125.井戸の怪異3③(怖さレベル:★★★)

「……あれ? いないぜ」


おっかなびっくり。井戸の前までやってきた俺たちは、

そこに呆然と立ち尽くしました。


無音に近い、いっそ耳鳴りすら聞こえてくる静寂の中で、

井戸はぼんやりと闇に浮かび上がるばかり。


そこに、巌の姿はどこにもありません。


「おいおい……巌のヤツ、どこ行っちまったんだ……?」


小戸木も、不安と混乱の入り混じった表情で、

ただただ周囲を見回しています。


「もしかして、もう合宿所に戻っちまったとか?」

「いや……俺たちの前を通らずに、中へは戻れないだろ?」


どうこっそり通ろうとしても、俺たちの待機していた場所を通らずには中へ移動することはできません。

つまり、巌はまだ外のどこかにいるという、こと。


(……ん?)


ひらり、と井戸の裏から布がひらめきました。

シャツの端のように見えるそれは、巌の着用していたそれと、よく似ています。


(……驚かそう、って魂胆か?)


小戸木も同じ発想に至ったらしく、

こちらを見てニヤッと笑いました。


となれば、怪しいのは死角となっている井戸の裏あたり。

俺たちは互いに目くばせし合い、

スマホのライトを消して真っ暗にしました。


わずかばかりの星明かりでも、なんとなく互いの位置、

そして井戸の場所くらいはわかります。


「(そっと行くぞ。そーっと……)」

「(わかってる、って……)」


俺たちはヒソヒソと小声でささやき合い、

抜き足差し足で、逆にヤツを驚かせてやろうと、

ゆっくりと井戸に近づきました。


そして、小戸木の頷いたそのタイミングに合わせて、


「……わッ!!」


と揃って大声を上げて回り込みました。


「……うわァっ!?」


しかし。驚きの声を上げたのは、小戸木でした。


井戸の裏、確かにそこには巌がいました。

しかし、その様は異様でした。


だらん、と首を前に傾け、口をわずかに半開きにし、

両手両足を大の字に広げて横たわり、まったく身動きしません。


「しっ……死んでる……!?」


小戸木が、じりじりと後ずさります。


「……いや、息は、ある」


俺がおそるおそる口元に手を近づけると、

呼吸の音が微かに聞こえました。


「……な、……ん……が」


気を失っている様子の巌が、なにごとかをくり返しています。


「おい? 大丈夫か?」


グラグラと肩を揺すると、巌はぼんやりと目を開きました。


「……が」

「オイ?」


焦点を結ばない瞳が俺をとらえた瞬間、

ガバッと彼は身を起こしました。


「くっ……黒髪の女が! 女が!!!」


目を剥いた巌は、鬼気迫った口調で俺の肩を揺さぶりました。


「おっ、落ち着け……って」

「女! 黒い女がいたんだ!! お前ら見なかったか!?」

「お……女?」


ゾッ、と背筋が凍えました。

この合宿所には、先輩や新入社員含め、男しかいません。


女性など、姿かたちすらないはずです。

俺が混乱し、どう答えようか迷っていると、


「あ……あぁ……」


俺たちから離れていた小戸木が、

しぼりだすようなうめき声を上げました。


「小戸木、どうし……」


彼の視線をたどり、声を失いました。


なんの光もなく、夜闇に包まれた、その場所。


井戸の、向こう。

森の方向に、くすぶるような影があるのです。


「ひっ……ヒィィイッ」


巌もそれに気づき、身体を引きつらせました。

伝わってくる全身の震えは、明らかに異常です。


(……女?)


暗さに目が慣れたとはいえ、うっすらとした形しかわかりません。

しかし、ピリピリと肌を叩くような緊張感。


風の音ひとつ。鳥の声ひとつしない、無音の空間。


じわじわと襲う恐怖。

黒い人影は、ただの人ではないという感覚を知らせてきます。


(……さっきの井戸の指の、持ち主?)


脳裏に、井戸のふちにかかっていた、

か細い白魚のような指が思い起こされました。


もし、そうだとすれば。

あれはこの井戸に封じ込められていた、なにか。


つまり、とてつもなく危険ななにか、なのでは――。


「くっ……くるな! くるんじゃねぇッ!!」


硬直して動けないこちら二人に反して、

小戸木は大声で喚き散らし始めました。


「幽霊がなんだ! 生きてる人間の方が強ぇんだぜ!!

 さっさとどっか行っちまえ!!」


ぎゃあぎゃあと大声を上げながら、小戸木はヤケにでもなったか、

携帯のライトをONにして振り回しました。


「お化けってのは、明かりに弱いんだろ!? ほら、食らえーー!!」


と、彼がその光をたたずむ影に向けました。


「い、っ……!?」


喉が引きつりました。

照明に映し出されたその姿。


海中の水草を思わせる、しどどに濡れた長髪。


同様に雫をしたたらせた昔の着物を地面に引きずるようにして立った、

黒髪の女の姿が。


「うわーっ!?」


それを目にした小戸木は、

携帯を放り出し、一目散に走りだしました。


「オイッ、待てって……!!」


未だ身体を痙攣させている巌を放置もできず、

かといってあの明らかに人間とは思えない化け物と対峙することもできません。


小戸木の携帯は沈黙し、辺りは再び暗闇に包まれたものの、

くるぶる女の影はもぞもぞと動き出したように見えました。


「オイッ! 巌、立てるか!?」

「あっ……あ……」


彼はガタガタと歯の値が合わない声を上げつつ、

どうにか俺の方へと視線を向けました。


「う……動け、動けない……っ」

「バカ言うなよ!! アレが来たら死ぬぞっ!?」


ズリズリとむりやり巌の腕を首にひっかけて引きずりつつ、

先に小戸木が逃げて行った入り口の方へと向かいます。


「足ふんばれ!! 追いつかれるぞ!!」

「う……うぅ……終わりだ……取り殺されるんだ……」

「バカ野郎!! とにかく足動かせっ!!」


弱気になる巌の背中をバシバシ叩きつつ、じりじりと歩を進めます。


しかし女は、距離を縮め過ぎず、かといって離れすぎもしない

一定のスペースをとって、静かに後ろから歩み寄ってきています。


姿はうっすらとしか見えないものの、

あの濃厚なよどんだ気配が、いつも背後に存在しているのです。


(ヤベェ……どうしたらいい……?)


お経なんて知らないし、祈れるような神だっていません。

お守りは当然所持していないし、すがれるものなど何もありません。


(クソッ……小戸木のヤツ、自分だけ先に逃げやがって……!)


足の速い小戸木は、すでに声すら聞こえません。

足を引きずるように追いかけてくる影から逃げつつ、

心の中で悪態をついていると、


「……いっ、ひぃいいっ!」

「小戸木?」


目の前から、逃げて行ったはずの小戸木が舞い戻ってきました。


「お前っ……!」

「……へっ? なんで、お前らここに」


キョトン、と首を傾げる男に、イライラと口調を強めます。


「見りゃわかるだろ! アレから逃げてきてんだよ!!」

「いや……おかしい、オカシイって……!!」

「は? 何が」

「だ、だって! 俺、逃げたんだよ……合宿所の入り口に向かってさ!

 なのに……ここに戻ってくるはずねぇんだ……!」

「……は?」


言っている意味が理解できず、俺は硬直しました。


「だから!! 井戸から逃げてあっちへ向かったはずなのに……

 入り口の前通らずに、ここに戻ってこられるわけねぇだろ!!」


小戸木は、半狂乱で声を荒げます。


「いや……お前が気づかず一周してきた、ってだけじゃ……」

「ふざけんな!! ……っ、見ろよ、アレを!!」


暗闇の中でわかるほど表情をゆがめた小戸木が、

声を裏返して一点を指さしました。


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