八話

 O駅を後にした僕はとぼとぼと帰路につく。これからどうしようか? もぐらがいなくなったところで、僕の人生は終わらない。僕が死なない限り、僕はこのつまらない世界を観測し続ける。日は沈み、明日はまた来る。

『あなたは、一人で変わらなくてはいけない』

 別れ際の彼女の言葉を思い出す。どうやって変われというのだ。フリーターなんて辞めて、ちゃんと働けばいいのか? 


 やってやろうじゃないか。


 僕も皆のように出来るのだと、もぐらも、両親も、元級友達も、全ての人間を見返してやる。ははっ、簡単な事だ。就職すればいい。僕は早速その足で駅から近いハローワークに向かった。初めてハローワークに行った僕はまず、氏名、生年月日、現住所、現職業、電話番号を記入してハローワークを利用するのに必要なハローワークカードを作ってもらう。その後、職員に何台もパソコンとプリンターがある一画へと案内された僕は、そこでパソコンを使って希望の求人を探し始める。仕事は業種によって多種多様あるが、圧倒的に多いのは営業、製造業、運輸業、小売業、介護、飲食業であった。やってみたいなと興味を惹かれた数少ない仕事は、大抵応募条件が大卒以上であり、専門的な資格と実務経験を要したので資格欄と学歴職歴欄がスカスカの僕には選べない。僕が応募できる求人でやりたいと思える仕事は、これっぽちもなかった。まったく、これが今までの怠惰のつけか。僕はこの時、皆我慢してでも勉強するのは、将来の己の自由の為なのだと知る。ここでいう自由とは、選択の自由である。しかし、後悔はなかった。あの時ああすれば良かったと思うのはおかしい。なぜなら、その時出来なかったことは、どう頑張ってもその時の僕には出来なかったことなのだから。恥の多い僕だが、いつも悩みに悩んで逃げてきたからこそ、今の自分の現状はこれ以上でも以下でもないと思えるのだ。だから僕は、自分の現状でも出来る仕事を選ばなくてはいけない。それ以上は望めないし、身の丈に合わない事は、僕を破滅させる。これまでの人生で僕が学んだことなどそれぐらいだ。週に二日休みがあり、残業代もついて、手当もちゃんとあって、福利厚生がしっかりしているところで、自分でも応募できるところであればどこでも良い。

 そして見つけたのが自動車工場の期間社員の求人であった。

 仕事内容は、ベルトコンベアーで流れてくる自動車の車体やエンジンをライン工程で組み立てるというもので、必要な資格や学歴職歴はなく、同じ応募条件でこれより良い待遇の求人は他になかった。

希望の求人票をプリントアウト出来たら、また受付で、次は相談窓口の整理券をもらった。

 相談窓口の待合室では、僕のように若い者から五〇代と思しき者まで様々な年代の男女が椅子でじっと、呼ばれるまではここから動かないぞと決めているかのように、自分の番を待っていた。ここには、人生が思い通りにいっていない人しかいなかった。新たな資格を取得し、やりたい業種の職を得るためにここまで来た者もいるのだろうが、ここ以外に行くあてがないのは皆同じであり、ここはある種、最低限の理想的生活を送る為の最後の希望の場所であり、そこに漂うのは希望を叶えるには避けては通れない、不安と倦怠感である。

 効きすぎた暖房に不快な汗をかきながら、僕もソファに腰を下ろし、順番を待つ。希望を追い続けるには忍耐が必要である。その忍耐を和らげるために娯楽がある。僕は読書をしながら耐える。僕の頭にもぐらのこと、これまでのこと、これからのことが湧いてくるが、行動は起こしているのだ、今は考える必要なんてないし、考えたくなかった。読書は意識を自分から外へ向けられるので精神安定を図るにはもってこいだ。

「九八の方、どうぞ」

 自分の整理券番号を呼ばれた僕は、コの字型に並ぶ相談窓口の一つ、電光掲示板に九八と表示されたところへと向かい、デスク越しに職員と向かい合う。

「どうぞ、おかけになって下さい。では、ハローワークカードはお持ちですか? はい、ではお預かりしますね。……確認いたしました。雨宮叶笑児様ですね。年は十九歳で、現在はアルバイトをされていると。本日はどういった求人をお探しでしょうか? ああ、ご希望の求人票をお持ちなんですね。では、そちらお預かりいたします。自動車の期間工ですか。いつから働けそうですか? 現職はすぐ退職出来るんですね。分かりました。先方の採用担当に電話してみます。面接希望日はいつがいいですか? いつでも大丈夫? ならそう伝えますね。……もしもし私ハローワークの者ですが、採用担当の方ですか? 実はそちらの期間工募集の応募者がいまして、面接をして頂きたいのですが。そうですか、分かりました。……雨宮さん、再来週の月曜日に面接行けますか? ……もしもし、大丈夫だそうです。はい、伝えておきます。では、よろしくお願い致します。失礼致します。……雨宮さん、面接OKだそうです。雨宮さん、若いから採用されますよ、きっと。では、面接日ですが、再来週の月曜日で時刻は午後二時、場所は本社ビルです。その際に写真付きの履歴書を持っていって下さいね。面接前に筆記試験や身体検査も行うそうですが、簡単な試験ですから大丈夫ですよ。じゃあ、ハローワークからの紹介状を渡しますね。これも面接日、履歴書と一緒に持っていって下さいね。履歴書の作成方法が書かれたパンフレットがありますが、お持ち帰りになられますか? はい、どうぞ。では、以上となります。ありがとうございました」


 アパートに帰宅すると、めだかはすでに実家に戻っていた。机の上にはめだかが作り置きしてくれたのだろうサンドウィッチがあり、僕はそれを、ラップを取って頬張る。どれだけ疲れていようが腹は減るし、おいしいものを食べれば、すこし前向きになれる。僕は、めだかに電話した。

「もしもし」

「あ、おにい。もう、アパートに戻ったの?」

「ああ、サンドウィッチ食べたよ、ありがとう。うまかった」

「お粗末さまでした。もぐらちゃんは行っちゃったの?」

「うん。それでさ、俺、もぐらに言われたんだ。あなたは変わらないといけないって。だから、俺、さっきハローワークに行って仕事探してきたんだよ」

「え!? 見つかったの?」

「うん、自動車メーカーの期間従業員なんだけど、正社員登用もあるし、給料も福利厚生もしっかりしているんだ」

「良いじゃん! お母さんとお父さん、喜ぶよ! 二人にこのこと知らせていい?」

「うん、まだ採用されるか決まったわけじゃないけど、俺、頑張るよ」

 僕は電話を切り、想像する。僕がちゃんとしたところで働くことを、家族のみんなは僕のこれまでの言動以上に、きっと喜んでくれるだろう。彼らは僕の事で安心するだろうし、僕を応援してくれるだろう。世界の意思が、僕に就職をするように迫っていたのだ。僕はそれにやっと従えたのだ。めだか、母親、父親の喜ぶ顔と、これから自分が経験するであろう辛苦が交互に頭に浮かぶ。正直、義務感に突き動かされているだけで労働に関しては不安と嫌悪しかないが、そういうものなのだと割り切るしかない。働くとは何かを諦める事なのだ。諦めた数だけ、人は大人になれる。


 面接は合格した。無事に有名自動車メーカーの期間社員に採用された僕は、スーツ姿で私物を詰め込んだ大きなバックを背負い、実家を後にする。僕が一人暮らしをしていたアパートの部屋は引き払っていた。職場となる自動車工場と僕のように居住地区が離れている期間社員は、社員寮の一室に住む事が出来たのだ。アパートを引き払ってから入寮するまでの間は実家の厄介になっていた。皆、僕に優しかった。彼らが良いと思える職に就けたからで、僕は嬉しさや心地よさよりも恐怖を感じた。もし、僕が新しい仕事を辞めるようなことがあれば、彼らのこの笑顔は消えて、落胆に変わるだろう。僕はめだかと母親に見送られ、バス停からバスでO駅に向かい、電車に乗る。一時間半後、社員寮がある場所の最寄り駅で降りた僕が駅舎から出ると、スーツ姿の男女が固まっている箇所があった。その中の一人の女性が、僕の就職先である自動車メーカーのロゴと社名が入った手旗を振っている。よく見ると手旗には『入寮される方はこちら』とも書かれていた。僕はそこへと向かった。

 少し経った後、人数が揃ったのだろう、僕たちは数台の車に別れて乗り込み、寮へと向かった。寮は古びたくすんだ塗り壁に覆われた大きな建物で、それは僕に、小さい頃に住んでいた築三十年の市営団地を思い起こさせた。それが3棟連なっている。全て同じ社員寮で、職場となる工場を挟んだ向こう側にも何棟か同じ寮があるそうだ。寮に到着後は、まず各自に割り振られた部屋へと案内された。そこへ自分の荷物を置いた後、僕達は寮の会議室へと集まり、そこで寮長と名乗る男による寮生活のオリエンテーションが行われた。そうして僕の工場と寮の生活が始まったのだが、最初の一週間は良かった。入社式後の三週間は研修で、一週目は座学中心に工具の使い方や安全教育を受け、僕は座って話を聴くだけで金が貰えた。けれど、二週目からは部署に配属され、製造ラインの前に立たされた。僕が配属されたのは、工場の数あるライン作業の中でもきついと言われるエンジンを組み立てる部署だった。初めは社員の隣で作業の手順を学び、一通り教えてもらった後は社員の助けを借りながら実際ラインの前に立って作業を行った。

 流れるベルトコンベアーのスピートに僕はついていけなかった。エンジンにも種類があり、作業工程がそれぞれ違って覚えきれないというのもあったが、短い時間でやることが多すぎて与えられた時間内に作業が終わらないのだ。終わらなければベルトコンベアーを停めなくてはいけないのだが、それは、部署全員の工程をストップさせてしまう行為なので、いくら研修中の新人だろうが多用は許されなかった。しかし、ラインに付いていけないことより僕を悩ませたのは、ある一つの作業だった。

 それは、僕の片腕の指先から肘ほどまである大きなレンチで、エンジンから伸びたパイプの接合部にあるナットを、身体全体を使い締める作業であった。

 締めるのは体重を掛けるだけでいいので難しいことなどないのだが、締めるためにレンチのあごをナットにくわえさせるのが難しかった。レンチを持った両腕を頭上に掲げ、僕の目線より高い箇所にあるナットに向かってレンチのあごをくわえさせるのだが、狙いを外すとナットの隣にあるパイプにレンチの先が当たってしまうのだ。当てると、そのエンジンの寿命が縮むらしく、製品として出荷出来ない、ということで絶対当てるなということなのだが、僕はどうしても何度もレンチを持つ手が狂い、当ててしまった。

 初めのうちは、当てることはあるだろう、と大目に見ては貰えたが、それが繰り返されれば、さすがに僕の面倒を見てくれている上司も笑って許してくれない。僕は当てる度に怒られるようになる。

 同じミスで何個も製品はダメにするし、ライン作業にも付いていけない。僕は実地での二週間の研修中、生きた心地がしなかった。工場の敷地は広大で、直径五キロもある。自分の部署がある作業場まで出勤するのに寮からは社内バスで通うのだが、殺風景な工場群しかない場所を走る、肉体労働者たちがすし詰めにされたバスの中で、また今日も上司に怒られるんだろうなと憂いながらの出勤は、苦痛で仕方がなかった。バスの行き先が僕にとって地獄になりつつあった。そして研修も入社から四週目、部署に配属されてから三週目に突入したにも関わらず、僕はまだ一人でライン作業をこなせなかった。普通、新入期間社員はもうこの週からは一人でライン作業を行うそうなのだが、僕は普通ではなかった。上司からも、この週、一人で作業出来るようにならなければ本採用も危ういと言われた。いわゆる解雇だ。僕の折れ掛けていた芯みたいなものが折れた瞬間だった。

その日の作業合間の休憩時間、僕は上司に「すいません、もう無理です」と告げ、「やっぱり無理かあ」と言われて退職手続きを行った。

 無論、退職したら寮からは出なくてはならない。しかし、帰れる場所がなかった。かつて住んでいたアパートの部屋は引き払ったし、実家にも帰りたくなかった。家族が失望した顔を見たくなかったのだ。泊めてくれるような友達も恋人もいない。

 どうしようか、と泣きそうになりながら重いリュックを背負った僕は、工場の最寄り駅から二駅ほど離れたH市の繁華街を途方もなく歩いていた。僕はこれから浮浪者になるのだろうか? 幼少期に親に乗せられた車の後部座席の窓から見た、高架下の隙間で生活する浮浪者のことを思い出す。

 垢と埃で黒ずんだ顔のひとりぼっちの彼には笑みも怒りも悲しみもなかった。ただ、鬱屈と呪詛と虚脱を詰め込んだ腐った肉の塊が横たわって息をしているだけだった浮浪者のように、僕はなるのだろうか? なりたくない。しかし、なるしか、ないのかもしれない。僕は仕事が出来ない。職業が存在意義となっているこの市民社会の中で僕は屑である。本当に……、

「この世界はとても苦しいですね」

 そう言って、僕の斜め前にいた男、杖を携え黒いハットを被った青い瞳の紳士然とした外国人の男は、びっくりして立ち止まった僕に、優しく微笑みかけたのであった。

「あなた、どう思いますか?」

 僕はまるで、ひとりぼっちの世界から理解者を見つけた安心感、うれしさを感じた。けれど、僕の頭にもぐらの存在が思い出された。この外国人、もしかして……

「あなたは一体?」

「ああ! 名乗りもせず、いきなり話しかけてしまい、申し訳ありませんでした。私、カフカスキーと申します」

 僕は呆気にとられたが、その短い時間は、僕の気持ちが反転するのに十分な時間を与えてくれた。僕は警戒心を新たに、男に背を向け走って逃げる。人通りの多い繁華街である。襲われるようなことはないはずだ。僕は人通りが多い道だけを選び、いくらか走った後、呼吸の限界に両手を膝につき喘ぐ。後ろをみる、いない。撒けたか、そう思ったが、なんと前方から「あなた、名乗った途端に急に逃げ出されたら、私、傷つきますよ」とおどけた様子でカフカスキーが現れた。こちらに比べて、まったく息が上がっておらず、僕のように走った形跡がない。これも彼の魔法とやらが為せる技なのか? 彼は、僕を蚯蚓に寄生させるために僕の前に現れたのだろうか?     確かに僕は今、人生に絶望している。でも、こちらが彼の魂胆を分かっているならば、拒絶の意思を強く持てばよい。

「一体、僕に何の用なんですか?」

「そう警戒しないで下さいよ。あの少女に何を吹きこまれたのか存知ませんが、私はあなたを救済するため、あなたの前に現れたのですよ」

「僕は、あなたのしていることが救済だとは思いません。人をあんな醜い化物に寄生させて人間を食わせるなんて……非人道的じゃないですか」

「あなたは救済に人道的なものをお求めなのですか? 皆が駄目と言い、不快に思うことには救いがないとお思いなのですか? それはあなたに関して言えば間違っていますよ。あなたは、皆が押し付ける道徳や価値観に縛られて、したくもないことをさせられ、そうしないと生きていけない窮屈なこの社会に嫌気が差しているはずだ。労働、他人、貧困、渇望、孤独感などの苦しさに、あなたは絶望しておられる。そう見受けられるのは間違いでしょうか? 間違いではないとしたら、あなたのいう人道的なことは、あなたをその苦しみから救ってくれましたか? 他人の言う事を聞いて、苦役に従事して、あなたは救われたのですか? そうじゃないはずだ。常にあなたは労働も他人も目の敵にせずにはいられない。けれど、それらに服従しなくては生きていけないことが、あなたの言う人道的なことだとしたら、そんなもの捨て去ったほうが良いですよ。だって、その現状があなたに不幸をもたらしているのだから! 私を信じて下さい。私は必ずあなたを救います。私の愛しい動物達の仲間になれば、あなたは生きる事の義務から解放されます。生きる上での全ての苦しみは私の愛しい動物が代わりに引き受けてくれます。空腹も寒さも孤独も悩みも不安も全てなくなります。まるで母親の胎内で羊水に包まれていた頃に帰れるのだと考えて下さい。あなたには母親の胎内にいたころの記憶はないはずです。なぜなら、あそこには苦しみがないのですから。過去の記憶というのは傷です。覚えておかないに越したことはありません。その為には全てを捨てる必要があるのです。絶望しきって堕落しなくてはいけません。へたに希望を持つから苦しいのです。希望をもつことによって苦しいのであれば、そんなもの捨て去ったほうがよろしい。希望がなくても生きていけるように、私はこうして、絶望しきれず苦しんでいる者に手を差し伸べているのです」

 彼の言うことは、僕にとって正しかった。彼が差しだす手を払ってまで、一体、僕に何の守るべきものがあるというのであろうか? 人を殺してはいけないという道理も、人間をやめてしまえば関係ないじゃないか。現に僕達人間は、人間以外の動物を平気で殺し、食べている。それは自分と違う動物だからで、何の罪悪感も生まれないからだ。人が人を傷つけたり、殺してはいけないのは、その行為で使われたナイフ、悪意は、『罪』というものになり、『罰』として他人の手、その上、自身の手によってでさえも向けられるからである。道理を踏み外した人間は、個人としても社会の一員としても真っ当に生きていけなくなる。ならば、個人からも社会からも脱却できれば、罪も罰も生まれない。彼の提案というのは正にそれを可能にするものなのではないだろうか? 生きる意志を放棄しても、生きられる状態というのは、自殺の出来ない人間にとっては正に救いである。

 僕は蚯蚓に寄生してもいい気がしてきた。

(蚯蚓になれば、もぐらに殺されるぞ)

 僕の理性の部分がそう発するが、僕は殺してくれるのであればありがたいと思った。もう、僕は自分が嫌で仕方ないのだ。こんな自分の為に、僕が頑張ってまで生きるなど馬鹿らしい。死ねるなら死にたい。けれど、自殺が出来ないから蚯蚓に寄生し生きる事を代行してもらうのを選ぶしかないのだ。だから、誰か僕を殺してくれるのであれば、それこそ本望である。もしかしたら、僕が蚯蚓に寄生してしまえば、もぐらは悲しむかもしれない。それは、もぐらが悪いのだ。もぐらが僕を救ってくれなかったから、こんな結果になったのだ。苦しんでくれるのであれば、苦しめばいい。彼女はプロのハンターだ。苦しみながらでも蚯蚓に寄生した僕を殺してくれるだろう。

「どうやら決意が固まったようですな」

 彼は、僕が彼の誘いに乗ることなど初めから分かっていたかのような口ぶりであった。そうかもしれない。僕はやはりどこかで、もぐらと一緒にいた時でさせ、こうした喪失願望を持っていたのだ。それを誤魔化すために色々頑張ったが、それもこの瞬間で終わりである。

彼が僕に伸ばした手を取る。すると、僕の視界はぼやけていき、一瞬暗くなる。けれど、すぐに僕の目に眩しい光が突きささる。

僕は一条のライトを浴びている。

 光線の外は暗闇で、さっきまでいた繁華街ではなく、周りに人の気配はなくなっていた。ここがどういう場所なのかはすぐに分からない。けれど、床を見れば埃が積もっており、靴の裏で払うとひび割れたコンクリートが現れる。そして、風が何かを叩く音が反響している。以上のことから屋内であることは分かるのである。カビ臭く、埃に咽そうなほど空気は淀んでいる。ここはどこかの廃墟であろうか。自分の置かれた状況を知りたかったが、唯一僕を照らす光の輪から抜け出す勇気は、僕にはなかった。心細さと恐怖に頭がおかしくなりそうになった時である。前方で何か引きずる音が聞こえてくる。そいつは暗闇から僕がいる光の輪の中に、姿を現した。

 蚯蚓だった。

 蚯蚓は僕の元へとゆっくり近づいた。そして首を伸ばして顔を僕の顔へと擦り寄せる。僕は蚯蚓の首筋を優しく撫でてやる。僕はこいつに寄生するのだ。これはあいさつである。なんとなくそう思った。僕はこいつに食べられる。けれど、僕は死なずにこいつの中で何も煩わされずに生きていくのだ。他人が死んだってかまいはしないし、自分が殺されたってかまいはしない。世界が滅びたってかまいはしないのだ。

 光が空気中に漂う埃をキラキラ光らせている。この場を支配するのは神々しいまでの静寂である。しかし、ものすごい轟音が空気を震わせ、この場をかき乱す。

 後ろで人の気配がした。何者かが建物の一部を壊して侵入してきたのだ。僕には心当たりがあった。

 なんだ、はやい結末だなと、僕は思った。

「叶笑児!」

 侵入者はもぐらだった。予知でこの場まで来たのだろう。彼女の声が聞こえたのと同時にあたり一面が光に照らされる。

 見上がれば照明が全て点灯していた。天井はコードとパイプが張り巡らされ、壁は湾曲した瓦のようなセメントの建材に囲われており、それらを鉄骨が支えていた。周りには用途不明の機材が転がっていて、やはりここは、どこかの廃工場内であった。しかし、一番目を引くのは、周りに何体もいる蚯蚓たちだった。僕の目の前にいる蚯蚓以外は、全て身体を下ろしたまま動かず、眠っているように思えた。しかも建物内にはカフカスキーもいた。彼は僕の後ろ、ちょうど僕ともぐらの間にいた。最初からいたのだろうが、僕は全く気付かなかった。

「叶笑児、今すぐ蚯蚓から離れて!」

 僕は、やって来た彼女に復讐をするため、精一杯の笑顔を彼女に向けた。うまく笑えたと思う。もう間に合わない。遅いか早いかの問題ではなく、いつかはこうなる運命だったのだ。

「おやおや、いいタイミングで現れましたな」とカフカスキーが言い終わった瞬間である。彼の首から上が無くなる。支える物を失った彼の身体はその場に倒れ込み、首根っこからはバルブを全開にした蛇口みたいに、血がものすごい勢いで溢れだす。その横に、左手にカフカスキーの頭を鷲掴みにしたもぐらが立つ。やはり、もぐらは圧倒的だ。こんな早技であれば、カフカスキーも痛みを感じないまま死ねたであろう。僕も、殺されるなら一瞬がいい。彼女ならそれを叶えてくれるだろう。

「叶笑児はやく離れて!」

 僕は蚯蚓を守るかのように腕を広げ、彼女から蚯蚓を隠す。もぐらの顔が悲痛なものになる。僕はそれを分かってやった。彼女は僕を突き飛ばし、蚯蚓を殺すことが出来ただろうが、僕のこの行為により数秒のタイムラグが生まれた。それは、蚯蚓が僕の頭を丸呑みするのには十分な時間だった。

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