第21話 幻のサンドイッチと颯人
ぼくが、午後の静かな廊下をぶらついていると、突然誰かに呼び止められた。ご機嫌で随分と馴れ馴れしい声に、ぼくは戸惑った。その声には、確かに聞き覚えはある。が、懐かしい気分にはなれなかった。
「令くん、こんな所で何しているの?」
眠そうな目が、その日に限って糸のように笑っていた。ぼくは、あっと口を開いて言葉に詰まった。顔は記憶に留めていても、名前は忘却されていた。ぼくの代わりに、男の子が答えた。
「颯人だよ。僕のこと忘れたの? 寂しいなー」
颯人は、それには大してこだわらず、妙ににやにやして、自慢話の一つも披露したい口振りだった。ぼくがそれを指摘すると、図星だったみたいに颯人は瞬きをした。
「何で分かったの? 令くん、まさか読心術でも使えるようになった?」
「そうじゃないよ。顔に書いてあるからね」
ぼくは、いつの間にか颯人の調子に乗せられていた。からかわれているようで、冗談のつもりでやり返してやった。
「えっ、本当に。それはまずいよ。僕、これでもポーカーフェイスを気取っているんだけどね」
颯人は頬に両手を当て、乱暴にさすった。のっぺりした顔が、引っ張られてよく伸びた。最後にぴしゃりと頬を軽く打った。
「それで、どうしたの?」
「ああ。令くんは、お昼はパンとか買わないの?」
「うん。弁当あるからね。それに、そこに行っても、売り切れていると思うんだ」
「そうだよね。僕らは明らかに不利な場所から、戦場に赴かないといけないからね!」
「そんなオーバーな」
ぼくは、苦笑いした。そんなぼくに、颯人は真剣な眼差しを向けた。
「そんな悠長なこと言ってられるのは、令くんが昼休みの購買部を知らないからだよ!」
「そうだけど。そんなに凄いの?」
「あれは、本物の戦場と言っても過言ではないよ。まあ、僕らがたどり着く頃には、既に戦いは終わっているけどね」
「それじゃあ、昼はパン買えないじゃない」
「そうなんだよ。だから、大概は外のコンビニで済ませるしかないんだ。でもね。みんながこぞって買っているのを見せられると、こっちだって我慢できないだろ」
ぼくは、すっかり颯人の話に釣り込まれていた。一度、そのパンを購入してみようかと願望まで抱いた。
「あっ、分かった。そのパンが買えたんだ」
「令くん、なかなかいい所突くね。でも残念。パンは買えなかった。食べることは出来たんだ。令くんのお陰だよ。だから、お礼を言いに来たんだ。令くん、本当にありがとう」
颯人は真顔で言った。冗談とも思えない。ぼくには、全く思い当たる節がなかった。謂われのない感謝ほど、迷惑なものはなかった。
「ぼくのお陰って、それどう言うこと?」
「ううん。詳しいことは、ちょっと話せないけどね。気になるかい」
「でも、話せないんでしょ」
「まあ。そうだね」
颯人は一度口を濁して、また言い直した。ぼくは、だったらいいやとつれなく返した。颯人は、気の毒に思ったのか、言葉を加えた。
「そう。何だか僕だけいい思いして、悪いな。何か他のことなら、穴埋めできるけど。あるかい?」
「それじゃあ、この前見せてくれたの教えてよ。手品みたいなの」
「手品?」
颯人は、これかいと答えて、白いハンカチと百円硬貨を手にした。硬貨をハンカチで隠すと、すぐに消してしまった。ぼくは、自然と語調を強めた。
「そうじゃなくて、机と椅子の方」
「あれか、残念。取って置きは、一度しか見せられないんだ。それに、あれは手品じゃないよ。ぼくの魔法だ」
「そうなんだ」
ぼくはがっかりして、颯人のおどけた顔から、少し目を逸らした。颯人は、そんなぼくの気持ちを察してか言葉をくれた。
「じゃあ、一ついい事を教えて上げるよ。今日は気分がいいから特別だよ。令くん。今、幾つ魔法覚えてる?」
「うーん」
考えるほどでもなかった。ぼくは、たった四つの魔法しか覚えていない。消える魔法と、それを見る魔法、物の性質を変える魔法、あとはカウンターだ。
「四つか。でも令くんは、他にも魔法が使えるみたいだね」
ぼくは驚きで、すぐに聞き返した。
「それって、神殺しなの?」
「ううん。そうじゃないよ。恐らく呪いの掛かった物に、知らないうちに触っちゃったんだね」
颯人は、わずかに首を振って答えた。使える魔法が少ないぼくには、それでも有り難かった。
「それって、どんな魔法なの?」
「ううん。じゃあ、ヒントを上げようか。それに触れたとき、普段じゃ感じない不思議な感覚が起こっただろ。それさえ分かれば、後はその時の状況を思い出せばいい。魔法は、意外なほど簡単に使えるよ」
ぼくは、颯人の言う普通じゃない感覚を頼りに、記憶をたどってみた。魔法初心者のぼくには、尖塔の教室に来てからの体験は、全て普通じゃないように思えた。思い出しているうちに、特定の光景がそこだけ選んで写真に撮ったときのように、連鎖的に浮かんできた。委員長の顔、家庭科室で出会った女の子、前の教室に紛れた黒猫、最後になぜか死んでいるブルドッグの姿が見えた。その時の感覚は、はっきりと覚えている。
「令くん、やっぱり君は凄いよ。期待以上だね」
ぼくは、はっとして我に返ると、颯人を見た。彼は目で、ぼくの足元を示した。そこに、さっきのブルドッグが横たわっていた。
「これ、ぼくがやったの?」
颯人は、そうだよとけろりと言った。信じられない。よく見ると、それは死体のようだった。
「こんな魔法、どうすればいいの?」
「ふふ、確かに癖のある魔法だけどね。この犬はどんな使い方をしていたんだい?」
「うん。確かたくさんの死体の中に、隠れようとしていたよ。息が上がっていたから、すぐに区別が付いたけどね」
「ふふ。その犬にも、なかなか興味がそそられるけどね」
颯人は愉快そうに笑った。それから、急に慌ただしくした。
「ああ、僕そろそろ行かなきゃ。ああ、そうそう。美味しかったよ。やっぱり幻というだけのことはあったよ。それじゃあね」
颯人は行ってしまった。ぼくは、独り取り残された気がした。一体、何が美味しかったのか分からなかった。
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