第9話 少女と青年

 司令室から飛び出し、シェラーシカは人気のない倉庫の陰へ逃げ込んだ。

 喘ぐように息をして、両手を壁について額を擦りつけた。瘧にかかったかのように全身の震えは止まらなかった。


 悔しい。

 辛い。

 悲しい。

 苦しい。


「うっ、あああぁ!!」


 がつん、と額を壁にぶつけた。

 痛みと気の遠くなるような衝撃が頭蓋を襲う。

 いっそ気絶した方が楽だ。頭をぶつけても震えはなくならない。

 悔しさも、辛さも、悲しみも、苦しみも、全て飛んでいかない。


「ぐっ、ううう……!!」


 がん、がん、と頭を壁にぶつける。

 このまま壁に頭を打ち付けて死んでしまいたいと思った。


「う、ああ―」


 もう何もかもがどうでもよくなっていく。

 壁を見る。全力で頭を打ち付ければ、屈辱から逃げられるかもしれない。

 首を引いた。目を閉じて、後は壁へ―。


「駄目だよ、そんなこと」


 肩を引かれて、後ろへ尻餅をついた。抱き留められ、振り向いた先には。


「エドラント将軍に、怒られるだろう?」


 一対の紫水晶の瞳が、シェラーシカを覗き込んでいた。


「アクスマン、さん……?」

「うん、アクスマンさんだよ」


 硝子球のようだったシェラーシカの目に、みるみるうちに涙が貯まっていく。


「辛いことがあったんだね」


 抱きしめられたことで、何かが音を立てて決壊した。

 シェラーシカは声を放って泣いた。


 アクスマンの胸元に顔を埋めてどれほど時間が経っただろう。涙でぐしゃぐしゃになった顔を手巾で拭かれながら、シェラーシカはしゃくりあげ、まだ泣いていた。


「ああもう、どんなに拭いてもこれじゃキリがないよ」

「う、ひっく、す、すみませ……っ」

「それにしても、がんがん音がするからなんだろうと思って来てみたら、シェラーシカが倉庫相手に猪みたいに突っ込んでるからびっくりしたよ」


 シェラーシカは耳まで真っ赤になった。


「何かあったのかい?」

「……、それ、は……」

「言えないこと、なんだね?」


 シェラーシカは躊躇いつつもこくりと頷いた。


「僕にもじきに、わかることかな?」

「それは、たぶん……ええ、そうだと、思います……」


 ベルツから受けた屈辱が蘇ってくる。明日から自分は彼の下で働かなければならないのだ。止まりかけていた涙が再びぽろぽろと溢れ出してくる。


「そんなに辛いことだったんだね」


 アクスマンはシェラーシカの顔を胸元に押し付けた。


「いいよ。思いっきり泣いても」

「で、でも、いいんです」

「少しでもすっきりしたらいいよ」

「い、いや、です」

「どうして?」

「今の自分はシェラーシカですから……泣くことなんて許されていないんです」


 シェラーシカはアクスマンの胸元に手を当てて、力を込めて押し返そうとした。彼自身が驚くほど強い力だった。それを上回るほど強い力でアクスマンはシェラーシカを抱きしめた。


「君は君だよ」

「あ、アクスマンさん―」

「忘れないで、シェラーシカ。君はひとりじゃない。君にはたくさんの味方がいる。僕もそのひとりだよ」


 シェラーシカは黙り込んだ。手の力が抜け、顔をアクスマンの服に押し当てた。

 ぐしゅ、ぐじゅと鼻を啜りながら、誰にも見えない陰でいつまでも少女は泣き続けた。

 青年は父親のそれに似た表情で、ただ少女の背中を黙って撫で続けた。


 やがてふと、空を見上げたアクスマンは胸の中で呟いた。


「どうしよう、一張羅なんだけどな……」


 なぜか彼は、花婿のそれが着るような三つ揃えの背広を着ていたのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る