125.井戸の怪異3④(怖さレベル:★★★)

「……ッ!?」


俺は、今度こそ声を失いました。

俺たちが、死にもの狂いで離れようとした、井戸。


それが、三度目の前に現れたのです。


「嘘だろ……あり得ねぇ……!!」


俺がかすれ声で叫ぶと、巌が途切れ途切れに、


「俺も……あれから逃げようとして何度も、

 何度も井戸んところに戻ってきたんだ……」


と、諦めたような眼差しでつぶやきました。


「何度も……でも、ずっと同じ。グルグル回ってるんだ……」


ボソボソと語る巌に、俺は焦燥と混乱でギリッと奥歯を噛み締めました。

あの女が、ゆらゆらと背後からペースを変えずに

追ってきた理由も分かりました。


逃げられない。

だからきっと、俺たちが絶望して疲れきるのを待っている。


「くそっ……どうしたら……」


小戸木がイライラと女との距離を確認しつつ呟きます。


それらしき黒い影は一定の距離を保って、

こちらを伺うようにジッと佇んでいました。


(朝まで待つか……いや、今はまだ二時前……いくらなんでも、長すぎる)


あの化け物がそれまで襲ってこないとも限りません。


(こうなりゃ、もう強硬突破で……!)


合宿所のガラス窓から、中へ飛び込む!


俺がそう決意したのを見計らったかのように、

女はゆらりゆらりと身体を揺らしつつ、

定まっていた距離を徐々に詰め始めてきたのです。


「お、おいっ……なんか、近づいて来てるぞ……っ!」

「……こっちだ!」


俺は巌を引きずりつつ、小走りで合宿所の壁に沿いました。


「な、なにしてんだ!! 早く、逃げねぇと……!」


小戸木が慌てたような声を出す中、


「窓から、飛びこむ!」


と、俺は言い放ち、巌を足元に横たえると、

全力でガラスにぶつかりました。


――ドン!!


しかし。


「……なんで、だよっ……!」


まるでアスファルトに体当たりしているかのごとく、

体が弾き飛ばされるだけ。


「クソッ……!」


ためらう気持ちで、力が入り切らなかったか。

もう一度、と俺は今度こそ全力でガラスにぶつかりました。


――ドン!!


「ウソ、だろ……っ」


しかし。やはりガラスはビクともしません。


それどころか、振動で揺れすらしないのです。


「ちくしょう……っ!」


これもあの化け物のせい、なのか。と舌をうった時、


「巌! 時田! ヤベェよ!!」


せっぱつまったような小戸木の声に、ハッと顔を上げました。


「ヒッ……!!」


ゆらゆらと、背後から迫ってきていた女の姿が、

すでにかなり近くの距離までやってきていました。


その距離約三メートル。

濡れた前髪に隠れた表情も、下手したら見えてしまうほどの。


じりじりと女が歩みを進めるたびに、

ビチャビチャと水滴の下たるような音が、残響のように響いてきます。


「クソッ……!」


巌はいつの間にやら気を失っており、

叫んだ小戸木は再びどこかへ逃げ出したようでした。


もはやどうすることもできないと絶望しながらも、

俺は三度、ドン――!! と窓ガラスに全力でぶつかりました。


しかし、やはりガラスはビクともしません。

跳ね返された体の痛みに呻いていると、


「……ムダ」


耳に、息がかかりました。


「あ……あ……」


おぞましい予感に、全身ががくがくと哀れなほどに震え始めます。


首筋に感じる冷たいなにか。

視界の端に映る、湿った黒い髪――、


「が……あ……っ」


濡れた髪が、ズルズルと首を、頬を這うように伝って、

口の端をスルリと撫でました。


「ぎっ……ぎひっ……」


足元から聞こえた巌の悲鳴。


目玉だけ動かしてそちらを見ると、

気を失った巌の口に黒い固まりが入りこみ、

ゴボゴボと喉を鳴らしています。


目は白目を剥き、だらだらと涙を流すその姿。

自分も、ああなってしまうのだろうか。


「……いっ、いやだァァアア!!」


ガバッ、と全身をがむしゃらに動かし、

背に覆いかぶさる女を思い切り突き飛ばしました。


離れたすきに見えた髪の隙間の、

恐ろしいほどに怨みのこもった、暗い瞳――。


「……あ」


それに気をとられ、俺はその力を入れた拍子に、

頭を井戸にしたたかにぶつけてしまいました。


「う……ぐ、う……っ」


視界に星がまたたき、冷たい痛みが頭全体に広がります。


視野はどんどん暗くなり、薄く見える視界の中で、

あの女がゆらゆらとその場に佇み、ジッとこちらを凝視していました。


(くそっ……)


しかし、俺の抵抗できたのもそこまで。


グラグラと揺れる船の中にいるような強烈な目眩とともに――

そのまま、気を失ってしまいました。




翌日。


俺は先輩に叩き起こされて目が覚めました。


なんでも、井戸の隣で地面に突っ伏して転がっていたところを、

発見されたのだとか。


朝日の光があんなに眩しく温かく感じたのは、

生まれて初めてのことでした。


俺は合宿所を抜け出してそんなところにいたことを

先輩や講師の方々にこってりと絞られ、

また、井戸の蓋を壊したことにも言及されました。


しかし、俺を含め、

あれを壊したのは小戸木でも、巌でもないはずなのです。


誰も、俺たちの言うことを信じてはくれませんでしたが――。


小戸木と巌はその合宿が終わってすぐ、会社を辞めてしまったようです。


あの短い付き合いでしかなかった俺には、

彼らと連絡をつける手段もなく、現在に至るまでその後の消息はしれません。


俺は今も、あの会社に勤めていますが、

それは義務感でもなんでもなく、ただ、恐ろしいからです。


ほら……ここ、わかります?


この皮膚の変色しているところ……ここ、俺が気を失う前、

あの髪の毛に這われた場所なんです。


毎年研修の時期になると、先輩としてあの場所へ向かいますが、

毎年欠かさず、花を供えて謝罪しています。


この痣が……ジワジワ広がっているように、思えるから。


辞めた二人がどうなったのか……それはもはや、知る由もありません、が。


あの女性から逃げ出し、謝罪の一つもしていない彼らがどうなったか……。


俺はそうなりたくない。


だから……たとえ仕事を辞めたとしても、

あの場所を訪れることを止めるつもりはありません。

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