第29話 キルギバートのいちばん長い日-1-

 世界が全て灰色に見える。音が聞こえない。自分の手足の感覚がない。俺は今、どうなっている?


―土産にウィレから果物と美味い菓子を買って帰る。驚くなよ


 父親の声だ。ウィレに旅立った父が遺した最後の言葉だ。


 タンパク質と食用繊維で織られた合成肉や、保水シートに植えられ、紫外線ライトで育てられた野菜が俺たち―モルト人―の主食だった。土に植えられて育ったウィレや、農業用プラントの自然に近い野菜は、俺達にとって高級食材だ。そうした、楽しみにしていた土産も灰になったか、今も宇宙のどこかを彷徨っているのだろう。


 父と母が死んだ。俺は十四で孤児になった。


 両親が宇宙船に乗って、ウィレ・ティルヴィアからモルトに帰る道中―厳密には軌道上―でのことだ。ウィレ・ティルヴィア軍の宇宙哨戒艇による"威嚇射撃"の砲弾がシャトルの薄い外板を突き破って爆発し、乗客は例外なく、呆気なく宇宙の塵となった。209事件で亡くなった何百という死者のうちの二人だ。

 遺体のない葬式。一報を親族から知らされた時のことはよく覚えていない。

 数日後に呆然として抜け殻のようになったまま、葬儀―乗客は国葬によって弔われた―に赴いた時のことだけは覚えている。霊壇には両親の写真が飾られ、殻の棺に重々しくモルト国旗が被せられていた。業者が用意した温室栽培の花輪のむせかえりそうな甘ったるいにおいだけが、俺の心の中で水底の澱のように今も残っている。


 国葬を受けるような家に生まれたわけではない。父親は他の宇宙都市、他惑星―当然、ウィレ・ティルヴィアも含む―からの品物を取り扱う宇宙卸商だった。篤実で、滅多に声を荒げないモルト人としては珍しい気性の穏やかな人物だった。

 母親はどこにでもいる主婦だった。突然の死により両親から受け継いだのは生粋のモルト人であるという風貌……銀髪と青い瞳だけ。経営者であった両親の死により、両親が築き上げた卸商の遺産もない。両親から受け継いだのはモルト民族たる風貌だけだった。


 孤児になった時、思っていたことは一つだけだった。


―なんで俺は生きている?


「少尉、キルギバート少尉!」 


 誰かが俺を呼んでいる。我に返り、答える……どころではない。


 臭い。

 吐き気がする。

 頭を拳で思い切り殴られたような衝撃が脳から背へと伝わり膝がくずおれる。


 風が吹く度、俺は嘔吐する。突き刺すような臭気が鼻孔を満たす。乗っていたグラスレーヴェンの警告のように、視界が明滅し、臭いが頭の中に入ってきては分別されていく。


 破壊したあらゆる機械の重油の臭い。


 鉄が高温により溶けて―それらに飛び散って、こびりついた血液が焼け焦げた臭い。一時間前には生きていた奴が焼き焦げた臭い。今まで嗅いだこともないような臭いが息もつかせずに次々に襲いかかる。ひどい臭いだという感想しか浮かばず、俺は喘いだ。この浜辺にはこの世のありとあらゆる破壊の後に残される臭いが充満している。


 吐くものすら無くなり、ふらつきながら砂地を歩く。行けども行けども、死に出会わないことはない。稜線全てが死と破滅で構築されている。

 呆然と立ちすくんだ。「少尉」グラスレーヴェンから降り、ヘルメットを着けたままのクロスに肩を叩かれ、俺は我に返る。


「あなたこの臭いの中でメットもつけず、よく外にいられますね……」

「グラスレーヴェンを失って、一度長いこと外にいたからな。慣れた」


 気づけば胸を張って答えていた。理由は単純だ。俺は士官であり、クロスやブラッドの上官だから。


「ほんとに大丈夫ですか?」

 ブラッドにそう言われ、すぐさま「なにが?」と返す。


「目が死んでるんですよ、あんた」


 そんなことはないと強がろうとして、ブラッドを叱責しようとして、俺は浜辺にへたり込んだ。


「ちくしょう」呻いた。立つことさえ体が拒絶している。

「クロス、飲み物でも持ってきてやれ」


 ブラッドの言葉に、クロスは俺の肩に腕を回すなり、スーツを脱がせた。官給品のインナーと野戦服のズボンだけになり、幾分身体は軽くなった。血まみれのパイロットスーツも、口元までずり上げた黒布も、破壊の臭気に汚染されている以上、脱げば最後だ。もう身に着けることはできない。


 俺は波打ち際―残骸で数百メートル沖に移っていた―に目を向けた。破壊され、腕部だけになったグラスレーヴェンの残骸が墓標のように浅瀬の砂地に突き刺さっていた。黒煙でまだらに染まった青い空に手のひらを突き上げるようにして硬直した鋼鉄の指先からは絶え間なくオイルが漏れだし、五本の指すべてがロウソクのように青い炎を上げている。海面には毒々しい色をした油の波紋が広がり、時折敵味方を問わず、兵士の死体が浮いては沈んでいく。


 敵軍が去り、モルト軍のみとなった西大陸。見渡す限り、もはや再生のしようがないほどの残骸―。もたらされた破壊……。周囲の状況は最悪という表現すら超越した何かに変わり果てている。"海"がなければここが浜辺だったと誰が信じることが出来るだろう。


「ここは地獄だ。生きている人間がいて、いい場所じゃない」ブラッドが呟いた。

「帰りましょう。僕らに出来ることは何もない」しばらく絶句していたクロスもぽつりと呟いた。


 「それでもここが任地なんだ」拒絶と叱責を試みるが、声すら出なかった。わかっていた。本心では、心の底からクロスに同意している自分がいる。そんな折、見計らったかのようにブラッドが戻り、本隊から引き揚げの命令が出たことを知らせる。何とか足に力を入れて砂浜に立ち上がり、振り返る。


 そこもやはり地獄だった。何百という兵士が物言わぬ姿となって転がっている。


「クソったれどもが」耐えきれなくなったようにブラッドが目を背け、嘔吐した。「とっとと降伏しちまえばよかったんだ!」

 喘ぐように吐き捨てたブラッドを叱責する気にはなれなかった。ウィレ軍の兵士たちが大陸を失陥してから、今日に至るまで逃げ出す時間はいくらでもあった。もし彼らが僅かに残った砂浜の陣地を捨てて逃げ帰れば、こんな地獄を見る必要はなかった。


「彼らにとって、この砂浜が最後の故国だったんですよ」


 クロスの呟きで、俺ははじめて実感した。ここはもう敵地ではない、勝利したモルト・アースヴィッツの領土となった。シュティ・アーシェ全土は、モルトのものになった。

 そして、それから―。


―これからどうなる?


 両親の仇討ちを望んで軍に入り、今日まで狂ったように戦い続け、ウィレ兵と見るや引き金を引き続けて、今ここにいる。敵がいなくなってこれからは、どうすればいい? 


 "戦う以外に生きる方法を知らない"。子どもの頃の歴史の授業でモルト王の伝記を読んだ時、目に留まった一文だ。その時は全く理解できなかったが、今なら理解できる。日常で生きていくには、あまりに多くの人間を手に掛け、あまりに多くのものを破壊した。グラスレーヴェンに乗っている間、俺はそのことに気付きもしなかった。きっと、今日よりずっと、俺は戦い続けるだろう。敵を求めて。でなければ、この地獄に取り込まれる。


「行こうクロス、ブラッド、もう大丈夫だ」


 酷い声だと自覚する。自分がパイロットになった頃からの部下二人を連れて、俺は砂浜を離れた。


 それ以降、この日の記憶は曖昧だ。モルトランツの郊外に構えた陣地に戻ったところまでは覚えている。ただ疲れているのに眠れず、そのまま野営地でぼうっと空を眺めた。部隊はしばらく休養となり、俺達の西大陸での戦いは終わった。

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