第32話 モルトランツの朝-グレーデンの場合-
その日の朝、モルトランツは濃い雲に覆われていた。昨晩降った雨が西大陸の至る所で起きた惨劇のにおいを洗い流し、街の路面は鈍色に輝いている。月面都市にはない湿気と臭気が鼻孔に流れ込む。朝の空気は冷たく、彼は厚手の軍用コートの襟を立てた。彼はこの時、ウィレ・ティルヴィア人をうらやましく思った。ウィレ人はこの慣れない空気に馴染みきっている。
彼も元はウィレ・ティルヴィア出身者だ。だが、ウィレ人であったという、それらしい記憶が、彼にはない。彼―クラウス・ヨハネス・グレーデン―はウィレ・ティルヴィアの西大陸にある小さな町で生まれた。もっとも、ウィレ人であった期間など生まれてから一年となかった。彼の人生の大半は、宇宙移民としてのものだった。
「衛兵!」
グレーデンはよく通る声で宿舎の詰所にいる兵卒を呼び付けると、コートの内側からあまり質の良くない紙でできた封筒を手渡した。
「通信局へ送ってくれ。実家への手紙だ」
衛兵は封筒を受け取ると駆け足で去って行った。急ぎでない書簡はモルト軍の通信局により3日に一度、宇宙に打ち上げられて祖国へ送られる。大体、手紙が届くのはさらに2週間後のことだ。軍事通信以外の郵便は優先度が低く、防諜のため民間を相手にした惑星間光速通信は政府が許可した人間以外は使えない。本国との通信手段はぜい弱だ。
「……戦争状態だというのに何世紀も前の手段を使うとは」
ぼやいた刹那、人の気配に彼は振り向いた。キルギバート―寝起きでむくみ気味の酷い顔をして宿舎から降りてきた―だった。(結局床で一晩を過ごした彼は不機嫌なまま湯浴みをし、身だしなみを整え、降りてきたところに司令であるグレーデンがいたので、一気に目が覚めた様子で泡を食っていた)
さて、グレーデンも良からぬ相手でなかったことに安堵していたのだが。
「おはよう少尉」
「おはようございます。閣下」
「私と一緒に来たまえ」
「は? ……はっ!」
ふと、グレーデンは目の前の青年とこの戦争を迎えてから殆ど会話をしていなかったことに気付いた。とはいえ、隊員としての教育は連隊次位のデュークに任せているし、自分がしてやれることもあまりなかった。
しかしグレーデンとキルギバートの付き合い自体は長い。軍のグラスレーヴェン部隊創設時からの付き合いになるので、かれこれ3年以上になる。モルト独立の頃にはグレーデン家もキルギバート家も親世代がモルト独立のため奔走していたので、それなりの付き合いはあったはずだ。その子の世代に当たる自分達があまり接点を持っていないというのも不思議なものだった。とはいえ、グレーデンは四十半ば、キルギバートは十八。二人には親子ほどの年の差があった。
いかん、とグレーデンは我に返った。昔に思いをはせている場合ではない。車へと向かいつつ、年下の士官に適当な声をかける。
「先の戦闘では御苦労だった……それと、戦闘後の処理まで任せ、要らぬ労力を割かせた。すまなかった」
「いえ、それが我々の役目です。謝られることではありません」
グレーデンはそれ以上の言葉が継げない。どうにもキルギバートの返事は事務的で、馴染み辛い。キルギバートの部下……ブラッドとクロスと言ったか。彼らに見せる顔はいくらか人間味があるというのに。
一体、彼らはどうやって、この少尉から、あそこまでの感情を引き出しているのだろう。グレーデンは軍用車のキーを取り出し、運転席のドアに手を掛けた。キルギバートはこの時、助手席にグレーデンを迎えようと反対側に回っていたが、そのままグレーデンが運転席に座るのを見て大慌てで運転席側に引き返してきた。
「いけません。私が運転します!」
「構わん。事故をされても困るしな。……ひどい顔をしているぞ?」
面食らったようにキルギバートが自分の顔に手を当てた。何だ、随分かわいらしい所があるではないかとグレーデンは微笑した。
「それに司令部までは短距離だ。つかの間、私が運転して何の問題がある?」
「それはそうですが、上官が部下を乗せて運転するなど例がありません!」
「そうか。では例をつくろう。命令だ、君は助手席に乗れ」
いくらか言葉に詰まった様子でキルギバートは立ち尽くしていたが、観念した様子で助手席に回った。0700時まで余裕はたっぷりある。グレーデンは車を南の路地に取った。
「そちらは遠回りでは―」
「悪いか?」
「い、いえ―」
何を話したものかとグレーデンは逡巡する。彼に対して家族の事を訊くのは厳禁だし、故郷の話と言っても同じアースヴィッツの出身だ。
「この星の食べ物は幾らか口に出来たか?」
「いえ……。空腹で、戦闘糧食ばかり食べていましたので」
「そうか、実は私もだ。この星の飯は、美味いそうだな」
「モルトの飯も美味しいものはあります」
「そうだな。だが味気ない方が多いのも事実だろう?」
グレーデンの言葉にキルギバートは苦笑いした。確かに、好物と言える料理の種類があまりに少ない。
「戦争が始まる前のことだ。モルトに駐在していたウィレの武官に"私の好きな食べ物は麦です"と言って笑われた」
「何故です? 実際美味いではないですか?」
「彼らにとって食べ物とは料理のことなんだよ。食材ではなく、な」
と、助手席からぐう、と音が鳴った。銀髪碧眼の青年は気まずそうに腹を押さえた。
「朝飯は摂ったのか?」
「……失念していました」
「それはいかん。これをやる」
グレーデンは腰のポーチからチューブ食を取り出し、キルギバートに左手で投げ渡した。青年は拝むようにして受け取り、それに口をつけて一気に吸い上げる。あっという間の出来事だった。グレーデンは思わず噴き出した。
「早食いだな。飯くらいゆっくり食え」
「は……。申し訳ありません」
「飯は良い。人間が人間でいられる時間だ。いつ死ぬかもわからん。味わって食っておくことだ」
青年の顔に、いくらか血色が戻った。大回りしたが、それでも市庁舎はすぐそこだ。車から降りるなり出迎えたケッヘルは「何故貴官が助手席にいる?」と、キルギバートに嫌な目線を送ったが、グレーデンがそれを片手で制した。
「私の権限でそうした。悪いかね」
「そうでありましたか。であれば、異議はありません」
グレーデンが信頼する副官は夜が明ける前から司令部に入り、今日の会議の準備などを行っていたらしい。仕事は士官の集合を待って後の事になる。
「君がいてくれて助かる。おかげで事務がやりやすい」
「恐れ入ります。閣下」
これだ、とグレーデンは安堵した。これが幾分平和な時の、軍人としての己の日常なのだ。早く取り戻したいものだと、グレーデンはしみじみと考えていた。
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