第34話 降り立った男
その日の夕刻、キルギバートは隊員らと共にパイロットスーツに着替え、宿舎を発った。遠雷のような音が絶えず街を揺るがしている。硝子(ガラス)窓がびりびりと音を立てて震える。これは巨大な物体が、ウィレの空気を殴りつけながら飛んでいる音だ。この音を聴くのも開戦以来のことだ。
「デカい音ですね」やや右後ろにいたクロスが呟いた。
「あれを聞くウィレ兵の気持ちを考えると気の毒だな」ブラッドは頬を歪めるように笑って頷いた。
音の主は間もなく地上へと降りてくる。キルギバートは市庁舎前に辿り着くと駐機させてあったグラスレーヴェン(装甲にへばついた汚れは綺麗に洗い流されていた)に乗り込み、起動させた。
『全機、聴け』頃合いを見計らったかのように機動中隊長のデュークから通信が入った。
「こちら中隊長代行。全機傾注せよ」
『よろしい。間もなく、モルト・アースヴィッツ国家元首、グローフス・ブロンヴィッツ閣下がここモルトランツの臨時着陸場に到着される。場所はモルトランツ総合運動公園スタジアムだ。我々は現地にてこれをお迎えする。座標は……』
デュークはキルギバート機の足元近くの軍用車の上から無線機を手に、状況説明を続ける。その後ろで絶えず兵士や軍用車、別のグラスレーヴェン部隊が郊外を目指して進む。モルトランツに駐留する部隊の大半が郊外に臨時設営された着陸場に集結しつつあった。ベーリッヒ国家元帥、ゲオルク・ラシン中将など、地上侵攻の指揮を執った指揮官の大半もブロンヴィッツを出迎えるために集まっている。
『キルギバート。聴こえてるか』
「は、はい。聴いております隊長」
『緊張し過ぎるな。明日が本番だ。これは予行演習みたいなもんだ』
「承知しております。頑張ります」
やれやれ、とデュークは苦笑いした。
『グラスレーヴェンはお前に託した。本国のお偉方とこの街の野次馬どもにかっこいい所を見せてやれ』にやりと笑った後、デュークは表情を引き締めて号令を下した。
―移動命令受信。中隊、前へ。
キルギバートはフットペダルを踏み込み、機体を前へと踏み出させた。
「移動開始」
途中、街の通りを大勢の市民が、軍の行く方向とは逆へ歩いているのを見かけた。
「なんだあれは?」
『念のため、公園周辺に住む市民を退避させている。元首警護のためだ』
納得し、さらに進む。市民の多くが足を止め鋼鉄の巨人を見上げている。その横でモルト兵の歩哨が足を止めぬよう、丁寧に、しかし有無を言わせず促していた。
『少尉、あれ!』ブラッドが突然叫んだ。
歩いて去って行く市民の中に、蜂蜜色に近いブロンドの髪の少年がいた。母親とともに、驚いたようにこちらを見上げている。
「サミー、か?」
『よかった、無事だったんだな』少年を見つけ出したブラッドの声に、安堵が混じった。
「……これで心配事が一つなくなった。行くぞ」キルギバートも同じ気分だった。
中洲に築かれた公園に入るための橋を踏み越え、グラスレーヴェン隊は誘導員に従って位置に付く。着陸予定位置のスタジアム南側。
『特等席ですよ、少尉』クロスが嬉し気にはしゃいだ。
「静かにしろ」
<<グラスレーヴェン全機傾注せよ>>
スタジアム近くの司令部にいる管制官からの通信だ。
<<全機ハッチを開き、機上にて元首閣下を出迎えるように>>
座席横にあるレバーを引くと、空気の抜ける音とモーターの回転音がして、ハッチが前へ倒れる。その上に進み出たキルギバートは目を見開いた。数万の兵士たちが列、いや壁を形成して整列している。スタジアムを囲む壁は制服の黒よりも強い夕陽の光によって橙色に輝いていた。
皆、空を見上げている。雲一つない茜色の空に、鈍く赤い光を放つ点が現れ、それはほんの数分で視認できるほどになった。空に現れた巨大な鋼鉄の卵……軍事輸送用シャトルが轟音と共に地上に降り立つ。シャトルの下部に取り付けられたエアブレーキが作動し、砂埃が壁となって舞い狂った。そして、ブースターが点火した瞬間だった。
メインスタジアムのスコアボードのある北壁が一瞬で崩落した。戦前のモルトランツのランドマークは、呆気なく崩落した。
将兵の満面が埃まみれになったが、それでも彼らは直立不動で立ち続けていた。キルギバートらは顔面を覆うヘルメットのおかげで、その災難だけは免れた。高熱で噴射された気体が冷え、周囲に煙を渦巻かせる。まるで舞台装置のようだった。着陸上の地面を煙が這い、四方を満たした。
シャトル側面部の巨大なハッチが開き、南壁に立てかかるようにのしかかった。最初に現れたのは2機の純白のグラスレーヴェンだった。機体と同じ色のマントを羽織っている。彼らは崩れ残った南壁に足をかけ、屹立する。
「国家元首親衛隊機だ」
クロスが囁いた。純白の機体はこの場所にブロンヴィッツが存在する確かな証拠だ。普段は月面首都アースヴィッツの元首官邸を守る機体が、ウィレ・ティルヴィアに降り立っている。
重みに耐えきれなくなった南壁の中央部が崩壊する。それに動じる様子もなく、親衛隊機が槍にも似た巨大な竿を地上に突き立てた瞬間、周囲に青白い光が走った。
「なんだ!?」
将兵がどよめいた。親衛隊機の掲げた竿には青白い光で形作られた旗がなびいている。荷電粒子による軍旗―モルトの技術の粋を集めた最高の結晶―それが薄暮のモルトランツを照らしている。その旗の真下から一人の男が姿を現した。純白の軍服に身を包み、親衛隊機と同じようにマントを羽織っている。ベーリッヒが叫ぶ。
「元首閣下にィ、捧げ、銃(つつ)!」
軍楽隊の鈴が鳴り、演奏が始まった。
― 白銀の大地 青き光連なりて
モルト国歌が演奏された瞬間、堰を切ったように兵らから嗚咽が漏れた。青年の碧眼、その目頭も熱くなる。郷愁ゆえか、勝利の実感ゆえか。恐らくその両方であった。
― 我らここに立つ 宇宙(そら)の民として
ベーリッヒが進み出て元帥杖を掲げる。キルギバートも額に手を当て、敬礼する。ブロンヴィッツがシャトルのステップに足をかけて挙手礼を返した。
― その栄光 永久に汝の物なり
「掲げ、剣(つるぎ)!」
数百のグラスレーヴェン全機が一斉にヴェルティアを抜き、夜空に向かって刀身を突き上げる。その刃の先に、薄暮の空に現れたモルトがあった。
― おおモルトよ 月の大地よ
「国家元首にィ!」
― 威光よ永久に 汝を守り給え
「敬礼!」
ザン、と凄まじい音が響いた。数万の人間の手足が風を切り、狂いなく、乱れなく動いた音だった。ブロンヴィッツの乗ったステップが真下へと下りる。ウィレに降り立った月の元首は踵を合わせると、初めて口を開いた。
『ディア・ファーツランツ(祖国万歳)』
「「ディア・フェリーザスト!(元首閣下万歳)ディア・ディア・フラー(万々歳)!」」
キルギバートと、数万の兵士が声を限りに応じた。モルトランツは最早ブロンヴィッツのために設けられた舞台だった。夕陽に照らされた着陸場、幾万の将兵、地を這う煙に満たされた公園。まるで雲の上にいるようだった。ブロンヴィッツは警護役と将帥、そして背広を着た官僚らに守られ、用意された専用車両へと向かう。
そのブロンヴィッツが、不意に後ろを振り向いた。この場にいる全員の目が元首である男に向けられている。男は大きく息を吸い込み、胸を膨らませた。
『諸君は天から大陸を制覇した。この景色は諸君らの偉業の象徴だ。この威光ある景色は、永遠に不滅となった。この栄光は、諸君のものだ。将兵よ、栄光あれ!』
低く、太い元首の声に応え、再び万歳の叫びが木霊した。ブロンヴィッツはさっと手を掲げて応じると車に乗り込み、着陸場を出発していた。煙が晴れた時、周囲は夜となっていた。
キルギバートはその日、
―なんだこれは。
胸には今までに感じたことのない熱がある。胸腔を支配していた不快感は消え、手足の気怠さは吹き飛んでいた。力を吹き込まれたようだった。背筋に震えが走り、瘧にかかったかのように全身が震えている。
―そうだ。あの御方だ。
「なんと偉大な方だろう」
震える手でカップを手にして、苦い苦い中身を飲み干そうと口を近づける。
「ナニしてんすか」
唐突に肩を叩かれ、キルギバートは黒茶と文字通り熱烈な接吻を交わす羽目になった。
「ぶあっつ!?」
中身が膝に落ち、足を抱えて跳ねる。それから膝をはたいて、口を袖で拭い、たっぷり時間をかけ息を整えた後で闖入した下士官の頭頂部を引っ叩き、首に腕を回して締め上げた。
「お前何しやがるブラッド!!」
ブラッドの背後には呆れ顔で首を横に振るクロスの姿があった。
「少尉、そろそろ腕を離さないとブラッドさんでも死んじゃいますよ」
「時々、こいつを本当に殺したくなる時があるんだ……!」
「喧嘩するほど仲が良いって言うじゃありませんか」
肩を竦めるクロスに毒気を抜かれたキルギバートが腕を離したとたん、ブラッドは咳込みつつ、けたたましい笑い声を上げた。
「よかったよかった。それこそ少尉だ。ウィレに来る前の少尉はそんな感じだったよ」
キルギバートはますます不機嫌になった。この男たちはどうしてこうも自分の心を見透かしたように振る舞うのだろう?
「お前ら、俺に恨みでもあるのか」
言いつつ、ロビーに設けられた一人用のソファに座る。生地は絹地で、綿がたっぷり入ったそれは身体が沈み込むような心地よさがあった。そして一人用のソファはちょうどよく、三人一組で用意されていた。ブラッドとクロスに座るよう促し、キルギバートは頬杖をついた。
「それで、お前らこそどうしたんだ? こんな夜更けに」
「昂奮して眠れなくってですね」
「俺ら、ナマでブロンヴィッツ閣下を見たの初めてだったんですよ」
ああ。と、キルギバートは納得したように頷いた。彼らが起きていた理由も同じだったのだ。
「少尉は、何度かありましたよね。国技大会の剣術部門で準優勝した時と」クロスが親指を折り―。
「あれすごかったよな。テレビで見てたよ。それと、後は士官任命の時か」ブラッドが人差し指を折って言葉を継いだ。
「ああ―」キルギバートは天井を見上げた。
―だが、あれほど長く、間近で見たことはなかった。
「あの距離が、明日にはもっと近くなる。俺達はあの方の目の前を行進するんだ」
ブラッドとクロスは目を丸くした。目の前の堅物な上官が、ほとんど陶酔に近い、うっとりとした表情を浮かべている。そんな顔を見るのは初めてだった。
「あの方は歴史そのものだ。信じられるか? 俺達が吸っているウィレの空気を同じくしているんだ。こんな名誉な事が他にあるか?」
「あー……」
クロスが席を立ち、ブラッドが身を乗り出した。
「なんだ?」
「少尉、そっちのケでもあるんですか?」
「ソッチノケ……って?」
「男好きぃ。今のアンタは乙女だ。"元首閣下にケツをナニで掘られたってかまわない"みたいな顔してますよ。大丈夫ですか?」
からん、とキルギバートの拳から空になったカップが落ちた。ブラッドの首を絞めるまでの間より、倍近い間を置いて、キルギバートの顔が真っ赤に染まった。戦闘用の山刀を持って来るんだった、と物騒な呟きを口にしつつ、銀髪碧眼の青年はこめかみを痙攣させた。ブラッドの動物的な勘が危険信号を発した。彼は飛びのいてソファの背もたれを盾にしていた。
「待った待った!?」
「駄目だ。そこへなおれ、叩きのめしてやる」
眉間と鼻先に皺を寄せ、両手をバキバキと鳴らしながら近づいて来るキルギバートの目は猛獣―とりわけ例えるなら獅子―のそれで、「うへら」と怖気づくブラッドの目は捕食される寸前の草食動物のあれであった。
「部下を虐待したら明日の行進はパァですよ。いいんですか少尉」
二人の間に割って入ったのはクロスだった。器用に3人分の黒茶のカップを両手に持ち、差し出した。クロスは最早、キルギバートの殺気と怒気を抜く達人だった。
「……まあいい。それで、俺に何か用があったんだろ?」
「お昼はありがとうございました。あんな上等なもの、生まれて初めて食べました」
クロスはキルギバートの"牙先に引っ掛かった"ブラッドを引っぺがし、隣に座らせると頭を下げた。
「ああ、その事か。いや、いつもの礼だ。味はどうだった」
「少尉は、食べなかったんですか?」
「俺は魚を食べたんでな。あんなデカイ魚は初めてだ。美味かったよ」
そうでしたか、とクロスは微笑した。もちろん美味だったことも加えて告げると、ロビーにほっとした空気が流れた。黒茶は苦く(この味だけは故国で飲むものと同じだった)、薄い橙色の照明に照らされたロビーは静かだった。
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