絶望少年は、魔法少女と共に夢を見ない

ツチノコ

一話

 自動販売機の光源に照らされた僕は、そのまま暗闇に溶け込み、次の光源をまた通過する。僕は夜の町の光源が好きだ。それらのまばゆい光は、夜の、色が霞んだ不確かな世界から僕を鮮明に切り取ってくれる。見上げれば、見失わない程大きな月はある。けれど、コンクリートとアスファルトと人工的な緑に囲まれたこの町を、薄ぼんやりと照らすだけのそれでは、僕を安心させるのには心もとなかった。誰も彼もが寝静まり、活動を終えた町の中で、僕は人工的な輝くスポットライトを浴び、身体の一部輪郭が明瞭になった時こそ、一番生きていると実感できた。

 しかし、人間でなくなった今では、もう思い出せない孤独である。

 少し回想してみようか。

 数日前、僕は今日のような夜更けに、この町を歩いていた。それは日課の散歩であった。僕が唯一、外出する機会であり、目的地などはなく、その時もいつも通り、気の進むままに、歩いていた。普段は誰もいない道中のはずだったのに、その日はある気がかりな男と出会った。

 その男は、道を等間隔に照らす街灯の下に、立っていた。外套を羽織った男の背丈は僕より高く、身なりは立派な紳士に見えた。けれど、そんな男が、一心不乱に泣いていたのを知った時の驚きを、僕は強調したい。この驚きというのは、うれしさが大きかった。

 いつしか僕は、年をとり、子供では通らない年齢になってしまった人は、苦しくても泣いてはいけない。泣けないのだと思っていたのだが、その男は、本当に苦しそうに悲しそうに泣いていた。目頭を押さえた両の指の隙間からは、手の甲にキラキラ濡れる涙の通り道が、頭上の街灯により照らされ、掌だけでは受け止めきれないほどの涙を流していた。鼻を啜り、顔から体液を撒き散らす男の泣く姿はまるで、この世の終わりを嘆くかのような泣きっぷりであったので、僕は食い入るようにその男を見たのであった。

 僕に見られていると気付いたのか、手を離し、顔を上げた男はしかし、日本人ではなかった。外国人の男は、顔の彫が深く、落ち窪んだ眼窩にあるのは青い虹彩を放つ眼球で、大きな涙の露の中で頼りなく揺れる瞳は、独立した奇妙な生物のように見えた。

「この世界はとても苦しいですね」

 嗚咽とは違う明瞭な声に、僕は耳を傾ける。声だけ聴けば、外国人と分からないような流暢な日本語だった。

「貧困、労働、他者、将来、孤独、嫌悪…。ざっと思いつくのでこのぐらいでしょうか? どうです、この単語だけでも気が滅入るのではありませんか? この単語らが意味することにあなたも苦しめられているのではありませんか?」

 その言葉に、僕は無言でもって肯定するしかなく、目の前の男に向かって、何か反対しようとか、慰めの言葉をかけようとか、全く思わなかった。男の言うことは全て事実であり、僕の生きる世界の全てだったからである。この男の涙の訳を、僕は分かった気がした。分からない事が多い中で、分かる事は貴重であり、その理解は僕の中でせき止めていた抑圧された感情を目覚めさせる。

 扉越しに聴こえてくる母親のため息。

 ドアを乱暴に叩く父親の怒声。

 扉の前を素通りするだけの弟の足音。

 僕に対しての彼らの反応が、僕は理解出来なかった。

 朝、家の前を通りかかる小学生。

 昼、配達をする郵便局員。

 夕方、一緒に下校している高校生のカップル。

 夜、バカ騒ぎする酔っ払い共。

 僕の目に映る彼らの姿が、僕は理解出来なかった。

 理解した途端、僕は僕の全てを否定してしまう。それは耐えられないことであった。

 だから、彼の涙は理解出来た。その涙は僕を肯定してくれるものであったから。

「苦しい…です。でも、どうしようもないですよね。逃れられない。だって、死でさえ、苦しい」

「私はね、そんなあなたを、楽にしてあげられますよ」

「え?」

「希望を捨てきれないから、あなたは苦しいのですよ。それを一切合財捨てられれば、楽になれます」

 赤く腫らした泣き顔だった男の表情に、僕を安心させるのに十分な柔和な笑顔が浮かび上がった。人からこんなに安らぎを得るなんていつぶりだろうか? 男は僕に手を差し伸べた。

「あなたに絶望を差し上げましょう」

 男の手をとることが、どんな結果を招くかなんて、その時の僕は知る由もなかったが、男の手をとる以外に、僕に残された選択肢はなかった。それしか選べないと分かっていたから、後悔なんてするはずがなかった。

 そうして僕は、人間をやめた。

 回想はここで終わり。

 今の僕は化物だ。

 暗がりの中から、突然僕が現れたら誰だってビックリするだろう。現に今、目の前のサラリーマンの男は悲鳴を上げ、腰を抜かしている。腹が、減っていた。家に帰っても、みんな食べてしまったから、もう何もなかった。

だから、僕はそいつを食べる。

 鋭い刃が並ぶ鋸のような歯と、強靭な顎の力で、男の皮膚と肉を引きちぎり、口の中に含んで咀嚼する。舌の上に広がる血の味に身体全体が悦びで震えるのを感じる。目と耳がなくなったおかげか、内と外から伝わる触覚には快楽しかなく、理性はどんどん薄まり、世界が自己完結していく。まるで自慰だ。僕の身体の全てが剥きだしのペニスになったようで、僕の意識は快楽中枢と繋がりながらも、フィルムで自分のオナニーを眺めるだけの無表情な観客となっている。ああ、人間を辞めた僕は、とても楽しそうだなあ。

「そこまでよ、蚯蚓(みみず)」

 男の泣き叫ぶ声と、僕のくちゃくちゃ鳴らす咀嚼音のあいまをぬって、凛として鈴とした涼しい声がこだまする。蚯蚓って、僕のことか? 僕みたいな化物をそう呼ぶのだろうか? その可憐で己が正しいと疑わない不遜な響きをもつ声に、僕は忘れていた恥を思い出す。まだ僕は、完全に化物になりきれてないのかもしれない。恥ずかしさがこみ上げた時の怒りから、そして声の主の確認の意味も含めて、僕は行為を中断し、声のしたほうに顔を向ける。目がないのだから振りむく必要などないのだけど、今でも人間だった頃の名残は、こうして習慣として残っていた。

 白銀の髪を夜風に揺らす、金色に輝く瞳の少女が、そこには立っていた。その目はまるで、獲物を狩る蛇のようであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る