第5章 笛の声

「ちょっと待てよ!羅奈!一つぐらい荷物を持ってくれよ⁉」


 コンビニから出発してまだ三分も経っていない時だ。僕が持ってきた荷物がとても重くて手に負えないような状況になってしまっている。何があっても準備万端のようにしたつもりの荷物がその名の通りに「お荷物」となってしまった。


「陽向人って背負っている荷物が重すぎて腰が曲がっているよ」


 羅奈は両頬に笑窪を作って俺をからかう。リュックサックに荷物を詰め込み過ぎたため重量があり、背負って歩くために背中が地面と平行にしていないと後ろに転んでしまう。


「腰が曲がっているって言ったか?ラナ。大きなお世話じゃ!」


 先頭を歩いているセニオルは振り返って羅奈へと声を上げた。


「ごめんなさい!セニオルさん!そんなつもりで言ったわけじゃなくて…」


「絶対に許さんぞ!ラナ!」セニオルはお年寄り扱いされるのが苦手らしい。大きな声で騒げることが出来るのはまだまだ元気だと感じる。


 さっきの地鳴り以来、この世界は静寂に包まれている。


 僕達の足音と笑い声とセニオルさんの杖を突く音とキャリーバッグを引きずる音しか僕の鼓膜に届いていない。


「陽向人!立ち止まってどうしたの?そんなに荷物が重いなら私が荷物を一つ持ってあげようか?」


 羅奈の言葉で僕が足を止めていることに気が付いた。荷物を持ち上げながら歩くことに身体が拒んだのだろう。


「ありがとう。じゃあこのキャリーバッグを持ってほしいな」


「うん。わかった!」


 僕は伸ばした取手を羅奈に預けた。このキャリーバッグの中にはヨロズの会社から奪ったノートパソコンとコンティニューブレスの説明書と送り主不明と稔内峡とやり取りが出来るスマートフォン、そして僕の家からありったけのモバイルバッテリーを持ってきた。機械が散らかっている自室にモバイルバッテリーが十数個散らばっていた。どれも損傷していないため正常に使えるだろう。


 ただ僕は大量のモバイルバッテリーを買った覚えがない。誰かが僕にプレゼントしてくれたのだろうか。とにかくこれさえあれば十日は充電を保てるだろう。


「うわあ。私達の街が……」


 羅奈は口を開けて一点を見つめている。


 僕も同じような景色を見ようと羅奈の視線を追いながら目を動かす。


 すると住宅地があった場所がただの灰色の廃墟へと化した風景が広がっていた。点々と火煙が上がっている。黒煙は灰色の雲に覆われた空へと昇っていく。風が無く、真っ直ぐ天高く上がっている。


「ケモノがこの街を破壊していったんじゃな」


「獣がこの街を?」羅奈はセニオルの言葉を反芻する。


「ケモノは【破壊する習性】があるんじゃ。その習性でわしは何回も命を落としかけた。ケモノは無我夢中で破壊し続ける。これからはケモノに遭遇したら逃げるのが先決じゃ」


 セニオルは荒れ果てた街を眺めながら吐き捨てた。


「私がもしケモノを倒せる力があったとしても、逃げたほうがいいですか?」


羅奈はセニオルに問いかける。


 羅奈がこの質問をすることに僕は驚いた。


「ほう。ラナがケモノを倒せるような力を得るってことか」セニオルは口元と目尻の深い皴をさらに深めた。


「ケモノを倒す力があったとしてもラナは逃げたほうがいい。わしがラナを守る」


 セニオルは杖を振り上げ強く地面をつく。


「命を守るのがわしの使命じゃからな」



 *



「よし。だいぶ片付いたか」


 銀髪の口を読み取る。筋肉質の男と緑色の女は野垂れ死にしている黒の死体を見渡す。


「この世界に来てからケモノがなんだか消えにくくなったな」


「そう?消えるまでに時間がかかっているだけで私達の仕事量は変わらない。じきに消えるから消滅していく姿を見る必要はないわ。行くよ」


 緑色をした短い髪を揺らしながら黒の死体を踏みつけながら歩く。


「なあ。どこに行くんだよ?小さいケモノが大量だから大きなケモノが呼び出したんじゃねえのか?今のうちに大きいケモノを討伐した方がいいんじゃ?」


「いや。次は私のプレイヤーを見つける。」


「プレイヤー?プレイヤーならここにはいないはず…」


「貴方が女の子を救ったじゃない。あの子が私のプレイヤーよ」


 ここから先はモニターの画面からでは読み取る限界のようだ。


 どうやら世界の真実について知っているニンゲンはヨロズの社長しかいない。


 ただケモノを倒す力を持っているのは今、キャリーバッグを持った長い黒髪を持ったニンゲンだ。あとは条件が揃うのを待つだけだ。


 コンティニューブレスはこの世界ではケモノに対してのカギだ。


 だが俺の作戦には全く影響はない。檻の中でのただの娯楽としてニンゲンのあがきを見守るとするか。


 さあ。どうする。愚かなニンゲンども。


 俺を楽しませてくれ



 *



 私がセニオルさんに対して「私がもしケモノを倒せる力があったら」と質問をしたことで思い出したものがある。


 夢の話だ。


 黒い影から私の身体を身軽に躱しながらも銃弾を撃ち込む夢だ。これまで見た夢の中で一番と言っていいほど現実味があった。内容は夢らしい夢だがそれを見ていた時には感覚が研ぎ澄まされていて、跳躍した時の風、両手に伝わる拳銃の鉄のような冷たさも、黒い影を目の前にして足が震えながらも動く感触も、目覚めた時まで夢だと感じ得なかった。



「ほら。羅奈。キャリーバッグ」


 目の前には日に焼けた陽向人の手に掴まれたキャリーバッグの取手があった。


「この中には送り主不明や稔内峡からメールが送られてくるスマホとか、ヨロズから奪い取ったノートパソコンが入っているから乱暴に振り回すなよ?」


「私はそんな子供みたいなことしないよ」


 陽向人に向かって冗談っぽく笑顔で返答する。


「羅奈は見た目が高校生でも、頭が小学三年生で成長が止まっているからバッグを振り回すだろう?」


「私はちゃんと頭も高校生に成長しているってば!」


 乱暴にキャリーバッグの取手を陽向人から取り上げた。


「こら!乱暴にしないでって言ったでしょ!だから羅奈は頭が小学二年生なんだよな」


「さっき三年生って言ったでしょ⁉勝手にバカ扱いしないでよ!」


 私は陽向人の肩を一回、強く叩いた。


「そうじゃ。そういえばヒムトとラナはそんなに仲良くなったんじゃ?まるで兄妹みたいな関係じゃな」


 セニオルさんが私達より十歩先に杖を突きながら振り返る。


「兄妹というよりかは双子じゃろうかの?見ていて微笑ましいもんじゃ」


「微笑ましくありません!」「微笑ましくないですよ!」


 陽向人と私はたまたま声を一緒にして否定した。


「そういうところじゃ。息ピッタリじゃないか」


 セニオルさんは大きな口を開け、声を上げながら高らかに笑った。杖も小刻みに地を突いた。


 陽向人とこんなに仲良くなったのっていつからだっけ?


 思い出してみよっと。


 確か、小学四年生の冬の時だっけ?



 *



「今日は真海さんが休みです。だから誰か真海さんの家までこのプリントを届けてほしいと思います」


 僕は隣の席に空いた椅子を目にした。朝の会のときにこの席に座っているはずの真海羅奈が休みだということを小学四年生の時の担任から聞いた。


「真海さんの家と近い人は手を上げてください」


 辺りを見渡しても高く上がった手の平は見当たらなかった。羅奈は小学生の時もクラスメイトには馴染めていなかった。それに昼間でも冷え切った季節では一秒でも暖房が効いた室内にいたいからだろうか。


「じゃあ、くじ引きで当たった人が行ってください!」


 この担任は特製のくじ引きで決めるらしい。担任はポケットの中にあった輪ゴムで束ねられたカードを取り出し手慣れた手さばきでカードを混ぜていく。


「この出席番号の人、行ってください!」


 僕の出席番号は四番だった。寒がりではないため寒風が当たる外にいることは苦ではないが早くデス・イレイズ・マインをしたい。このくじ引きで当たってほしくない。


「十七番!」


 担任が引いたカードに書かれている番号を読み上げる。十七番は僕の出席番号ではない。とりあえず僕は胸をなでおろした。


「十七番は真海さんなのでくじを引き直します」


 周りは驚嘆の声が漏れていた。僕もため息をついた。過ぎ去った災難がまた訪れる。


 そういえば昨日の授業で僕はこのくじ引きで当たって、発表をしたんだ。だから今日は当たらないだろう。プリントを届けたくない。


「四番!」


 思わず僕は口を大きく開いてしまった。


「じゃあ、伊乃陽向人くん届けてください!」


 これがきっかけで、この後の授業も昼休みも給食も帰りの会も身が入らなかった。


 たとえ行ったとしても僕はどうやって羅奈の親に接すればいいのかわからない。


 放課後になり僕の家とは反対側にある羅奈の家まで冷たい向い風に逆らって走った。



「ここが羅奈の家かー」


僕が背負った黒い革のランドセルの中に羅奈に届けるためのプリントが数枚入っているクリアファイルがある。


家の前に「真海」と書かれた表札がある。そういえば僕は女子の家に行ったことがない気がする。


僕は震えながらも表札の下にあるボタンを人差し指で押す。


「ピーンポーン」


冷え切った空気にチャイムの音が響いた。


「あら、いらっしゃい」


玄関のドアが開き背の高い女の人が見えた。


「こんにちは」


「学校からわざわざプリントを届けてくれたのでしょ?先生から電話で聞いたわ。大変だったわね。さあ入って入って」


女の人は家の中へと手招きしている。


「いえいえ、プリントを届けに来ただけなので」


「そんなに遠慮しないでいいのよ。外は寒いからウチで少し温まりなさい?」


僕は女の人の言葉に甘えることにして、羅奈の家の中に訪ねることにした。


「おじゃまします」


玄関に入ると暖色のオレンジの照明に照らされた廊下が出迎えてくれた。元々は白であろう壁もオレンジ色に染まっていた。 


靴を脱ぎフローリングの床に足を乗せた。


「羅奈は二階の部屋に居ると思うから用があったら行ってもいいのよ」


 廊下の先に階段が見えた。階段の横に居間がある。居間の中央には木製のテーブルがありオレンジ色のミカンを乗せた麦のバスケットが置かれている。


 テーブルの向こうにはニュース番組を映し出したテレビがある。テレビの下にはテレビ台があり紫色の芳香剤がある。ラベンダーの匂いがした。


「あなた、羅奈と仲良くしているの?」


 女の人は居間の横の台所で夕食の準備だろうか人参を包丁で半月切りにしている。


「羅奈は学校では控えめな性格であんまり話したことが無いです」


「あら、そうなのね。あの子らしいわね」


 女の人はため息を出しながら人参を刻んでいく。


「学校で一人でも友達がいたら、あの子は明るくなれるのかしら?」


 一本の人参を刻み終わった女の人はコンロの上の水が入った鍋にまな板を持って入れ込む。そしてコンロのつまみを捻る。鍋の下に火が点る。


「あなた、ここで晩御飯食べていく?」


 まな板を元の場所に戻し冷蔵庫から玉葱を二個取り出す。


「いえいえ。そんな…」


「遠慮しなくてもいいの。珍しい羅奈のお客さんなんだから」


 そうか。羅奈は家に人を呼ばないのか。学校でも羅奈がクラスメイトと会話している光景を見たことが無い。


「晩御飯出来るまで、羅奈とお話しておいてね。できたら呼びに行くから」


 これは羅奈のために放った女の人の思いやりだと分かった。


「じゃあ、行ってみますね」


 僕は女の人が手慣れた指使いで玉葱の皮を剥く姿を見て階段を駆けあがった。


 階段を上り終えると開きかけのドアがあった。思わず引き込まれるようにその扉に近づいて行った。近づけば近づくほど扉の隙間に見える角度が変わっていく。隙間からは薄い緑色のカバーをしているベッドが見えている。


 ドアノブに手をかけ、押し出す。薄暗い部屋が目の前に広がった。


 そこにはパソコンのキーボードを何やら打ち込んでいる羅奈の背中姿が見えた。胡坐をかいてテーブルに乗せたパソコンがある。黒色の髪で身体の大部分を覆っている。


 部屋の中ではカチカチとキーボードの音が鳴り響いていた。


「よし、行けるよ」


 僕はその声の主が誰だか分からなかった。


「次に横に移動して撃ち込めば、討伐できる」


 その声は女の子の声だった。一瞬にしてその声の主が羅奈だと分かった。幼稚園の頃から顔は知っているはずなのに、声を注意して聞いたことが無かった気がする。


 僕は羅奈に近づく。


 突然、床が軋む音がした。


 羅奈は一瞬肩を跳ね上がらせた。


「なに!」


 長い髪をたなびかせて、こちらへ振り返る。


「きゃっ⁉」


 目を大きくして身を引かせた羅奈は不思議そうに僕を見つめている。


「驚かせてごめん。悪気はなかったんだ」


 僕は顔の前で手を合わせる。


「あなたは…同級生の…陽向人くん?」


「そうだ。今日、学校休んでたでしょ?だからプリントを届けに来たんだ」


 羅奈は白いふわふわとしたパジャマを身に纏っている。


「羅奈、さっき何をしゃべってたの?」


「しゃべってたって?」


「ほら、【よし、行けるよ】とか【次に横に移動して撃ち込めば…】とか言ってたよ?」


「まさか、陽向人くん、私の独り言を聞いてたの?」


 羅奈は白い手を顔で覆い、身体を横に動き出す。


「きゃー恥ずかしい。独り言を陽向人くんに聞かれてただなんてー!」


「そんな、気にする事かな?」


 僕はパソコンに目をやる。パソコンは何やらゲームの画面が映し出された。


「これって何のゲーム?」


「これ?デス・イレイズ・マインっていうゲームだよ」


 羅奈は片手を顔に被せたまま僕の方を見ている。


「デス・イレイズ・マイン!」僕は思わず叫んでしまった。


「僕もそのゲームやってるよ!これ、めちゃくちゃ楽しいよね」


 僕はパソコンの画面の中央にいる緑色の短い髪の女のキャラクターを目にする」


「陽向人くんもデス・イレイズ・マインをやってるの?」


「うん、デス・イレイズ・マインは敵がデカい奴もいれば飛ぶ奴もいるし、それでも倒すとなんか倒し切った!って喜ぶのが楽しいんだ」


「楽しい?」


「なんか、デス・イレイズ・マインをプレイしていると自然に笑顔になっている感じになって、でもゲームを始めて一時間するとプレイできなくなるけど、またやりたいって思うんだ。一時間でも足りないくらい楽しいもんね」


「自然に笑顔…」


 僕は画面の中にいる緑色の少女に見覚えがあった。


「このキャラクターって【カジ】っていう名前?」


「え?何で知ってるの?」


「僕がプレイしているキャラクターの妹に似ていて…」


「じゃあ陽向人くんがプレイしているキャラクターって【コジ】?」


「そうだよ!」


 僕は羅奈の霞んでいない黒く澄んだ瞳を見つめた。学校でも顔をあまり見ていないため驚いたがとても綺麗だった。


「じゃ、陽向人くんが【コジ】を使っているなら何回も一緒にケモノ討伐していたってことなのかな?」


「そうだね。羅奈と一緒にゲームしていた事になるね」


 羅奈は顔を隠していた二つの手を今度は鼻と口を隠した。


「……っと…しい」


「え?なんて言った?」


「何でもないよ!」


 羅奈は再びパソコンに向かいキーボードを打ち込む。


「羅奈がゲームしているとこ、見ていいかな?」


「いいよ」羅奈は胡坐をかきなおす。僕はランドセルを扉の近くの壁に寄せ羅奈の横で胡坐をかく。僕の膝と羅奈の膝が降れそうなぐらい距離が近かった。


 僕は画面の中で縦横無尽に駆けていく少女が二丁拳銃でケモノに弾丸を当てる姿を見て今まで僕がプレイしている中でカジと共闘していた時の戦い方に覚えがある。緑髪の少女の左腕には赤いフレームのコンティニューブレスが巻き付いている。コンティニューブレスの画面は光を放っている。画面の左下の時計はあと十分を表示していた。


 ふと羅奈の顔を見ると口角が上がっていることに気が付いた。学校でも見たことが無い羅奈の笑顔はとても無邪気で、なぜか心が温まるような気がした。


 カジとコジの関係は兄妹だけども僕と羅奈の関係は兄妹でもなく友達でもない、ただの同級生という遠い存在だ。


「ちょっと何見てるの?そんなに見られると恥ずかしくなる…」


 僕は羅奈の顔に向けた視線をデス・イレイズ・マインの画面に移した。


 画面の中にいるカジは小刀を持っているコジと黒い牛型の大きなケモノと戦っている。


 コジは緑色で中性的な髪形をしている。カジと見比べたらどこか似ている。


 今までデス・イレイズ・マインをしていてカジのプレイヤーが誰か気になっていた。


 最初はスキルがとても高くて大人の人がカジを操作していると思い込んでいた。しかしカジのプレイヤーが羅奈だと知って少し戸惑った。


子供の頃からカジと共闘していて戦いやすい相棒だと思っている。コジの武器は小刀でカジの武器は二丁拳銃。


近距離武器と遠距離武器。


カジは遠方でケモノを牽制し、コジはケモノの弱点を狙い息の根を止める。


画面の中にいるコジもコンティニューブレスを左腕に巻き付けている。僕がプレイしていないので勿論コンティニューブレスの画面は光っていない。


「なんか、人がデス・イレイズ・マインをやってるとこ見ていると僕もデス・イレイズ・マインをやりたくなる」


「私もそれ分かるよ。なんかデス・イレイズ・マインをしたくて手がウズウズしてくる」


 羅奈はさらに口角を上げた。残りプレイ時間は四分三十秒だ。


「もうすぐでデス・イレイズ・マインが出来なくなっちゃう。楽しい時間もこれでおわりになっちゃうね」


 少し羅奈の口角が下がってしまった。画面では懸命にケモノと戦っているコジとカジがいる。ケモノは黒一色の皮膚をもって腹をたるませている。


 コジが犬の首の根元へと飛躍した。片手で小刀を突き刺す。黒い血が溢れ出る。


「うっ…」


 羅奈はグロテスクな光景になり目を離す。


「陽向人くん、血が溢れ出てくるのが終わったら教えてくれないかな?私、トイレ行ってくるから」


 羅奈は左の頭を左手で当てながら千鳥足のように扉の外へと歩いて行った。


「う、うん」


 僕はパソコンを僕の方に移動させてキーボードを打ち込んだが反応はしなかった。特にケモノを討伐しきっていたので画面を眺めることにした。コジが小刀を突き刺した後に、首に小刀を突き刺したまま着陸する。


 黒の巨体は地に倒れ、砂埃を起こした。


 そして尾の方から黒の粒子状となって散らばっていく。


 ケモノが死に際に呻く声。


 やがて死ぬことにもがくケモノの声も消えゆき、首の根元まで粒子状となると小刀は地面に落とされる。


【ドサッ】


 落ちた刃物と同時に廊下から物音がした。


「羅奈!どうかした?」


 二階から女の人が駆け上がる足音が近付いてくる。僕もこの部屋から出て羅奈の様子を見に行く。扉を開けると羅奈が廊下の端で倒れている姿があった。左側の頭を左手で覆っている。


「羅奈、頭が痛いのね。もう少しベッドで休んどきなさい」


「うぅ…」


 羅奈は汗を流しながら短い呼吸を繰り返しつつも女の人に支えてもらい、よろけながらも身体を起こす。


「ちょっとごめんなさい、羅奈を横にするから」


 僕は一度羅奈の部屋に戻り女の人は羅奈の補助をしながら毛布を片手に持つ。


「温かくして寝ておきなさい。もうすぐ暖かい晩御飯が出来上がるからね」


「ごめんなさい、おばさん」


 横になった羅奈の身体に女の人は手に持った肌色の毛布を覆い被せる。


「もうすぐでご飯できるから君は羅奈の看病してもらえるかしら?」


 女の人は部屋の扉を閉じながら階段へ行き、一階に下りて行った。


「陽向人くん…」


 羅奈の声がした。羅奈が仰向けで寝ているベッドに駆け寄る。


「私が今日、学校を休んだのは頭が痛くてね…」


「あんな苦しんでる羅奈、今まで見たことないししょうがないよ」


 こうやって羅奈と会話していても汗が止まらずに呼吸のために胸を大きく上下するのが毛布越しでも分かった。


「グロいのがいけなかったのかな?」


「グロい?」


 羅奈は身体を横にして僕の方に向ける。


「ほら、ケモノから黒い血が溢れ出てたでしょ。羅奈は血とか見るのが苦手なのかな」


「あはは。あんなの慣れっこだよ。頭痛がたまたま来ちゃってさ。大丈夫だよ。イテテ」


 毛布から左手を出し黒髪の頭を押さえつける。


「大丈夫じゃないみたい。えへへ」


 僕は羅奈が頭を押さえながらも白い顔を無理に笑顔に作らせるのが分かった。押さえている手も震えだしている。


「本当に大丈夫かな?」僕は呟いた。


「きっと大丈夫だよ。明日にはこの頭痛が引いていると思うから学校も行けるよ」


 再び羅奈は僕に笑って見せた。そして羅奈は瞼を閉じた。


「羅奈―」


 問いかけても羅奈は応じなかった。代わりに口を少し開けて寝息を立て、肩をゆっくりと上下に揺らす。


「寝ちゃったか」


 僕はデス・イレイズ・マインの画面を映し出すパソコンの前に行き胡坐をかく。残りプレイ時間がゼロになりスタート画面を映し出している。


 もし先生のくじ引きで僕以外の人が当たっていたらこんなに楽しい羅奈との会話をしていなかっただろう。先生が僕の出席番号のカードを引いてよかったと思う。


 残りプレイ時間を過ぎるとカジはプログラムされた行動に移す。


 なぜデス・イレイズ・マインは一日一時間なのだろうか。


 そう思いながら壁に立てかけた僕のランドセルまで歩き、蓋を開ける。羅奈に渡すためにまとめられた透明のクリアファイルを取り出しパソコンの横に置いておく。


「羅奈ってなんか面白い奴だな」


 今まで羅奈を遠くの場所から見たことが無かったが話をしていくうちに居心地の良さを感じた。なんだか暖かくて不思議な感触がある。


 僕は女の人が晩御飯を作り上げるまで宿題のプリントに取り組むことにした。算数のプリントで長方形の面積についての問題が九問ほどあった。


 縦が四センチで横が十センチの長方形の面積を求めてください。


 僕はあっという間にこの問題が分かった。四十センチだ。


 こうやって算数のプリントを丁度やり終えた時に女の人が羅奈の部屋の扉を開けた。


「君、晩御飯が出来たわよ。羅奈を起こしてくれないかしら?」女の人は僕に言ったまま再び一階に下りて行った。


「羅奈、晩御飯が出来たって。食べに行こうよ」


 僕は寝息を立てている羅奈の小さい肩を揺すった。流れた汗はすっかり引いている。


「んん、わかった」


 羅奈はそう言いながら澄んだ瞳を隠している白い瞼をこすった。


「あれ、陽向人くんまだいたの?もう帰っちゃったかと思った」


「羅奈のお母さんに晩御飯食べていきなさいって言われて、つい…」


 羅奈は半開きだった瞼をぱっと開く。


「おかあさん?」


 羅奈は眠っていた身体を無理やり起こす。


「私のお母さんはもういないの」


 ベッドに座った羅奈は胸の前に両手を握った。


「私ね、お母さんに捨てられちゃったの…」


「ああ、ごめん。辛い話をしたね」両親を早くに失くした僕にとってその痛みは物心ついた時から感じている。咄嗟に場を明るくさせるような話題が無いか思考回路を巡らせた。


「そうだ。今日の算数のプリント、簡単だったよ。羅奈も早くプリントして寝てね」


「そうなんだ。陽向人くんありがとうね」


 俯いていた羅奈の顔はぱっと明るくなった。自然と胸の前に組んだ手が解けた。


「よし、晩御飯食べよ?」羅奈はベッドから飛び上がった。


「うん!」僕も頷き羅奈の笑顔を見た。


 僕と羅奈は一階の居間へと向かった。


 食卓には玉葱と人参と卵が入ったスープがあった。上にパセリが散らばっている。スープは湯気が立っていた。傍に袋に入った食パンが並べられている。


「ごめんね。ちょっと時間が無かったからご飯じゃなくてパンで我慢してね」


 羅奈は暖かそうな料理を前に、瞳を輝かせていた。


「さあさあ、座って座って。スープが冷えちゃう前に飲み干しちゃいなさい!」


 女の人は二つの椅子を引き、羅奈が座る。その光景を見て僕も真似して座る。


「じゃあ、いただきます!」


 羅奈は胸の前で手を合わせて元気そうな声で口に出す。僕は大声を出す羅奈の姿を初めて見たかもしれない。いや、普通の声を出すようなことを羅奈はしてこなかった。


 羅奈はスープの前にある右手に木のスプーン、左手に温かなスープが入った食器を手に取り、スープを掬う。黄金色のスープが波を立たせる。



 *



「ほう。それが羅奈とヒムトの出会いだったんじゃなあ」


「まあ、前にもあったことはあるんですけど、僕が古い記憶の中で、羅奈とのいい記憶をしゃべっただけなので間違いもあるかもしれません」


 僕達はセニオルの目的地へと歩く。僕が羅奈とのいい思い出の話を話している時には、セニオルは静かに頷きながら耳を傾けていた。


「確かにそんなことあったねえ。陽向人は本当に懐かしいことを覚えているね」


「羅奈と普通にしゃべったのが、初めてだったから覚えてるよ。僕はデス・イレイズ・マインが好きだったし、僕が羅奈の家に行ったときに羅奈がデス・イレイズ・マインをしてなかったら全然話をしてなかっただろうね」


 僕は「羅奈と話していて心地よかった」という理由は飲み込んだ。


「そろそろ目的の場所に辿り着くぞ。はあ少しきついのお」


「え?セニオルさんそうなんですか?」


 ここは僕と羅奈が卒園した幼稚園の近所だ。この周りには特に目立った施設が無い。


 目立った建物があるとすれば、小学校があるけど目的地には到底思えない。


「ここを左じゃ」


 左に曲がると幼稚園の門が見える。ほとんど毎日走ってくぐり抜けた日々が懐かしい。この道は緩やかな坂道になっている。この町は西から東に下る坂が多く幼稚園の門をくぐり抜けずに道を進むと、僕達が卒業した小学校の入り口が見える。


「もう少しで着くぞ」


 セニオルは幼稚園の門をくぐり抜けなかった。


「ねえ陽向人、私達の小学校ってここの近所だよね?もうすぐ見えるよ!」


 羅奈が指差す場所を見ると、緩やかなカーブがあり、まだ小学校は幼稚園の高い塀で見えなかった。小学校に通っていたころはランドセルを背中で左右に揺らしながらこの坂道を駆け下っていた。


「この道を下ると、目的地が見えるぞ。そこでやっと休憩が出来る」


 セニオルは杖を突きながら緩やかな坂道を下る。


 あと一歩で小学校の入り口が見える。そして一歩、脚を動かす。見えた。入り口。


「見えたぞ!【アサヒ】じゃ!」


「見えた!【アサヒ小学校】だよ!」


 羅奈とセニオルは同時に声を上げた。


「なんじゃ?」


「え?なんて?」


 セニオルと羅奈はお互いに顔を見合わせる。


「まさか、セニオルさんの目的地って?」


「【アサヒ】じゃよ?もしかしてじゃけど、ラナ達が喋っていたショウガッコウって?」


「【アサヒ小学校】ですよ?もしかしてセニオルさんの目的地って?」


「【アサヒ】じゃよ?もしかしてじゃけど、ラナ達が喋っていたショウガッコウって?」


「【アサヒ小学校】ですよ?もしかしてセニオルさんの目的地って?」


「【アサヒ】じゃよ?もしかしてじゃけど…」


「何回も言わないでもいいでしょ!」


 僕は羅奈とセニオルとの会話にツッコミを入れた。


「それで、セニオルさんの目的地はなんで【アサヒ小学校】なのですか?」


 僕はセニオルさんに質問をする。


「まあ見てごらん。すぐに理由は分かるはずじゃ」


 このまま進むとグラウンドの入り口にある鉄の柵から何かが動いている姿が見える。


 その姿は一つや二つじゃなく沢山あった。


「これが今のアサヒの様子じゃよ」


 グラウンドの中に現れたのは「一つの町」だった。


 小さな町といっても差し支えなかった。



 *



「ん?」


 女は俺たちを連れて全力走っていた矢先に、急に立ち止まった。俺とカイは立ち止れずに女に体当たりをしてしまった。


「ちょっと何すんのよ!もしかして…」


「お前が勝手に止まるからだろ?それぐらい頭でわかるだろ?」


「はは!面白い!」


「何が面白い?」


「あなた、笑わないと眉毛と眉毛の間のしわが死ぬまで残るわよ」


「それはそうと、ミユ、なんで立ち止まったんだ?」


 そばにいるカイは耳を立てる。


「【聞こえる】…」カイは呟いた。


「ほらね。カイも私と同じことを感じているみたい」


「ん?どういうことだ?」俺は耳を立てても俺たちがだす雑音しか聞こえない。


「私も【見えた】よ」


 俺はミユとカイとの会話の内容が理解できていない。


「ミユ、どうする?師定と一緒にまた別の目的地に行くという手段もあるけど…」


「いや、師定はこのままの目的地に行ってほしいの」


「いやいや、お前たちは俺とは別にどこに行くんだよ」俺は問いかけた。


「あなたが一番取り戻したいものを、取り返すんでしょ?」


 ミユが言葉を続ける。


「【アサヒ小学校】に行ってほしいの」


「はあ?なんでれっきとした大人な俺が小学校に行かないといけないんだよ」


「あの二人がいるから」


 あの二人と聞いてすぐに二人が誰なのか分かった。


「そうなのか?」


「私の目に狂いは無いのよ。べ~」


 ミユは目の下の辺りを人さし指で抑え、同時に舌を出し、俗にいう「あっかんべー」を俺に向けて見せる。俺は笑うようなテンションじゃなかった。


「それと、私から師定に渡すものがあるの~」


 ミユのポケットから細長い綺麗な青色のものが出てきた。


「これは笛!吹いたら音が鳴るんだよ~」


「反れば俺に渡したいものなのか?」


「これね、ただの楽器じゃないんだよ!すっごい秘密があるのよ!」


 ミユは俺に近づき、ぶら下がっていた右腕を掴まれ、ミユのなすがままにされた。


「どうぞ~」


 いつの間にか、何かを握っていた手を見ると拳の両端から青色の笛があった。笛のサイズは横笛の小さいサイズのやつと一緒といったところか。


「【アサヒ小学校】に着いたら、あの二人がいることを確認してその笛をおもいっきり、フーッって吹くのよ!」


 ミユは小さくジャンプした。意味もなくジャンプをしたのだろう。


「だ・け・ど!二人にはこの笛を吹いたことをバラさないでね!」


「なぜこの笛を吹くんだ?」


「とにかく!すごいことが起こるから!」


 俺は右腕を曲げ、掌を開く。青く細長いものを手の上で転がす。


「他にも、師定が危険な目に晒されたらその笛を吹いてみて」


「この笛、いったい何なんだよ?」


「吹いてからのお楽しみよ!じゃあ私とカイはまた別の目的地に行くから師定はちゃんと【アサヒ小学校】に行くのよ!寄り道はいけないからね!」


 ミユとカイは来た道を戻っていった。ここからアサヒ小学校には二十分ぐらいで着く。


 改めて青い笛をしっかり握り込み、【アサヒ小学校】へと向かう。そして二人からノートパソコンを奪い返す。決して後戻りはしたくない。



 *



 僕達は一つの小さな町になっていた【アサヒ小学校】のグラウンドの門をくぐり抜けた。建物はないが、テントや椅子などがあり市場のようになっていた。


「おお!セニオルさん!ここに来てくれたんですね!ありがとう!」


「どういたしましてじゃな。元気でやっとるかの?」


「はい!セニオルさんのおかげ様で!」


 町に入ると早速、テントの中にいたターバンを巻いたお年を召した女性がセニオルさんに挨拶をした。


「そちらにいるお二人さんはどうしたんですか?お知り合い?」


 女性は私たちの方を指差した。


「そうじゃよ。こっちがラナで、そっちがヒムトじゃ」


 セニオルさんは順番に私たちのことを紹介する。


「はじめまして。私はクノー。怪我は無いかい?」


 私はその言葉でふと自分の左足を見やった。擦り傷のある左足だ。


「どうしたんだい?ラナ。左足を見よって」


 クノーさんは私の視線を見て異変に気付いた。


「あれま!赤い!怪我でもしちゃったの?」


「あのー実は…」


 私はカーゴパンツの赤いシミとなった経緯を大雑把に話した。会社ヨロズで擦りむいたことは伏せておいた。


「ここで怪我の治療しとく?」


「はい。お願いします」


 陽向人はクノーさんに礼をした。


「簡単に手当てをしました」陽向人はさらに言葉を続けた。


「そうか。まだ薬草とかは塗っていないんじゃな」


「薬草?」私と陽向人は首を傾げた。


「クノーさんは薬屋さんでのぅ、怪我をしている人の手当てをするんじゃ」


「ここでは薬屋は私しかいないからね」


 クノーさんはここでいえば【アサヒ】のお医者さんということだろう。


「入口から入ってきた怪我人がすぐに治療できるよう、私はここにいるんじゃ」


 確かに入口からすぐ目の前にクノーさんのテントが張っている。


「じゃあ、ラナは少し休んでいきなさい」


 クノーさんに手招きをされ、テントの中へと入った。


「じゃ、わしとヒムトは【アサヒ】を回っておるからのう」


「羅奈、ちゃんと元気でいるんだぞ?」


 セニオルさんと陽向人は【アサヒ】のさらに奥へと歩いて行った。


「さてと。じゃあベッドの上で横になっていてね」


 私は奥のベッドへと歩き始める。


「その左腕に巻き付いているのって…」


 クノーさんは私の赤いコンティニューブレスに指をさす。


「これですか?これはコンティニューブレスって言って…」


「この世界にもコンティニューボディーがおったんじゃな…」


「コンティニューボディー?」


「まあ今のところ、ラナの身体に何も異常はないみたいだから安心はしている」


「異常?」


 私がコンティニューブレスを着けている状態だと異常なのだろうか。


「もう気にしないでいいわ。座って怪我しているところを見せて頂戴?」


 私はカーキ色のカーゴパンツの裾を上げる。すると若干赤いものが染み込んでいる包帯が現れた。


「あらっ。ちょっとひどいじゃない?少し待って」


 クノーさんはさらに奥へと進んでいってしまった。


 このテントには砂埃が入ってこないように布の壁が覆われている。風が吹くたびに布がゆらゆらと揺らめいている。



「おまたせ~」


 クノーさんが片手に白い壺、もう一方の手にコットンを持って奥から出てきた。


「すこし痛むけど我慢してね」


 そう言ってクノーさんは私のベッドの横で床に膝をつけて頭を私の怪我の箇所を凝視した。首を傾げながらも独り言を呟いていた。


「よし、今から薬草を塗るわね」


 白い壺から緑色のペーストを手に取り、私の擦り傷にたっぷりと乗せた。そしてコットンを当て、円を描くように薬草を塗り広げていった。固まっていた瘡蓋も薬草を塗ったせいで取れてしまった。


 さらにクノーさんは頭のターバンを解き、一緒に持っていた布切れを傷口に当てきつく私の脚に巻き付ける。


「よし。あとは痛みを感じなくなったら自由に動いてもいいよ」


 クノーさんは立ち上がり、私に笑顔を見せて奥の方へと歩みを始めた。


「あの、」私は咄嗟にクノーさんを呼び止めた。


「この世界っていったい何が起こっているんですか?」


 クノーさんは私に振り返った。


「私も一体何が起こっているかは分からない。ただ急に白い光に包まれてからこの世界に降り立ったことだけは分かる」


 クノーさんの言葉にさらに私は耳を傾ける。


「私は身の回りに何が起きようとも受け止める。何をしなくても時は経ってしまう。一瞬でも立ち止ってはいけない。だから私は怪我している人を薬草で治す。これが私の出来る唯一の人助けやからの」


「何が起きようとも受け止める」私は言葉を反芻する。


 私は白い光に包まれてから、色々と内気になっていたかもしれない。会社「ヨロズ」の階段に座り込んで泣いたり、イノシシのケモノに襲われてそうになった時も諦めることがあった。


 それは私に何事にも受け止められる心が無かったからだ。


「まあ頑張りなさい。ゆっくりと休むのよ」


 クノーさんは奥へと姿を消した。


 私は左腕にきつく縛られているコンティニューブレスを見る。


 コンティニューブレスを上手く取り外せないことも受け入れる心。


 私は口角を上げ笑って見せた。


 またいつかデス・イレイズ・マインをプレイしたいなと思った。


私はベッドに横たわった。



 *



 僕は【アサヒ】という一つの町へと変わった学校のグラウンドをセニオルと一緒に散策していた。テントとテントの間にある道では小さな子どもがサッカーボールを蹴り歩いているのを横目に大人たちが行き交っていた。


「何で小学校のグラウンドが一つの町になったんですか?」僕はセニオルさんに訊く。


「まずここはとても広いスペースがある。そして簡単にケモノに見つけられないように石の壁に囲まれている。安心して暮らしていけるような作りになっておるのが特徴じゃな」


 なるほど。こうやって改めて学校のグラウンドを見るとよく考えられた構造をしている。子供の頃は見向きも考えたこともなかった。


「そして山の方に進むと石の階段がある。階段を上ると頑丈そうな立派な建物があるじゃろう?そこで睡眠をとることが出来る。ここは恵まれた場所なんじゃよ」


 セニオルが言っていることは正しかった。石の階段というのはスタンドのことで頑丈そうな立派な建物はアサヒ小学校の校舎のことだ。


 この世界には黒いケモノが多くいる。そいつらは僕や羅奈のようにニンゲンを襲ったりセニオルやアスカのような人を襲う。


 突然、僕の右足に激痛が走った。


「すみませーん!」


 声がした方向を見ると赤ちゃんを胸に抱えた女の人が走ってきた。斜め下を見ると男の子がこちらに向かってきた。さらに下を向けると茶色い球があった。


「ウチの子がすみませんでした。こら、当たったなら謝らないと!」


 女の人は男の子と一緒に僕の方へと歩み寄った。僕の足の痛みはすぐ引いたようだった。男の子は足元に落ちている茶色いボールを拾う。


「お子さん、元気ですね」僕は屈み、男の子の頭をわしゃわしゃする。


 僕の耳には【アサヒ小学校】に入ってからずっと人の賑わいの音が絶えていない。


 この世界が破壊されてから初めての雑音。この音は煩わしさよりも嬉しい感情が膨れ上がっていた。


「この子ったら寝ているとき以外はいっつもこんな感じなんですよ?」


「その元気を少し分けてもらいたいのう…」セニオルは少し下を向いてため息を吐く。


「じゃあまたね!」男の子は日ごみの中へと姿を消していった。


「待ちなさいってば!謝りなさいって!」女の人は僕に一礼して男の子の後を追いかけた。


 何気ない日常らしさが僕の心を落ち着かせた。


 何一つ恐れていない平和な時間。


 僕は胸をなでおろした。僕はみんなの敵ではない。


 僕のズボンの左ポケットが振動した。


 振動したものをポケットから取り出すと、スマホだった。


 画面を見ると久々に送り主不明からのメッセージだった。


「万師定には絶対にパソコンを渡してはならない。渡すことがあったとしてもこの私が許可を出してからでないと渡してはならない」


 僕は送り主不明からのメッセージを取り消した。



 *



「はあはあはあ」


 俺は一度、肩で息をする。


 会社の名誉をかけジェラルミンケースの中にあったノートパソコンを取り返すために、一秒も無駄には出来ない。いや、一瞬たりとも無駄には出来ない。


 俺はまた足を前へと動かした。


 あと二分で【アサヒ小学校】に着く。


 あいつらはどんな顔で待ち構えているのだろうか。笑顔か。泣き顔か。


 だが、二人はどこにでもいるような普通の高校生だ。誰があの二人を動かしているのか。決め手は男がちらちらとスマホを見て、行動をしていた。


 戦いの相手は二人ではない。もはや真の敵は二人に指令をしている奴だ。


 あと一歩のところで男をこの手で抹殺できた。


 この世界にいるニンゲンはとても貴重で珍しい。この俺も珍しいニンゲンの一人だ。


 ただ電気システムの故障が無ければ手こずることなく始末が出来た。


 ノートパソコンを奪い返して、会社に戻ったら電気システムの点検をしてもいいか。


 


そして二分後。


「着いた」


 石垣が大きなグラウンドを囲っている。


 俺は右手に掴まれている青色の笛を見た。


この笛を吹くと何が起きるのかはっきりとはしないが、吹いてみる価値はありそうだ。


俺は笛の吹き口を唇へと持ってくる。唇に伝わるプラスチックとも違う暖かさが冬の寒さをやわらげた気がする。


口の中にいっぱいの空気を含める。冷たい空気は俺の体温ですぐに温まった。肺まで溜まった空気で一瞬だけだが苦しかった。


生温い空気を澄んだ青色の笛へと吹き込む。


ピーーーーッ。


冬の澄んだ空気に汽笛が鳴った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る