喰らうノストハウザンの愚だけは犯したくないのでな」

『よかろう』


 勝ち誇ったシュレーダーの顔が通信画面から消えると、グレーデンは力尽きたように背後の椅子にもたれ込んだ。握りしめた両こぶしは小刻みに震えている。


「――閣下」


 背後の暗がりから僅かに進み出た人影に、グレーデンは目をやった。


「……ケッヘル少佐か」

「だいぶ、お疲れですな。茶を淹れさせましょう」


 グレーデンは軍帽を取って頷いた。その若々しい灰色髪には、白いものがいくつも混じっていた。


「後ろが味方かどうか判らん、というのはしんどいものだな」

「――後退なさるのですか?」

「燃料と弾薬は尽きかけている。そうではないか?」

「もって、1週間ほど」

「決まりだな。後退する」


 ケッヘルは無言だった。グレーデンの両手の震えがより強くなっていた。


「少佐、忘れるな。この瞬間に我々は勝利を手放すのだ」

「――閣下」

「反攻に出られんのだ!!」


 グレーデンのほとんど絶叫に近い怒声が室内に木霊した。ケッヘルは目元を険しくし、ただ踵を合わせている。


「けして、けして忘れるな少佐。この敗北は敵によるものではないぞ」

「……」

「勝利という名の宝玉を砂漠の中から掘り出したというのに、我らの手でそれを埋め戻さなくてはならんのだ!」


 発作のような怒りは叫びと共に、瞬く間に収まっていく。少しぐったりした様子でグレーデンは椅子にもたれると、ケッヘルへと振り向いた。


「少佐。貴官は、私よりも優れた状況把握能力、そして鋭敏な頭脳を持っている。その貴官に問いたい」


 グレーデンは膝の上で手を組み、項垂れるように顔を伏せた。


「私は間違っているのだろうか」

「軍は、規律によってのみ立つものです」


 自嘲するように上官は笑った。そして、その副官であるケッヘルは傍に立った従卒の手から、黒茶の入ったカップを受け取り、彼へと差し出した。


「それでも……閣下の判断に間違いはなかったと、考えております」

「……すまんな少佐」


 グレーデンはカップの中身を啜った。想像していたよりも、苦みが強かった。


 この日の夜、モルト軍は西大陸南部から後退を開始した。そして西大陸中央部、きっかり南北の中間地点に戦線を引き直し、西大陸戦線は再び振り出しに戻ったのであった。

 一方で、戦線を築き上げるゆとりを取り戻したウィレ・ティルヴィア軍は、東大陸に駐屯する部隊の増派を決定。西大陸攻略の総司令官は、ベルクトハーツ陥落の表向きの立役者となったベルツ・オルソン大将が任じられ、ウィレ、モルト軍は西大陸中部で最後の攻防戦へともつれ込む。


 そしてこれが、ウィレ・ティルヴィア地上戦最後の幕開けとなる。




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