七話

「私、もう行くわ」

 トランシーバーで連絡を受けたもぐらは、僕とめだかにそう告げた。太陽を真上に仰ぎ見るお昼頃の時間帯だった。僕とめだかは彼女のことを朝から心配していた。ずっと布団に包まったまま起き上がろうとしなかった彼女は、僕とめだかが何を言っても生返事で、目は開いていたが、視線は外ではなく、自分の内側に向いている様であった。目に写るものには、何の関心も示してないように思えた。けれど、彼女のトランシーバーが電波を受信したとき、たゆたっていた彼女の意識はそれに集まった。彼女はトランシーバーに飛びついた。それだけが唯一、現実と自分を繋ぎとめる拠所なのだというように。

「こちら、もぐら。用件は?」

「カフカスキーの居場所の手掛かりを掴んだ。奴はもう、この町にはいない。すぐに合流するぞ」

 トランシーバーから流れたのは、ネズミと呼ばれた男の声だった。

「了解。場所は?」

「O駅前西口だ。では、切るぞ」

 そして通話を終えた彼女は、僕たちに別れを告げたのだ。


「カフカスキーが、私の追っていた男の場所が分かったみたい。どうやらこの町からはいなくなったそうなの。だから、お別れね」

 めだかが、ひどく残念そうに声を掛ける。

「もぐらちゃん、一日しか遊べなかったね。また、この町に来てくれる?」

「それは分からないわ。私、先のことなんて考えていないの。今回、私の予知以外でカフカスキーの動向が分かったのは初めてなの。もしかしたら、これで私たちの戦いは終わるかもしれない。でも、そうね。終わったら、遊びにまた来るわ。約束、しときましょう」

「うん、約束、ね」

「そろそろ行くわね」

 僕は彼女にかける別れの言葉が思い浮かばなかった。別れなど、想像していなかったのだ。だから、僕に出来ることは、別れを引き延ばすことだけだった。

「送っていこうか?」

「いいわ。実はね私、自分で走った方が速いの。叶笑児、ありがとう。それと、ごめんなさい」

「え……」

 彼女は謎の謝罪を残して、僕の部屋を後にした。

「おにい、いいの?」

「何がだよ」

「もぐらさん、行っちゃったよ。おにい、咄嗟に出なかっただけで、言いたい事、あるんじゃない?」

 そのとおりであった。僕は彼女と別れたくない。なぜなら、彼女にまだ全然近付けていないのだ。僕は、車のキーを持って部屋を飛び出した。自分の全てを振り切る覚悟であった。僕は車を走らせO駅西口ロータリーまで向かった。自宅からO駅まで自己最速タイムベストを更新した僕は、車を違法駐車するのもかまわず乗り捨てて、沢山の人を吸い込み吐きだすO駅西口へと走った。階段を一段飛ばしで駆け上がった僕は、改札の前まできた。するとそこには、いた。新幹線のチケット売り場にネズミが人の列に並んでいた。もぐらは、売り場近くのベンチに腰掛け、ネズミを待っている様子だった。

「もぐら!!」

 息せき切って僕は彼女の名を呼んだ。彼女は、僕の存在に気付く。

「どうしたのよ、叶笑児」

「僕、もぐらについて行きたいんだ。あの男みたいに、もぐらの手助けをしたい」

 そう僕が言った時、彼女の表情がなくなった。冷めた視線が、拒絶を表していた。

「私の手伝い? そんなこと言って、叶笑児、自分のすべきことから逃げているだけじゃないの?」

「そんなこと……」

「きっとこれが最後になると思うから正直に話すわ。私あなたを、カフカスキーをおびき寄せる餌にしていたの」

「それってどういう……」

「カフカスキーはね、絶望した人間を蚯蚓に閉じ込めるの。絶望した人間はね、死を望んでいるの。叶笑児、初めて見た時から死にたそうな顔をしていた。死にたそうな顔っていうのは、何かを諦め、無理して我慢しているような顔なの。カフカスキーはそういう奴を選ぶの。だから、この町に奴がいる限り、叶笑児も奴に選ばれる対象だったわけ。だから、それに懸けて、私はあなたを監視していたの。カフカスキーが叶笑児に近付くのを待っていたの」

 裏切られた、とは思わなかった。ただ、この女は、他の奴らと同じで、僕の救いにはなってくれないのだと、僕の方が、諦めた。

「もぐら、行くぞ」

「ええ、じゃあ、叶笑児。今度こそさようなら。あなたは、一人で変わらなくてはいけないのよ」

 もぐらとネズミは、改札の向こう側へと消えていった。



「あんな別れ方で良かったのか?」

 ネズミが私に尋ねる。それは、私のことを気にかけての言葉ではなく、叶笑児を心配しての言葉であることは容易に判断がついた。この男が人の事を心配するなど珍しいと思ったが、それぐらい叶笑児の顔は悲壮感を帯びていた。まるで、信じていたものに捨てられたという悲しい顔だった。私は、私が放った言葉に責任を持つつもりだ。叶笑児は絶望したまま終わらないと、私は信じているからこそ、彼を拒絶した。私は、彼には絶望していても、そこから這い上がりたい、変わりたい、頑張りたいと、そう思える希望を見つけることが出来ると知っている。私は、彼が好きな音楽や小説が、私の価値以上のものを彼に与えてくれると思っている。なぜなら、私自身が、彼の好きな音楽や小説に揺さぶられ、今まで持てなかった希望を見出したのだから。それはあえなく消えてしまったが、消えたのならまた見つければいい話である。それは彼の方が得意なのだと思う。彼は自分の好きな物、小説から色々なものを吸収している。そうしてそれをちゃんと自分の血肉にしている。彼には、私がいなかろうが、信じられるものをすでに持っているのだ。大丈夫、彼は、蚯蚓という堕落した存在に寄生せずとも生きていけるはずだ。彼は、私の父や、蚯蚓に寄生してしまった人たちとは違う。

 私の父は弱者だった。どの仕事も長続きせず、よく仕事を転々としていた。仕事を辞める理由はいつだって、仕事内容が自分に合わない、一緒に働く連中が気にくわない、そんな自分を顧みない愚かなものだった。彼は男として、私を産める生殖能力は持っていたが、お金を稼ぐ、養うという能力が欠けていた。

 そのことは父も順々承知で、悩んでいたのだろう。よく母や私に「お前たちがいなければ、俺は自由なのに!」だとか「なんで俺がこんなに苦しんでいるのにお前たちは俺を助けてくれないんだ!」と喚いたかと思えば、すぐに反省し「俺が不甲斐無いばかりに不快な思いをさせて、ごめんな。許してくれ」と謝罪するなど、いつも精神が不安定で、私は子供心によく、なんでこの人は大人なのに、こんなに落ち着きがないのだろう、と奇異に思っていた。父は日々を生きる度、仕事を変える度、何かを消耗しているように見えた。そして、訪れるべくして、父の中から活力というものが全て消え去る日がやってきた。私が学校から家に帰宅すると、父は父ではなくなっていた。灰褐色の肌に覆われた、ぶよぶよの身体を四足で支える、顔には口の裂け目しかない醜い化物になっていた。それが父だという証明が出来る確証は、その時の私にはなかったが、しかし、こんなことをするのは父しかいないというのは自明であった。痛みによる苦悶の表情が死後硬直している母を、ハイエナが餌を食べるかのように、無残に食い散らすほど憎んでいるのは、父しかいない。父は、私のことも憎んでいるだろう。なぜなら父の世界には、父と母と私の三人しかいなかったのだから。父が自分を守る為に憎めるのは、母と私しかいなかったのである。ああ、私の人生、終わったなと思った。この場から逃げおおせたとしてどうなるだろうか? 化物になってしまった父と、それに食べられた母、そんな記憶を引きずったまま生きるなんて、これまでよりも悲惨なものだと思った。なら、ここで死んでしまった方がいいなと、その場に座り込んでいた時だ。私の家にもぐらさんとネズミがやって来たのだ。もぐらさんは白銀の髪と金色の瞳、外国人に特有の彫の深い顔の美しい女性だった。彼女は、私と父だった化物の間に立ち、目の前の化物を瞬殺した。今の私と比べても、あの時の彼女の戦闘センスには敵わないだろう。それほどまでに、彼女の標的を狩る姿は美しかった。しかし、凛々しかった彼女は戦闘後、喀血した。神々しく見えた白磁の肌も、青白いものとなり、酸素を求めてぜーぜーと苦しそうな表情で必死に呼吸する彼女の姿は、弱々しかった。だが、私の無事を確認して、安心したような顔を見せた時、それが本当の彼女の顔だと感じた。


父親が母親を殺害し、娘は見逃して逃走。娘の方は事件時の記憶が無く、証言能力無し。加害者は、そのまま行方を眩ませ、現在も捕まっていない。警察は、殺人の容疑で父親を指名手配した……。


 私に降りかかった災難は、このように世間に公表された。化物のことや、もぐらさんとネズミのことは、決して喋らないようにとネズミに釘を刺されたのだ。

事件後、まだ子供で両親を亡くした私には、頼れる身内がいなかった。そして、孤児施設に預かれることになった私の元にネズミが現れた。

「君、蚯蚓を狩るつもりはないか?」

「蚯蚓?」

「あのときの化物さ。もぐらが、ダメになりそうなんだ。失礼なことを訊くようだが、君は性行為をしたことはないよね?」

「ええ、ないです」

「なら、大丈夫だ。どうだい? 我々に救われた命だ、我々の為に尽さないかい?」

「もぐらさんがダメになりそうって……」

「ああ、もう闘うのが難しんだ、彼女。余命幾ばくもないし」

「救う方法はないんですか?」

「闘うのを止めたら死期は延ばせるかもね。まるっきり健康体に戻すのは無理だけど。死にそうなのも、これまでの蚯蚓との戦闘による負荷の積み重ねだからさ」

「じゃあ、私が代わりにその蚯蚓と闘えば、もぐらさんは永く生きられるんですね?」

「それは、間違いない」

「やります。私、蚯蚓を狩ります」

 そして私は、ネズミに連れられドラゴンという男に出会う。彼は有名な実業家だった。寝たきりの老人だったが、健在だった頃は、世界をまたに莫大な金を動かすほどであったという。そんな彼が寝たきりになってしまったのは、蚯蚓に襲われたせいであった。加えて、彼は自分の身体の自由だけではなく、娘夫婦も蚯蚓により失っていた。それが彼にとっては自分の不自由よりも悲しい出来事だった。警察に化物に襲われたと言っても、信じてもらえなかった。彼の権力を使えば、警察を意のままに動かすことは出来た。けれど彼は、警察や裁判所が、あの化物を捕まえ裁くことなど不可能であると判断した。自分で化物の正体を調べ、武器を調達し、武装集団を雇い、武力により抹殺する。これは自分の為の戦争だと思ったのだ。蚯蚓への復讐心に取り憑かれた彼は、事業で培ってきた人脈と莫大な金を惜しみもなく使い、それらを実行した。探偵を雇っての初めの調査で分かった事があった。

 世界各地であの化物に襲われたと思しき事件があること。

 必ず被害者と近しい関係にあったもの一人が、事件前後で行方不明になっていること。

 この二点である。

 彼はそれを踏まえ、二点目に該当する者が自分を襲った化物となんらかの繋がりがあると判断し、人員を揃えられるだけ揃え、ランダムに選択された、警察に行方不明届を出した人間を監視した。人海戦術だ。そして、息子の行方不明届を出した、ある婦人の監視をしていた部隊の一つが、化物との遭遇に成功した。戦闘の火蓋も切って落とされた。しかし、そちらの結果は、惨敗であった。命からがら生き延び敗走してきた傭兵の一人の証言では、銃、閃光弾、毒ガス、爆弾、どれも効かず、負傷させてもすぐに欠損した部分が再生したという。文字通り元通りになったそうだ。

「あんなの勝ち目なんてありませんよ」

 世界各地の紛争地帯で活躍する現役の傭兵が放った言葉に、しかし、彼は諦めなかった。

(物理的破壊が出来ないのであれば、その他の手段を用いるまでだ)

 そう思い立った彼は、化学兵器や武器の収集をやめ、超自然的な現象、呪術、魔術や辺境民族に伝わる伝説などの情報収集を開始した。そして彼は、化物がどういう存在なのかを知る事になった。それまで、ただ『化物』と呼んでいた存在が、『蚯蚓』という、ある民族間の伝説に記された幻獣であることを、彼は突き止めたのだ。そしてその伝説には、蚯蚓の倒し方もあった。

『怒れる古龍の黒き爪が、我ら人間の手の届かぬ所まで堕落した蚯蚓の心臓に届くであろう』

 ドラゴンは、部下であるネズミを使者として、その伝説の出処である民族が住む、コーカサス山脈の奥地にある集落に遣った。そこでようやっと、彼は蚯蚓を倒すための武器を手に入れたのだ。それは、龍の両前足だと言われる木乃伊だった。集落の長の話で、それは処女の血を通わせることで能力を発揮するということであった。龍の両前足は、全てのものを穿つ爪と握力があり、宿主に高い身体能力と治癒能力をもたらす。そして、宿主は自らの生存に関わること、餌となる獲物の動向を予知することが出来た。

 それともう一点分かった事があった。過去にある男が、この集落にやってきたそうなのだ。男は集落の祈祷師であり魔術師である長に、弟子入りしたという。そして、男に集落の伝説や秘術である魔法の術が書かれた門外不出の古文書を見せ、魔法使いとして育てたのだ。魔術が自然現象を人の意思で再現する術であるのに対して、魔法とは自然に決して起こり得ない架空現象を実際に引き起こす術であった。この集落に伝わる魔法とは、唯一蚯蚓を殺せる龍の存在であり、元を辿れば龍という架空生物が生まれることになった、蚯蚓の存在であった。

 集落に突如現れ、長に弟子入りした男の名をカフカスキーといった。

 なぜ、長はこの男を弟子にしたのか? それは男の意思と長の思惑が合致したからであった。その意思と思惑とは何なのか? それは人類滅亡に関係した。集落の歴史は大変長く、集落間での対立も過去に何度もあった。それは、人類を滅ぼすか滅ぼさないかの両極の対立であった。彼ら民族は自分たちを、天地創造をした神の後継者、末裔だと信じていたのだ。集落では長年の議論も空しくずっと、その議論に決着がついていなかった。とりあえず議論が決定するまで、彼らはこの集落から出ない事を先祖代々の掟として定めていた。その中で集落の現長は、世俗から離れた山奥の集落の人間だけで、人類の命運を決めるのは傲慢であり間違っているという考えがあった。彼自身、自分たちの民族は神の後継者なのではないと思っていた。

『人類の命運は、外の人間に託した方がいい』

 これが彼の思惑であった。これに対してカフカスキーは人類滅亡を企てていた。長は彼に外の人間の代表として、人類滅亡の意思を託し、蚯蚓を生み出す魔法を教えた。

『もし、彼の意思に反対の者が外で現れた場合は、その者には人類を救う魔法を託そう』

 そしてドラゴンはその魔法を託されたのだ。

ドラゴンは龍の両前足の片方、右前足の木乃伊を娘夫婦の忘れ形見であった自分の孫娘に、彼女の右手を切り落とし、手首から先に移植した。それがもぐらさんだった。もぐらというのは、その集落に伝わる龍の力を借りて蚯蚓を狩る者に与えられる名前だった。当時、彼女は私と同じ十二歳であった。彼女もドラゴン同様、蚯蚓に食われた両親の復讐に燃えていた。それからの三年間、彼女は蚯蚓を狩るだけの日々に従事した。龍の身体の一部分を自らの身体に移植し、その魔法を行使することは、使用者の人体に多大な影響を及ぼした。現在の私もそうだが、もぐらさんの髪が白銀色に、瞳が金色になったのは龍の力の影響の一つである。悪影響もあった。視覚障害、衰弱、記憶障害である。私が今自分の過去を思い出せているのも、日記のおかげである。しかし、今では度のきつい眼鏡をかけてやっと文字が読めるという状態であり、日記も音声で残すようになるかもしれない。目が見える状態の時で、小説に出会えたのは叶笑児のお陰である。私が蚯蚓を狩るもぐらになろうと決意した時には、もぐらさんは小説も読めない程、視力が低下しており、ほぼ盲目に近く、記憶も混濁しており、身体は衰弱しきって何も食べられない状態であった。私ももぐらになって二年目である。先代のもぐらさんを知る限り、寿命も残すところあと一年程であろう。叶笑児には一つの目標に向かって脇目も振らず生きている私がすごいといったが、未来も過去もなくなっていく私には、今を生きるしかないのだ。これまでの二年間、蚯蚓を狩るばかりで、どんどん過去の記憶の実感が消えていく中、私の人間としての部分は擦れてしまい、いつしか私は蚯蚓を狩るだけのマシーンとなってしまった。ちなみに人間の脳を頭と顔ごと蚯蚓に移植し寄生させる術は、カフカスキー独自の魔法らしい。この男は蚯蚓に寄生させる人間を選ぶ時、私の父であった人間のような人生に絶望した者を選ぶ。そして人間を食べる蚯蚓と食べられる人間との間には、蚯蚓の意思だけでは生まれない寄生した人間による意思が介在する。蚯蚓は、寄生された人間の生前の恨み、憎しみ、嫌悪の対象であった人間を選び、生きたまま食べるのだ。それによって寄生した人間の脳には快楽が生まれ、それは蚯蚓の体内にもフィードバックされ、さらなる個人的怨嗟による殺戮を生む。

 だから私は、カフカスキーに見出された人間は、すでに私が知る人間ではこれっぽちもなく、嫌悪するべき対象であり、彼らは蚯蚓もろとも抹殺するしか救えないのだと思い始めたのだ。相手を人間だと思わず何の共感も出来ずに仕事をする。それが、私が自分で自分をマシーンになったという所以である。

 けれど、叶笑児に勧められた小説を読んで、私の人間であった部分が蘇ったように感じた。蚯蚓に寄生してしまった彼らには、そうせざるを得なかった彼らなりの理由があり、もし、その理由を取り除いて上げられれば、彼らは決してこんなことにはならなかったのではないのかと思ったのだ。私の父も、集団行動が出来なくて会社勤めがままならず、私や母を養えなかった事に責任を感じたが為に、蚯蚓に寄生してしまった。そして、父は精神の均衡を保ち正常として生きるため、母や私を怨むことによって自分の責任感を誤魔化してしまっていたが為に、蚯蚓に寄生後、母を喰い殺したのだ。父が母を殺してしまった元々の原因は、父の強い脅迫的な責任感にあったのだ。それを解消してあげられれば、そもそも父は蚯蚓に寄生することなんてなく、あんなに絶望することもなかったのかもしれない。私と母にも問題があったのでないか? 口に出さずとも、私と母は、父を無言の圧力で責め立てていた。父親のくせに稼ぎがない。男の癖に打たれ弱くて情けない。一人で稼ぐ能力もないのに会社に勤めて仕事も出来ないなんて、そんな父親をもってしまった私達家族は不幸だ。以下のことを母も私も、一度も思った事がないと言えば嘘になる。私達がそれを常に思っていないにしても、父自身が私達にそう思われていると感じていたのであれば、私達は、言葉や視線やジェスチャーを使って、そんな事は思っていないよと、父を安心させるべきであったのだ。人間の不安、絶望は幻想である。私達は対話や触れ合いでそれを消す努力をしてこなかったのだ。

 そして、あの夜、初めて私は蚯蚓に寄生してしまった人間を説得するため、蚯蚓の口に龍の左手を突っ込み、その意識をもった顔と頭を外へ引きずり出した。普段から蚯蚓をまるまる一匹そのまま食べているので、蚯蚓の身体の構造はある程度熟知していたから出来た。けれど、対話も失敗に終わってしまった。痛みを想像したぐらいでは、傷を負った者に勇気や希望をもって改心させるための言葉に説得力を持たせることが出来ないのだろうか? 私にも傷があったはずなのだ。父親が母親を殺して食べている光景を見た時、私は怒りではなく諦念を覚えた。死を受け入れたのだ。もぐらさんの登場が遅ければ、私は抵抗も何もせずに父に殺されていた。私にもこうした傷の痛みがあったのだ。けれど、もぐらさんの跡を継ぎ、新しいもぐらとしてやっていくうちに、蚯蚓を狩るという使命に追いやられた結果、私はこの傷を癒えてもいないのに隠したのだ。もぐらさんとドラゴン、ネズミの意思を借りた私は、それで傷を塞いだ気になっていた。たしかにそれで傷の存在を忘れることは出来た。しかし、向き合いちゃんとした治癒も行わないまま放っておいた傷は、今直視できない程に黒ずんで醜い痕となって私の目の前にある。私は、壊れている。叶笑児は、ちゃんと痛みに喘ぎながらも自分の傷を直視している。私が出来なかったことだ。だから彼には、私の生き方など何の参考にもならないし、して欲しくないと思った。現に私はもう、蚯蚓を殺したくない。もう、彼らを人間じゃないとは思えないのだ。だからこれが最後だ。私はカフカスキーを殺して、私の使命という名の逃走を終わらせる。


 カフカスキーが指定した場所は日本から遠く離れた国だった。手紙を受け取った日から3カ月後、その国の首都の有名な噴水前が奴の指定した日にちと場所だった。蚯蚓が出現しない限り、カフカスキーの居場所のヒントと言えば手紙に書かれた場所ぐらいだったので、私とネズミは手紙を受け取ってすぐにそこへと向かい、約束の場所である噴水が見える宿で一カ月を過ごした。

 その間、蚯蚓の出現を一度も予知しなかった。

 その国に着いてからの最初の数日間は、いつ蚯蚓の予知を見るか分かったものではなかったので、何も食べず、栄養は点滴で補給して宿に引きこもり身構えていたのだが、一向に蚯蚓は現れない。しまいにはあまりの空腹に意識が朦朧としてしまい、身体に力が入らなくなってしまったので、久方ぶりの普通の食事を摂ってからだろう、私の警戒心は弛緩していった。口にしたのは、宿で出される夕食だ。ふわふわのパンと、熱いスープ、ワイン、採れたて野菜のサラダ、甘いクリームと果物がふんだんにのったスポンジケーキだった。生きていてこれ以上の感動はないだろうと思う程、丁寧に人の手が加えられた食事は私を感動させた。私はそれらを食べただけで、生きていて良かったと、大げさにも思ってしまったのだ。

 もしかすると、約束の時までカフカスキーは動かないのかもしれないと夢想した私は、その日から朝、昼、夜の三食を宿で摂るようになった。その夢想通りであるかは分からないが、ネズミが言うには毎朝、新聞やネットを見る限り、蚯蚓によると思われる事件などは起きてはいなかった。私はもぐらになってから捨てた、普通の人の規則通りの生活というものを堪能した。朝起きて軽く運動し、朝食を食べた後は読書をしたり音楽を聴いたり、昼食後は昼寝をし、気温が一番温かい時間帯には町の中を徒歩で散策した。大きな川沿いの道を、日の光を反射して輝く水面、風でゆれる草花、手を繋いで笑顔で歩く親子を見ながら散歩した。暇な時間はもっぱら読書や音楽鑑賞に費やした。ネズミは部下やネットワークを使って世界中でカフカスキーに関する情報がないか調査していたが、動きが見られないようで私の生活に対しては何も言わなかった。

 ある日、宿で夕食を摂っていると宿主が私に話しかけた。

「譲ちゃん。これも食べな」

 彼が私の前に差しだしたのは、シュークリームだった。ちょうど最後のデザートも食べ終えてコーヒーを飲んでいた時だった。私の胃袋は身体に宿した龍の力の影響か、あの成人男性よりも大きい蚯蚓を一匹食べられるほどである、かなり大きい。なので、規則通りに出された食事を食べるだけでは満腹とはならないので、私が物足りなさそうなのを店主は見てとったらしい。そうして彼の中で出た答えがシュークリームだった。

「譲ちゃん、最初のころは全くうちの料理を食べないから心配していたんだが、今じゃ男性の客に出すのと同じ量を食べてくれるし、やっぱり美人さんがうまそうに食べくれるのは、見ていていいもんだよ。だから、まだ食べられそうな顔を見ると、もっと食べて欲しいって料理人の俺からしたら思うわけだ。ほろ、良かったらさ、これ」

 私は宿主の好意をありがたく受けとった。

 

 そして約束の時はきた。しかし、手紙に書かれた時刻通りに指定場所にやってきた私達を待っていたのは、カフカスキーではなく、ある小男だった。

「ちゃんと来て頂けて嬉しいです」

「おい、どういうことだ。カフカスキーはどこにいる?」

「主人ならここにはいませんぜ」

「何だと?」

「そこのお嬢さん、あなた、まだ見えないんですか? 予知が」

 予知。ここに来るまで見なかったので、蚯蚓は現れないはずである。この小男、いったい何をタクラン……デ、


 その瞬間、私は予知を見た。


「ネズミ、カフカスキーはここにはいないわ!」

「じゃあ、どこにいるんだ!?」

「日本よ!」

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