第41話 彼が見た光


 真っ暗闇の中を落ちていく。


―お……、生き……んだろ、な。なあ……死ぬん……ねえぞ!


 頭を下に、ゆっくりと回りながら暗闇の底へと落ちていく。手足がじんじんと痺れている。寒い。


―……が、血が止まらな……。止……造血、間に合わな……。


 感覚が消えていく。輪郭がぼやけ、つなぎとめていたものが零れ落ちていく。


―おい、なあ! おい……!


 楽になる。


―ブラッ……大尉の心臓……止まっ……。


 うるさい、そう口にしようと試みるが顎が動かない。唇はぱくぱくと動くだけだ。いや、本当に動いているのかさえわからない。この暗闇では自分の身体がどこにあって、どう動いているのかさえわからない。


 深い水の、さらに底へと吸い込まれていく。心は波立たず、動きもしない。


 疲れた。そう、俺はもう疲れたんだ。


 うっすらと目を開ける。やはり暗闇だ。見えるものなど何もない。


 自分は何をしていたんだったか。なんで、底へと落ちているのか。


 目が慣れてくる。


 暗闇とも灰色ともつかない視界の中で、自分の手が見えた。


 指先から、ぼろぼろと崩れていく。灰のように指先が欠けてなくなっている。崩れた指は足元へと昇ってゆき、体から離れていく。


 あれだけうるさかった声が聴こえない。静かだ。


 下降が止まる。終点についたのかと、頭を下にしたまま周囲を見回す。真っ暗だ。途端、心細くなってきた。喘ぐように口を開けるが、何も吸えず、何も吐けない。

それなのに、なんで苦しくないのかがわからない。


 自分が何でここにいるんだろう。


『……ルウェ、ウルウェ』


 ひどく懐かしい声が聴こえる。声の主は……だ。おかしい、名前が出てこない。


『ごらん、ウルウェ。あれがお前の故郷なんだよ』


 そうだ。俺の名前は、ウルウェだ。父に名付けられた名前。男にも関わらず、月の守護女神の名前をつけられたんだった。


 ……だ。会いたかった。……。おかしい、何故……の名前が出てこないのか。


『ウルウェ』


 声が目の前で輪郭を帯びる。自分の眼が丸く、大きく見開かれていくのがはっきりとわかった。


 見えた。自分と同じようにひどく疲れた表情をした、銀の髪と青い瞳の男が目の前に立っている。


『ウルウェ、見えるかい』


 鈴を転がすような笑い声が後ろから響き、俺は振り向こうと首をひねった。

 しかし振り向けなかった。後ろにあるのは自分にとって一番幸福だった時代のはずなのに、もうあの頃には戻れないのだと感じて、それが悲しく悔しくて、目から涙が溢れてくる。


『いつかぼく、あのほしにいく!』

『ああ、そうだな。お前が帰れるように―』


 ああ、そうだ。思い出した。声が出る限りに叫ぼうと息を吸い込む。吐き出したものは声にならず、真空のように喉から絞り出された何かを吸い取っていく。


は頑張るから』


―父さん!!


 叫んでいるのに声が出ない。


 手を伸ばす。手首から先のない腕を伸ばして、父の姿に触れようとした。あっという間に背中は遠ざかっていく。


―父さ……。


 意識が遠のく。やはり無理だった。


 でも、もういいんだ。じきにまた会える。


 そう思って目を閉じた。


『ウルウェ!!』


 後ろ頭を蹴っ飛ばされたような甲高い声に、再び目を見開く。


 逆さづりになった身体の先で、再び言葉が光となり、輪郭を帯びて立ち塞がる。


「母さん……!」

『ウルウェ、だめでしょ……! あなたまで、こんなとこに来ちゃ。お兄ちゃんのアドルフだって、まだこっちに来てないのに!』


 両手を伸ばす。もう肘から先がない。


『バカ、こんなに早く来ることないでしょう!』


 口元に手を当ててなく母親に、首を横に振って応えた。


「母さん、もういいよ。疲れた。俺はもう十分頑張ったよ」


 唇を噛んでいるうちに、涙が溢れ出してきた。もうすっかり大人になったはずなのに、みっともなくすすり泣く。


「そっちにいかせてよ……抱きしめてよ」

『ごめんねウルウェ。まだ母さんはあなたを抱きしめてあげられないの』


 なんで、と声に出そうとした瞬間。自分を囲い込んでいた暗さが音を立てて、破られていく。誰か― 二人分 ―の叫び声が聴こえた。


『ウルウェ、行きなさい』


 母の手が肘に触れる。温かかった。


 歌が聞こえる。


『ほら、あなたを待ってる人がいるわ』


 射し込む光は七色にたゆたいながら、闇の中を極光オーロラのように照らしていく。



『あなたの手、あなたの背中にはたくさんの命。まだやることがたくさん残ってる』


 光の形を借りて、駆けた手がもとに戻っていく。


『だってあなたはそう。ウルウェ・ウォルト・キルギバート。私たちの自慢の子どもでしょう』

「母さん、俺―」


 もっと話したい事があったんだ。でももう話せなかったから、まだ―。


 そこまで言った時、母の背後にもう一人の人影が見えた。父だった。


『わかってる。だからお母さんとお父さんは待ってるから、ずっと待ってるから』

「母さん!!」


 最後に腕を伸ばした。父と母も手を伸ばす。触れようと必死で手を伸ばした。


 指と指が触れた。温かさに、声を上げて泣いた。


 母親は目を細め、頷いた。


『行ってらっしゃいウルウェ。頑張るのよ』


 光に向かって、赤ん坊のように泣きながら浮かび上がっていく。


 そして、その時は訪れた。

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