第2話 死肉鷲の山

 同刻。


 ひたすらに歩く。暑さ臭気に目が眩み、息は切れて崩れ落ちそうになる。


 一歩踏み出すごとに足が泥の中へと埋まり、泥の中から足を引き出すのに凄まじい力を必要とする。こと、この"デイロ山地"は今まで歩いてきたどのウィレの環境よりも過酷だと断言できた。


 モルト軍第一軍第二機動師団所属、ブラッド・ヘッシュは彼の上官であるウルウェ・ウォルト・キルギバートを背負ってもう三日以上も山の中を歩き続けている。傍らにいる僚友のクロス・ラジスタは端末を手に方位を確認しながら一歩先を歩いている。誰も彼もが泥まみれだった。もはや蠅に集られても、振り払うだけの気力もない。すべて、歩くことにだけ費やしている。


「ブラッドさん……」

「……なんだ。喋ると息が切れるぞ」


 非常時においても黙ることを知らなかったブラッドの口数が減っているのは、まさに非常事態だとクロス(そして背にあって瀕死のキルギバート)は思っている。


「違います。すぐ右手に洞窟が見えますから、そこで休みましょう」


 クロスの言葉にブラッドは空を見上げて舌打ちした。


「日が登りきっちまったか。どうして"夏"ってのは暗い時間が短いんだよ」


 数十歩歩くのにたっぷり十数分を費やし、洞窟と言うよりタコツボのような斜面のくぼみにキルギバートを降ろし、ブラッドとクロスは入口近くの木陰に寄り掛かった。


 喘ぐように呼吸する。もう三日、食事らしい食事を口にしていない。雨水と葉を湿らせる露、そして―。


 クロスの足元で何かがうごめいた。ブラッドはその影に向かって反射的に飛びかかると、ナイフを突き立てた。


「ヘビ、だ」


 虫や蛇が彼らの食事となっていた。


「よく、気付きましたね」

「お前が食えると言ってくれなかったら、見逃してたぜ」


 クロスは首を失ってのたうち回る蛇の胴体を見つつため息を吐いた。いつだったか、"ウィレ好き"が講じて、うっかり「ヘビって食べられるんですよ。ウィレの特殊部隊は現地調達の際に最優先で食料にしているそうです」などと言ったものだから、ブラッドは食料確保において木の実や植物を差し置いて蛇ばかりを取るようになってしまった。


「言うんじゃなかった」

「言わなきゃ俺たちは飢え死にしてるとこだ」


 がじがじと首の切り口を噛むと、そのまま引っ張って皮を剥いでいく。これはクロスが教えたわけでなく、初めて食べた蛇の皮がとんでもなく泥臭かったためにブラッドが身に着けた知恵だった。


「ブラッドさん、いっそのこと野生に還ったらどうです」

「言っとくが俺の故郷はモルトだかんな」


 言いつつ、彼らは無意識のうちに後ろを振り向いていた。キルギバートの容態は日に日に悪化している。顔は白蝋のように血の気を失っていて、それなのに高熱がある。しばらく経つと言うのにブラッドの背中はまだ温もりを帯びていた。


 クロスが容態を看るために窪地へと降りていく。その間にブラッドは引き剥がした蛇の処理を終えて切り分けにかかっていた。その時だった。押し殺した悲鳴のような呻きが聞こえた。


「どした?」

「……まずいです、傷が……」

「だから、どうし―」


 窪地に降りたブラッドは息を飲んだ。諸肌脱ぎにしたキルギバートの上半身にある傷の周辺が、すべて青紫色に変色している。しかも周囲には小さな虫が集っていた。ウジがわいているのだ。


「くそっ!」


 慌ててクロスが払いのけると、ぼとぼとと地面へと落ちていく。それでも深い傷ともなれば、すでに何匹かが体内に食い入っている可能性はある。


「このままじゃ寄生虫にやられるか、別の感染症にかかってしまいます。なんとかしないと―」

「なんとかたって、もう医療装備は空っぽだぞ」


 クロスはキルギバートを抱え起こすと、自分の水筒に入った雨水を飲ませてやった。彼の口が僅かに動いた。呼吸は細いが、まだ飲むだけの元気はある。


「肉、食えるか?」

「大尉、大丈夫ですか?」


 地面に仰向けに横たわったキルギバートは静かに首を横に振った。それからクロスに顎で何かを促し始めた。察したクロスが端末を取り出し、彼に差し出す。数秒して、彼の伝えたいことが瞳の動きによって入力され、二人に届けられた。


―おれはいい。体力のあるやつが食べてくれ。


 二人は顔を見合わせたが、できることは限られている。仕方なく洞窟の出入り口へと戻り、二人して蛇の肉を啄むように食べ始めた。泥臭さに吐き気がしたが、戻して体力を消耗するわけにはいかない。なんとか時間をかけ、完食する頃には日が沈みきっていた。


 火も焚けない。山中という人気のない場所だ。明かりをつければ見つかってしまう。夏の夜ではあるが、濡れたまま過ごせば寒いことに変わりはない。それでもじっと耐え忍ぶより他にないのだ。


 暗い森の中で空を見上げるが、月はおろか星空さえ見えない曇天では明かりを求めることも難しそうだと、ブラッドとクロスは溜息を吐いた。


「……端末の予備電力はもって一日。それで尽きそうです」


 このまま曇り空が続けば、恒星の位置も星もわかったもんじゃない。間違いなく山中で彷徨う羽目になるだろう。


「大尉との対話も難しくなります」

「やっぱ厳しいよな。そりゃ」


 ブラッドは木にもたれかかった。水、食料、医薬品、弾薬、全て尽きている。


「ブラッドさん―」


 ブラッドは声へと振り向いた。その先にいる黒髪の僚友は思いつめた表情をしている。


「ウィレ軍の捜索部隊に見つかったら、降伏しましょう」

「クロス、お前……」

「二日三日で山越えは、たぶんもう不可能です。それに大尉の体力がもちません」


 諦めるのかよ、とブラッドは反論しようとし、ややあって口を閉じた。クロスがそう考える理由を知った上でならば反論のしようがなかった。


「な、クロス」

「なんです?」

「こう考えるとさ、俺ら、随分と大尉に守ってもらってたんだなって」


 クロスはその言葉を聴いて、苦笑いを浮かべようとして失敗した。俯いて膝を抱えて肩を震わせるしかない。


「私たちじゃ、大尉を守れないんですかね」

「言うんじゃねえ、クロス」


 無力感に苛まれるのはクロスだけではない。ブラッドも惨めな気持ちになっていた。キルギバートの背中を僚友として守ってきた自負さえ、それがグラスレーヴェンに搭乗していたからであり、自分自身の力ではないのだと突き付けられている気分になった。


「あんな大尉、もう見てらんないんですよ。傷口が腐って痛そうにしているのに、何も喋れなくて―」

「クロス―」


 ブラッドはクロスの肩に手を置き、しばらく立ち尽くした。


「そうだな、コーサンするしかなさそうだ」彼が絞り出した言葉は同意だった。

「ブラッドさん―」

「正直悔しいけど仕方ねぇだろ? ダチを苦しめてまで逃げ回ってもよ」


 重苦しい沈黙の中でクロスは「そうですね」と呟くように言った。


「明日からは、斜面の下じゃなくて沢伝いを歩いていきましょう」


 沢を下流に歩いて行けばいずれは誰かに見つかる。それがウィレ軍の捜索部隊なら手を挙げて降伏する。そうすれば自分たちの戦いは終わる。クロスとブラッドは頷き、知らぬままにうとうとと眠るキルギバートの方を見た。


「大尉、何て思うかな」

「……わかってくれるって。そうするしかねえんだから」


 結局、自分たちにできることはこれくらいなんだと納得させるしかなかった。


「もうこの話は終わりだ。明日も早いし、もう寝るぞ。また大尉を背負わなきゃな」


 ブラッドの言葉に、クロスは頷いた。幾らか気が楽になったような気がして、それがまた後ろめたかった。今頃、師団の仲間たちは何をしているのだろうと、そんなことが気にかかった。


「さあ、寝る―」


 その時だった。すぐ眼下で何発かの銃声が轟いた。


「!?」


 クロスとブラッドは身を屈めた。それが自分たちに向けられた銃声ではないことを察したのは、やはり冷静さにおいて勝るクロスだった。彼は地面を張ったまま斜面の下へと顔を出した。


「……ブラッドさん、暗視装置……!」


 ブラッドから手渡された暗視装置を額にかけて、目元へ下げる。視界が開け、真昼のように明るくなった斜面を見渡す。沢伝いに何人かの人間が移動しているのが目に入った。二人ほどが先を走り、それを何人かが追いかけている。


 クロスは息を殺した。二人はモルト兵で、後ろから追っているのは恐らくモルト軍の人間ではない。シュトラウス語のやり取りが聞こえていた。やがて二人は追いつかれた。


「待ってくれ、降参、降参する……!」


 谷間にモルト兵の言葉が吹き抜ける。手傷を負った若い男だった。傍らにいるのは部下だろうか、それとも同僚だろうか。同じように手傷を負い、足もひどく傷めているようだった。


「殺さないで……!」


 銃声が轟き、クロスは目を伏せた。川の水が黒く染まっていく。


「なんだクロス、何があったんだよ……!」


 後ろでささやくブラッドに、出てこないよう合図を送りつつ、クロスは耳を澄ませた。


<認識票は忘れずに奪い取れ。それがないとカネにならん>


 シュトラウス語だ。


「認識票、カネ、何の事だ……?」

<装備はどうする?>

<奪っておけ。軍のえらいさんには黙っておけよ>

<モルト軍のブラスターだ。帰ったら高く売り飛ばせる>


 モルト兵ふたりにとどめを刺した男たちはナイフを使って軍服から装備を全て剥ぎ取っていく。あとには下着姿の死体だけが沢に残された。


<しかし良い仕事が入ったよな。落ち武者狩るだけで稼ぎになるなんてよ>

<殺しても一人前、生け捕りで二倍だもんな>


 クロスは口に手を当てた。気付いてしまった。彼らはウィレ軍の兵士たちではない。恐らく、もっと恐ろしい手合いだ。

 彼らは賞金稼ぎだ。ウィレ軍か政府か、どこかから仕事を受けて山狩りを行っているのだ。自分たちの生死など関係なく、ただ手に落ちれば金に換えてしまう。


 かつてはモルト軍の戦線だった山地は、今や賞金稼ぎが跳梁跋扈する魔境と化してしまった。自分たちがつい先週まで親しんだ地図はもはや何の意味もなさない。全ては塗り替えられたのだ。

 ややあって、クロスは僚友に向き直った。大方の事情を察したブラッドは口元を引き締めて押し黙っている。クロスは首を横に振り、口を開いて告げた。


「降参は、できそうにありません」


 「だろうな」と返すブラッドも何かを覚悟している様子だった。

 二人は肚を決めて頷いた。


 何としても、生きて還るのだ。

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