77.ラベンダーの香り②(怖さレベル:★★★)

「入ってもう二年はたつけど、一度も怪奇現象なんて起きたことねーよ。

 デマばっかいいやがって……あの先輩」


絡み酒気質のある倉橋は、よっぽど腹に据えかねたらしく、

アパートの入口についても、まだグジグジと文句を吐き出しています。


「ほらほら。さっさとエレベーター乗ろうぜ」


夜風にさらされすっかり酔いの抜けた俺は、彼をなだめすかしつつ、

ズリズリと引きずるようにして乗り口の方まで引っ張っていきます。


そのまま、エレベーターのボタンを押そうとして、


チーン


まるでタイミングを見計らったかのごとく、

エレベーターの箱が下りてきました。


「お、ラッキー……あっ」


開いたドアから意気揚々と乗り込もうと身を乗り出し、

ハッ、と中の人影に気づいてたたらを踏みました。


痛み気味の茶髪を腰の下まで伸ばした、一人の女性。


秋口の今、寒いのではないかとお節介をかけたくなるほどの

ノースリーブと薄手のスカート。


長い前髪で、表情ははっきりとわかりません。


「す、すいません……」


慌てて道を開ければ、中の女性は小さく会釈し、

スススッと控えめに脇を通り過ぎていきました。


そして、すれ違う直前。

フッ、と何かの香りが漂います。


(香水……ラベンダー……?)


つい最近嗅いだようなそれに、立ち止まって首を傾げていると、


「ぅお~い……松山ぁ」


完全に酒が回って泥酔状態となった倉橋が、

べちゃりとエレベーターのドアにへばりついています。


「おいおい。ほら足。しっかり立てって」

「んん~……」


あー、だか、うー、だかの母音だけを呻きつつ、

すっかり正気を失った様子でブンブンと首を揺すっています。


割としっかり者の同僚なのですが、

今回のプロジェクトは日程も含めて相当にしんどいものだったので、

それから解放されたとあって、羽目を外しすぎてしまったようです。


「オイオイ。ちゃんと自分ちのカギは開けてくれよ?」


余りの泥酔加減に心配になりつつ、

エレベーターの上昇に揺られていると。


ポーン


チカッ、と二階のランプが点灯しました。


(誰か乗ってくるのか)


倉橋の部屋は四階。

今はすでに日付の変わった深夜。


こんな時間の同乗者じゃあちょっと怖いなぁ、

なんて先ほどの彼の幽霊アパート発言を思い返していると、


チーン


「……う、え?」


噛み殺しきれない悲鳴が零れ落ちました。


ペコリ、と小さく会釈をして入ってきたのは、

ついさっき一階で降りていったのと全く同じ人物だったのです。


秋口の今、寒いのではないかとお節介をかけたくなるほどの

ノースリーブと薄手のスカート。


そしてやはり、表情を隠すかのように垂らされた、長い前髪――。


オレは会釈だけ返してグッと唇をかみしめると、

デロデロの同僚をエレベーターの端に押し付け、

女性から距離をとりました。


もしかしたら。


何か忘れ物をした、とか、急遽用を思い出しただとかで、

戻ってきただけかもしれません。


思いっきり足もあるし、影だってついているし、

いくら、あの離れた後からここに来るまでの速度が異様に速いとはいえ、

これくらいのことで幽霊と決めつけるのは早いと、

オレは警戒しつつも女性の動向を見守っていました。


チーン


しかし、すぐにあの到着音が鳴ったかと思うと、

電光掲示板に表示された三階で、

女性はそそくさと下りて行ってしまいました。


彼女の姿が消えたと同時に『閉』ボタンを連打したオレは、

深々と安堵のため息をつきました。


いくらなんでも考えすぎ、そう自分を叱りつけます。


真夜中といえど、ここに住んでいるのならば同僚の顔見知りかもしれないし、

ちょっと不躾な態度だっただろうか、と今更ながら後悔して緊張した肩をほぐしていると、


チーン


またたく間に、同僚の部屋のある四階へ到着しました。


放っておけば地面と抱き合いそうな倉橋を引きずりつつ、

彼の部屋である405号室に向かいます。



エレベーターのほぼ正面の彼の部屋。


もはや意味のある言葉を発しなくなった彼の懐からカギを失敬し、

さっさと部屋に転がり込もうと戸に向き直った、その時です。


ジーッ……


視界の端。視野180度の左端。

写り込む、何者かの影。


「…………ッ」


ゴクリ、と喉が鳴りました。


灰色のほの暗いアパートの廊下。


虫のたかった蛍光灯が、

ぼんやりと壁にしみ込んだ汚れを露わにしています。


正面には同僚の部屋。


そして左には401~403号室があり、

その先にはらせん状の階段が繋がっています。


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