第34話 雨の中の決闘-前編-
ゲラルツと、迎え撃つカザトを雨は容赦なく打つ。視界をぼやかせ、拳を撃ち、泥の上で闘う二人の少年は互いに両手を組み、押し合っている。雄牛のように頭を下げ、向かい合ったまま力比べをし、動かない。
「ぐ、う……!」
「こ、んの!」
ずぶずぶと踵が泥にめり込んでいく。雨で両手が滑る。だが、手を離せば負けることがわかっている以上、離すわけにはいかなかった。そのうち、ゲラルツはカザトの手首を捻って押し下げにかかった。
「づ、あっ!?」
「っ、らぁ!」
痛みに気を取られた瞬間、ゲラルツの頭突きがカザトの眉間を打っ叩いた。後ろへとよろけ、膝を折る。そこに膝が飛んだ。膝蹴りはカザトの鳩尾に突き刺さり、上体が浮き上がった。
「っ、が!」
「オラ、どうしたどうした!」
うずくまりかけたカザトの顎、腕、膝に容赦なくゲラルツの拳、蹴りが入る。喧嘩慣れなどしていないカザトにとっては酷烈すぎる暴力の乱打だ。鞭のようにしなる手足はカザトが庇いたがる部分を容赦なく打撃する。
痛みに心が折れそうになる。だがカザトも退かない。ゲラルツの腕が顔面を捉えようと伸びた時、前へ折れる身体をそのまま進め、胸元へと飛び込んだ。
「っ、らぁぁ!!」
カザトは左腕を体ごとゲラルツの腹へ叩き込んだ。体重の乗った一撃に、ゲラルツは腰を折って怯んだ。そこに、カザトは伸び上がるようにしてゲラルツの顎へと頭突きを食らわせる。
ゴッ、と鈍い音がしてカザトの瞼の裏に火花が散った。どんなに頭蓋骨が固いとはいえ、下顎骨に頭をぶつけたのだ。互いによろけながら再び離れる。
「そんなもんか、ウラァ!!」
ゲラルツが口の端から血を垂らしながら歩いて来る。
「まだまだぁ!」
カザトも鼻血を出しながら、両腕を前へと押し出し、軍で教わったばかりの近接格闘術の構えを取って立ち向かう。拳と拳が激突し、鞭のように乾いた音を立てた。
「がっ!?」
カザトが呻いた。指か、それとも手首か、ひび割れるような痛みが走る。
ゲラルツは腕を引き、すでにもう一撃の準備を終えている。
バン、と鼻先に拳が入った。カザトの身体が、視界がぐらりと揺れていく。雨粒のしたたる空を睨み、そのまま両腕を広げて背中から地面にひっくりかえった。
「やっぱりテメェは、弱ぇ」
両手足を広げ、仰向けに伸びきったカザトを見て、ゲラルツは踵を返した。戦いは、終わった。そう判断した。その背後でぐしゃりと泥水の混じった音がした。頭からつま先まで泥まみれになったカザトがゆらゆらと立ち上がっている。
「どうした、ゲラルツ」
べっ、と口に溜まった血を吐き捨ててカザトはゲラルツを睨みつけた。内出血のために、左目元と頬が腫れている。
「倒したくらいで勝ったつもりか。何度だって起き上がってやる」
「死にてぇのかテメェ!」
「お前に勝つ。そう言ったはずだ。言った以上は実行する。それすらできなくて英雄になんか慣れっこないだろ」
拳を握り直すカザトに対して、ゲラルツは土を踏みにじった。無傷に近いゲラルツに対して、カザトはどこから見てもぼろぼろだ。顔面はぼこぼこで、鼻血が垂れ、無茶な打ち方をした左拳は赤く腫れている。足下もおぼつかない。だが、それでも立っている。
「絶対にお前を辞めさせない」
カザトは呟くようにして、構え直す。
「それと、今までずっと一匹狼を気取っていたツケ、ここで払ってもらう」
「上等だ。どんなにやったって、テメェはオレに勝てねえってことを教えてやる!」
ゲラルツが駆け出した。カザトはその場から動かずに迎え撃つ。
「うらぁ!!」
わずか数秒で距離は詰められ、ゲラルツの拳は息もつかせぬ勢いでカザトを打った。立てた腕、頭を庇う肘を縫うようにして拳がカザトの身体に叩き込まれていく。それでもカザトは音をあげない。降参しない。
ゲラルツは躊躇い始めた。こんなことは今までになかった。自分の拳の威力が落ちたのか。そんなはずはない。やり方は心得ている。それが鈍るわけがないのだ。昨晩も大の男を数人相手に、容易く叩きのめすことが出来た。
「オレは、弱くなってなんか、ねぇ!」
ゲラルツの拳が、カザトの顎に入った。打たれ、膝を折って地面に足をついた少年は、すぐに立ち上がって向かってくる。
「オレは、間違って、ねぇ!」
蹴りが横腹に入る。今度こそ沈めたと、ゲラルツは肩で息をして立ち止まる。カザトはごろごろと丸太のように転がって、泥まみれになり、それでも手をついて這いつくばり、立ち上がろうとしている。
「テ、メェ……!!」
「どう、し、たゲラルツ。俺、は、まだ、立て―」
ゲラルツは、生まれてはじめて、喧嘩相手に恐怖を覚えた。
それでもゲラルツは勝つしかない。命より大事なものを取り返すためには、最早カザトを―。
「打ち殺―」
「お前ら何してる!!」
泥水に塗れた地面を蹴って、ずぶ濡れになりながらジストとファリアが駆けて来る。
「ゲラルツ、お前、何してんだよ!」
「カザトさん!?」
遅れて、リックとエリイの姿も雨の帳から浮き上がる。どこかへ走るジスト、ファリアの姿にただならぬ気配を感じたのだろう。
駆け付けた隊員たちはゲラルツとカザトを交互に見た。二人は向かい合っていて、ぼろぼろに打ちまくられて流血しているのはカザトだ。状況は明白だ。ゲラルツが、カザトを殴って叩きのめした。
事情を知らぬ者たちには、そう見えるのだ。もはや取り返しがつかない。
「ゲラルツ、お前、お前……!」
リックはきつい表情でゲラルツを睨んだ。人懐こく、ゲラルツについて回る少年が初めて見せた敵意だった。
「ゲラルツ、貴様―」
ジストが前へと歩み出した。拳は既に握られていて、目は表情がない。いや、無表情なのではない。瞳に湛えられているのは感情ではない。純真無垢な軽蔑と殺意というだけだ。
ラインアット隊という、ゲラルツにとって一掬いの居場所。それが崩落していく。
ジストの拳が振り上げられた。
もう終わりだ。
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