第35話 雨の中の決闘-後編-


 ジストとゲラルツの間に影が差した。

 影はふらふらと両手を広げ、立ちはだかった。


「待って、待ってください」


 手を広げて、カザトがそこに立っていた。


「俺が、ゲラルツに仕掛けたんです。彼は悪くない」

「お前が……?」


 ジストは眉をひそめ、半寸だけ拳を下げた。ファリアもリックも信じられない様子でカザトを見つめている。


「俺が、俺があいつが大事にしているものを取り上げて……喧嘩に勝ったら返してやるって、言ったんです」

「なんでそんな馬鹿なことをした」


 ジストの声はほとんど突き放すようで、険しかった。


「辞めようがそうでなかろうが、ゲラルツの決めたことだ。お前がちょっかいをかけることじゃないだろうが」

「隊長は、本当にそう思っているんですか?」

「何だと?」

「俺、気付いたんです。いつの間にか、ゲラルツだけをワルモノにして、ゲラルツには何をどうしたって仕方がないって。向き合わなかった」


 雨が激しさを増す。カザトの流す血はほとんど洗い流されていた。


「……やめろ、テメェ」


 ゲラルツがカザトの肩を握った。ふらついたその身体は、どこにそんな力が残っているのかと思うほど引き倒すことが出来なかった。


「ゲラルツを一人にしてきたのは俺なんです。俺だけじゃない。皆が彼を避けてワルモノにした。だからゲラルツは、ワルモノになるしかなかったと気付いたんです―」

「やめろテメェ!!」


 ゲラルツは喚き声を挙げ、カザトを仰向けに引きずり倒した。背中から地面に滑ったカザトは僅かに呻き声を挙げた。


「わかったような口利くんじゃねえよ! テメェに、オレの何がわかんだよ!!」

「ああ、わかんないよ。だから、教えてほしいって、そう言ったろ。そのためには、俺だって少しくらいは悪役っぽくならないといけないと思って―」


 カザトは泥まみれになって立ち上がった。


「だから、お前の大事なものを取ったんだ」


 カザトは構え直した。

 ゲラルツに残ってもらいたいという思いだけが彼を泥濘に立たせている。


「俺、ずっとずっとアーミーに乗って忘れてた。戦場は怖い所なんだ。一つの間違い、勘違いだけで簡単に人が死ぬんだってことを忘れてた。頑丈な装甲に守られてて、そんな大事な事さえ忘れてた」


 だけど、カザトは顔を上げた。ぼこぼこにされた情けない顔で、彼は笑った。


「ゲラルツが、助けに来てくれて本当に嬉しかったんだ。本当の本当に信じてたから」

「んだよ、ソレ―」

「今は、わかってもらえなくたっていい。それでも、俺はお前に残ってもらいたい。綺麗事かもしれないけど、ラインアット隊はここにいる皆で一つの仲間だ」


 だから。と置いて、カザトは再び拳を握った。


「ゲラルツ、お前にだけは負けられない。参ったと言わせて、ここに残ってもらう。お前がどうして隊に来たのか喋ってもらう」


 雨が、止んだ。にわか雨を呼んだ雲は去り、空に晴れ間が見えた。


「……どうしてもやるんだな」


 ゲラルツが静かに告げた。初めてカザトの目を見て向き合い、構え直した。


「ああ。行くぞ」





 カザトは注意深くゲラルツの動きを見ていた。目の周りが腫れていて、目を凝らしていることを悟られないのは都合がよかったのかもしれない。打ち身の痛みは絶え間なく脳に危険信号を送っていて、波のような熱さが全身に襲い掛かってくる。


 カザトは思う。


 腫れあがった手足では、そう長くはもたない。できるなら一発で決めるべきだ。

 だが、喧嘩慣れしていない自分にそんな芸当が叶うだろうか?

 否、やらなければならないのだ。弱気など要らない。自分がゲラルツに仕掛けたのだから。


「うらぁ!!」


 ゲラルツが叫び声をあげて突っ込んでくる。体力も、気力も、そして手数も十分にカザトを倒そうと距離を詰めてくる。ゲラルツの振り上げた拳は真っ直ぐ、視界の中央に飛んでくる。


 顔を打たれると悟った。


 蹴られた右足が痛む。

 足の痛みに逆らわず、右足を折った。身体が傾き、飛んできた拳は頭上を切った。


「―!!」

「ッ!?」


 避けた。いや、まだ早い。


 右腕を立てる。傾いたところにゲラルツの蹴りが入る。蹴り上げられた。逆らわずに立ち上がり、前へと体ごと傾いた。


「お、まえ、避け―」

「ゲラルツーーッ!!!」


 視界一杯になったゲラルツの顔目がけ、頭を振り抜いた。瞼の裏に火花が散った。


「がっ!!」


 ゲラルツが眉間を抑えている。

 後ずさっている。

 効いている。


「テメェーッ!!」

「う、あ、ああーっ!!」


 左拳の直突を避けた。痛まない右手を最小の動作で肩口から前へと押し出す。地面へ叩き落とすように突き通された拳はゲラルツの頬をパン、と叩いた。


―当たった。


「マジかよ」リックの声が後ろで聞こえた。

「ぐ、ああ、あ―」


 喘ぐように息をする。ここまで打ちまくられた肋骨が悲鳴をあげている。息が切れそうになる。整えている暇はない。一瞬でも猶予を与えればゲラルツに反撃される。喘ぎながら次々に拳を繰り出す。


 腹、顎、左頬。全て入った。


「が、はっ!?」


 ゲラルツが仰け反った。いや、すぐに立て直してくる。


 一発、二発、三発と生き残った右手を打ち込む。手首が軋む。


 手の痛みに膝を折った。ここまで続いた流れを折ってしまった。攻撃を続けられない。カザトは腕をかばうようにしてゲラルツを見て―。


 息を呑んだ。


 ゲラルツは両腕を押し出すようにして、守りの体勢に入っていた。これまで見たことがない、狂犬のような喧嘩をするゲラルツからは見たことがない防御の姿勢。その腕がわずかに開かれ、ゲラルツの瞳が見えた。


「ぐ……!?」

「終わりかよ―」


 ゲラルツは反撃の時だと気付いた。

 やらせないと繰り出したカザトの右拳は空を切った。

 懐へ飛び込んだゲラルツはカザトの襟首を左手で掴んで締めた。


「―カザトぉ!!」


 カザトは左手を握った。


「う、ああっ!!」


 ゲラルツが右手を振り上げ、握った。あの重たい一撃が来る。ばてたカザトに防ぐ術はない。勝利を確信したゲラルツの唇が歪んだ。そのまま、頬が、鼻が歪む。

 使えなくなったはずのカザトの左拳が、ゲラルツの顔面に突き刺さった。目を剥いたゲラルツの顔が遠ざかっていく。それを、カザトは襟首を掴み返して引き戻した。


「歯ぁ、食いしばれえぇ!!」


 頭突きが、返ってくるゲラルツの顔面に炸裂した。そのまま右拳を突き抜いた。

 頬にめり込むほどの一撃を受けたゲラルツが棒立ちになった。


「……――」


 そしてゲラルツの拳はカザトの額を捉えていた。


「……!!」


 カザトとゲラルツはそのまま、互いに仰向けになって泥の中へと倒れ込んだ。





「カザトさぁん!!」


 エリイが駆け寄ろうとするのを、ジストは手を出して止めた。


「何で止めるんすか! もう終わっ―」

「まだだ」


 呟くようにジストが言った。彼はずっと、ぶつかり合う二人から目を離さなかった。


「まだ終わってない」


 泥の中から、ゲラルツが立ち上がっている。そして、相対するカザトも腕をついて起き上がろうとしている。どちらかが降参しない限り、彼らの決闘は終わらない。


「とめて! これ以上やったら死んじゃいます!!」

「俺には止められん。これはアイツらの問題だ。テメェらでケリをつけるまで、俺たちが手を出すべきじゃない」


 エリイが泣きじゃくった。ファリアはきつく唇を引き結んで見守っている。


「ゲラルツぅ!!」


 リックが駆け出した。ゲラルツを背後から羽交い絞めにする勢いで飛びかかった。


「もういいじゃねぇか、もう!」

「リック、テメェ邪魔すんな―」

「もうわかったから、お前がすげぇ辛ぇのはわかったから!!」


 リックは泣いていた。涙と鼻水をぼたぼた落としながらゲラルツを離さない。


「ごめん、ごめん。ダチだって言ったのに、お前を疑ってごめん!」

「やめろ」

「俺だってなぁ、お前に出てってほしくねぇんだよ!!」


 「わかってくれよぉ」と泣きわめくリックを背負ったまま、ゲラルツはカザトを見た。もうカザトはぼろぼろだ。打ちまくられた衝撃で、その目の焦点はあっていない。脳震盪を起こしているのか、両膝が笑っている。


 今殴れば、喧嘩に勝てる。カザトまではおよそ十歩だ。


 ゲラルツが歩き出す。一歩、二歩。


 カザトは動かない。腕はだらりと体の横で垂れている。


 八歩、七歩、六歩。


 じゅくり、じゅくり、と泥を踏む音がする。


 五歩、四歩、三歩。


 地面にひとり分の足跡と、一人分を引きずった跡をつけ、ゲラルツは間合いに踏み込んだ。


 二歩。


 拳を振り上げる。


 一歩。


 ゲラルツは、拳を降ろした。


 俯き、カザトの肩に手を置いた。


「参った」


 ゲラルツは尻もちをつき、今度こそカザトは仰向けに倒れた。

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