第22話 冬空の家族

 シレン・ラシンは外へと出た。

 既に夜が訪れ、空には星が出ていた。蒼い月が北方州特有の山々の間から顔を出し、星雲を従えるようにして浮かんでいる。夜空だけでなく、そこにあり続ける赤い星はいつまで光を放ち続けるだろう。


「あの―」


 その背中から女の声がした。彼はひとりではなかった。


「シレンさん、その、本当に困ります」

「何故です。貴女は足をひどく打撲している」


 砲撃の着弾が至近であったにも関わらず、オルク・ラシンとシェラーシカは共に軽傷で済んだ。だが、彼女の方は足を負傷しすぐに立ち上がって歩くことがままならない。第一軍に帰らなければならなかったが、単身でやってきたために介添えもいない。

 結果、こうなった。モルト軍少佐が、ウィレ・ティルヴィア軍中佐をおぶって歩くと言う、なんとも珍妙な光景なのだが、少女を背負う長身のモルト軍将校の姿はやけに絵になっていた。


「では―」


 その背後から声がかかった。頭に包帯を巻いたオルク・ラシンが、ライヴェと共に見送りに出ていた。


「頼むぞシレン、無事に送り届けてくれ」

「ま、お前なら大丈夫だろうけどな」


 ライヴェがその背後からひょっこりと顔を出した。


「次兄上、しかし私では―」


 シレンも顔には出さないものの、いくらか気恥ずかしいようでライヴェに対して抗弁を試みる。しかし、物に長けた次兄はぴしゃりと封じた。


「任務だ、少佐。大佐あにうえの言う通り、責任をもって送り届けて来い」

「はあ―」


 常日頃から軍人としての規範にやかましいシレン・ラシンからすれば、こう言われてしまうと弱い。そういうことを二人の兄は知った上で口実に使っているのだろう。


「それにだ。シレン、お前昔言ったよな」

「何をです」

「背中に負うたその人にだ。なんだったかなぁ」わざとらしく芝居がかった仕草で顎を撫でるライヴェにすかさずオルクが割って入った。

「命果て尽きるその時まで貴女を守り参らせ―」

「あああ兄上!?」


 オルクの口を無理やりにでも塞ぐべきか。いや、それをしてしまえば背負った女性を振り落とすことになる。などと、煩悶しながら耳元まで真っ赤になったシレンの背中にすとんと何かが当たった。


「……」


 シェラーシカの額が当たっている。恥ずかしいのか、額を押し付けている。熱が分厚い軍服の上衣越しでも伝わってきて、シレンはまた唇を引き結んで赤くなった。


「……我らは―」


 オルクは表情をふっと緩めて空を仰いだ。言葉を継いだのはライヴェだった。


「本当であれば、こうあるはずだった。でもそうならなかった。お互いにやるべきことがあったし、それを放りだせるほど皆器用じゃなかった。だからお前は、その女性と結ばれることを諦めざるを得なかった」

「ライヴェ、さん……」

「中佐、いや、シェラーシカ嬢。誓っていい。そいつは、お前を捨てたんじゃない。そうせざるを得なかったんだ」

「兄上、私は!」

「黙ってろシレン。これは俺なりの責任の取り方でもあんだよ」


 ライヴェの表情はいつになく真剣だった。軽薄で、一族の使命より毎日の饗宴と享楽を重んじていた次兄とは思えないほどに。だが、シレンはそんなライヴェが一度だけ真剣かつ必死な表情を浮かべていた刹那を思い出していた。


―このままウィレと戦をすれば、必ずモルトは滅びます。


 ブロンヴィッツに対して、ウィレとの戦争を思いとどまるようにオルクと共に説得に赴いた時だ。ブロンヴィッツに睨まれ、ふたりの兄の背後に控えていたシレンはその威に伏すことしか出来なかった。オルクもライヴェも声と意思の限りに訴えたが、ブロンヴィッツはそれに対して沈黙で答えた。

 その翌朝、国家元首の懐刀であるシュレーダーが糾問使に訪れ、オルクとライヴェのラシン家相続権の剥奪を告げた。


「あの婚約破棄は、貴女には最大の裏切りに見えたかもしれない。だが、そいつはそれを選ぶしかなかった。それが―」

「次兄上、もう、もういい……!!」

「―貴女と、ラシン家を守る唯一の術だったからだ。俺より分厚い背中でも守れないものがあった。俺より逞しい両腕を持ってしても打ち破れないものがあった」


 取り潰しを免れるためには相続権の継承が必要だ。廃嫡された二人の兄に代わって立つのはシレンしかいない。そのシレンが、ブロンヴィッツの意に背けばラシン家は滅亡する。開戦直前までモルトに留まり、和平に尽力したシェラーシカは開戦の生贄として害される可能性もあった。


 だから、シレン・ヴァンデ・ラシンは誰よりも軍人らしい選択をとった。


「ふたりとも、許してほしい」


 オルクは静かに頭を下げた。


「私が至らぬ兄であったがために、シレンにも貴女にも茨の道を歩ませてしまった」

「俺だってそうだ。俺は宴会好きだからな。必要以上にウィレの連中と仲良くし過ぎちまった。しっかりした男に見せるには、ちっと遊び過ぎたな」

「いえ、いえ、そんな事はありません。兄上……」


 シレンは両方の目を赤くして、唇を噛みしめた。


「私は、兄上の弟として生まれてきたことを無上の誇りに思っています」


 オルクとライヴェはやや目を見開き、しばらく黙り込んだ後―。


「そうか……そうか―」


 ふたりしてそう呟いたまま黙り込んだ。静けさが戻ると同時に、シレンの背後で嗚咽が漏れた。


「全部、ぜんぶ知ってました」

「シェラーシカ殿……」

「シレンさん、優しいですから……最後の最後まで悩んで、あの日、ああするしかなかったって……」


 その言葉を聴いたシレンの手に力がこもった。シレンの首に回されたシェラーシカの腕も、強く強く留まった。


「ウィレから独りぼっちでやってくる私のために、好きな花を植えた植物園をお屋敷に造ったり……覚える必要がないからって、学ぼうとしなかったシュトラウス語を、一生懸命勉強したり……。花や動物のこと、いっぱいお話しして……シレンさん、すごく優しいから―」

「ああ、そうだな」


 シェラーシカの言葉にオルクは一言呟き、ライヴェも頷いた。


「でも安心した」

「長兄上……」

「我らはまだ、家族だったのだな」


 シレンの背に感じた熱は、いつしか涙の熱さとなっていた。シレンは夜空を見上げた。湛えきれなくなった涙が一筋、頬から顎を伝って落ちた。


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