四話
瞼越しに柔らかい日差しを感じた。そして次に、ベーコンの焼ける音と臭いが鼻腔をくすぐる。目を覚まし、時計を見ると午前八時を過ぎたところで、いつも通りの起床時間だった。台所を見るとめだかが朝食を作ってくれていた。続いてベッドの方を見ると、もぐらの姿がなかった。
「あれ、もぐらは?」
僕は眠気眼を擦りながら、めだかに訊く。
「もぐらさん、なんかトレーニングしてくるって言っていたよ。朝食は、いらないってさ。もう出来ちゃうから、布団畳んで、準備していてよ、おにい」
「怪我の様子は良くなったのかな?」
「痣や傷跡が全部消えているし、骨折していた右腕もすっかり動いていたよ。やっぱり魔法少女はすごいね!!」
「そうか。それなら、よかった」
僕は起き上がる。今日は土曜日で、明日の日曜日も含め、アルバイトは休みである。一週間のうち、この日の朝が一番快闊である。冷たい水で顔を洗い、寝癖を直す。そして、めだかの料理の手伝いとして、トーストを焼く。
机には、ふわふわのオムレツ、身体を温めてくれるコンソメスープ、カリカリに焼いたベーコン、きつね色のトースト、バター、牛乳が並ぶ。めだかが来て作ってくれる食事は、いつもありがたかった。
「そんじゃ、いただきます」
「いただきまあす!」
めだかの料理はおいしい。舌づつみをうっているとめだかが話しかけてくる。
「今日はさ、私とおにい、休みじゃない? もぐらさんに町を案内してあげようよ」
「俺はいいけど、もぐらはどうかな?」
「もぐらさん、OKしてくれたよ!!」
「そっか、なら行くか」
「へへ、もぐらさんに何着てもらおうかな」
僕の部屋にはめだかの私物が多い。というか、僕はあまり家電や衣類などは、必要最低限しか持ってないので、この部屋にある物の半分はめだかの物である。九月終わりには、衣替えと言って、僕の部屋に沢山の自分の秋服を持ってきていた。それのうちの一式をもぐらに貸すのであろう。めだかは古着好きで、車を持つ僕はしょっちゅう、彼女に古着屋巡りを手伝わされる。まあ、僕も古本好きであるから、僕たち兄妹は中古が好きなのだ。
朝の食事を終えて、めだかと一緒に片付けていると、もぐらが帰って来た。
上は白の長袖のパーカーで、下は紫のハーフパンツを履いている。これもめだかが貸したのだろう。窓から入ってくる日光を反射する白い足は、長く、細く、美しかった。足ばかり見ていると不審なので、急いで下から上に視線を移す。怪我は本当に完治しているようだった。右腕も自由に動いているし、顔もゆで卵のようにすべすべで、痣も傷も綺麗になくなっていた。負荷のかかる運動をしてきたのか、顔には赤味がさし、大粒の汗が額から顎の先まで垂れている。外に出る時はいつもそうなのか、目立つ左手は包帯を巻いて隠していた。
「もぐらさん、おかえり!!」
「ただいま、めだか。それと、おはよう、叶笑児」
「うん、おはよう。シャワー浴びてくれば?」
「ええ、そうさせてもらうわ」
「そんじゃ、めだかは洗濯しよう!!」
朝食の後片付けが終わったので、僕は身支度して、日課の読書を始める。読書といっても、読むのはもっぱら小説だ。僕の部屋には、自分の衣類やら電化製品などは少ないが、日に焼けた小説は沢山あった。ページをパラパラめくると、古本独特の甘い香りがする。僕は、食事や睡眠の次に、小説を読む時間が好きだった。ページを開いて、続きから読み始める。殺人を犯した主人公が、自分の行いを肯定するか、否定するか悩んでいる場面だ。
僕は、人間は悩んでしまったらもう、本当に納得できる選択など出来なくなると考えている。少しでも、自分に疑いを持ってしまったならば、いくら過去の自分が正しいとしても、素直にそれを受け入れられなくなる。そうなると、選びたくない選択肢でも選ばずにはいられないということが起き、それによってさらに自分を信じられなくなり、自分のことが大っ嫌いになってしまうのだ。この小説の主人公も、最初はこの世には殺していい人間がいると考え、誰もそいつを殺さないから、自分で殺してやろうと決心した。自分のやろうとしていることを善と考え、完全に信用出来たのだ。しかし、いざそいつを殺してみたらどうだろう。別の者が無実の殺人罪で疑われ、しかも、そいつが死んだことによって不利益を被る善人が現れるという始末で、主人公は、その手で他の人間を不幸にしてしまったのだ。この結果を目の当たりにしては、主人公が掲げていた正義を他の誰かが賞賛しようとも、当の本人は、自分を否定せざるを得なくなる。すると、主人公には二つの選択肢があったのだが、到底選ぶことなど認められなかった一つを選んでしまうのだ。自首をして、己の罪を認めてしまうという、殺人を犯す前は考えられなかったその選択肢をだ。このように、どんどん望まぬ方向へ、人生の舵を切ってしまう人間は、たぶん沢山いる。なぜなら、僕もその一人だからで、僕は僕の事を特別だなんて思ったことがない。いや、違う。思わないようにしている。不幸を誰かのせいにするのは、一番不幸だと思うからだ。
「おにい、そろそろ行くよ」
小説を読むのに没頭していた僕に、めだかが声を掛ける。顔を上げると、すでに二人とも外出する準備が整っていた。
めだかの髪型は、肩口よりも短い黒髪のボブカットで、前髪はちょうど眉の高さで切り揃えられ、綺麗に弧を描いている。薄く化粧をしており、桃色のうすく引いた口紅と頬紅が可憐だ。服は少し大きめの長袖のベージュのニットに、茶色のプリーツスカートを合わせている。
もぐらは、白いシャツの上に、真紅とグレーのチェック柄ニットを着ており、紺色のスカートを履いている。白銀の長髪は、大変目立つと考慮してか、黒のベレー帽をかぶり、その中に髪をまとめて入れている。もぐらは眉もまつ毛も肌も雪のように白いので、化粧は不必要に思われた。
二人とも、秋を意識してのコーデで、見ただけで、季節を感じられた。それに比べて僕は……
「あー、おにい、またその服着てるし!!」
僕は、秋とか冬とか関係なく、いつもジーパンに無地の黒の長袖のTシャツである。寒ければこの上にファーがあしらわれた大きいフード付きの、ぶかぶかの濃緑のアウターを着るだけである。今日は、朝がなかなか冷えるので、それも着ようと思い、ハンガーから取ると、血がべっとりと付着していた。そういえば、これ、もぐらを僕の部屋に連れてくる時、彼女に貸したのだった。きっと、全部蚯蚓の血である。もぐらが蚯蚓を食べた時に、付いていた血だ。僕はもう着れそうにないそれをゴミ箱に捨て、めだかに言う。
「俺もそろそろ新しい服買わなくちゃな」
僕たちは市街地に行く。三人で僕の軽自動車に乗っての移動だ。運転席に僕、助手席にもぐら、後部座席にめだかである。車が走る最中、目につくものを、めだかがもぐらに説明する。
「あのスーパーは、いつも私がおにいの部屋に行く前による所。おにいの部屋の冷蔵庫、いつもキムチと納豆しかないから、あそこで買わないと料理出来ないの」
「ここのホームセンターはお勧めだよ。安いし、ポイントカードを作る事を是非勧めるよ。すぐポイントが貯まって商品券に交換してくれるんだ」
「ここのパン屋さんは、カレーパンがすっごくおいしいの」
「めだか、ここの美容院でいつも髪切っているんだ。このボブカットもここでしてもらったの。似合うでしょ」
「あそこの橋を越えたら、めだかとおにいの実家なんだよ。機会があれば、是非来てね」
めだかの個人的な町の説明にも、もぐらはちゃんと相槌を打つ。彼女は、あまり自分のことは話したがらないが、人の話を聴くことは、あまり苦ではないらしい。まあ、僕もあまり自分の話をするのは好きではない。誰が僕の話しなんて興味を持つのかと、考えてしまって話すのが億劫になるのだ。その点、めだかはあまり人怖じしない性格で、誰に対してもこのようにマイペースである。人の世話も出来るし、相手にちゃんと自己主張も出来る。学校での成績もなかなか良いと聞く。
僕なんかより、めだかのほうが優秀である。
いつからだろう、めだかに対して、こんな劣等感を持ち始めたのは。
喋らず運転する僕を、もぐらが見ていた。
「ん、どうしたの?」
「上着、ごめんなさい。汚してしまって」
「ああ、いいんだ。あれ、五年ぐらい毎年着ていたからさ。今年こそは、新しい上着を買おうって思っていたとこだよ」
「お金なら、あるのよ」
「え!?」
彼女が懐から出した札束に僕はビックリする。一万円の札束である。
「いや!! いいよ。僕、フリーターだけど、結構お金あるんだよ。普段使わないからさ」
「そう。お金にも困っていないのなら、なんで、叶笑児はそんな悲しそうな顔をするの?」
「え……」
そんなことを聞かれるのは初めてだった。確かに僕は、どんな時だって、自分は一人なのだという孤独感に襲われる。こうして、三人でドライブをしているのは楽しい。けれど、どうしても僕は、誰にも馴染めない。家族だろうと、高い壁を感じてしまう。いや、僕が勝手に壁を作ってしまっているというのが、正しい。誰も、僕が作った壁を超えることは出来ないのだ。それが、悲しいのかもしれない。ならば、壁を作らない努力をするべきなのだが、自分を守る為に、作らざるを得ないのである。他人との壁無くして、僕は他人と関われない。なぜなら、むきだしの僕は、ひどくグロテスクなのだ。他人に見せる訳にはいかない。
「おにいの、白けたような顔は、いつものことだから、もぐらさん、気にしなくていいよ」
めだかにそう言われても、もぐらは納得せず、僕に告げる。
「理由は話さなくていいわ。きっと、言葉だけでは説明できない問題なのでしょうから。でも、これだけは覚えておいて頂戴。決して、その悲しみに呑まれてはいけないわ。希望も自信も愛も投げ捨てて、その悲しみだけに呑まれてしまったら、次に蚯蚓にされてしまうのは、あなたよ」
「え、なんで僕があの化物に……」
急に抽象的な事を言われた揚句、それを理解し、行動しなければ、あの化物になるぞと脅されても、僕は具体的にどうすればいいのか分からない。だから、困惑の問いしか出なかったのだが、彼女はそれには答えてくれない。
僕ともぐらの間に生まれた気まずい気配を察してか、めだかが元気よく僕たちの間に入り込む。
「み、見て!! あれ、私が通っている高校なんだ!!」
赤信号なので車を停めると、左斜め前方にO県立A高等学校があった。めだかの通っている高校である。僕もあそこの卒業生だ。高校には、いい思い出など一つもなかった。勉強、部活、交遊、いずれも身が入らずに、ただ一人で三年間を消費しただけの高校生活だった。僕の気分が、またさらに急加速で落ちていくのが分かった。落ちた先には誰もおらず、僕は僕のシェルターに一人で入り込む。この瞬間でも、一人になりたかった。外のあらゆる情報が、目障りでうっとうしい。赤信号、学校のグランドでバスケをしている学生、横断歩道を渡る老婆、前方車のルームミラーに写る金髪の男、流れる音楽、めだか、もぐら、全てが消えて欲しかった。そして僕は、この世界で目障りなのは僕であり、消えるべきなのは僕であると、いつもの結論に落ち着くのであった。
青信号になったので、足がアクセルを踏む。
まさか、休日の午前中から、こんな気分になるなんて思ってもみなかった僕は、もう、自分の部屋の中に、一人で籠りた……、
むぎゅ~。
「……」
むぎゅ~。
「も、ぐ、ら、い、た、い、よ」
もぐらは、車を走行中の僕の頬をつねっていた。別に痛くはなかったが、放しては欲しかったので抗議する。
「叶笑児、悲しい顔をやめないから、もう物理的手段に出るしかないと思ったのよ。見てよ、めだか」
「にいさん、変な顔―」
「い、い、か、ら、は、な、せ」
もぐらはやっと、僕の頬から手を放す。
「どう、叶笑児?」
「どうって……、車の走行中は危ないから、ドライバーの邪魔をしてはいけません」
僕は、別に怒ってはいなかった。ただ、僕はもう、シェルターの中にはいなかった。ただ、今、この三人でいる空間を、楽しんでいた。他人にこうして無遠慮に接せられるのはうれしかった。全く不快感もなかった。やはり、もぐらが美少女だからだろう。男っていうのは、いくら落ち込んでいたとしても、女性の優しさには簡単になびいてしまうのだ。
「もぐらっていくつなの?」
ふと、高校を見ていると、そんな質問が出た。彼女も高校に通っていてもおかしくない年齢に見えたからである。
「一六歳よ」
「うそ!? 同い年じゃない、私たち!! え、じゃあ、もぐらちゃんって呼んでいい?」
「かまわないわ」
「改めてよろしくーもぐらちゃん!!」
「もぐらは、高校とか行ってないの?」
「ええ、一つの土地に長くいられないから、通えないのよ。まあ、勉強する目的もないから。めだかはなぜ、高校で勉強するの?」
「え、そりゃ、大学に行くためだよ」
「なぜ、大学に行くの?」
「いい会社に就職するためかな?」
「いい会社っていうのは、どういう会社なの?」
「福利厚生がしっかりしていて、週休二日で、祝日が休みで、長期休暇もあって、ボーナスがあって、給料が高くて、残業がなくて、自分のやりたいことが出来る会社かな」
「何がしたいの?」
「それはまだ分からないけれど、大学に進学したら見つかるかも」
「叶笑児も、めだかのように生きられたらよかったかもしれないわね」
「えっと、急になぜ僕に話をふるの?」
「叶笑児、人生には、具体的な目標がないと、いけないと思っているでしょ?」
「そう、だね」
確かにそうである。めだかの話を聞いていても、よくそんな「将来、そのときにならないとやりたいことなんて分からないよね」っていうぼやけた状態で、今を頑張れるなって思ったところだった。そんなの他人に流されているだけじゃないかと思ったが、他人と同じ価値観を持ち、他人の流れに乗り続けるというのは、僕には出来なかった事であり、それをしているめだかは、本人の胸中は定かではないが、外から見る彼女はいつだって、一生懸命楽しんで生きている。
「人は、その時その時に与えられる環境で、一生懸命頑張ることが生き甲斐となるのよ。自分には合わない、やる意味が分からないと駄々をこねて逃げ回っても、幸せなんてやってこないわ」
でも、それは……。
「でも、叶笑児には、それが出来なかった。なら、私の生き方なら出来ると思う? 私は、カフカスキーを殺す事しか頭にないの。それが私の生きる意味ともなっているわ。だから、めだかのようにいい会社に入る気もなければ、大学に行くための勉強をしなくてもいいし、高校に通う必要もないの。やるべきことが明確な、この生き方は幸せだと思う? 断言はしない。でも、私は絶対に挫けない。そのつもりよ」
そうだ、僕はこのもぐらの生き方を、彼女を初めて見た時から直観したのだ。そして焦がれた。蚯蚓を見据える彼女の無表情のなかにあった金色の瞳には、迷いがなく、ただ目の前の蚯蚓を倒すことだけが、彼女の全ての様に思えたのだ。そんな、生きる意味、やるべきことが僕にはない。めだかや両親、周りの同い年の人間たちのように、僕は生きられないと諦めている。ように、というのは、勉強して、就職して、友達を沢山作って、恋人も作って、結婚をして、子供を産んで、定年まで会社に勤めて、余生は年金を貰って生活して、孫の顔を見て、最後には大勢の家族に看取られながら死ぬ、そんな大勢が夢見るロールモデルから、僕は外れてしまっているし、今後またそこに戻れるとは思ってないということだ。多数派の人達の真似が出来ないとなると、行動の責任は全て自分にのしかかってくるわけで、誰にも頼れないし、孤立してしまう。だから、生きていくためには、劣等、孤立、自己嫌悪、虚脱、悲観、そんなものを考えられなくなるぐらいの、何か、生きる意味みたいなのが必要なのだ。それは、もぐらにとっての蚯蚓のことを言うのかもしれないと、僕は思った。だから、もぐらの様になりたいと思ったのだ。こんな風になりたいと強く願い、実際こうして彼女の横に座るという行動まで起こせたのは、初めてだった。僕が、あの時、蚯蚓ともぐらの闘いを追わなければ、こんな結果にはなっていなかっただろう。
「もぐらの様な生き方なら、僕は、自分でもこの世界でやってけそうに思えるんだ」
「そう。私の生き方が参考になればいいのだけど。さっきもいった、幸せか断言はできないという話だけれども、それは、私の生き方が正解かどうか分からないということだから、それは承知していて頂戴」
僕は藁にもすがるような気持ちで、きっと正解だよ、と呟いた。
*
僕たちは、市街地で一番大きいショッピングモールにやって来た。目的は、CDショップ、衣類量販店、本屋に行き、その後昼食を食べるためだった。まず、めだかが行きたがっていたCDショップに行く。
「やったあ!! あったあ!!」
と、めだかが嬉々として手にしたのは、今話題の五人組アイドルグループの新しいシングルであった。収録曲は変わらないのに、CDジャケットは五種類と、メンバーによって分けられており、まさか、めだかのやつ、五枚全部買うつもりではないだろうかと思ったが、しっかりどれを買うか悩んでいた。時間がかかりそうなので、僕は洋楽ロックのコーナーに行く。めだかはアニソンとか、アイドルソングをよく聴くそうだが、僕は洋楽ロック、特にグランジと呼ばれる音楽を好んで聴いていた。グランジ、和訳すると『薄汚い』だ。ダメージジーンズや、よれよれのシャツ、汚れたスニーカーを履き、歪んだ激しいギターリフをかき鳴らし、顔をゆがませシャウトする。僕は、動画サイトで見たその姿に胸を打たれて以来、グランジというロック音楽が好きになった。個人的には、ただ美しいだけのかっこ良さ、愛らしさは、こと音楽においては、重要ではないと思う。どれだけ聴く人を熱狂させるかが大切で、薄汚くて、野蛮で、叫んで、頭を振るほうが、僕は好きだった。試聴機で、身体を振りまわしたい衝動を抑え、外面上はおとなしく聴きながら、ふと、もぐらが目に止まる。彼女は所在なさげに店内をうろうろしていた。今日の外出の目的は、一応、もぐらの街案内だったはずであるのに、彼女を退屈させては、ダメだと思った僕は、ヘッドホンを試聴機に戻し、もぐらのもとに行く。
「もぐらって、普段、音楽は聴かないの?」
「ええ、興味がないの」
「それじゃ、こんなところにきてもつまらないだけだよね。まだ、めだかのやつ、買う商品選ぶのに時間がかかりそうだからさ、良かったらこれ聴いてみなよ」
そうして僕が連れて来たのが、洋楽のグランジコーナーである。さっき僕がいたところだ。正直、僕が他人にこれがいいよと勧められるのはグランジしかなく、グランジの知識しかなかった。もぐらにヘッドホンを渡し、試聴機の再生スイッチを押す。最初、もぐらの身体がビクッとし顔を歪めたかと思うと、彼女はそこから無言のまま聴き入る。足先を見れば、リズムを取っている。どうやらお気に召したらしい。
「お待たせ―!! おにい、もぐらちゃん。あれ、もぐらちゃん?」
無言で音楽を聴く彼女にめだかが目を丸くする。
「ねえ、おにい、もぐらちゃんは何を聴いているの?」
「グランジ」
「えー!! あんな意味の分からない音楽を聴かせているの!?」
誰しも理解出来ないものはある。それは、その人には必要のないものなのだ。音楽でも映画でも、人によって必要なものが違うというのは、いいことだと思う。だから、同じものを必要とする人に出会った時、それはとてもうれしくて、喜ばしいことなのだ。
「おにい、うれしそうだね」
めだかのほうが、そんな僕よりうれしそうに僕に笑いかける。もぐらは「とても品のない歌詞だけど、曲自体は良かった」と言って、聴いていたCDを購入した。
次は衣類量販店で、僕の上着を買いに行く。服に関しては、どうでもよかった。上着も安くて温かいのであれば良くて、有名な衣類量販店にあるものだ、ダサいものは置いていないだろう。
「服にはね、その人によって似合う、似合わないがあるの!!」
そうめだかに力説される。
「別に黒なら誰でも似合うだろう」
「そうやって、黒とかグレーとか安易に選んじゃダメなんだよ、もっと勝負しなきゃ!! そうだ、私ともぐらちゃんで、おにいの上着を選んであげようよ!!」
さも名案とばかりに、めだかがもぐらに言う。
「ごめんないさい。私も、服に関しては何のこだわりもないの。いつも着る服だって、動きやすさ重視でジャージだし、叶笑児のことをとやかく言える立場ではないの」
確かに初めて会った時の彼女は白のジャージであった。
「んじゃ、こうしよう!! 私ともぐらちゃん、どちらが選んだ上着を、おにいは、買うのか、題して、『おにいは、どちらを選ぶ、生涯最愛を誓った妹か、突然現れた超絶美少女か!?』対決~」
「……」
めだかは、突然頭が湧いたようなおバカな提案を発した。それを受けたもぐらは……、
「それならば、私が叶笑児の上着を選んでも、ダメなら叶笑児に選ばれないから、安心ね」
と、その対決の意図を察し、めだかの提案を受け入れた。そうして闘いは幕を上げたのであった。制限時間は十五分。両者お互いに前途を祈り、握手。不敵な笑みを交わし合い、売り場に散った。僕は、しかたなく店内のベンチに座り、束の間の読書をすることにした。
十五分経過。
彼女たちが、僕の前にやってくる。当分僕の一張羅になるであろう上着を携えて。
まず、めだかだが、彼女が持ってきたのはキャメルのダッフルコートであった。裾が長く、試着してみると膝上までの上半身が覆われた。ダッフルコートなんて初めて着る僕は、少しわくわくしながら大きな姿見に映る自分を見た。案外、似合っていた。試着した僕を見て、めだかももぐらも、似合うと言ってくれた。その言葉は、服と、それを選んだめだかのセンスに与えられるべき賞賛だが、僕は、自分が褒められたような心地になり、嬉しかった。
次は、もぐらである。彼女が持ってきたのは、初めて会った時、彼女も着ていた有名スポーツブランドの、白のウインドブレーカーだった。
「防寒性、機能性を重視したら、やはりこのメーカーのものがいいと判断した。ジャージより値ははるが、その分、これからの日本の冬を考慮するのであれば、これが適当であろう」
僕はそれも試着する。姿見に映る僕は、別段、何の新鮮さもなかった。ウインドブレーカーには、衣類の魅力である着る者の印象を大きく変える力が、希薄なのかもしれない。どういう反応をしようか、僕と、さらにはめだかも考えているようだった。けれど、もぐらは試着後の僕を見て、「うん、やっぱりいいな、そのウインドブレーカーは。ファスナーとラインがゴールドなのが、かっこいいと思わないか?」と、僕に尋ねてきた。「うん、白と金の組み合わせは、僕も好きだよ」と答えると、「ふふふ、そうだろ」と初めてもぐらの笑みが見られたような気がした。その笑みで、この勝負の勝敗は決してしまった。
「これを買おうかな」
僕は、もぐらが選んでくれた白のウインドブレーカーをレジに持っていった。代金は自分が払うともぐらが譲らなかったので、お言葉に甘えることにした。
次は、僕が一番行きたかった所である。そう、本屋だ。売り場に入った瞬間、気持ちが浮つくのを感じた。走り出したい衝動を抑え、ゆっくりと売り場を見渡す。新刊コーナー、書店員一押しコーナー、映像化された作品の原作コーナー、作者別コーナー、出版社別コーナー、それぞれのコーナーを順番に見て回るつもりだ。初めに新刊コーナーの棚へと向かう。棚に収まっている本を、僕は瞬きも億劫なほど、凝視し、視線を左から右、下の段へ、左から右、下の段へ、それを見落としがないよう、何往復もする。そして、次の棚へ。これの繰り返しだ。目に留まる本があれば物色を中断し、手に取り試し読みをする。
「おにい、わたし、もぐらちゃんと一緒にプリクラとって来るから。そんで、ファッション雑誌を読んで、漫画コーナーに行って、飽きたらコーヒーショップにでも行って時間潰しているから、終わったら連絡してね」
めだかはもぐらを連れて、僕から離れる。僕はそれを生返事だけで、送り出す。そう、ここからは別行動である。僕は、本屋に来ると一時間以上は離れられないのだ。フリーターのいいところは、お金が許す限り何冊でも本が買えるし、学生や会社員よりも何もしなくても良い時間があるので、好きなだけ読書が出来るという点である。僕の生きる楽しみは、小説を読むことだけだと言っても過言ではなかった。足腰が悲鳴を上げるまで、僕は小説選びに没頭し始めた。
時間から切り離されたような感覚に陥っていた僕の肩が、ちょんちょんとつつかれて、僕は振り返る。そこには、もぐらがいた。もしかして、もう大分時間が経過し、めだかを怒らせてしまったのかと不安になる。めだかは、あまりに怒りすぎて、もぐらだけを僕の元に送ったのではないか、そう思いながら携帯のディスプレイを見れば、まだ別れてから四十五分ほどしか経っていなかった。過去何度も、めだかを僕の本選びで待たせ過ぎて、怒らせた経験のある僕は、ひとまず安心する。
「めだかは?」
「近くのコーヒーショップでパフェを食べているわ」
「あいつ、昼食前だってのに、よくそんな物を……」
「私は、叶笑児の本選びが気になって来たの」
「もぐらは、本を読まない?」
「ええ、読まないけど、叶笑児がどういうのを読むのか気になるわ。さっき行ったCDショップで、叶笑児が私に聴かせてくれた音楽が良かったから」
芸術や娯楽の趣向は、ある程度似るのかもしれない。もぐらが、僕の好きな音楽を気に入ってくれたってことは、もしかしたら小説にも当てはまるのかもしれない。僕はもぐらに嬉々として自分が今まで読んで感動した小説を売り場から探し出し、説明した。
「僕は特に純文学と呼ばれる小説が好きなんだ。純文学っていうのは定義しづらいんだけど、あえてするなら、歪んでしまった道徳を持って生きなければならない、そんなどこか壊れた人間を描いた小説なんだ」
「壊れた?」
「そう、でも、壊れている、歪んでいるっていうのは、何と比較してかというと、従来の価値観なんだ。純文学は、現代の社会や道徳に、人間の生や死を問い直す。そして、作家なりに観察して考えだした答えが、そこには書かれているんだ。その答えには、賛否両論があるのだけど、賛否を起こせるのは、ある種の真実、普遍性があるからなんだ。なぜ、僕が純文学を好きなのかというと、そこなんだ。とても個人的に思える苦しみとか、生きづらさ、世間とのずれは、別にその人だけのものではなく、一種真実であり当てはまるんだ。純文学の作者は作品を通して、その絶望を愛し、這い上がろうとする。絶望の愛し方やそれを武器にする方法を知ることは、正解など霧散したこの社会に立ちこめる霧を、少しだけ払ってくれるんだ。そうして見える物が、いくらグロテスクだろうと、読者はそれを、直視しなければいけない。虚で実を浮き彫りにするのが、純文学なんだ」
めだかは黙って僕の話を聴いていた。喋りすぎだと分かっていても、僕は普段考えていることを、喋らずにはおれなかった。もぐらには僕の全身全霊をぶつけたかった。僕が彼女を知りたいと思うのと同時に、彼女にも僕を知ってもらいたいと思ったのだ。それこそが、関係を縮められる最短距離だと思った。ゴールにはどんな関係が待つのだろうか? 僕はそれをまだ知らない。
「叶笑児の好きな小説、私も読んでみるわ」
今は、そう言って貰えるだけ、僕は嬉しかった。
欲しい本を買い、めだかと合流して一旦荷物を車に積んだ僕たちは、昼ごはんを食べるため、モール内のフードコートへやって来た。数ある色々な料理のお店が、広い飲食スペースを取り囲んでいる。土曜日でちょうどお昼時だったので、そこは大変混雑していた。僕たちは先に席を確保した後、もぐらが「私は食べないから、二人とも好きなメニューを注文しに行ってもいいわ」と言ったので、僕とめだかは席から離れ、何を食べようか思案する。僕がなかなか決められずに悩んでいると、めだかが「もぐらちゃん、食べなくて平気なのかな?」と訊いてくる。
「きっと、空腹時じゃないと未来予知が出来なくて、蚯蚓を見つけられないんだよ」
「なんで、空腹時じゃないとダメなのかな?」
「そんなの、俺に訊かれたって分からないよ。多分、もぐらに訊いたところで答えてくれないとも思うけど」
「でも、もしそうならさ、もぐらちゃん、大変だよね。好きな時に好きなものが食べられないんだから」
そう言われると、確かに、もぐらには蚯蚓ハンターとして、あらゆる制約がありそうだ。使命の為に、僕たちが普段何気なく送る日常から乖離された彼女には、この世界がどう見えるのだろうか。苦痛ではないのであろうか。そこで初めて僕は、そんな可能性に行き着いたのだ。彼女は、目標に向かって生きていく事に、挫けないと言った。挫けない、それには苦痛は伴わないのだろうか。もし伴うとして、苦痛に耐えた先、目標を達成できた暁には、彼女はどうするのであろうか。カフカスキーという、人間を蚯蚓という化物に変えてしまう男を殺す。それが、自分の生きる目的、使命だと彼女は言った。でも、その後のことは、言ってはいなかった。男を殺した瞬間、彼女は幸福になれるのだろうか。幸福になるために人は生きているのだと考える僕には、彼女がそこまでして頑張るのは、その先に幸福があると信じているからに違いないとしか、思えない。カフカスキーを追う理由とは何なのか? 平和のため? 復讐のため? お金のため? 権力のため? 名誉のため? 快楽のため? 暇つぶしのため? 何のために彼女は闘っているのか、僕はそれすらも知らない。本当に、彼女の生き方の先に、僕の求める答えはあるのだろうか? そもそも、幸福とは何なのか、僕は説明できない。そんなものあるのだろうか? と疑問に思っているのが僕の現状だった。とりあえず眠いから寝る。とりあえず暇だから本を読む。とりあえず寒いから服を買う。とりあえず衣食住を確保しないといけないから働く。とりあえず腹が減ったから、今、フードコートで料理を食べる。今の僕は、とりあえずで生きている。そう考えると、
「別に、好きな時に食べたい物が食べられなくても、もぐらは辛くないかもしれないよ」
と僕はめだかに答えていた。やっぱり、とりあえず、で生きるよりかは、苦しくても、目的のために何かを犠牲にする方が、素晴らしい生き方だと思うからだ。彼女自身も、そう思っているに違いない。
「僕も、何かもぐらみたいな生きる目的を決めないとな」
僕は決意を新たにする。
「おにい、まずは、食べたいものを決めなよ」
もぐらが待つ席に戻ると、彼女はイヤホンを耳にさし、迷彩色のトランシーバーで誰かに連絡を取っていた。ティッシュ箱ぐらいの大きさのそれに、僕はビックリする。秋らいし季節感のある装いをしたオシャレで可愛い女の子が、軍服が似合うトランシーバーを持っている光景は、なんともちぐはぐで、異様であった。僕たちが席につくのと同時に、もぐらはトランシーバーをめだかから借りたのであろう小さなハンドバックに押し込み、イヤホンを外す。
「えっと、おまたせ、もぐら」
「いいえ、こちらも私用があったから構わないわ」
「出しゃばったことかもしれないけれど、誰に連絡していたか、訊いてもいいかな?」
ティッシュ箱ぐらいもある、大きいトランシーバーで連絡を取り合うということは、相手もそれに類するものを利用しているというわけで、そんな人、僕は警察関係とか軍事関係とかしか想像できなかったので、大変相手が気になったのだ。
「私の仲間よ。何をしているかまではいわないけど」
「そ、そっかあ。もしかして、急用とか?」
「そうだけど、慌てることはないわ。私が動くのは夜だから」
「もしかして、今日の夜、また蚯蚓が出るの?」
「当たり。予知が見えたの。今夜、またこの町に、蚯蚓が現れるわ」
夜に激しい戦闘をすると分かっている人を、連れまわす気にはなれず、僕たちは昼食を終えて食料品の買い物を済ませた後、ショッピングモールを出て、寄り道せずに帰宅した。僕は自分の買うべき物、欲しい物は手に入れたので満足だった。めだかはまだ色々と、もぐらと一緒に流行の服や古着を見て市街地を周りたかっただろうが、自粛した。また、次の機会でもあるかのように「今回はしょうがないね」と言った。部屋に帰ってきてからは、各々好きなことをした。めだかは、先ほど購入したCDを聴いていたし、僕やもぐらも買った小説を読んでゆっくりした。雑談しつつ、夕方になれば、夕食を作って食べ、風呂に入り、アイスを食べながらテレビを三人で見た。予知が見えたからといって、もぐらは昼以降も、何も食べなかった。予知といっても、見えた瞬間に確定するのではないらしい。だから、蚯蚓を仕留めるまでは、常に予知を見られるコンディションの空腹でなくてはならないという。
夜は更け、深夜となる。めだかはすでに眠っていた。僕ともぐらは物音も立てず、小説を読んでいた。もぐらはいたって冷静で、黙々と読書に没頭している様子に見えるが、実際はどうであろうか? そう思うのは、僕が全く読書に集中出来ていないからであった。
読書をしていたもぐらが腰を上げ、浴室に向かい戻ってくると、めだかの部屋着から、白のジャージへと着替えていた。それは、今日行ったショッピングモールで、彼女が僕のウインドブレーカーと一緒に買っていた新品のジャージであった。
「今から、向かうの?」
「ええ。時間に余裕はあるけれど、昨日のように手遅れになってはいけないから」
「もしさ、時間が大丈夫なら、僕がもぐらをその蚯蚓の出現場所に送っていってもいいかな?」
「え、私、そのつもりだったのだけど?」
どうやら、僕がもぐらの送迎をするのは決定事項であった。「え、叶笑児の力なんて必要ないわ」と言われると思っていた僕は、拍子抜けする。それと僕は、昨夜のように彼女の戦闘を間近で見たいとも思っていた。その旨伝えると、もぐらは、それもなんと許可をくれた。
「私に付いてきたところで、叶笑児には何も出来ないわ」「一人より、あなたを守りながら闘うほうが迷惑よ」とさすがに拒否されると思っていたが、「あなたが、蚯蚓に襲われることはないわ」と断言されたのだ。なぜかは、もう訊かない方がいいのかもしれない。訊いたところで僕が特別出来ることなどないのだし、彼女が言わないということは、知らなくても特別不都合なこともないのだろう。彼女に関して分からない事は、これから先、彼女の言動を知っていけば、自分の頭が考えて、答えを導いてくれるだろう。何も自分の目で見ず、頭で考えないまま、すぐに「なんで?」と相手に訊くのは良くない。なんで、を言葉だけで掘り下げていっても、答えはないからだ。本当の答えは、言葉だけでは表せない。自分で、見て、感じて、考えて、初めて本当の答えが見つかるのである。本当の、というのは、自分が納得できる、欲しかった答えということだ。だから、僕は彼女に付いていきたいと思ったのである。この目で、彼女の生き様を見て、感じて、考えて、僕の答えを見つけるのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます