第5話 ブルドッグと死体
ぼくは、新しい名前をもらった。令という名だ。その日を境に、ぼくの世界は一変した。それと同時に、過去の名前をまるで思い出せない。ぼくは、本当は誰だったのか。誰でもないのかもしれない。
学校が終わると、ぼくは普段通りに、街中のマンションへ帰宅する。玄関の扉の先は、ガランとしてやけに広く感じられた。上がり口をまたいで、慌てて振り返る。そこには、ぼくの脱いだ靴だけが見える。
見知らぬ部屋へ侵入するくらい、そわそわする。ぼくの足は、不思議とこの部屋の間取りを熟知しているように、躊躇わず奥へ向く。板張りの鈍く光る廊下を伝って、突き当たりの部屋を覗く。十畳ほどのダイニングキッチンには、夕食が用意されている。誕生日のお祝いみたいな献立だ。お数は、好物のコロッケだった。これは間違い。ぼくはそれでは満足できず、部屋中を隈無く歩いて、手当たり次第に扉を開けた。開けた所をじっと見詰める。リビングや、使っていない部屋にも、絨毯や畳の凹み、壁の日焼けした跡が残る。ここに何かが置いてあった。今は無くなっている。
ぼくは、何の解答も得られないまま、黙って食卓に座る。好物のコロッケは、揚げたてみたいな音がする。それが虚しくキッチンに響く。風呂も沸いているし、着替えも揃っている。不自由はしない。風呂が済むと、自分の部屋へ入った。この部屋だけは、何一つ変わらない。使い古した学習机や窮屈なベッド、漫画だらけの本棚も昨日と同じだ。が、考えることは、昨日のぼくからは、想像も付かないことをばかりだ。昨日のぼくは、何を考えていたか。頭をひねってみても、何も思い出せない。
翌朝、ぼくは当たり前のように、尖塔の教室を目指す。朝食も用意されていたし、弁当も持ってきた。おやつだって取ってきた。ただぼくは、マンションから一人で出た。通学路で出会った嫌な奴らは、新たな標的を見つけ、脇を通っても知らん振りだ。いつもと同じようで、何かが違っている。
ぼくは登校の途中で、見覚えのある景色を目にする。傷だらけのランドセルを背負った少年が、大きな家の立派な鉄柵の門扉を前にしゃがみ込んでいる。ぼくは、気の毒そうに顔をしかめる。門扉の向こうに、大型の犬小屋が置かれていて、そこへ頭を突っ込んだ、酔っ払いのような一匹のブルドッグが、短い後ろ脚を伸ばして倒れている。ブルドッグは、ピクリとも動かない。イタズラ好きな小学生が挨拶代わりに、それを棒で突っついて、からかっているのだ。死んでいるのかと思えるほど、反応はなかった。一通り突き回した少年は、満足して登校を再開した。それを日課にしていると考えると、ブルドッグが不憫でならない。ぼくが、門扉の中を確かめると、だらしない下半身が見える。もう少し奥へ潜ればイタズラされないのにと、その無様な姿を見つける度に思うのだが。ブルドッグには、ぼくの心配など分かりはしない。いつも犬小屋の前で、力尽きて倒れているのだ。あまりに動かないので、ぼくは不安になった。が、じっと眺めていても、何の解決にもならないことに、次第に苛ついてきた。
「おい!」
ぼくは、小声で叫んだ。ブルドッグは、当然何の応答も見せない。先ほどの少年の残した木の棒を眺めて、一瞬これであの憎たらしいお尻や肉球の辺りを突っつくことを思い描いた。それでは、少年のイタズラと変わらないと思い止まる。その代替として、ぼくはポケットからビスケットを取り出していた。
「やっぱ無理か」
しつけられた飼い犬なら、決して知らない人から食べ物を欲しがらない。諦め掛けたぼくは、突然と間違った現実を見たように叫びそうだった。犬小屋から、もう一つの顔が飛び出していた。正確には、そのブルドックの頭が、不自然な格好で現れたのだ。ブルドッグの頭は、じっとこちらを見ている。死んだように寝そべった下半身は、ピクリともしなかった。ぼくは、自分の目を疑った。それもそのはず、次にはその下半身を踏み付けて、一匹のブルドッグが走ってきたからだ。そのブルドックは期待を反さず、ぼくの前に来ると、高校球児さながら、見事なヘッドスライディングを見せて、また倒れた。その直後、ぼくは恐怖におののいた。目の前に、数頭のブルドッグが倒れているのだ。走ってきたのは一匹のはず。どれも同じに見える。先ほどまでは、何も居なかった。それが、ぱっと出現した。ブルドックは、微動だにしない。死んでいると言ってもいい。普通の人なら、すぐに悲鳴を上げて逃げ出す事件に相当するが、ぼくは昨日のこともあって、意外に冷静だった。それよりも、何となく気になっていることがあって、それを実行に移した。それはよく見ると、どれも本物の犬の死体だった。その中に、一匹だけ息を荒くする死体が紛れていた。ぼくは、その鼻先にビスケットを近づけてやった。鼻が、ひくつくのが見て取れた。ぼくは、たまたま運が良かったのだ。そいつは交換条件で、ぼくの警戒すべき行為を見逃してくれた。もしぼくが差し出したビスケットが、そいつの好物でなかったら、手痛い歓迎を受けていただろう。ぼくはビスケットを差し出して、そいつを軽く撫でてやった。その時、また不思議な感覚が、ぼくの中に注ぎ込まれた。そいつは死んでいる振りして、ちょっとくすぐったそうに体を反らした。
「ああ、いけない。遅刻する! じゃあね」
ぼくは、そのブルドックへ言って、学校へ急いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます