第4話 ふたり、夢と現


 大雨が降る真っ暗闇で、一人立ち尽くしている。

 その先に、髪の毛をぐしゃぐしゃに濡らした少女が立ち尽くしていた。

 亜麻色の髪をした少女は声をあげて泣いていた。


―すまない。私たちには、もうこれしかないのです。


「そんなことない!」

「わたし、わたし、まだ頑張れます!」

「シレンさんのために、ウィレとモルトのために、まだ頑張るから!」


―泣かないでください。もう、いいのです。


「よくない! よくなんか! わたし、あなたとお別れなんてしたくない! いや、いやです!」


―泣かないで。どうか……頼む。


「言ってくれたじゃないですか! 私と出会うために、生まれてきたんだって!」

「あれは嘘だったんですか!?」


―嘘などではない。


「いや、いやです。なんで、なんでこんなことに」


―ああ。なんでこんなことに。


「こんなことなら」


―そう、こんなことなら。


「あなたと出会いたくなんてなかった」


―あなたを愛するのではなかった。





 跳ね起きる。


 そこが寝台だと気付くまでに数秒をかけ、自分が荒い息をしていると気付いた。全身が汗でぐっしょりと濡れている。頬から首筋までがべとべとになっていて、起き上がると身体が重かった。

 汗を吸ってべたついたシャツは、呼吸を許さないと言わんばかりに肌に吸い付いてくる。たまらず脱ぎ捨てて放り投げた。鋼のように鍛え上げられた上半身が小窓から射す月明かりに照らされて浮かび上がった。


 シレン・ラシンは額に手を当て、自分が夢から現へ戻ったことを確かめた。


「―夢、か」


 寝台から飛び降りて、洗面室へと向かう。頭が痛い。洗面台に手をついて、蛇口をひねってありったけの水を噴き出させる。


 頭を突っ込んだ。水の冷たい感触に息が詰まった。


 それでも冷水に頭を突っ込んでいる方が楽だった。夢は常に自分を責め立てる。次期当主としての至らなさ、将となるべき者としての未熟さ、父に及ばぬ苦悩、全てが夢となってシレン・ラシンに襲い掛かるのだ。


「くそ……なんと女々しい」


 鏡を見上げる。目が真っ赤に腫れていた。

 自分が泣いていたと、すぐに気付かされた。


「なぜこんなものを見せる!!」


 鏡へ反射的に拳を振り上げ、叩き込んだ。


「そうするしかなかったのだ!」


 甲高い音を立てて鏡が粉々に砕けた。


「そうするしか、なかったんだ……」


 切った手の甲から血がにじみ出してくる。それが排水溝に吸われていくのを呆然と見つめているうち、どこかから、航空機の轟音のような音が響いた。


「……ジャンツェンの、音……」









 寝台から跳ね起きた。


「あ、あ、ああ」


 荒い息を吐きながら、右手で顔を覆う。残った左手を彷徨わせ、部屋の照明のリモコンを引き寄せて明かりをつけた。


「夢……夢……」


 寝台から起き上がったのは女だった。這い伝うようにして寝台から起き出すと、洗面室へとよろけながら向かう。洗面台に手をつくなり、胃の中の少ない中身を全て吐き出した。嗚咽にも似たえずきが止まった後、それを水で洗い流すために蛇口をひねる。


 足が震えて、立っていられない。洗面台の壁に後ずさり、背をもたれてうずくまった。


「どうして……」


 膝を抱えた。震えがくる。止まらない。


「今更、どうして、こんなものを見せるんですか……!」


 顔に押し付けた膝に、涙が後から後から吸い込まれていく。


「……会いたい、会いたいです。もう一度でいい……会って、話したいです」


 周りには誰もいない。声をあげて泣きたい。泣いてしまおうと、思った刹那。

 無情な通信ブザーの音が彼女を我に返した。


「―私です」

「中佐、アーレルスマイヤー将軍がお呼びです」

「わかりました、すぐに伺います」


 洗面室から飛び出した少女はシャツの上に白い金刺繍の軍服を羽織りかけると、手早く釦を留めて、細心の注意を払って胸にかかる金の飾緒を整えた。顔を手巾で拭い、ぱん、と顔を叩いて気を入れ直す。


 そうだ、そんなことを想っている場合ではない。


「使命を、使命を果たさないと―」


 あの人に笑われてしまう。弱い女だと思われたくない。


 少女だった自分はどこかへ置いてきた。もう後戻りはできない。

 今の自分は、シェラーシカ・レーテなのだから。


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