第15話 逃亡と十郎

 とうに日没を過ぎた通学路には、人工的な街灯の明かりがみなぎっていた。それでも、ときどき道は寂しいくらい薄暗くなった。人通りも途絶え、車も走らなくなった。高速道路の高架橋を見上げながら、次第に不安になる。その真下にある小さな公園には、明かりは点っていなかった。そこは、いつ見ても誰も遊んでいなかった。

 ぼくは少し気弱になって、早足に歩く。気が付いたときには、誰かの気配を感じていた。それがさっきの公園から、ぼくの後を付けてきたように思えた。それも、決して姿を現そうとしない用心深い相手だ。

 ぼくはこれまで、ハジメや同じクラスのみんなに不意を突かれてきたから、そういう隠れた気配にも敏感になっていた。しかし、怪しい気配はどこまでも、ぼくの後を追ってくる。そこは、しばらく長いコンクリート塀が舗道に迫って伸びていた。ぼくは不審な気配に怯えながら、そこを黙って歩いた。これだけ見通しのいい所を歩き続けているにもかかわらず、後ろには誰も見えなかった。高い塀があるだけで、どこにも身を隠す場所は無かった。ぼくは、とうとう我慢できずに、震える声で誰も居ない所へ叫んでいた。

「誰?」

 すぐに声は返ってきた。怒鳴るほどではないが、威嚇する闘犬くらいの男の声だった。

「姿を消しているのに、見えているとは。貴様、魔法を知っているな。何者だ? 答えろ!」

「魔法? 何それ。そんなの知らないよ!」

「嘘を吐くな。現に姿を消している、私が見えているではないか。いや見えてはいないのか。それなら、なぜ驚かない。まるで魔法で身を隠す人間が存在することを、知ったような口振りだな。やはり怪しい奴!」

 そう聞こえると、誰も居ない所に一筋の光が灯った。ぼくは、やられると思ったときには、ポケットから紙切れを取り出していた。目の前の光が急に勢いを失うと、その代わりに灰色のマントの男が現れた。老人のように酷くやつれた顔は、深い皺が何本も刻まれていた。その険しい表情が、不意に綻んだ。マントの男は、ぼくが手にした紙切れを、不審そうに見詰めている。

「ううん。魔法を知らんと言った癖に、ふふふ。随分と厄介な物を持っているじゃないか」

「これ、何なの?」

「何かと? ははは。お前、それの意味も知らずに持っていたのか。止めだ、止めだ。素人相手に、本気になるとは情けない。済まんかったな、驚かせて。だが、お前は私の尾行に気付いておっただろう。おかしな奴だ。お詫びに教えてやろう。それは、魔法を防いでくれる。そして、敵に攻撃されたことを伝えてくれる代物だ。その魔法の札を迂闊に攻撃してしまえば、どこまでも追ってこられるからな。これは確か……。ハジメの所の者か?」

 ぼくは答えに困って、目を逸らせた。マントの男は、気にせず笑いながら言った。

「ははは、安心しろ! 無用な争いは好まん。私は追われる身なのでな。警戒し過ぎてしまったようだ。きっとその腕のせいもあるだろう。どうしたんだ、それは?」

「うっかりね。触ってはいけない物に、触らされたんだ」

 マントの男は、眉をひそめた。

「呪いの物か?」

 ぼくは、小さく肯いた。

「しかし、仲間の中に、そんな厄介な物を触らせる奴が居るとは、何とも惨い話だな」

 マントの男は急に顔色を曇らせ、嘘を吐いている様子は見えない。本当に不運なぼくの左腕に、同情しているようだった。悪い人には見えない。

「でも、その人は学校の人じゃないんだ。初対面だったんだ」

「ううん。だとしても、酷いことには変わりはなかろう。下手をすれば、腕の一本や二本、失っていたぞ。しかし、お前はいい奴らしいな。名を聞こう」

 ぼくは、ドキッとしたが、躊躇わず答えた。

「ぼくは、令! おじさんは?」

「はは、おじさんと来たか。十郎だ。だが、この名は本名だからな。他言無用で願いたい」

「うん、分かった」

「それから、頼みついでに、もう一つ頼まれて欲しいことがあるんだが」

 十郎は言い辛そうに、口を結んだ。

「どんな事? ぼく、下っ端だから大したことは出来ないけどね」

 ぼくは暢気に言って、後で恥ずかしくなった。十郎はそんなぼくを見て、にやりとした。

「それは分かっておる。安心せい。ただ、ちと面倒な頼みでもある。うむ。実は頼みというのは、ハジメに会わせてもらいたいのだ」

「それなら、ぼくにも出来そうだ」

 ぼくは、明るく答えた。が、十郎の顔は冴えなかった。

「待て待て、そう簡単にはいかないだろう。私は追われる身であっても、令たちと敵同士なのだ。ひょっとしたら敵の罠かもしれない。迂闊に味方の大将を会わすのは、危険なことなのだぞ」

「あっ、そうか。でも、十郎さんは悪い人には見えないけどね」

 十郎は、嵐が吹くように豪快に笑った。

「私を高く評価してくれるのは嬉しいが、世の中いい奴ばかりではない。特にその腕に呪いを掛けた奴には、十分気を付けた方がいい」

「ありがとう。それじゃあ、ハジメに聞いてみるよ」

 その時、十郎の顔が先ほどにも増して、険しくなるのが分かった。鋭く辺りを警戒した。

「令、誰かと一緒にここへ来たのか?」

 ぼくは、否定した。ぼくが後ろのただならぬ気配に気付いたときには、既に二人のこんな会話が聞こえてきた。間違いなく、二葉と三郎丸の声だった。

「令に、上級魔法使いの知り合いなんて居た?」

「俺たちの他は、居ないな」

「それって、敵ってことよね」

 しかし、そこには誰の姿も見えない。ぼくは無意識のうちに、隠れし者を見破れと頭に呪文を描いていた。目蓋が急に熱くなって、二葉と三郎丸が風のような勢いで迫ってくるのが分かった。その光景は、以前この魔法を使ったときと違って、歪んでいなかった。

「ほ、ほー。そんな珍しい魔法が使えるではないか」

 十郎は感心して唸った。ぼくには、一瞬何が起きたか分からなかった。二葉の体が、地面すれすれを滑空するツバメのように、さっと加速し迫ってきた。そう思ったときには、二葉は、まるで一人の攻撃とは思いないほどの数の拳を、次々に繰り出している。それでいて、二葉自身の体は舞うように、滞りない足さばきを繰り返している。ぼくは、自分の目を疑った。時折、二葉の腕が何本も生えて現れ、拳を振るっていたからだ。それだけではない。二葉の上半身までもが、幾つにも分身し、すぐに消えている。これが、二葉の魔法なのか。ぼくは、初めて見る戦闘に驚愕した。五対一、いや十対一で戦っているみたいだ。

「令、大丈夫か! 怪我するから下がっていろ。よーし、二葉そろそろいいぞ」

 二葉に遅れて、三郎丸が攻撃の態勢を整える。これから、全力で相手を叩きのめすという構えだ。ぼくは、慌てて三郎丸を制した。

「駄目だよ」

「令、何でだよ。こいつ敵だろ!」

 三郎丸は出鼻をくじかれ、ぼくを睨んだ。

「後で話す。今は、二葉を止めないと」

 ぼくは、二葉と十郎が戦闘を繰り広げている渦中へ走った。

「その人は駄目だ!」

 二葉が烈火の如く、素早い連撃を畳み掛けるところへ、ぼくは運悪く飛び込んだ。二人の間に割って入る形になったとき、ぼくは二葉の強烈な拳を顔面に食らい、吹き飛んだ。ぼくの体は地面で三度転がって、ようやくそこで止まった。

「何やってるの、令! あんた死にたいの?」

 ぼくは、幸運にも気絶せずに済んだ。が、この間抜けな体を張った行動が、功を奏したのか、二人の距離を離した。が、実際は仲間を危険に曝しただけの失策だったのだ。

「魔法の腕前は、さっぱりだが。物分かりは、彼の方がいいようだな。出来れば、一時休戦を願いたいが、如何かな? 呪われた赤い衣を身に纏う者よ」

 十郎の口元が、不適に吊り上がった。距離を取ったことで、十郎は多少の有利を確信していた。

「私の秘密を知っているなんて、ただ者じゃないわね。弱っているうちに、倒しておかないと、次はこっちがやられる番になる。令、ちゃんと生きてる?」

 ぼくはうめき声を上げながら、顔を起こした。二葉と十郎の間には、まだ緊迫した空気が漂っている。

「う、ううん。だから、二葉。そうじゃないんだ。この人は大丈夫。敵でも、味方でもないんだ。戦ってはいけないんだ」

「味方じゃなきゃ、敵でしょ。違う? じゃあ、何だっていうの?」

「この人は、敵に追われているんだ」

「は、はーん。余程おいたが過ぎたのね。敵からも、味方からも追われているなんて」

 二葉は、そこでようやく矛を収めた。が、いつでも戦いを再開できる姿勢を崩していなかった。まるで警戒を解いていない。二葉の頭髪は常に逆立って、強い静電気を帯びたくらいに、髪の毛一本一本が浮遊して見えた。二葉は一瞬、ちらりと背後に目を向けた。

「ハジメ、もう来てるでしょ。早く出て来てよ」

 遠くの方から子供の声が、急いで近づいてくる。

「おーい、おい。ぼくは、二葉たちのように足が速くないんだから、そんなに急かさないでくれ!」

 慌ててきたみたいに、苦しそうにハジメが走って現れた。その後ろには、ムラサキの姿も見えた。

「それで、ぼくに何か用かな?」

「随分と暢気な登場じゃないか。噂とはまるで違っているようだ。姿も変わっているしな」

 十郎は灰色のマントを一度翻して、それで完全に体を覆った。

「魔法使い一人に、あまり大袈裟に出来ないのでね。おや、どこかで見たような顔だが。しかも穏やかな場面でもあるまい」

 しばらくハジメと十郎は、互いの腹の内を探るように黙っていた。

「この人が、ハジメに助けて欲しいんだって」

 ぼくは、十郎の言葉を代弁して言った。

「それは出来ない」

「どうしてなの?」

 ぼくは、尚も鋭い眼光を放ち続ける、ハジメに尋ねた。少年の顔が一瞬、憎悪に歪んだ。それはぼくではなく、十郎に向けられたものだ。

「こいつは、僕らの仲間を何人も殺してきた。その罪も忘れて助けろとは、そんな虫のいい話はないぞ!」

 そこには、先ほどの太々しい敵の姿はなく、ただやつれて疲れ果てた顔の男が立っていた。男は静かに口を開いた。

「確かに、そう言われても仕方がない。それでどうする? 私を捕らえるか? それとも、その仲間のように殺すのか?」

「うちには無用な敵を閉じ込めておくほど、余裕は無いんだ。それに戦う意思のない相手を殺すほど、残忍でない。それに放っておいても、そっちが敵同士で潰し合うんだ。わざわざそれを助ける必要もあるまい」

「なかなか抜け目のない奴だな。確かに立場が同じなら、私もそうするだろう」

「でも」

「令、分かっている! 少し黙っていてくれ」

 ハジメは、ぼくを一瞥した。その眼差しには、既に怒りも憎悪も宿っていなかった。いつもの曇りのない輝いた少年の瞳に戻っていた。

「仕方がない。今回だけはうちの生徒に免じて、三日分の食料を用意してやろう。が、それ以上は何も出来ないぞ」

「分かった。それで十分だ。そして、ありがとう。令とやら」

 十郎はマントから頭を出すと、深々と礼をした。ハジメは、十郎を待たずに言った。

「それじゃあ。明日のこの時間、場所はどうする?」

「そこの公園がある」

「よし、そこに置いておこう。誰かに持って行かれても責任は取れないけどね。その仕事は、令に任せるよ」

 ぼくは、思わず身をひるませた。

「えっ、ぼくが!」

「これは、令が持ち込んだ問題だ。責任を取ってもらわないとね」

 ハジメはすっかり教師の顔に戻って、ぼくを諭すように言った。それから、十郎へ向かって挑発するように叫んだ。

「おい。魔法感知は、出来るんだろうな!」

「ははは。今更、私を愚弄するつもりか?」

 十郎はマントを頭に掛けると、遠雷のように豪快に笑った。全く怒る様子もない。十郎は最後にもう一度頭を下げて、暗闇に紛れてしまった。

 ハジメはようやくほっとして、ぼくを見詰め直した。さっきの続きをするみたいに話した。

「令。明日は、これまでの成果を試す番だ」

 ぼくは、ハジメの言っていることが理解できなかった。二葉が十郎が去ったのを認めると、ぼくへ近寄ってきて、怒った顔を突き出した。また殴られるのかと驚いたくらいだ。

「令。あんた、分かってる? 敵に塩を送ったのよ!」

「ごめんなさい」

「いいんだ。結果的には、敵同士で潰し合ってくれれば、万々歳なんだからね。でも、もうこんな事は止してくれよ。敵に一々同情してたら、命が幾つあっても足りない。今回は、たまたま運が良かったんだ。もう次は無いと思った方がいい」

 ぼくは、ハジメに酷く叱られると覚悟していた。ハジメは随分と疲れた表情で、ぼくを慰める程度に注意しただけだった。

 翌朝、ぼくはベッドの上で体を起こしたときも、尖塔の教室へたどり着いたときにも、元気が出なかった。昨日の思わぬ出来事に、まだ興奮が冷めないでいる。その日も、教室には誰も居なかった。ぼくは独りで机や椅子と一緒に姿を消す練習する。一時間ほどして、ムラサキと静が予期しない所から出現し、ぼくを怖がらせた。抱えてきた地味な黄土色のリュックは、カボチャの実くらいに膨れ上がっていた。

「ごめん、ごめん。練習の邪魔しちゃったね」

 ムラサキをにや付いて体を震わせ、呆然とするぼくへ声を掛けた。重そうにリュックを背中から下ろした。

「これ、昨日の男の食料。出来ればリュックと一緒に姿を消し、公園に置いてくるようにと、ハジメに頼まれた」

 ムラサキがリュックを、ぼくに手渡した。

「ねえ、静もあそこに居たの?」

 静は目だけぼくへ動かし、小さく頭をこくりとさせた。

「私は、いつも隠密行動。そこに居ても、絶対に姿を見せない」

「そうなんだ。全然、気付かなかったよ」

 静はどうやっているんだろう。その時は、疑問が湧いたが余計なことに頭を割く余裕が無く、ぼくは止めにした。ムラサキは、「それじゃあ、頼んだよ」と言って、また二人は姿を隠した。

 ムラサキも静も、簡単に手にした荷物と一緒に消えてしまう。昨日は、静に習った魔法が、あんなに上手くいった。あの時は無我夢中で、あまりその感覚が思い出せない。

「何か切っ掛けが、掴めればなあ」

 そう考えても、何も浮かばない。その日、二葉と三郎丸は教室に現れなかった。二葉はいつも忙しそうだが、三郎丸は用事があっても、昼休みには必ず教室へ上がってくる。まだ昨日のこと、怒っているのかと心配になった。

 三郎丸は、昼は大概あんパンと牛乳を手にしていた。いつも同じだが、飽きる様子もない。

「ソウルフードっていうだろう。俺は、これが好きなんだな」

 そう言って、あんパンを齧っては、牛乳をちびちび飲んだ。酒の肴で晩酌する、親爺みたいに見える。ぼくはいつも朝、食卓に置かれた弁当を持ってきた。購買部に行っても、たどり着くころには、食べ物はほとんど売り切れている。三郎丸が、どうやってあんパンを購入できるのか不思議だった。二葉もたまには昼食を共にするときがあるが、彼女も家から弁当を持参してくる。ぼくの物とは全く中身が違っていた。いつも食卓に置かれている弁当も食事も、ぼくには誰が作ったか分からなかった。二人に聞いても知らないと言って、自宅はそういう家事には困らないように、魔法が施してあるとだけ教えてくれた。

 昼を少し過ぎて、初音と久太郎が教室へ入ってきた。ぼくの間抜けな格好を目撃し、くすりと笑った。ぼくはその時、学生机を前に椅子に座って、背中には十郎へ届けるリュックを背負っていたのだ。

「やってるね。頑張って!」

 とだけ労いの言葉を残すと、二人はすぐに居なくなった。ほとんど会話もしたことがなかった。初音は八番目で、久太郎は九番だ。初音はショートヘアに、前髪をピンで留めて、額を隠していた。肌は透き通るくらい白く、大きな綺麗な瞳をしていた。小柄で手足が細かった。久太郎も痩せていたが、こちらは身長が飛び抜けて高く、一層ひょろ長く見える。バレーボールやバスケットボールの選手みたいで、とても魔法使いという感じはしない。それに反して、久太郎は典型的な魔法使いという格好を取っているらしい。久太郎は、いつもどこか天井の低い所を潜るように、猫背気味に体を曲げていた。

「久太郎の恵まれた身体は、魔法使いには不向きなんだ。目立つことと、的が大きいのは、魔法使いに取って致命的な欠陥だからだ。あいつは、そういった面では一番苦労しているだろう。自分の個性を生かせないんだからな」

 三郎丸が、そうぼくに話してくれた。

 午後の普通科での授業が終わると、ぼくは急いで学校を飛び出した。午後五時までに、食料の入ったリュックを届けるように頼まれていた。ぼくは、姿を消す呪文を頭に浮かべる。リュックだけは、消えずに宙に浮かんでいる。

「これじゃあ、余計に目立ってしまう。とにかく公園に急ごう」

 約束の五時が迫っていた。公園に人影は無かったが、鳩がそこを寝床にして、何羽も群がっていた。ぼくは手頃なベンチを見つけた。そこへ座ると、数羽の鳩は食べ物を漁りに近寄ってくる。

「リュックをこのままにして、置いて行けない。鳩が突いて駄目にする」

「我が姿を隠せ!」

 ぼくは、呪文を唱えた。やっぱりこの魔法の進歩は得られない。リュックだけが見えていた。何度かやり直しても、やっぱり結果は同じだった。鳩はぼくに構わず、リュックに興味を示し始めた。ぼくは姿を消しているのだから、このリュックは忘れ物くらいに思っているのだろう。持ち主の居ない物なら、彼らの自由にしてもいいはずだ。

「やっぱり、ここには置いておけない」

 あれこれ悩んでいるうちに、ぼくはたくさんの鳩に囲まれていた。どの鳩も、リュックに夢中だ。ぼくは、その中に一羽だけ、ぼくの存在に気付いて、じっとこちらを警戒する奴を見つけた。灰色の鳩の中に、真っ白な羽の奴が居る。もちろん、ぼくは姿を消しているし、鳩には見えないはずだ。ぼくは、公園に人の居ないことを確かると、リュックをベンチに置いて、ゆっくり離れてみた。当然、他の鳩はリュックに釘付けだった。が、その白い奴だけは、ぼくがどこへ場所を変えても、確実にぼくを見詰めている。

「不思議な奴だ。こいつは、姿を消しても、ぼくが見えているんだ」

 ぼくはその鳩を見ていると、普段には感じたことのない力に触れた感覚を覚える。これが魔法の力なんだ。そんな気がした。とても穏やかな気分になった。ぼくは、その鳩に倣って心を鎮めると、もう一度リュックを背負って、呪文を頭に浮かべた。まるで背中のリュックのことを忘れてしまうくらいに、呪文の言葉が頭に描かれた。

「我が姿を隠せ!」

 すっとぼくの姿が消え、鳩が驚いたようにざわついた。急に獲物を失った鳩たちは、がっかりしたみたいに、あちこちに散らばり始めた。

「消えてる。今度は、リュックも一緒に消えている」

 ぼくは、ようやく二番目の課題に成功した。ハジメに言われたと通り、公園の木の陰にリュックを隠すと、そこを去った。その時、誰かが「上手くいったな。ありがとう、恩に着る」と礼を言ったように聞こえた。ぼくは振り返らずに、そのまま真っ直ぐに家路に就いた。

 次の日、ぼくは教室に到着すると、一番に昨日のことを思い出してみた。机を前に椅子を引いて腰掛ける。机の上に手を載せ、心を穏やかにした。リュックのときと同じだ。机のことも椅子のことも考えず、ただ呪文に集中した。

「我が姿を隠せ!」

 ぼくの姿も、そして机と椅子も消えている。自然と顔がにやけてくる。そこで、ぼくはある疑問に突き当たる。

「ちょっと待って、これでどうやって椅子と机を教室まで運ぶんだ。座ったままじゃ、運べないじゃないか」

 困っているぼくに、誰かが笑い掛けた。ハジメだった。

「ようやく課題がこなせたようだね。上出来だ。令は、今回格段に魔法が上達している。よく頑張ったね。ああ、それから例の男は、無事に荷物を受け取ったようだね。ご苦労様。今回の課題も合格だ」

 ハジメのこんな晴れやかな笑顔を見るのは、久し振りだ。慌ただしかった教室に、束の間の平穏が訪れたように思えた。ぼくも、いつの間にか笑っていた。それも長くは続かなかった。ハジメは、ふと眉間に皺を寄せ、躊躇い勝ちに口を開いた。

「済まないが、次は少し予定を変更して、実践に入るからね。せっかく手に入れた力なんだ。これを使わない手は無いだろ。少し準備するから、待っていなさい。準備ができ次第、誰かに頼んでおくよ。ああ、そうそう。そう言えば、さっき困っているようだったね」

 ぼくは、慌てて肯いた。

 「椅子と机は消せるようになったけど。これを教室にまで持って行くのは、大変だと思っていたんだ」

 ぼくは、机を少し持ち上げて見せた。ハジメは、ぼくの困った様子を見て、笑顔を取り戻した。

「それには、別の魔法も必要だね。物を小さくしたり軽くしたり、持ち運んだりする魔法を学ばなければいけない。あるいは、物質その物の性質を全く別の物に変える魔法の方が、応用の幅も広いし、一つの魔法で済むかもしれない。でもね。便利な魔法は、とかく習得が難しいんだ。うーん、どっちがいいだろう」

 ハジメは目を伏せると、しばらく唸って考え始めた。が、目を開けて、ぼくを見た。

「よし。選択は、令に任せるから、考えておいてくれ」

 ハジメは、ちょっと投げやりな口をして、他に伝える事はなかったよねと確かめた後、急ぐように教室を出て行った。

 そこから数週間、ぼくは実践的な訓練を行った。その間もハジメや二葉たちは、繁雑な日々を送っていた。この学校に危険が迫っている。今思えば、切っ掛けはそれだったのかもしれない。

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