五話

 ほとんどの人が寝静まった、閑静な住宅街を車で走る。現在の時刻は、昨夜、僕と彼女が初めて出会った時刻に近い。蚯蚓は、夜に活動するものなのかもしれない。彼女に予知で見えた景色の特徴を教えてもらう。蚯蚓がこの町のどこに出るかを知り、そこに向かうためだ。

「電車の走る高架下で、横には公園、ピンク色のタコをイメージした大きな滑り台があっって、古紙回収の看板も見えたわ」

 彼女の説明を聴き、僕の記憶の中で、その場所を特定する。子供の頃、祖父母によく連れて行ってもらった公園だった。僕が分かると答えると、彼女は「なら、お願いね」と言い、トランシーバーで誰かに連絡を取る。

「もぐら、目標出現地に接近中。もぐら、目標出現地に接近中。目標出現時刻の六十分前に到着予定である。到着後、臨戦態勢に入り、目標到着まで待機する」

 ざらざらとノイズ音が走り、相手が応答する。

「了解。こちらも現在、目標出現地に向かっている。こちらは人命の保護を最優先にする。君は目標を仕留め、処理することに専念してくれ」

 太い男の声だった。彼がもぐらの仲間なのだ。淀みがなく、迷いのないその声音に僕は、畏怖を覚える。大きな責任とそれに押し潰されないタフさを持った男の声だった。その男を、もぐらは仲間と呼び、対等に接している。物理的には僕ともぐらは、今、一番近い。けれど、彼女との距離は、先の男のほうが、僕よりも近いと感じた。一日を一緒に行動しただけで、埋められないものがある。分かってはいることであったが、寂しい、と思う気持ちは止められない。僕と先の男には、ものすごい隔たりがあるだろう。対等に会話するなんて出来そうもない。少しでも近づけたと思っていた彼女が、一気に、遠い、その男の元まで離れていってしまったような錯覚を感じる。表出する孤独感に耐えるため、僕はめだかの顔を思い出す。めだかだけが、僕の人間関係の拠所といってよかった。そんな自分が心底嫌になる。誰かに依存してしまうのは良くない。自分のことや色々なことで手一杯の人間が多い中、僕みたいな何も与えられない、見返りの出来ない人間に依存される方はたまったものではないからである。それが家族であろうとだ。だから僕は家を出た。誰にも依存しないように生きようと思ったのだ。一人で勝手に生きて、勝手に死ぬ。それが、僕に出来る唯一のことだと思ったからだ。こんなもの、自立したなんて呼べない状態である。僕が思う、自立した人間とは、誰かを幸福にしようと動ける人間である。自分の事しか考えられない、狭量で弱い人間など、愛や希望という幻想に飢えたまま餓死するだけの自立なんて出来ない人間である。そう、もぐらや先の男は、自立した人間なのであろう。それが、僕と彼彼女の埋められない距離感である。

「叶笑児、また、暗い顔しているわ」

 彼女の直截な物言いに、すでに僕は慣れつつあったので、そう言われてもドキリとはしなかった。正直な人には、正直に答えるのが一番いいのだ。

「さっき、もぐらが連絡を取り合っていた人と、自分を比べてしまって、自分のダメさ加減に嫌気が刺していたんだ」

「叶笑児、会ったこともない人間とも自分を比べていたら大変よ。なぜ、そんな大変なことを勝手にするのかしら?」

「そうせずにはおられないんだよ」

「叶笑児は彼のことなんて何も知らないじゃない。あなたが彼に抱いているイメージは、ただの幻想よ。幻想に苦しまされる必要なんてないの。幻想を見たままじゃ、何をしたってずっとそれに囚われて逃れられないわよ」

「確かに、人と比べることが、もぐらのいう幻想を生みだしているのかもしれないね」

「分かっているじゃないの。そう、幻想を見ないようにするのが、今、叶笑児が感じている嫌気というのを消せる、一番の解決策であり、それは叶笑児が言ったように人と比べない事よ」

 正直に話せば、真摯な答えが返ってくるということを、僕は忘れていた。いつしか僕は、当たり障りのない中身のない適当なことしか喋らなくなり、それが億劫となり、誰とも話したくなくなったのである。なぜ忘れていたのかと言えば、僕のこれまでの周りの人間が、僕と同じあらゆる幻想に囚われているからに他ならなかったからだと、今なら分かった。僕の周りにいた人たちは、幻想のなかで頑張れる人間で、そうじゃない僕にとって、彼らと話すのは、すごくしんどかったのだ。正直に自分の悩みを伝えたところで、幻想の中の生き方しか教えてくれない彼らに、それが出来ないから相談しているのに、と思う僕は自分を含め、全てに失望したのだ。

 人と比べなければよい。それは分かった。なら比べるのをやめれば、僕のこの劣等感は取り除かれるのかと言えば、まだ時間がかかりそうである。やはり、言葉だけでは本当の理解は出来ない。これは、僕自身で行動して、実感していく他ないのだ。けれど、とりあえず、こんなヒントをくれたもぐらに僕は感謝をしなければならない。

「ありがとう、もぐら」

 急に何がありがとう、なのか? 首を傾げる人間もいるかもしれないが、もぐらはただ「どういたしまして」と答えただけであった。僕の感謝が彼女にちゃんと届いている。僕は、この瞬間だけでも、僕と彼女は、一言だけで伝えたい感情の全てを通わせることが出来たのだと思った。それ以上に望むべきことなど、何もないのであった。

「着いたね」

 車は目的地に到着した。僕は公園の横に停車してエンジンを切る。もぐらの言によると、あと一時間は待たなくてはいけない。何か話そうかな、と沈黙を気にしていると、

「叶笑児、あの小説だけど……」

「え?」

「叶笑児が今日、本屋で私に勧めてくれた小説よ」

「それがどうしたの?」

「気になるのよ。なんで普通の人間だったあの主人公は醜い虫になってしまったの? 最後まで読んだけど、その理由が分からなかったわ」

 彼女が言っている小説は、ある日主人公が、夢から覚めて起き上がると、巨大な虫になってしまったところから始まるものだ。その後、主人公は仕事を首になり、部屋に引きこもり、家族にも避けられ、一人寂しく死んでしまう。

「なぜ、彼はあんなに不幸なの? 彼は家族のために、身を粉にして働き、家族のことを愛していたのに、なぜ、虫にならなくてはいけなかったの?」

「それにはいろいろな解釈があるのだけれど、僕の意見を言うね。それは、彼が、孤独だったからだよ。別に、彼が弱いとか、間違っているとか、そういのではなく、ただ彼は、自分の人間としての存在価値を見失ってしまったんだ。彼は家族のために、したくない仕事を頑張っていたよね? 家族を養わなくていいのであれば、こんな仕事、とっくに辞めてやると言っていた。なら、彼には家族の為に働くしか存在価値がないことになる。だってそうでしょう。自分はこれっぽちもやりたくないことをしんどい思いまでしてやるって、生きている価値がないと思わないかい? なのに、生きているのは、家族が彼の仕事の収入がなければ生きていけないと思っているからだ。ただ、それだけなんだ。それだけの為に生きているんだ。彼は、あの日、それが耐えられなくなったんだ。そして、人間として生きる価値がなくなった。だから、虫になった。僕はそう思っているんだ」

「なら、虫になって、仕事から解放された彼は幸福だったの?」

「いいや、全く幸福ではないと思うよ。だって、これまで奉仕してきた会社の社長、養ってきた家族、彼の世界の全てだと言っても良かった存在すべてから見捨てられたんだから」

「じゃあ、叶笑児は、彼は決して幸福になれないと言うの?」

「いや、僕はひとつだけあると思っているよ」

「それは……つっ!」

 もぐらは、突然頭痛がしたように目を伏せ、額を片手で覆う。そして、

「どうやら、予定より早く現れるわ」

と言って、車から飛び出した。僕もそれに倣う。目的地の高架下を、今、ある女性が通り抜けようとしていた。もぐらが、閃光のように消える。女性が高架のちょうど真下に到着した時、高架の上からある物体が、女性目掛けて降って来た。女性にぶつかる、と思った瞬間、それは、横からの乱入の衝撃で落下地点の変更を余儀なくされた。ふたつに混ざりあったそれらは、茫然と上を見上げた女性から離れたところに落下し、アスファルトの上を転がる。もぐらと、そして、蚯蚓だった。

 目と耳と鼻と毛のない、ブヨブヨの肉と皮に覆われた四足歩行の化物。昨夜見たグロテスクな生き物であったが、昨夜のそれとは、皮膚の色と大きさが異なっていた。皮膚は灰褐色ではなく、赤に近いワインレッドの色だった。そして大きさは、昨夜よりも小さかった。昨夜のは、軽トラ一台分の大きさがあったが、今回はもぐらと同じぐらいの大きさであった。ぐるぐる転がった末、もぐらがマウントポジションを取っていた。

「ガアアアア!」

 蚯蚓が、高い音域の叫び声を上げる。まるで、女の声だった。もぐらは左手に巻いていた包帯を解く。黒光りする大きな爪を生やした異形の左手が現れ、貫手に構えたそれを、蚯蚓の口の中に突っ込む。一体どうするというのだろうか? そう思い見ていると、なんともぐらは、左手で、ある物を化物の体内から口内、そして空気の触れる口の外へと引きずり出したのだ。それは、人の、女の顔だった。

 若い女だ。顔と黒い髪は黄ばんだ粘液が付着し、ぬめりと光を反射する。そんな女の顔だけが、蚯蚓の口からもぐらの左手に掴まれ現れたのだ。女は目を閉じ生気のない顔をしていたが、もぐらに「起きなさい」と言われると、うっすらと目を開ける。女はもぐらを見て、「誰?」と蚊の鳴くような声を出した。

「私は、あなたを今、殺すことも出来るし、生かすことも出来る者よ」

「ふふっ、私を生かす? 殺す事しか出来ないくせに」

「口を慎みなさい。私の言うことが訊けるなら、あなたを見逃してやってもいいと、私は考えているのよ」

「ああ、もう。折角気持ちよく寝ていたのに、なんで無理矢理起こすわけ? 別に生きるとか死ぬとかどっちだっていいのよ、こっちは。苦しみがなくて、楽ならさ。生きることはもう、この化物に任せたの。わたしはただ、それを観察するだけでいいのよ。そこには別に喜びも悲しみも苦しみもない。だから、あんたが今私を殺してくれたって敵わないのよ。悔いも何もないもの」

「あなたが生きたいか死にたいか、こっちには関係ないわ。人間を食べることをやめなさい。そうすれば私はあなたを殺さない。それだけよ」

「え、やめるわけないじゃん」

「前から訊いてみたかったのだけど、なぜ、あなたたちは人間を食べるの?」

「他のやつのことは知らないけどさ、うーんと、怨念みたいなもんかな。わたしの。別に食べなくても殺すだけでいいんだけど、食べ散らかした方が、無残で素敵でしょう? そう、そいつも殺さないとさあ、私、気が済まないんだよ」

そう言って女が視線を投げたのは、今だ高架の真下から動かず、蚯蚓の口から現れた女の顔を食い入るように見つめていた女性であった。彼女は「ひぃ!」、と息を吸い込むと同時にその場に倒れ込む。危ない、そう思った時、颯爽と、新たに現れた男性に女性は抱えられた。

「もぐら、何をやっているんだ! 早く、そいつを排除しろ!」

その男の声は、ここまでの道中、車内で、トランシーバー越しに聴こえたあの声だった。夜に溶ける黒のスーツに身を包んだ男は、白い肌、金色の髪、青い瞳の外人だった。てっきり日本人と思っていた僕は驚く。

「待って頂戴、ネズミ。殺すか殺さないかは、こいつの返答を聴いてからよ」

「別に殺したければ殺せば良いのにと、言っているのに。この化物は必死に私のかわりに生きてくれているからそうじゃないけど、私自身は別に痛覚も恐怖もないんだからさ」

「あなた自身が死ぬか、あなたがあの女性を殺すか、この二つが天秤にかかるの、おかしいとは思わないかしら?」

「あの女を殺して食べることは快楽なの! 快楽を得る行為以外は知ったこっちゃないわね!」

「下衆が」

 その言葉と同時に発砲音が鳴り響く。もぐらの白いジャージに赤黒い飛沫が飛び散る。蚯蚓の口から出ていた女の顔の眉間に穴が空いていた。女に言葉と銃弾を放ったのは、ネズミと呼ばれた男だった。

「へっ、気色悪い女だな」

 ネズミは、拳銃を腰のホルスターにしまう。眉間を撃ち抜かれた女の顔は、歪んだ笑顔のまま、硬直していた。

「もぐら、そいつの処理は任せたぞ。俺はこの失神した女を連れ帰って話を訊いておく」ネズミは疲れた声色で、ため息を吐きながら倒れた女性を担ぎ、古紙回収の看板の近くに停めてあった車に向かった。

「分かったわ」

 もぐらの顔には、何の表情もなかった。額を撃ち抜かれた女の顔を離す。すると、それは、ボトリ、と蚯蚓の口から地面に落ちる。首から下は、赤黒い何本もの管が伸びただけで、女の頭と顔と首のみの物体が転がる。それはもうしゃべらない。女の顔を吐きだしたほうの、蚯蚓は生きていた。自由の身になった蚯蚓は、この場から逃げようとしたが、もぐらがそれを一撃で仕留める。後ろから蚯蚓の胸を、左の貫手で貫いたのだ。今度は傷が治るでもなく、蚯蚓は、あっけなく動かなくなる。

 そして、もぐらは大儀そうに一日ぶりの食事を開始したのだった。

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