77.ラベンダーの香り④(怖さレベル:★★★)

(え……)


確かに寝室は玄関側に面していて、

廊下側の窓が開いていれば、そこから

エレベーターの音が聞こえてきても不思議ではありません。


しかし今は、午前四時。


(や……夜勤とか、飲み会とか……夜の仕事の人だっているし、

 べ、別に変なことじゃないさ)


そう何も。

何も怯える必要なんてありません。


ただ、予期せぬ現象が立て続けに起こっているだけ。


それを勝手に、恐怖と結び付けようとしているだけ――。


と。


コンコンコン


「……あ……?」


窓が、叩かれました。


丁寧に、三回。

拳で軽くノックしたような、音。


コンコンコン


もう、一度。


「へ……え……」


身体がエビのようにのけ反り、薄目を開けて

音源の窓へと目を向けますが、

グレーのカーテンに遮られ、その向こうは見えません。


(の……ノック!? しかも、狙ったかのようにこの部屋の窓に……?)


百歩譲って、隣の玄関扉を叩くのならば、まだ理解もできます。


こんな真夜中に非常識な、とは思いますが、

なにか急を要する用事とか、部屋間違いの可能性もありますから。


しかし、今叩かれているのはこの寝室の窓。

それも、このアパートの形状上、ここはただの畳部屋。


物置や空き部屋にしている可能性だってあるのに、

我々がそこにいるのを狙ったかのようなタイミングです。


コンコンコン


髪の毛の一本一本が、静電気実験のように逆立っていくのを感じます。


この窓の外のモノは危険だと、

全身の細胞が知らしめてでもいるかのように。


じわじわと腹の底が冷え切るのを感じて、

オレが思わず後ずされば、コテン、と何かが転がりました。


(し……塩! そうだ、塩だ)


横倒しになった味塩ビンを手元にたぐり寄せ、

オレはジッとカーテン越しの何かを睨みました。


コンコン……コン


窓を叩く音が、徐々に緩慢になってきました。


疲れてきたのか、それとも塩を使われるのを察したか?


オレはじりじりと匍匐前進状態で窓辺へ距離をつめて、

そっと下からカーテンの向こうを伺いました。


ひらひらと風に揺れるカーテンは厚く、

その向こうの影をこちらに見せてはくれません。


キュイィイン……


エレベーターの機械の動作の音。

遠く聞こえる虫のざわめき。


コン……コン……


ノックの音は、さらに勢いを落としています。


(よし……この塩をここに……撒く、か?

 いやでも……人だったらマズイし……)


オレはどうすればいいか悩み――

結局、フタを閉めたままのビンを

トン、とカーテンと窓のさんの間に滑り込ませました。


(よし……これで多少は……)


オレが安心半分、不安半分で

そそくさと寝ていた床の場所へ戻ろうとした時――、


ガッチャン!!


窓の合間から、にゅうっとほの白い腕が伸び――

粉々になった味塩ビンを室内へ室内へ放り投げてきたのです。


「え……あ……?」


窓辺に散らばる、白い粉つぶ。


しかし、それよりなにより。


そのカーテンの合間から現れた、透きとおった白い、腕。


言葉を失っているオレをあざ笑うように

それはするりとカーテンをひと撫でした後、


シュルシュルシュルッ、と白ヘビさながらに

カーテンの向こうへ消えて行ってしまいました。


残されたのは、どこかほんのり香る花の匂い。

つい最近嗅いだ記憶のある、甘く濃厚なラベンダーの――。


「あ……」


オレはようやく、あの居酒屋のトイレにあった芳香剤のパッケージを思い出し、


「え……って、ことは……」


エレベーターで二度すれ違った女性の香りと、

今、イタズラのように現れた透ける腕のことがすべて繋がり、


「……ウソ、だ……」


グルグルと視界が明滅するようにくらみ、

オレの世界はあっけなくそこでブラックアウトしました。




……オレが体験したのは、以上です。


あの、ラベンダーの香りの女性……幽霊。


結局、オレを連れていきたかったのか、

ただからかっただけなのかはわかりませんが、

それ以降……自分の周囲に現れることはありません。


そうそう……あの破壊された塩ビンの末路ですが。


朝ぶちまけられた塩を確認しましたが、皆、一様に

水でもかけられたかのように湿っていて、畳の上でひどい有様になっていました。


窓辺で散乱している味塩を見た友人には、こっぴどく叱られましたよ。


あんな体験をしてしまったせいか、オレはアレ以後、

どんなに飲み会が盛り上がっていようとも、終電前に帰るようになりました。


倉橋には、付き合いが悪くなった、などと愚痴られることもありますが……

あんな恐ろしい体験は、二度としたくないですから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る