第26話 OVER MY DEAD BODY


 苛烈な戦闘は続いている。ウィレ・ティルヴィア軍西大陸北岸司令部は崩壊寸前に陥っていた。


「モルトランツ方面の、友軍部隊、全て消失しました」


 情報将校が、乾いた声で事実を告げた。


「そう、か」


 スミス・エドラントは諦めなかった。進軍を即座に停止し、南北に伸ばした戦線を収縮させ、空と新たな敵部隊の増援に対して、すぐに対応した。だが、暴力的な光の雨、グラスレーヴェンの増援、総司令官の乗艦撃沈の前に打つ手を次々と奪われた。


「諸君、我々の負けだ。残念だが、西大陸から撤退する」


 野戦服に弾薬を仕込み、軍帽ではなくヘルメットを被った。重要資料を焼却し終えた士官が、海軍からの入電を知らせたのはその折であった。


『報告します。戦艦アーシェスタインの沈没座標においてメルニフ・ファーネル提督を発見。護衛艦バーンブルがこれを収容しました』

「提督は?」

『重傷を負い、治療中とのことです』


 スミスは天を仰ぎ、いるかどうかもわからない神―この場合の神もまた創造主シュトラウスであった―に感謝した。提督が生きているだけでもウィレ海軍にとっては救いとなる。


 この絶望的な状況において、海軍の精神的支柱の生存は有益となるはずだ。西大陸における完全敗北の経験さえ、メルニフが生き延びてくれれば無駄にはならない。

 あの提督ならば良い教訓として海軍を復活させるはずだと、スミスは信じた。

 ふと、頬に潮風を感じて振り向くと司令部の鉄扉が開いていた。そこに、一人の士官が立っている。


「―シェラーシカ大尉。生きていたか」


 彼女の全身が泥、灰、煤と血に汚れ、あれほど艶やかだった亜麻色の髪はぼさぼさに乱れていた。内陸の惨状に巻き込まれ、そのまま海岸まで押し返されたのだと、すぐにわかった。


「申し訳ありません、将軍……」


 シェラーシカは会釈をしてたたずんでいたが、魂が抜けたように呆然としている様子だった。スミスは気付いていた。彼女の眼差しが尋常ではなく、何かを自分に問いかけるような切実さがあった。


「この戦いは負けだ。大尉」


 スミスは言うと、司令部の片隅にあった金属製の机に向かい、引き出しから何かを取り出して胸のポケットへとしまうと席を立った。シェラーシカの大きな瞳から涙が溢れ出している。思えば、この子は滅多に泣かない子だったなと、スミスは思い出していた。自らの呼吸、鼓動は絶望的な状況にも関わらず静かだった。


「座ろう。それと頼みがある」


 身近に転がっていた椅子を起こし、腰を落ち着ける。何度も何度も顔を袖で拭うシェラーシカを見て、スミスは彼女を気の毒に思った。元々勘のいい子だから。


 しかし自分も先から腹は括っている。司令部に身を置く兵士は目に見えて減った。皆、それぞれの持ち場に戻り、そして武器を取り出て行った。二度と戻ってくることはない。自分もまた任務を完結させる必要がある。


「お前が責任を感じる必要はない。お前は正しいことをした。全ての決定を下す場に、お前はいなかった。そう自分を責めるべきではない」


 スミスはシェラーシカの手を右手で取った。先ほど机から取り上げた何かを左手で胸ポケットから出し、それを握らせた。軍用の記録用素体(マイクロチップ)だ。


「お前が持て」言いつつ、スミスは紙片を取り出してマイクロチップにかぶせるように置いた。「それと、家族に」

 くしゃくしゃになった紙片は書類を引き裂いて作った手紙だった。シェラーシカは拒否するように頭を横に振った。


「父に、至らぬ息子で申し訳なかったと伝えてくれ」

「私も教官とともに戦います」

「駄目だ」


 はっきりとした拒絶を受け、シェラーシカの顔にはっきりとした苦悶の表情が浮かび、嗚咽が漏れた。


「どうして……どうして教官がこんな目に遭わないといけないんですか」


 シェラーシカが言おうとし―ベルツ・オルソンら東大陸の上層部によって西大陸の敗北を一手に引き受けることになった理不尽への怒り―、それを口に出さなかったことを、スミスは内心で讃えてやった。


「その答えは既に、お前も持っているはずだ。シェラーシカ」


 顔を上げる歳若く麗しい女性士官に対して、スミスは頷いて答えた。


「我々がウィレ・ティルヴィアの軍人だからだ。どうあれ、我々は戦うべき時に戦わなければならない。守るべきもののために。その戦いにおいて私は少し運がなかった」


 はは、とスミスの口から乾いた笑いが漏れた。とにかく疲れた。今はまだ休むべき時ではないが、いずれ憩う時が来るはずだ。その前に受け継ぐべきものを素養のある人間に渡しておかねばなるまい。シェラーシカ・レーテは最高の後継者となってくれるはずだから。


「シェラーシカ。東へ帰れ」


 だからこそ、彼女を死なせるわけにはいかない。


「ここで私の道連れにしては父君に恨まれるどころではない」

「私は私です! 父なんて関係ない! 教官と一緒に戦います!」

「ならん!」


 涙声は続かなかった。かつて教官であったころを思い出させるような一喝がシェラーシカの耳朶をしたたかに打った。


「私が与えられる残り少ない任務の一つだ。お前に持たせたそのチップをシュトラウスのアーレルスマイヤー陸軍中将に渡してくれ。それと私の家族にも……もう渡してあるだろう。それも大事なものなのだ。灰にしてくれては困る」


 シェラーシカの、乱れた亜麻色の髪を整えるように撫でてやりながら、スミスは頷いた。


「もうこれ以上の会話は必要ない。お前に渡せるものは全て渡したし、残すべきものは全て残した」


 シェラーシカを椅子から立たせ、突き放すように入口へと肩を押す。既に入り口には彼女の副官のアレン・リーベルトがいた。


「シェラーシカ、強くなれ。お前に立ちふさがるもの、全て超えていけ。私もまた例外ではない。私の屍の上に立て。シェラーシカ」


 時間がない。スミスはアレンに目配せし、意図を汲み取った熟練の下士官はシェラーシカを引き摺るようにして総司令部から退出を促した。


「教官っ! エドラント教官!!」


 鉄製の扉が開いた。連れ出されたシェラーシカの絶叫が司令部の中に、まるで尾を引くように残ったが、それもすぐに外の砲声に混ざって聞き取れなくなった。


「生き延びろよ、シェラーシカ」


 モルト軍からの降伏勧告が司令部に入電されたのは、この別れから数分後のことだった。スミス・エドラントはこれに対して沈黙で答えた。ゲオルク・ラシンは乗機ジャンツェンの左腕を高々と掲げ、それを振り下ろした。


 モルト軍による総攻撃の合図であった。

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