二話

 いつも通りの、深夜のバイトの帰り道のはずだった。車も人も途絶えた交差点の向こう側に信じられないものを見るまでの話だ。

 化物が人間を食べていた。

 化物。そう形容するしかない生物が、通行人の男性に襲いかかったのを、僕は茫然と、しかし、すぐに恐怖にとりつかれ、ただ見ていただけだった。僕の周りの重力の調整つまみだけが狂ったような、そんな不安定な浮遊感に、僕は身体を動かすことが出来なかったのである。

 遊離していく現実の中で、僕の身体感覚に強烈な信号を送ってくるのは、色と臭いだった。赤と紫の不穏なマゼンタの血の色に、ツンと鼻を突き刺す死匂だけが、確かな現実のように思えた。そこには分かり易い程に、生と死しかなく、男性を食う化物が生で、食われている男性が死の象徴であった。この光景こそ、どんな絵画にも勝って、この世の真実を表現しているようだった。次に死の象徴として描かれるのは僕だという事実に、僕は、神さえ疑わないこと、イコール、運命を受け入れることに、反対はないのであろうか? と、自らに問いかける。そう問われれば、僕は、死ぬことに対して、ためらいはあるし、怒りも湧いた。それならば、今すぐ全力で回れ右して逃げればいい。もしかしたら、助かるかもしれない。けれど、今まで、生きていて良かったなんて思ったことなどない僕にとって、死が魅力的に映ってしまう事は否定できないのであった。

 やっと、死ねる。そう思う僕がいる。

 だから僕は、まだ動けない。これから先、満たされず、ただ不平不満を言いながら生きて、他人を、自分を、疲れさせるぐらいなら、そんな奴、死を与えて永久に黙らせたほうが、いいに決まっている。

 生きたくない人間なんて、沢山いる。いくら幸福だと思えた幼年時代を送ろうと、死をもってでしか解決できない、そんな状況に追い込まれる可哀想な大人になるやつは、この世に沢山いて、僕もその一人である。しかし、この状況は一転してしまう。

「そこまでよ、蚯蚓」

 僕の後ろから、女性の声が聴こえた。

 僕と、ついでにいえば化物も、声の主を知りたくて、振りかえる。

 街灯の光が差さない暗闇の中、ある有名スポーツブランドの白いジャージを着た少女が発光していた。少女が、というよりかは、彼女の周りにエネルギーの渦のようなものがあって、彼女は光の粒子をまとっているかのようだった。その彼女の外見は、およそ僕とはかけ離れていた。白銀の長い髪に、金色の瞳がきらめいていた。化物という言葉の対となる、神秘という表現こそ、彼女にふさわしかった。僕も化物も彼女に見惚れていたと思う。そんな、時がとまったかのような錯覚を生みだした張本人が、その沈黙を破った。

 白銀の髪は一直線に流れ、金色の瞳の輝きは粒子となって光線を残し、彼女は前方へと突き進む。それを知覚出来たのは、彼女の足が地面を蹴ってからの、瞬きをする一瞬前でしかなかった。次に瞼を上げた時にはすでに、彼女は僕の目に映らなくて、風を切る空気に抗う音しか聴こえなかった。そして、再度彼女の姿を目にした時にはもう、蚯蚓と呼ばれた化物は、その場にいなかったのである。

 一人の少女が、生と死の象徴を反転させるなど、想像もしていなかったので、僕はさらに現実感を失くし、恐怖や安心を超えて、高揚する。生と死が反転した時、そこにはドラマが生まれる。僕はそれに虜になったのだ。

 化物は彼女に吹っ飛ばされた。住宅を囲むコンクリートの外壁にぶち当たり、速度がゼロになったときには、化物は、衝撃でひび割れたコンクリートにめり込んだまま、事切れたかのように項垂れていた。しかし、少しするとノロノロと起き上がる。その間、彼女は被害にあった男性の外傷を調べていたが、男性の身体はあまりに損壊が激しく、離れたところから見ていた僕でも、助かるわけがないと思う程の出血量であったので、彼女もすぐに、「遅かったか」と呟いた。

コンクリートの外壁に取り付けられた常夜灯にうつされた化物の顔には、毛も目も耳も鼻もなかった。灰褐色の皮膚に覆われた楕円型の球体に、鋭い鋸のような歯を覗かせる赤黒い裂け目があるだけだった。項垂れて四肢を投げ出していた姿は、人間のように思えたが、起き上がった様子は、二足で立てないのだろうか、両手を地面につけ、前のめりである。

 顔同様、身体のどこも毛はなくて、灰褐色の皮膚の下にはブヨブヨとした脂肪と肉が包まれており、その立ち姿はまるで、人間と豚のキメラを見ているかのようだった。化物は目がないにも関わらず、顔を少女に向け、そして彼女の左手に向ける。化物が彼女の左手に顔を向けた時、僕も彼女の「それ」に目を奪われていた。

 彼女の左手は、彼女に似つかわしくない程に大きく、異形であった。皮膚はテラテラと光を反射する爬虫類の鱗のようなものに覆われ、筋張った五本の太くて長い指からは、ライオンの牙のような大きな爪が生えていた。それはまるでファンタジーの物語で語られる、ドラゴンの足であった。

 化物が飛び上がった。頭上の月と重なったその姿が、シルエットを為したかと思えば、それは猛スピードでこちらに……負傷した男性を看取っていた彼女へと襲いかかる。

 化物は少女を押し倒し、口だけの顔に笑みのようなものを浮かべる。化物に組み伏せられた少女の顔は、こちらからは伺えない。目の前で少女が危機に晒されるのを見て僕は、動けない身体に喝を入れた。死にたい、なんて思っている場合ではなく、彼女を助けねばと焦ったのだ。

 そして、僕は、化物目掛けて飛び蹴りを敢行した。僕が思いつく限りの最強の攻撃は、飛び蹴りだった。結果は失敗である。化物はビクともしなかった。僕は無様に尻もちをつく。化物は僕に何の注意も払わず、口を大きく裂き、少女の顔へと齧り付いた。

 少女の美しい顔に化物の歯形は……つかなかった。少女は自分に迫ってきた化物の顔に強烈な頭突きをしたのだ。その衝撃で大きくのけ反る化物の首を、少女の大きな異形の左手が掴む。少女は、そのまま力を込めて、化物の首を握り絞める。

 化物の口から、「ぐえええ」と変な鳴き声が漏れ出る。化物の首はちぎれるのではないかと思う程、握りつぶされ細くなる。

 そんな状態にも関わらず、化物の身体は俊敏に動く。化物は両の拳を握りしめ、少女の顔を思いっきり殴りつける。左、右。左、右。左、右。その繰り返し。化物の連打は止まらない。少女は右手で自分の顔を庇う。しかし、それにより少女の左手に込めた力が緩んだのか、化物は自分の首を絞めていたその手首を掴んだかと思えば、それを引き剥がし、つかんだまま少女をコンクリートの壁に叩きつける。そして化物は休む間もなく、壁を壊すかの勢いで、少女に殴打の嵐を吹かせる。もう、僕が出来ることなどなかった。僕など、あの一発をくらっただけで、戦闘不能だ。僕があんな攻撃をくらえば、身体の原形はとどめないだろう。重機で押し潰されたような肉片へとなるに違いない。少女はもう、ダメかもしれない。僕はそう思っていた。だが、その不安を打ち砕くかのように、

「ああ!! 鬱陶しい!!」

との苛つきの声と同時に、化物が吹っ飛ぶ。

 コンクリートの粉塵が舞う中から少女が現れる。溌剌とした声とは裏腹に、少女の身体の所々には痣や切り傷があり、肩で息をしていた。右腕はダランと力なく垂れている。

 吹っ飛ばされた化物は、しかし、踏ん張りとどまった。その様子は、少女と違い、まったく疲労や痛みなどなさそうだった。化物は両手を地面につけ、いつでも動けるように構える。

 しかし、彼女の顔には諦めの色など微塵もなかった。ただ、目の前の化物をどう倒すかだけ、考えているように見えた。

 こんな状況で、もし自分だったらと想像する。もし、彼女が立つ場所に僕が立ったら、僕は諦めて逃げ出すだろう。彼女には何か勝算があるのかもしれない。けれど、そんな信じられるものがあったとして、苦しみが無くなるわけではないはずだ。身体の痣がある部分は、動かす度に痛むだろうし、骨を折られた右腕は、この場ではもう使いものにならない。それでもなお、あんな化物に立ち向かうなど、僕には出来ない。

 僕は……苦しいと思ったらすぐ逃げてきたのだ。

 僕が、何を考えようとも、状況は動き、弱い僕を置き去りにする。

 少女と化物が同時に動き、少女の左腕と、化物の右腕が交差する。

 化物の腕のほうが、リーチは長い。化物の右腕の先が、少女の頬にめり込み、バキっという音がする。しかし、少女は一歩も後退せず、左腕の先を貫手で、化物の身体に突き刺した。鋭利な五本の巨大な爪が、化物の左胸を貫いたのだ。

 少女の身を呈した反撃は成功した、かのように思われたが「ちっ、はずした」と少女が口にした瞬間、彼女は化物に左の拳でまたもや頬を殴られる。少女は、今度は踏ん張り切れず、後ろに倒れてしまった。

 化物の左胸には大きな風穴が空いていた。そこからドクドクと液体が流れる。しかし、化物は平然としていた。そして、その傷は、またたく間に塞がっていく。まるで、空いた穴に水が流れ込み、そんな穴など最初からなかったかのように、気付けば、化物の左胸の大きな風穴は塞がっていた。

 こんな化物に勝ち目などあるのだろうか。しかし、そんな心配をしていたのは僕だけだったのかもしれない。

 なぜなら、化物は倒れた少女に攻撃するではなく、僕たちに背を向け、脱兎のごとく走り去ったのだ。少女はこれを見越していたのだろう。「逃がすか!!」と口にして、化物への追撃を開始した。

 僕は咄嗟に彼女を追いかけていた。もうすでに姿は見失っていたけれど、彼女が去っていった方角に向かって、全力で走る。

 走りながら、なぜ彼女を追いかけるかを考える。僕が追いかけたところで、彼女とあの化物の対決の状況は何も変わらないのは順々承知であった。彼女のお陰で折角拾った命なのだから、ここは彼女に感謝しながら自分の部屋があるアパートに帰ればいいのだ。そして、またいつも通りの生活を送るのに努めるのがいいのかもしれない。けれど、僕はそれをよしと思わない。

 このまま、いつも通りの日常に戻ったところで、僕は何も変わらない。この何も変わらないということが、僕にとっては一番の恐怖であった。そして、あの場で死ねなかったことを悔みそうである。なぜなら僕は、一瞬でも死を受け入れ安心したからである。今の僕は死を望んでいる。このまま生きたところで、それはただ死んでないだけなのである。これは死んだように生きると同義だ。死よりも性質が悪い。そんな死体が生きている状況が、僕のこれまでの日常だったのだ。

 もう、嫌だった。

 僕ではどうしようも出来ない、この愚か者の自分を変えたかった。だから、僕はあの少女に何かを望んでいる。僕を変えてくれる女神ではないのかと勝手に盲信している。けれど、そんな身勝手な僕を僕は許したい。僕は今、希望を求めて、全力で走っているのだ。こんな前向きな、何かすごい興奮に駆り立てられるのは、本当に久しぶりなのだ。あの少女の神々しい美しさ、常人を超える強さ、化物に向かう意思の強さに、僕は今、救いの光を見出したのだ。

 少女と化物に追いつけた場所は、初めの地点からそんなに離れていなかったが、僕の呼吸器官は激しい苦悶を訴えていた。追い付けたことにひとまず安心できた僕は、両ひざに両手をつき、一刻も早く早鐘を打つ心臓を落ち着かせるために、目を瞑り呼吸を整える。最初はうるさかった僕の呼吸音がどんどん小さくなっていく。それと同時に聴こえてくる音があった。クチャクチャと咀嚼する音であった。まさか彼女がやられてしまったのか? と思って顔をあげる。違った。

 少女が化物を食べていた。

 横たわる化物はピクリとも動かない。首と胴体が離れていた。赤黒い液体がアスファルトの上で水溜りになっている。少女は、その上にペタンと内股で女の子座りをして、左手で持ちあげた、それの腕だったものを、食べていた。化物が通行人の男性を食べていたあの光景の、焼き増しの写真を見ているようだった。

「あの」

 僕はつい、声を掛けた。少女が食事を中断し、こちらに振り向く。

「何?」

 僕は、彼女に声を掛けたはいいものの、何をしゃべればいいのか考えてはいなかった。ただ、彼女の食事シーンを見たくなかったのだ。僕は頭が真っ白になる。何か言わないと、と焦って出たのが、

「僕、どうすればいいですか?」

という、何ともおかしな問いだった。けれど、これは僕の本心で、必死になって彼女を追いかけた末、化物を食べる彼女に出会うなんて思いもよらなかった僕は、かなり動揺したわけで、例えて言うならば、好きなアイドルの排泄シーンを見てしまった心境に似ているのかもしれない。だから、僕は本当にどうしたらいいのか分からなかったのである。そんな僕に彼女は、

「とりあえず、こいつ食べるから、後ろを向いていて頂戴」

と適切な指示をしてくれたのであった。見たくないのなら、目を背ければいい話なのだ。僕は彼女に言われた通りに回れ右をする。僕はまず、彼女と話が出来れば良かった。だから、咀嚼音が耳に入るのは致し方ないと思いつつ、僕は彼女に対して湧いた罪悪感を先に吐露する。

「……何も出来なくてすいません」

 この謝罪にも、彼女は律儀に答えてくれる。

「謝る事じゃない。この蚯蚓に太刀打ちできる力を持つのは、この世界中でも私だけだし、私は蚯蚓を狩るためだけに生きているのだもの」、また咀嚼音。

「僕が君のような力を持っていたとしても、僕はそんな化物に立ち向かえはしないと思う。僕にないのは、勇気と行動力で、それは誰でも持てるものなのに、僕には、全然それがないんです。その点に関して、僕はこんなにも君に後ろめたい気持ちを抱き、謝っているのかもしれない。こんな自己中心的な謝罪なんて、君にとっては鬱陶しいだけだと思う。でも、こうして君にこんなことを言うのは、僕は、君に憧れてしまったからで」

 戦う少女、非日常を見た高揚感、彼女の達観した表情、強さ、覚悟、使命感、それを遂行出来るすごさ。

「僕は、君の様になりたいんだと思う。だから、君と自分を比べずにはいられないんだ。僕は君に、近づきたい!!」

 そう言って振り返った僕の目の前に、彼女はこちらを見据えて立っていた。彼女の後ろには、いたはずの化物の骨一つ、皮一枚残っていなかった。どうやら全て平らげたらしい。彼女の口元と、所々破れた白のジャージには、ベットリと赤黒い液体が付着しており、化物との戦闘により負傷した箇所はそのままである。そんな凄惨な状態にも関わらず、彼女の美しさは損なわれていなかった。美しい少女の金色の瞳が、僕の目をジッと見つめる。その目は、僕の内面を暴くような真っ直ぐさであった。見られているだけなのに、僕はこれまでの自分を全てぶちまけたい衝動に駆られる。そして、僕が口を開きかけた、その時、

「あなたの家に泊まらせてくれない? わたし、宿なしなの」

と、彼女は言った。

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