第8話 零の腕と朝倉
尖塔の教室は夜空の中みたいに、深い闇に包まれている。そこへロウソクを灯したくらいの一つの光源を頼りにして、明かりを取っていた。もちろん、それは魔法の明かりだった。こんな淡い輝きは、この町のどこを探しても見つからない。それほど、夜の町はどこも眩しかった。
ぼくは相変わらず、何の進歩もない魔法の練習を続けていた。ぼく独りではこんな時間まで、真面目に練習しようとは思わないだろう。二葉と三郎丸は愚痴を吐きながらも、ぼくに付き合ってくれる。それに二人と一緒に居るのは、正直楽しかった。
急に背後で今入ってきたように、鋭いハジメの声が、暗い教室へ響いた。ハジメは、怖い顔をしていた。
「折角のところ悪いんだが、今日の居残りは中止だ。令は、急いで帰りなさい」
「どうしたの? ハジメが取り乱すなんて、あまりないわね」
二葉も三郎丸も、怪訝そうに振り返って見ている。ハジメの顔色が、見る見る青ざめていくのが分かった。
「ちっ、遅かったか!」
「どうして、子供がまだここへ残っている?」
黒い影が苛立たしく出現し、マントを翻して男が姿を見せた。初めて目にする顔だ。男は土気色のやつれた頬を、フードの下から覗かせている。
「それは、僕のことを言っているのかい?」
ハジメが、皮肉たっぷりに男へ返した。男は忌々しそうに舌打ちをして、ぼくらを睨んだ。
「ハジメのことじゃない。そいつらのことだ!」
「止めないか。味方同士でいがみ合って、どうする」
続いて別の男が闇の中から、それも同時に二人も現れた。こちらも、疾風の如くマントを翻した。目の細い、穏やかな表情の一人が、最初の男を咎めるように言った。
「仲間? おいおい。いつから我らは、子供のお守りをするようになったんだ」
「何だと!」
さっきとは別の男が、最初の男に毒突いた。ハジメは呆れたように、二人の間へ口を挟んだ。
「どうしてお前たちは、血の気の多い奴ばかりなんだ。少しは頭を冷やしたらどうだ」
「もうそのくらいにしよう。我々は子供も大人も関係なく、同志のはずだ」
目の細い男が、ハジメに詫びるふうに目配せした。最初の男も、ようやく悪びれた態度を見せた。
「済まなかった。この頃は物騒でな。臆病風に吹かれたのかもしれない。そうだ。仲直りの握手をしよう」
その男の行動は、そこに居た誰も予測していなかった。気付いたときには、男はぼくの前に立っていた。ハジメの声は、ぼくを制することはできなかった。
「令、それに触れてはいけない!」
「もう手遅れだ。おや、おかしいな。何の反応もない」
ぼくは、初めてその男が片目であることを知った。左目に黒い革製の眼帯をしていた。男は、左手を差し出した。ぼくは、一度出した手を引っ込めて、改めて左手を伸ばした。何かが変だ。まるで不気味な物に、手が触れたみたいに弾かれた。男は、にやにやしていた。ハジメが、酷い剣幕で近づいてきた。
「僕の前で、よくもやってくれたな!」
「まあ、そう怒るな。呪いは制御されている」
「何が制御だ! 呪いを、完全に制御できる者など居ない」
「別に何ともないじゃないか。それとも、この小僧に零の魔法を教えたのかな?」
片目の男は、太々しく笑った。ハジメは男を無視して、ぼくの側に来た。
「令、何ともないね?」
ぼくは戸惑いながら、ハジメの心配した声に肯いた。
「おい、あれって零の腕なのか?」
「どうかしら、私は初めて見るけど」
三郎丸と二葉が、深刻そうに話している。男が、ぼくに差し伸べたのは、彼自身の腕ではなかった。古布で厳重に巻かれた、腕時計を着けた不気味な腕だった。ぼくは、それとは知らずに零と呼ばれる腕を握ってしまった。それは、誰も敵わなかった、カウンターゼロの魔法を操る魔法使いだった。が、零はその左腕を残し、忽然と姿を消した。零のその後の消息は不明だった。もっぱら死んだという噂だ。零の残した左腕には、強力な魔法が掛けられている。呪いの魔法だ。迂闊にそれへ触れれば、どんな呪いを被るか分からない。もっとも片目の男が言ったように、零の左腕には何重にも封印が施されているのも事実だ。それでも、手に余る代物だった。
「ハジメ、済まなかった。どうも雲行きが怪しい。みんなピリピリしている。ここが狙われている」
細い目の男が、神経質に周囲を警戒する目付きを繰り返した。教室の中は、多少闇が濃くなった程度で、先ほどと何一つ変わっていなかった。ハジメは、わずかに眉をひそめた。
「それは、僕が居るからなのか?」
「それもある。ただそれだけでは、説明が付かない」
「ここに何があると言うんだ」
「分からない」
「大丈夫だね。令は、もう帰りなさい」
ハジメは、ぼくの左腕を何度も確かめて触った。ハジメの小さく柔らかな指が触れると、不思議と穏やかな気持ちになった。どんな経験をすれば、その体とちぐはぐな包容力が生まれてくるのか、全く計り知れない。細目の男も、ハジメのすぐ横に立って、心配そうにぼくを見詰めている。
「令というのか、この新人は。いい名前だ。悪かったな。仲間の非礼を許してくれ」
細目の男は、ぼくが大丈夫だと分かると、安堵したようにそう言って頭を下げ、ぼくに微笑んだ。ぼくは、マントの男たちに軽く会釈して、尖塔の教室を後にした。外はすっかり夜だった。ぼくは街灯を頼りに、薄暗い通学路をとぼとぼと家路に就いた。
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