66.湖のそばの病院②(怖さレベル:★☆☆)

うつ向いていても、目の端でそれが

ブンブンと飛び回っているのが分かってしまうのです。


「ゲホッ……っだから、つまりうちはね、値上げに応じないって言ってるの」


彼女が言葉を強めた瞬間。


「え、いや、ちょっとそれは……っ」


わずかに上げた僕の視界で、

例のモヤが彼女の口腔にブワッと一斉に飛び込んでいくのが見えました。


(……もうダメだ)


僕はそれ以上反論する気力もなく、

ただただ地獄の時間が過ぎ去るのを待ちわびました。




「……疲れた」


心からのため息を地面にボトボトとこぼしながら、

僕は自らの社用車へと乗り込みました。


サイドミラーでちらりと件の病院を見れば、

黒いモヤはまるで飛び回るハチの群れのように、

ブンブンと院の周りを囲っています。


(せっかく、キレイに塗り直したのにな……)


最近塗装を直したのか、まっさらになった壁や屋根も、

あんな不気味な影がいたのでは、魅力的にも見えません。


もちろん、それが見えぬ一般患者には、

なんのこともない開業医にしか見えないでしょうけれど。


(しかし……好き勝手言ってくれるな)


車のエンジンをかけながら、ふつふつと湧いてきたのは怒りです。


さきほど、儲けがない、などと言っていましたが、

駐車場には高級外車が数台停まっているわ、

つけている腕時計やアクセサリーは見るからに豪華だわ、

資金繰りに困っているとはとても思えぬ金遣い。


その上、連絡が遅い遅いと言われていましたが、

値上げの通達自体はもう半年も前からずっと

書面やら電話やらで通知していたのです。


(やっぱ、付き合いを止めるように進言するか……)


ただでさえ、料金の滞納がある上、あんな態度をとられてしまうのなら、

正直、うちにとって何のメリットもありません。


会社に戻ったら速攻上司に今回の相手の態度を伝え、

取引を辞めるように伝えよう、と心に誓った時です。


ボンッ


「…………ん?」


車の外で、小さな破裂音。


今のはなんだ、と目線を開いていたスケジュール帳から上げると、


「……いっ!?」


あの、病院周りにくすぶっていた黒いモヤのカタマリ。

それと同じような小さな集合体が、車の窓ガラスの外にポツンと浮いていました。


「えっ……」


そしてそれは、ふわっと宙に浮きあがったかと思えば、

そのまま黒く明滅しつつ、あの病院の方へと飛んで行ってしまったのです。


(え……まさか)


僕が、あの病院に対して悪感情を抱いた、から?


そんな僕の認識を裏付けるかのように、

デカデカと病院の名前が記された看板には、

グルグルとまとわりつくかのように黒い霧が巻き付いていました。


「…………ッ」


ゾッ、とおぞましさを感じた僕は振り返ることも出来ないまま、

冷や汗をたれ流しながら会社へと逃げ帰ったのでした。




そして、例の産婦人科医院との取引は、

揉めに揉めた挙句、向こうの病院が急遽閉鎖することになり、

終わりを告げることとなりました。


というのも、あの女院長自身に進行性のガンが発見され、

営業を続けることができなくなってしまったからです。


そのガンというのも、普通であれば早期発見ですぐ治癒できるものだというのに、

なぜか検査をすり抜けていたらしく、気づいたときにはステージVという状況。


無論、それがすべて、あの黒いモヤのせい、だなどとはとても言えません。


が、前々から悪評の絶えなかった、あの場所。


人間の負の感情のたまり場となっていたあそこでは、

まったく関係のない話、ではないのかもしれません。


今でも、あの黒いモヤを見かけることがあります。


それは時に霧のようで、ハエの集合体のようで、

また、ただ闇がくすぶっているだけのように思えるときもあります。


そして総じて――それが集う場所は、なにか”ある”ところばかりなのです。


皆さまも、悪評の多いところにはご注意下さい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る