第9話 ぼくの左腕と零
その夜、ぼくは不思議な夢を見た。誰かが、ぼくに優しく語り掛けてくる。学校に現れた、マントの男たちでもない。見たこともない男だ。獣の遠吠えに似て、どこに居ても聞こえてくる響きのある声だった。
「よう、相棒。調子はどうだ?」
長い黒髪を風になびかせ、灼熱の太陽に焦がされたような横顔だった。眉の秀でた、鼻筋の高い戦士に似た勇ましい顔立ちをしていた。
「俺の力を、お前に預けた。その力、自由に使うがいい。だが気を付けろ。強力な力には、更に強力な力が集まってくる。その力に引かれてか、それとも奪い取ろうとするためか。その力、誰にも奪われぬように心得よ。よう、相棒。次に再開できることを、楽しみにしているぞ」
夢の中の男が語った、力とは何なのか。ぼくは目を覚ましたときに、思い知らされる。
翌朝、ぼくの左腕は化け物みたいに、腫れ上がっていた。不思議と痛みは感じなかった。鬼の棍棒のように左腕は、むき出しで面前に曝しておくには、あまりに醜かった。ぼくはその左腕を包帯で、ぐるぐる巻きにした。苦肉の策で巻いた包帯が、かえって人目を引いた。
「なっ! 何なのよ、これ! ゲロでもぶちまけてきたの?」
二葉の悲鳴が、尖塔の教室で予鈴くらいに響く。
「こんなのは、初めて見るな。令、痛くないのか?」
ぼくは、顔一杯の驚きの感情を示す二葉と三郎丸へ、こくりと頭を振った。ハジメは小さな手で、心配そうにぼくの腕を調べている。それが終わると、表情を変えずに「すぐに朝倉を呼んでくる」と、朝の教室を荒立たしく出て行った。
「朝倉って、誰?」
二葉は、つんとして凛々しい顔はそのままで、ハジメの出て行った所から、三郎丸へ視線を戻すのも、もどかしいようだった。
「ああ、多分。この呪いを仕掛けた奴だな」
「えっ、令にこんな酷いことした奴。そんなのに任せて、大丈夫なの? 私だったら、二度の学校の敷居をまたがせないわ」
「まあ、そうなんだけどな。ハジメはその点は現実的だな。奴が誰よりも、零のことに詳しいのは確かなんだ」
三郎丸は冷めたような声で答えると、何か物思いにふけるように黙った。
それから三十分の後に、ハジメが昨日の片目の男、朝倉を伴って、教室へ慌ただしく戻ってきた。朝倉も大急ぎで駆け付けたと見え、息切れしたように呼吸を乱していた。その表情も険しかった。朝倉は昨夜とはまるで違って、黄土色の背広に同色のウエスタンハットを、斜めに被っていた。
「どれ、見せてみな」
朝倉は少し濁りのある、それもよく通る声音で言った。朝倉はこれほど異様な様相のぼくの腕を前にしても、全く臆するところがなかった。大胆にもぼくの腕を、素手でベタベタ触って一様に確かめた。
「大したことはねえ。ちゃんと腕は付いている。はは、心配するな。元に戻る」
朝倉は、にたにたしながら口を開いた。昨夜とは、まるで別人みたいだ。朝倉の浮かべた屈託のない微笑には、敵意や悪意は微塵も感じられなかった。むしろ好奇な眼差しが、ぼくの腕に向けられていた。
「が、こいつは使える。よし、零の封印を解こう。直接、これに触れさせる。その方が早かろう」
朝倉は満足そうに言って、その側から準備を始める。
「そんな事して、大丈夫なのか?」
朝倉の背中越しに、怪訝そうにハジメが覗いている。
「大丈夫も、大丈夫。何だか分からんが、令は零と抜群に相性がいい。こんな反応は滅多にない。いや、ここまでのは初めてだ。大したもんだよ。まあ、一週間くらい腕は、このままだがな」
ぼくは褒められるよりも、この醜い腕を何とかして欲しかった。
朝倉の主導で、すぐに開封は始まった。零の左腕を包んだ古布には、奇怪な呪印が施してある。朝倉は使い込んだ手提げ鞄から布袋を用意し、それへ手を突っ込み、白い砂を掴み出した。その砂を糸のように細く撒くと、教室の床に、手際よく幾何学的な魔法陣を描いた。朝倉は休む暇もなく、その中心に零の左腕をごろりと転がした。その間も、朝倉は囁くくらいに何か呪文を唱えていた。朝倉の体からは時折、熱せられるような煙が上がった。朝倉はぼくらに、危ないから下がっていろと怒鳴って、誰も魔法陣の側に近づけなかった。
やがて準備がすっかり整うと、朝倉はウエスタンハットに手を伸ばし、斜めに被り直した。朝倉が、いよいよ覚悟を決めた。一息吸って、渾身の力を注ぎ込むように、最後の呪文を吐き出した。
「零の左腕に掛けられた封印を解き、その真の力を解放せよ!」
ドンと、どこかの巨大な門扉が激しく開け放たれたような、衝撃が起こった。瞬く間に砂で描いた六芒星の魔法陣が、眩い光を放ち始める。そこから炎が立ち上るようだ。魔法陣の上の腕は、明らかに先ほどの死体の腕とは違って見える。その腕には、不釣り合いなくらいの、無骨な銀の腕時計がはめられていた。その文字盤の三つの針が、物凄い勢いで回り始めた。
「間違えるな。左腕で触るんだ」
肯くぼくを見て、朝倉は語調を強くした。
「よし、急げ! これは時限式の封印だ。すぐに自動的に封印される」
朝倉は、ぼくを魔法陣へ近づけた。その中の腕へ触るように目配せした。ぼくは、まるで激しく燃え盛る炎の中へ手を突っ込むような恐怖で、鼓動が高鳴った。零の左腕に触れた瞬間、ぼくの腫れた左腕は、新たな生命を吹き込まれたように脈打った。
「どうだ?」
どうだと言われても、ぼくには答えようがなかった。確かに、ぼくの左腕は軽くなって、生き返った気がする。それでも、腕の感覚が奇妙だった。半分になって、残りは眠っているように思える。
「よし! 取りあえず、何とか無事に終わったな。俺はこれで帰らせてもらう。急いで来たから、すぐに戻らないといけないんだ。それじゃあ、また近いうちに会おうや」
朝倉は旧友みたいな挨拶を残し、酷くやつれた顔のまま教室を出て行った。ハジメは朝倉を送ると低い声で言って、一緒に居なくなった。
「やっと行ったわね。どうもあいつが居ると、落ち着かないわね」
二葉が生き返ったみたいな瑞々しい表情をして、机の上を軽く手で触れ立っている。
「あいつが、嫌いなのか?」
三郎丸は何の気なしに、二葉へ言葉を返した。三郎丸もまた窮屈な場所から解放され、腕を伸ばして欠伸を噛みしめている。普段の暢気な三郎丸に戻ったみたいだ。
「あいつ、何を企んでいるか分からない。全く信用ができないのよね」
「そうか。二葉の悪い予感は、当たるからな。用心した方が、いいかもしれないな。そもそもあいつは、零の左腕を偉く憎んでるっていう噂じゃないか。あいつの左目を見ただろ。あれ、零の左腕に迂闊に触れた代償らしいんだが」
「それじゃあ、憎んでも仕方ないわね。でも、自分で撒いた種でしょ。令、本当に何ともないの?」
二葉は、朝倉のことを他人事みたいに冷たくあしらうと、つんとした険しい表情を緩めて、ぼくを見た。
「うん、平気」
ぼくは、ぶらぶらして左腕を軽く振って、二葉に微笑んだ。ぼくの左腕は、さっき包帯を取ってから、醜怪な有様を曝したままだった。急に恥ずかしくなった。こんな腕、すぐに隠してしまいたいと、ぼくの感情が急激に高ぶった。
「う、腕が無い!」
二葉が、ぎょっとした顔で悲鳴を上げた。ぼくの左腕だけが消えている。苦笑いして、ぼくは弁解する。
「あ、これ。今朝、この腕を見てて、慌てて左腕だけが消えるように念じたんだ。そうしたら、こうなったんだ」
「なるほど。そう言うことも出来るのか」
三郎丸は机の上に腰掛けて、いつもの奇抜なボーズを決めながら、考え深そうにぼくの腕の辺りを眺めている。
「だからって、何に使えるというの? とにかくあいつは、やばそうだからあまり関わらない方がいいわね」
二葉の跳ねた短い眉毛が、一層憂いを描いて上を向いた。しかし三郎丸はまだ、ぼくの消えた左腕から目を離さない。
「令、これ触っても痛くないよな」
ぼくは、うんとすぐに答える。三郎丸は随分と慎重になって、ぼくの左腕の辺りを、三郎丸の左手が幾度か試すみたいに探る。三郎丸は明らかにその左手に戸惑いをちらつかせ、ゆっくりと引っ込めた。また考える仕草を取った。二葉は嫌な顔をした。
「どうしたの? そんな辛気くさい顔して」
「これが零の力だとすれば、文句はないがな。これが零の呪いだったら、少々厄介だな」
三郎丸が、ごくりと唾を飲み込む音がした。
「そんな大袈裟な。だって。令、何ともないでしょ」
ぼくは、二葉に大きく肯いた。
「まあ、二葉も令の左腕を探してみろよ」
「そんな、見えないだけでしょ」
二葉の右手が、空振りをした。三度試して、打者が三球三振したみたいな格好をした。
「何で触れないの?」
「触れない?」
ぼくは、慌てて自分の腕を確かめるみたいに、肩口から順に叩いていく。左腕の消えた所から、何も触れる物がない。背筋がざわつくような恐ろしい感覚に襲われる。
「これは、姿を消す魔法とは全く違っているな」
「腕が、ななな。無くなっちゃったの!」
「令がやったんだ。それに、さっきまでは確かに、そこに令の腕はあっただろ」
「でも、こ、こんにゃのってある? 本当に腕が存在してないじゃない」
三郎丸は出来るだけ言葉を選んでいたが、二葉は混乱するままに奇声を発した。ぼくは、二人よりも何倍も焦っていた。ぼくの左腕は、完全に消失していたからだ。
「令。当たり前のこと聞くけど、左腕の感覚はあるのか?」
「うん。でも、やっぱり何も触れることが出来ないや」
ぼくは、肩を回すくらいが精一杯だった。実際には左腕も動かしているのだけど、その腕が現実に変化をもたらすことはなかった。間もなく、ぼくは安堵の溜息と共に、左腕を取り戻した。それからは、自分の醜態を安易に消して誤魔化そうなんてことは、二度と思わなかった。
ハジメが再び教室に戻ったときには、少し暗い顔をしていた。ぼくの所に来て、念を押すように言った。
「零の力に頼ってはいけない。やがてその力は失われるんだ。その後の反動は、僕にも予測が付かないんだ」
「まあ、今のを見せられたら、納得いくけどな」
三郎丸は幻でも見せられた様子で、口を挟んだ。
「何かあったのかい?」
三郎丸が先ほどのいきさつを掻い摘まんで、ハジメに説明した。
「なるほど。しかし、それはまだ序の口に過ぎないよ。ぼくは、その魔法を見たことがあるんだ。でも、かなり珍しい魔法だ」
「どんな魔法なの?」
二葉が頬杖を外して、驚いたみたいにハジメに尋ねた。
「それ、存在を消すことが出来るんだ。ただ制約があってね。何か呪者の体の一部か、持ち物を残す必要があるんだ。そうしないと、本当にこの世から全ての存在が消滅してしまうんだ。悲しい魔法だよ」
魔法初心者のぼくには、その時とてもハジメたちの会話に割り込む隙間はなかった。ハジメは、寂しそうな微笑をした。三郎丸も、ハジメの感傷が移ったみたいだった。
「なるほどな。それじゃあ、零の力は神殺し以上ってことか」
「恐らくはね。零をしのぐ魔法使いは、僕の知る限り、未だに存在しないんだ。もっとも僕は、その彼に直接会ったことはないんだがね。それでも、その力が宿る彼の左腕はどれ程のものか、僕には計り知れないんだ」
ハジメは、ぼくに改めて穏やかな眼差しを向けると、ぼくの体を気遣うように肩に触れた。
「令、今日は無理せずに、これまでの課題をこなしなさい。学校は早く帰ってもいい。放課後の居残りも無しだ。また明日から頑張りなさい」
ぼくは、素直に肯いた。
「私も、たまには早く帰りたいわ」
二葉は天井を仰いだまま、皮肉の籠もった言葉を口にした。この頃の忙しさに、不平を唱えるようでもあった。
「済まないが、二葉には至急やってもらいたいことがある」
ハジメはそう言って、また慌ただしく教室を出て行った。二葉はがっかりして机の上に顔を伏せ、狸寝入りを決め込んで動かなくなった。
「死んだな」
三郎丸が二葉を一瞥して腕を組み直すと、目蓋を閉じて嘆くように呟いた。ぼくは、二葉が不憫で仕方がなかった。
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