第23話 絶望の海原で
「……提督、ファーネル提督」
―誰かが呼んでいる。
無数の星が瞬いている。白い霞が夜空にかかった。
いや、違う、これは自分の吐く息の白さだ。
そこまで感じた瞬間、全身を貫くような冷たさと、左腕に熱した鉄を当てられたような痛みを感じた。
―……生きている。
己の生存を確信したメルニフ・ファーネルは、自分が今どのような状況にあるのか理解しようと体を起こそうとし、失敗した。激痛が全身を襲い、とても体勢を変えるどころではなかった。ただ、真っ暗闇の中で自分が極寒の中にいること、そして何やら体が上下に揺さぶられている事が理解できた。頭の中に目の細かい網が張り巡らされているようで、どこか感覚も鈍っている。屈強な体格を持つ提督は、自分が何故このような状況に置かれているのか記憶を手繰り寄せ始めた。
地上に燃え広がる炎。通信から響く絶望的な戦況の声。艦橋に反響する怒声……次いで警報。飛ばぬと思っていた鋼鉄の人形、それが光の尾を引き―。
―そうだ。戦艦<アーシェスタイン>は?
メルニフは何かにささやかれたように、仰向けのまま首を右へと傾げた。巨大で墓標のような鉄の塊が、高々と夜空を突いて燃えている。あれは、艦尾だ。墓標の先端についた六つのスクリューが空回りし、空しく風音を立てている。まだ機関は生きている。ならば、中の兵士達、自分にとって息子に等しい同志達は?
「……おお」
あの燃えている墓標こそがアーシェスタインだ。それに気づいたメルニフは絶望と驚愕の呻き声を漏らした。ウィレ・ティルヴィアの軍事技術の粋、強大な海軍力の塊とも言える戦艦が、たった数機のグラスレーヴェンに嬲り、屠られ、目の前で沈んでいく。赤々と燃え盛る炎がメルニフの周囲を照らした。そこで提督は、自分が艦から飛散した残骸の上に横たわっていて、その周りでは海軍幕僚らが取り囲むようにして残骸にしがみつき……一人を残し、すべて死んでいることに気付いた。
彼らはメルニフとともに海へ投げ出され、海面に浮かぶメルニフを見つけると抱きかかえて泳ぎ、身近な残骸の上へと押し上げ、力を使い果たして死んでいった。
ただ一人生き残った幕僚と、目が合った。軍帽の下に宿る眼光が、消えかかっている。
「提督―」
メルニフは残骸にしがみつく幕僚の額に左手を伸ばし……上腕から先がないことに気付いた。艦橋の爆発で飛び交った破片が、メルニフの左腕を奪っていったのだ。だが、驚くよりも先に、彼は残っていた右腕を伸ばした。幕僚が生きていると信じたかった。だが、触れた肌はすでに冷え切り、凍り付く寸前だった。
「―生きてください」
若い幕僚は一言を残すと、そのまま暗い水面へと吸い込まれていく。
「待て!」
「あなたは生きて―」
助けるため、右手をさらに伸ばそうと身体を曲げた。その時、彼は自分の左足までも喪失していることを焼かれるような痛みで知った。
「再び、我らの海軍を―」
「駄目だ!」
とぷん、という音が響いた。メルニフ・ファーネルはこの音を一生忘れなかった。
水音の後には何も残らない。気づけば彼の周りには誰もいなくなっている。夜闇の海は黒く、メルニフが必死に頭をめぐらせても、何も見出すことはできない。あるのはただ、昨日までと変わらずに光を放つ星空だけだ。
「あああ……」
その上を、流星が横切った。グラスレーヴェンだ。メルニフは知らなかったが、それこそがモルト軍司令官、ゲオルク・ラシンの搭乗機<ジャンツェ>であった。彼らは大将首を討ち取ったと確信し、悠然と夜空を飛んで戻っていく。他の僚艦は誤射を恐れて撃つことさえできない。全て、勝利に目がくらみ密集し、海岸への接近を命じた自分の失策だ。自分の采配が、命を捨ててまで己を守ってくれた戦友の命を奪ったのだ。そして今、陸地で戦う多くの兵士の命さえも。
「ああぁぁ――――――――ッ!!!」
憤怒に突き動かされ、メルニフは叫び声を上げた。悪夢のような、逃避すら許されない現実の中、仰向けに倒れたまま、彼は生まれて初めての敗北、絶望を噛みしめていた。
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