第7話 二葉と三郎丸

 その日は尖塔の教室で独り、ぼくは姿を消す魔法を練習していた。

「我が姿を隠せ!」

 頭の中でそう囁くと、ぼくの姿が消える。正直自分では、あまり実感が湧かない。確かに腕や足は見えなくなっている。が、自分の姿なんて、鏡に映さない限り見えなくて当然だ。残念なことに、この教室には姿見は置かれていなかった。

 ハジメの快活な声がした。気付かないうちに、ぼくの隣に立っていた。

「どうやら魔法が使えるようになったね。自分の姿は消せても、物だけを勝手に消すことは出来ない。ただし長い間、触れていると、手が離れてからも少しの間、その物は消えているんだ。でも、やがて自然と姿を現す。魔法の効果が無くなるみたいにね。そんなに長い時間じゃない。もっとも呪いを掛けられた物は、別だがね。よく頑張った。姿を消す魔法は、合格だ!」

 ハジメは、次に机と椅子と一緒に姿を消す課題を与えた。しかし、ぼくに取って、それは想像を遥かに超える難解な課題だった。これまで出来ていたことが無に帰すほど、ぼくには進歩が見られなかった。

「なぜ机と椅子と、一緒に消える必要があるんだ?」

 ぼくは、上手くいかない苛立ちを紛らわせるために、教室の席でぼんやりしている二葉に聞いた。

「ここが教室だからよ。ここが体育館なら、跳び箱やマットと消える。それだけのこと。戸外なら、そうする必要はないけどね。ゴミ箱や自動販売機と一緒に消えても、何の得もないでしょ」

 二葉の答えは、的を射ているようで、よく分からない。二葉に、机や椅子と一緒に消える骨を尋ねても、ぼくには何の役にも立たないだろう。諦めてぼくは、また独りで姿を消す魔法を反復する。

「机や椅子を、自分の手足と思いなさい。そう二葉は言っただろ」

 三郎丸は、魔法の上達しないぼくを見兼ねて、さり気なく声を掛けてきた。ぼくは、聞いてないと首を横に振った。その日も、三郎丸は緑のジャージだった。ここへ来て、彼のジャージ姿以外、見掛けたことがない。

「それは賢明だな。あいつの発想は、凡人には分からんよ。天才だからな。だが、魔法に関しては、一番の努力家だ。伝わりにくいという難点を除けば、二葉から学ぶことは多いはずだ」

「二葉が天才?」

 ぼくは、天才という言葉がピンと来なかった。三郎丸は机の上で片膝を抱え、考え深そうにしゃべった。

「あいつは、本物の天才なんだ。俺は、ただの馬鹿だった。なぜ俺には、椅子がないと思う?」

 ぼくは、首を傾けた。三郎丸は一瞬、にや付くように白い歯を見せ、真面目に話すことでもないと前置きをした。

「もちろん、俺は机の上に座る方が楽だからということもあるが、そうじゃない。昔、うっかり魔法が解けてしまったんだ。椅子から手を放していることを忘れていたんだ。当然、机は大丈夫だったが、椅子は姿を現した。何とか机と俺は難を逃れた。が、椅子は失ってしまったんだ。俺は、自分のことを天才だと思っていた。ハジメに名前をもらったとき、姿を消せたのは、俺一人だったからな。机や椅子を消すのも訳もなかった。二葉は二週間経っても、自分の姿すら消せないでいた。そんなあいつを見て、馬鹿にしていた。が、馬鹿だったのは、俺の方だ。天才は二葉だった。令。天才と凡人の違いは、何だと思う?」

 ぼくは、返事に困って首を振った。三郎丸は、日差しが射してきたみたいに目を細め、含みのある微笑を見せた。三郎丸の周りには、いつも太陽の光に照らされているような、陽気さが漂っていた。それが雨の日に、前日の晴天を顧みるふうに話し始めた。

「それはな。満足するかどうかだと、俺は思っている。あいつを見ていると、そう気付かされるんだ。俺は自分一人が課題をこなせて、有頂天になっていた。だが、二葉は決して自分一人が何か成し遂げたとしても、少しも満足していないんだ。口ではああ言っているが、心の内では常に先のことを見据えているんだな。ほんと、あいつには頭が上がらないよ」

 三郎丸は両足を振って、机から勢いよく飛び下りた。

「ぼくだって、天才じゃないや。これが簡単にできたら、誰かに自慢したくなる」

 三郎丸は、ちょっと驚いた表情を浮かべた。たちまち笑顔を取り戻し、力強く「そうだな」と返した。

「おしゃべりは、そこまでにして、そろそろ練習を始めたらどうだ」

 いつの間にか、ハジメが後ろで腕組みをしている。相変わらず、小憎たらしい少年の容姿をしている。

「言われた課題は、もう出来たのかい?」

 ぼくは、しょんぼりした小犬みたいに口を歪めた。ハジメは深い溜息を吐くと、落胆の色を見せた。今度は親爺みたいな子供が、目の前に居る。こっちまで溜息が出そうだ。

「仕方ない。とにかくノートと教科書くらいは、消せるようにしてくれ。そうしないと、令はこれから先も一般教養は受けられないことになるぞ」

「馬鹿に、急がせるじゃないか」

 三郎丸は腰に手を当てて痛くなった所をほぐしながら、浮かない様子のハジメを見詰めている。

「まあ、たくさん時間を割いたからと言って、必ずしも魔法が上達するとは限らない。切っ掛けさえ掴めば、順調に魔法を習得した奴の方が多いんだからな」

「とにかく急ぐんだ」

 ハジメは、珍しく声を荒らげた。その日はどこか不機嫌で、口数も少なかった。さっき用事があると言って出て行った後から、急に態度が変わった。まるで別人のようだった。

「令。今日の放課後は、居残りだな。三郎丸と、あと二葉にも付き合ってもらうよ」

「俺もか。まあ、構わないけど。どうせ、俺はいつも最後まで残っているからな。それで二葉の奴、今どこに居るんだ?」

「二葉には、大事な用事を頼んでおいた。直に戻るだろう」

 三郎丸はハジメの言葉を聞くと、胡散臭そうに眉をひそめた。

 ぼくはハジメに居残りを命じられ、放課後は尖塔の教室に残っていた。学校の簡素な机と椅子を前に、独り立っていると、汗のにじむような表情をして、二葉が現れた。

「遅くなって、ごめん。さあ、とっとと始めて早く終わらせましょ」

「三郎丸は、一緒じゃないの?」

 ぼくは、長い階段を一気に駆け上がってきたみたいに、疲れた様子の二葉に尋ねた。二葉は呆れた素振りで、右の手首を返して手のひらを見せた。

「三郎丸なら、そこに居るでしょ。――あんた、ずっとそこで見てたの?」

「いやー。二葉大先生が来るのを、首を長くして待っていたのさ。俺が適当に教えると、令が混乱すると思ってね」

 三郎丸の姿が、ぼくの目と鼻の先に突然と浮き上がって、机の上であぐらを掻きながらにや付いていた。

「分かった、分かった。面倒臭いから、すぐに始めるわよ。――そうね」

 二葉は憎らしそうに言って、鼻をつんとさせた。が、それにはこだわらず、続けた。

「そうだ! 令。まずは机や椅子を、自分の手足と思いなさい」

「ほらな。言っただろ!」

 ぼくは、三郎丸の言葉に思わず吹き出しそうになった。必死に我慢して肯いた。三郎丸のおどけた調子も、笑いをそそった。

「どうしたの? ニヤニヤして気持ち悪い。私、何かおかしな事言った?」

 ぼくは、慌てて両手を振って否定した。

「さあ、やってみなさい」

 二葉の助言も虚しく、ぼくの魔法は上手くいかなかった。気を落とすぼくに、二葉が言った。

「令は、まだ机と椅子が、体と一体になっていないのよ」

「それって、どう言うこと?」

「どう言う? うーん、なかなか説明は難しいわね。笑ってばかりいないで、少しは三郎丸も手伝いなさいよ」

 三郎丸は、二葉の普段にはない悪戦苦闘する姿が、笑いの壺にはまったようだ。お腹を抱えて苦しそうに堪えている。ぶぶっと動物の鳴き声みたいなのが、聞こえてくる。

「ぶぶっ、そうだ。あれを探せば、いいじゃないか!」

 三郎丸が笑いを噛み殺した後に、苦もなく妙案を声に出した。二葉はピンと来て手を打ち、納得したようだ。

「あれね。でも、どうせ無理でしょ。そっちの方が、時間が掛かるかもしれないわ」

 ぼくには、そのあれについて、思い当たる節がなかった。

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