第6話 姿を消す魔法とクラスメート
ぼくは大変な思いをして、慣れない尖塔の階段を上る。妙な犬に構っている時間は無かった。昨日までなら、それでも何とか教室に滑り込めたが、もうその手は通じない。遅刻の罰みたいに、この長い階段を上らなければならない。しかも毎日だ。階段を上り切って、既に問題児決定の覚悟で、尖塔の教室へ忍び込む。重々しい扉は開けっ放しで、誰の姿も見えない。見えないが、ここではそれは誰も居ないことを意味しない。ぼくは、まるで誰かがそこに姿を消して、潜んでいるふうに警戒しながら、きびきびと動いた。不意をついて、振り向いたり、泳ぐみたいに手で探ったりした。何とも間抜けな格好で、やるせない。そうして、ぼくは自分の机までたどり着く。椅子に座るのと同時に、ぼくは臆病に体をびくつかせた。
「令、遅いぞ!」
誰かがハジメの口調を真似して怒鳴った。初音だった。教室の入口から、顔だけ見せている。
「ふふふ。ハジメが、今日は忙しいから見てやれない。一人で昨日教えた魔法を練習しなさいって。それじゃ、頑張ってね」
ぼくにそれだけ伝えると、初音は素っ気なく行ってしまった。それでも、ようやく教室に誰も居ないことが確認できた。ぼくは正直、ほっとした。また誰かが行き成り現れ、驚かすのは勘弁して欲しかった。
それがラッキーだったのか、それともアンラッキーか。クリーム色の壁と灰色の床に、机と椅子だけある殺風景な教室で、ぼくは姿を消す魔法を練習する。
「我が姿を隠せ!」
その呪文を頭に浮かべても、口に出してみても変化はなかった。呪文は間違っていないし、やり方の問題だとすると、魔法に関して無知な、ぼく一人ではお手上げだった。そもそもこんな魔法なんて、まるでイメージが湧かない。消えている物を想像する難しさは、不可能に近い。言葉や映像にだって、表現することは難しいだろう。しかし、ぼくは昨日、それを嫌というほど見せ付けられた。その光景は鮮明に思えているはずだ。ぼくは昨日の記憶を手繰り寄せ、呪文を唱えてみる。が、何となくそれは釈然としなかった。ぼくは無意味に呪文を唱え、何の成果も得られずに、午前中を過ごしていた。
「おい、そんなに向きになっても仕方がないよ」
「えっ? 誰」
「昼休みは、ちゃんとご飯を食べて休んで、また午後から頑張れば」
姿のない声が、教室に響いた。ぼくは、突然の声にも驚かなかった。誰かが気遣って、励ましてくれた言葉だった。
「そうする」
ぼくは、素直にその声に感謝した。ちょうどお腹も空いていたし、成功しない魔法の練習にも飽きていたところだった。ただ誰かがそう言ってくれなければ、練習をしないといけないという義務感だけに囚われ、無闇に時間を費やしていただろう。
それからも、誰かがときどき、ぼくに声を掛けてくれた。それはいつも姿の見えない誰かで、決してその正体を明かすことはなかった。ぼくは三日目にして、その意味に気付いた。それは、ぼくがこの魔法を意識するために、意図的に姿を隠していたのだった。それでも、三郎丸だけは放課後になると、緑のジャージで現れた。
「令、お疲れ様。今日はもう帰ってもいいぞ」
その時、ぼくはドキリとした。三郎丸が意外な所から、突然と現れたのではない。ぼくが魔法の練習に没頭していたからだった。
「令、どうだ。少しは出来るようになったか?」
ぼくは、素早く顔を振った。それだけで、一度も成功していないことは伝わった。不意に何かの輪郭が浮かび上がって、学生机が現れた。三郎丸は、その上に当たり前のように腰掛けた。
「まあ、焦っても仕方がない。そうだろう」
三郎丸は、ぼくに優しい言葉で慰めた。ぼくは、冴えない気分のままだった。
「令。何だ、もう音を上げたのか?」
「そうじゃないけど。でも、まるで成功する気がしないよ」
「ふふ。まあ、誰だって最初はそうさ。魔法なんて、全く知らなかったんだからな。戸惑うのは当然だろ」
「三郎丸も、そうだったの?」
「あっ、俺か? それが、そうでもなかったかな。まあ、たまたま上手くいったんだ。いや、上手くいったと思っていたんだな」
ぼくは、そうなんだと意気消沈してうな垂れる。
「まあ、そんなに落ち込むな。誰もが通る道だ。それに、これはこのクラスに在籍するための、条件でもあるんだ」
「それって、この魔法が出来ないと、ここから追い出されるってこと?」
「まあ、そう言うことだな。へへ」
三郎丸は、爽やかににや付いた。
「そ、そんな。前のクラスも追い出されたばかりなのに、ここを追い出されたら、もう行く所がないよ!」
「大丈夫だ。令なら、きっと上手くやれるさ。ここに来たってことは、何らかの見込みがあるってことだろう」
ぼくは三郎丸に穏やかに慰められ、放課後の教室を後にした。長い階段は、朝より一段と長く感じられた。ぼくの足取りも、自然と重くなった。この重さは、学校で一日過ごした放課後の気だるさに似ていた。少なくとも、その日の一日は以前よりも充実していた。
それからも、尖塔の教室には、姿のない声が時折起こった。ハジメからの用事を伝えに来たり、たわいの無い会話をしたり、時には助言をくれたりした。ぼくがこの魔法を成功させるまでは、みんな姿を現さないつもりだ。一人だけの教室を眺めると、寂しくなることもある。が、それは結局は、魔法に馴染みのない、ぼくのためにやっていることだ、と割り切るしかなかった。実際に、このクラスの生徒は、お節介なほど親切だった。無関心だった前のクラスと比べれは、天と地ほどの開きがある。特にその中でも、面倒見がいいのは、緑のジャージの三郎丸と、意外にも初日に刺々しい態度を見せていた、二葉だった。もっとも二人は上級生で、魔法に関してもかなりの腕前だったから、ハジメのように指導する立場にあった。
「それじゃあ、一生やっても姿を消す魔法は成功しないわね」
「そんな」
ぼくは、二葉の厳しい声に吐息を漏らす。
「令、何か肝心なこと忘れてない?」
ぼくは、ゆっくりと肩をすくめた。
「呪文を唱えることに、必死になっても意味はないのよ。魔法は想像力が大切なの。しっかりとそれをイメージしないとね」
「でも、消えているものをどうやって、想像するのか分からないよ」
誰も居ない所から、呆れたような声が返ってきた。
「はー、そもそも根本が違っているのよ。いい、令。消えているところじゃなくて、消える瞬間を考えるのよ。あれだけ、みんながやって見せたでしょ」
「消える瞬間? うーん、そんなの覚えてないよ。だって、一瞬だったし、気付いたときには、みんな居なくなっていたよ」
「それはね。一瞬で消えなきゃ、実践じゃあ使い物にならないからよ。でも、ハジメが分かるように、やって見せたでしょ」
「ハジメが?」
ぼくはしばらくの間、その時のことを思い返していた。少年の後ろ姿が、クリーム色の壁に溶け込む光景が浮かんだ。
「そう言えば、そうだったね。でも、それって使い物にならないんでしょ」
「そうだけど。今はゆっくりでも、魔法の感覚を身に付けておくことが先決なのよ」
ぼくは、二葉の言うことに分かったと返事した。しかし、理屈は理解しても、ぼくの魔法は全く進歩は得られなかった。何度となく呪文を頭の中で繰り返し、ハジメがやって見せたように、すーと姿が消えるところを想像してみた。が、やっぱり上手くいかない。誰かが、ぼくに話し掛けてきた。
「ねえ、ひょっとしてハジメが消えるところを考えてない?」
「そうだけど。どうして?」
ぼくは、姿のない声に導かれるように答えた。この教室で、何もない所から人の声がするのは、日常になっていた。今の声は、初音だった。
「やっぱり!」
「どう言うこと?」
ぼくは、一人で狐に摘ままれた人みたいに聞き返していた。
「えーとね。ハジメじゃなくって、自分が消えるところをイメージするのよ」
「自分が? あっ、そうか。でも、よく分かったね。頭の中のことなのにね」
「そうじゃないよ。これ、二葉の言付けなの」
「えー、二葉が。ありがとう」
「えっ、どっちに言ったの?」
「ああ、両方にね」
「二葉にお礼を言うなら、直接言ってね。私、伝言係じゃないんだから」
「ごめん。分かった。そうする。でも、初音ありがとう」
「いいよ。気にしなくて」
ぼくはそれでも、うんと返事した。初音は姿を現さないまま、そよ風が吹き抜けるくらいに、どこかへ行ってしまった。ぼくは、次第に魔法が成功する自信が湧いてきた。自信満々で、呪文を頭に浮かべていた。
「我が姿を消せ!」
そうして、自分が消える姿を想像した。でも、何も起こらない。どこかで、クスクスと忍び笑いがした。気のせいかもしれない。それでも、ぼくは明らかに魔法の骨を掴みかけている。あと少しで、成功しそうだった。そして、何かが足りないようにも思えた。が、それも時間の問題だった。
三郎丸が教室に現れたとき、ぼくはその事をお願いした。三郎丸は、すぐにそれを快諾してくれた。
「ああ、そんな事なら造作もないことだが、どうしたんだ?」
「うん、後で話すよ」
「よし、分かった」
三郎丸は、ぼくの言った通り姿を消してみせた。それと同時に机も見えなくなった。消える瞬間は、全く分からなかった。ぼくはそれを見て、少し頭を傾げる。思っていたのと違っていたのだ。
「どうした? 令。これじゃないのか」
「ううん。この前みたいに、机がゆっくり現れたのを期待していたんだ」
「なるほど。それって、こう言うことか」
三郎丸は、ぼくの曖昧な説明も簡単に理解してくれた。そうして、今度は机から降りて姿を消した。すると、三郎丸の机が、ゆっくりと消えたのだ。ぼくは、その様子を見逃さなかった。期待通りの結果が得られて、満足だった。
「これだよ!」
「へへ、そうか。それで、これが一体どうしたんだ?」
「ああ、うん。それがね。姿を消す瞬間が見たかったんだ。でも、みんな動作が早過ぎて、参考にならなかったんだよ」
「なるほどな。でも、よく机のことに気付いたな」
「ああ。それはこの前、三郎丸が来たとき、机がゆっくり現れたからね」
「えー、そうだったのか。それで、何か掴めたのか?」
「うん、何となくね。見てて」
「よーし、分かった。やってみろ!」
ぼくは、三郎丸の前で姿を消す魔法を試した。
「我が姿を消せ!」
ぼくが、その呪文を思い浮かべた途端に、奇妙な感覚を覚えた。それは、初めての経験ではなかった。これに似た感覚は、どこかで覚えがあった。三郎丸の爽やかな表情を見ただけで、ぼくの魔法が成功したことは明らかだった。その時を堺に、姿のない声はなくなった。このクラスのみんなは、ぼくを同じクラスの生徒と認め、自然に姿を現すようになった。
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