77.ラベンダーの香り③(怖さレベル:★★★)

視界の範囲ギリギリ。


うっすらとぼやけるその階段。

そこから、何者かが、ジッと微動だにせずに佇んでいる。


(す……ストーカー? そっ、それとも、不審者?)


目の端をチラチラとかすめるそれは、

焦点がぼやけていて判然としません。


しかし、全体の形状から察するに、

人型――つまり、人間であるには、違いません。


(いや……ま、まさか……幽霊……)


子の刻を過ぎようかという頃合。

オマケに、出るという噂のあるアパート。


妙なモノが出現したとして、

なんの不思議があるでしょう?


「お……オイ、倉橋! 起きろ、って……!」


声を潜めつつ、へべれけの同僚をシェイカーのごとく激しく

揺さぶるものの、彼はへらへらと夢心地で笑うのみ。


(勘弁してくれよ……!)


不審者でも幽霊でも、酔っ払いを抱えた自分にはなにも対処できません。


とにかく家の中へ入ってしまおうと、半ば無理やりにカギを差し入れ、

ガチャガチャと逃げるように家に飛び込みました。


「っ、はぁ……っ」


ドサッ、と玄関口に彼を落とし、即座に施錠します。


念入りにのぞき穴で外に誰もいないことまで確認し、

倉橋の足を引っ張りつつリビングの電気を点けました。


「いい加減、シャキッとしろよシャキッと」


絨毯に全身をうずめている彼の背中を軽く踏みつつ、

こちらも念入りに窓、ベランダの戸締りを確かめます。


「……よし、問題なし」


外部からの侵入はこれで防げるはず。


ヘロヘロとリビングのソファに背を沈めて、

オレは深々とため息を吐きだしました。


あの飲み会でのトイレの怪現象に始まり、

エレベーターの謎の女性、オマケにさきほどの階段の人影。


すべて偶然なのか、はたまた本当にオカルトか?


今までそんな怪奇現象に遭遇したことのない自分には、

それをどう対処すればよいのかもわかりません。


薄ぼんやりとした知識としてあるのは、お寺や神社、

あとは塩とか、お守り……お経……。


「いやいや……そんな、バカな」


半ば真剣に対応先を思案し始めた自分に、

もう一人の冷静な自分がツッコミをいれてきます。


ただの考えすぎ。

夜も遅いし、酒が入って冷静な判断ができなくなっているだけ。


幽霊なんて現れるはずがない。

すべてかん違いなのだと。


「……水、飲むか」


鬱々と考え込んでいても致し方ありません。


家主はグースカ寝てしまっているし、風呂は明日にして、

自分も身支度を整えたら眠らせてもらおう。


そう思い、台所で水を頂戴していると、

視界に入ったのは赤いキャップの見慣れた塩の小ビン。


「…………」


味塩でも、無いよりはマシか?


そんないささか頼りない心の声に従って、

一足先に眠りの世界に飛び込んだ倉橋を引きずりつつ、

寝室へとそれを持ちこむことにしました。




ヒュー、ヒュー……


窓から吹き込む隙間風。


肌を撫でる夜風が、容赦なく体温を奪っていきます。


「さっむ……」


床に転がっていた意識がゆるゆると浮上し、

ズリ落ちていた毛布をグイっと引き上げました。


ぼんやりと壁掛け時計に目をやれば、

時刻は朝の四時になろうかという頃合。


「ふあ……イヤな時間……」


寝ぼけ半分で傍らのスマホの通知を確認し、

もうひと眠りしようとゴロンと横になった時、

ふとそれの隣に置かれている味塩ビンに目がいきました。


(あぁそういえば持ってきてたんだった……バカなことしたよなぁ)


と、夜の闇に包まれ、ボーッと考えていた時。


ヒュー、ヒュー……


「…………」


ヒヤッ、と頬をかすめる秋の風。


(あ……れ?)


確か。この405号室に入ってから、

真っ先に窓もベランダも戸締りを確認したはず。


全て念入りにチェックして、全て施錠した、はず。


ヒュー、ヒュー……


しかし、現実そよ風は部屋に吹き込んできていて、

冷気は皮膚の表面をそよそよと撫でています。


(え、まさか……い、いや、違う違う。そうだ、倉橋が開けたんだろ)


ゾッ、と凍りそうになった身体を抱きしめ、

ふと浮かんだ当たり前とも思える回答に、ホッと全身を弛緩させました。


いの一番に眠ってしまった彼が、

酒でほてった頭でも冷やそうとして窓を開けた。


そう、きっとただ、それだけ。


実際当人は、オレの隣の寝台の上で

平和そうな表情でもぞもぞと身じろぎしています。


(ハハ……ビビりすぎだって、オレ)


自分がここまで臆病だったかと苦笑しつつ、

ゴロンと寝返りを打ちました。


窓があるのと反対方向に顔を向け、

もう妙なことは考えまいとキツく目を閉じたその耳に。


チーン


今日なんど聞いたか知れない、あの電子音が届きました。


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