十話

 気がつくと、僕は真っ暗な日の差さない深海を思わせる液体の中にたゆたっていた。驚き「わあっ」と叫んだつもりだが、僕の口からは水泡の一つも出ない。そして、苦しくもなかった。息を、する必要がなかったのだ。そして、身の危険を感じて焦る必要もなかった。最早、僕がすべきことなど何もなかったからだ。僕を包む液体は人肌のような温かさで、四肢に力を入れずとも浮力に身体を任せているだけで、僕は満たされた。飢えも寒さも痛みも不快さもない。ただただ心地よい。この感覚を表現するとしたら……正に『神に抱かれている』という言葉で、祝福と安心と幸福さの象徴として表わせるのである。もっと早くにこの場所へ辿り着いていればと思ったが、何だがその言い方だとしっくりこない。

『僕は戻ってきたんだ』

 そう思った。僕は人として生きる事の苦行からようやく解放され、霊魂となって元いた楽園である天国へと帰ってこられたのだ。スピリチュアルに凝っていた知人の話を聴き流していた時、幽かに頭に残った輪廻や転生の知識の断片が、僕に自分を納得させる為のストーリーを組み上げさせる。自分の今の状況を認識できた僕は「じゃあ、もうずっとここで何もせずに過ごそう」と思い、液体中をボーっとちゆたっていると、ある光る一点が見えた。気になり泳いでそこに近付くと、その点はどんどん大きくなり、横長の長方形となる。長方形は何かを映す画面のようになっており、覗きこむと僕がさっきまでいた廃工場が映っている。

 そして、画面中央にはもぐらと、その横にはカフカスキーもいた。

 もぐらは両手両膝を地面について跪き、両腕で震える上体を支えながら、俯き涙を流していた。

 なぜ、あの強いもぐらが敵だとしていた男の横で、こんな無防備に泣いているのか、僕は、最初は唖然となった。この環境の心地よさも吹き飛び、僕は食い入るようにその画面を見つめる。

『……です。……っぱれですな』

『……なた、……ないの?』

 意識を画面に集中させているためか、もぐらとカフカスキーの会話が聞こえてくる。

『それ、しんどくない?』

『しんどいですよ。しかし、嫌になって投げ出すほど苦痛ではありません。しんどいよりも快楽の方が大きいですからね。なぜなら、私が、自分で、一人で、決めた事ですから』

『私には、もう出来ない。この蚯蚓を殺すことも、あなたを殺すことも……それしかしてこなかった生きる事自体も』

『ふむ。あなたは、私が今まで出会ってきた人の中で、上から五本の指で数えられるぐらいに哀れですな。自分ではない他人の為に身も心も捧げてきた揚句、あなた自身は何の幸福も得ていないのですから。所詮、他人の借り物の意思など折れやすい。そればかりに縋っていたあなたはそれが折れた今、空っぽになってしまった。でも、それはあなたのせいではないのです。あなたにその意思を押し付け服従させた者、世界が悪いのです!』

『あなたが蚯蚓に人を殺させて被害者遺族たちの復讐心を買ったのが、そもそもの始まりでしょ?』

『ありゃ、まあ、それも一理ありますな。私が人の復讐心を利用していないと言えば嘘になりますからな。しかし、私は、人への不信、憎しみから、この人類滅亡、人類から蚯蚓への覇権交代計画を思いついたのですが、別に私自身は復讐心などにとり憑かれているわけではありません。嫉妬、恐怖、不安、怒り、痛みなど、私が抱く不幸全てを失くしたいと思ったのです。そうする為には、まず人類皆の不幸を全て消す他ないと結論しました。皆、不幸だから他人を傷つけるし傷つけられる。ならば、その原因となる不幸を摘むために私はこうして活動しているのです。全ての不幸を消すための私の行いが、別の不幸を生み出す現状をあなたはご指摘なさったが、それは必要悪であり、目的の達成のためには避けては通れぬことなどです。しかし、大丈夫です。私には人を不幸から解き放つ術があるのですから。私の愛しい動物達の仲間になれば私のせいで不幸となったあなたも救われます』

『蚯蚓に殺された人達はどうなるのよ。あなたは人類皆を救いたいとか言っているけれど、殺された人達は不幸じゃない。すでにいないのだから救いようもない』

『あれは仕方ないのです。私の蚯蚓が獲物に選ぶ人間というのは、傲慢不遜の人の苦しみなど想像しようともしない、平気で人を傷つける人間です。実はそういう人間は、私の救いなど求めないし、受け入れない。私の計画の邪魔となります。だから、蚯蚓が内に取り込んだ人間の過去の憎しみの記憶から、そういう者たちを排除するようにプログラムしている訳です』

『じゃあ、私が蚯蚓に寄生したら、一番にあなたを殺すでしょうね』

『ハハッ、御冗談を。あなたが憎んでいるのは、あなた自身ではないのですか?』

『蚯蚓に寄生してみれば分かることね』

 何を言っているんだ、もぐらは。もしかして、蚯蚓に寄生するつもりなのか。そんなおかしいよ。もぐらは蚯蚓に寄生してしまった僕を殺してくれるんじゃないのか。だって彼女は、カフカスキーと蚯蚓を狩る使命を持つ気高いハンターで、強者のはずなのに。僕は、彼女に一言を言いたかった。

 僕は長方形の画面に頭を押し付け、無理矢理画面の中へと入り込んだ。すると、頬に冷気を感じ、錆臭さと埃が混じった空気が鼻をつく。視界が開けた。もぐらとカフカスキーが目の前にいる。僕の頭が蚯蚓の口越しに外に飛び出したのだと分かった。彼らがびっくりした顔でこちらに目を向ける。

「おやおや、自ら外の世界に顔を出すなんて珍しいですな」

「叶笑児……」

 もぐらが僕の元にやって来る。僕は外の世界のあまりの寒さと不快さに表情を上手く作れず、口も動かしにくかったが、なんとか言葉を絞り出す。

「こ……殺してくれ」

 もぐらは僕の顔に手を添えて、哀しい笑顔で僕に告げる。

「ごめん。私、もう殺せないの。叶笑児、私のこと、憎んでる? 食べてもいいよ。私には、ここで叶笑児に食べられるか・蚯蚓に寄生するか、どっちしか選べない」

「僕が、君を憎む訳がない」

 そうだ、僕は、自分の不甲斐無さを彼女のせいにしただけで、心から彼女を憎むなんて出来るはずがないのだ。僕は「どうせ、もぐらが殺してくれる」と、なんて安易に蚯蚓に寄生してしまったのであろうか! 彼女も一人の少女なのだ。そんな少女に自分の命の責任を背負わせようとした僕のほうが憎い。彼女はもう折れてしまった。さっきまでの僕と同じように絶望に怯えている。ならば、僕に出来ることとは、彼女を絶望の淵に先導し、底の下に埋まっている希望を見せることだ。

「君の本当の名は?」

「私は……思い出せない」

「じゃあ、僕の好きな人、君も蚯蚓の中で暮らそう。これからは自分だけの幸福の為に生きられるよ」

「目的もなく、一人ぼっちで、ただ生きるのは辛くないかしら?」

「そもそも生きる目的だとか、人との繋がりを欲するのは、生きる事自体が辛いからで、蚯蚓の中なら、生きる努力なんてこれっぽちもしなくていいんだ。だから、辛さを耐えるための目的も、他人との絆もいらない。もし、一人ぼっちになることが不安なら、こうしてさ、蚯蚓の口から顔出してさ、また話せばいいじゃないか。蚯蚓になっても、僕達、対話することは出来るんだよ」

「そう、なら、いいかもね」

 彼女は涙を拭い、初めてみる優しい笑みを浮かべた後、決心したのか顔を強張らせ、カフカスキーの方へ振り向き彼に願う。

「私に絶望を下さい」

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