第3章 この冬

 感じられたのはカサついた皮膚が熱気を吸い取った感触だった。


 目を覚ますと白い天井が私を見ていた。光ではない薄暗い日の明かりに映った霞んだ白だ。私はどうやら眠っていたようだ。


 夏の暑い日で白い光が見え、私は熱中症で立ち眩んで倒れてしまったと想像した。ここは病院なのかと仰向けだった体を起こし辺りを見渡すと小さい部屋の中にいることに気が付いた。部屋の中には木目調の勉強机が目についた。その上には紙が散らかっていた。紙はどうやら何かの設計図だ。だが意識を取り戻した私にとっては理解するのが難関でほかのものを見つけた。それは床に無造作に置かれた壊れたコンピュータだ。壊れたコンピュータと思ったのは機械の配線がむき出しでその何本かはちぎれていて火花が飛んでいた。火花は飛び散った瞬間に灰となり勉強机に引火する恐れはほぼなかった。


 なんだか寒い。


 私はさっきまで空きビルの前で立ち尽くしていた時とは違い、いつの間にか長袖の制服でスカートを履いていたので足元から冷気が漂っていた。私は少し後退りをするとヒーターの熱気を感じた。温かい。でもついさっきまで陽向人とぎらついた太陽が私達に向かって熱気を放っていたが今はそれが微塵も感じられない。


 なんだか冬のような寒さだった。地獄のような寒さ。


 暑さに弱い陽向人とは違い私は寒さに弱い人間だ。


 寒い。


 私は寒さに少しでも耐えようと身を縮こませ体育座りの体勢になる。なにか寒さに耐えられるものを探そうとまた辺りを見渡すとハンガーに掛かった服が見当たった。


 ベージュのトレンチコート。


 伊乃陽向人と名乗った男が着ていたものと同じ様な服だった。


 寒さに耐えられないためハンガーからトレンチコートを持ち頭から覆い被せる。ぬくもりを感じた。半袖で今の気温では考えられないような格好だがこれしか見当たらなかった。


 さっきまでは陽向人が暑がりながらビルの前に立っていた。


 ほかに防寒が出来るものは無いかと部屋の扉を見つけた。この部屋は一般的に生活するのに最適な場所だと考えた。私の部屋とあまり変わらない。


 よく見るとほとんど私の部屋と似ている。そう考えながらも寒さに耐えられず扉を開けた。なぜだろう。取り残された感覚を感じるのは。


 私は不思議な部屋を後にした。



 *



 僕は目覚めると椅子に腰を掛けていた。柔らかくて背もたれが自分の背中とぴったりくっついている。そして横にある肘掛けに腕を置いていた。リラックスできる椅子で心地が良い。どうやらここで眠ってしまったようだ。


 いや。僕はビルの前で立っていた。確かに皮膚に汗を流しながら、夏のセミが鳴き声の中に俯きながら言った。騙されたのか。唇が動き言葉を発している動作を覚えている。体温が徐々に高まる感覚も覚えている。直射日光に照らされ、しかも走っていた感触が足に残っている。意識がうつろとして脚がへとへとになり、ぼーっと立っていた。横に夏服の制服を着て白い腕で太陽の光を反射している羅奈がいた。調子はどうだい?とスマホの画面に映し出されていた文字が脳に浮かび上がる。この感覚は今の状況と結びつかなかった。


 僕は瞼を開ける。するとまばゆい光が襲う。この感覚も体験したことがある。一瞬目の前が光に包まれた。五感が失われふわふわとした。記憶はそこまでだった。だが一瞬は長く感じられた。


 やがて今感じている光はパソコンの画面から出ているブルーライトであると気づいたのは瞼が半分開き周りが見えた時だった。白い機体のパソコンだった


 椅子から起き上がりパソコンの画面をよく凝らすと文章が書かれていた。


「今からミッションを行ってもらう」


 文章を読むとファミレスで男と連絡をした文章と全く一緒だった。騙されたのか。と脳裏によぎった。だが最後の文章に見慣れない一文があった。


「目の前が光に包まれた時に再度訪問するように」


 この文章を書いたのは午前十時五十九分となっていた。目の前が光に包まれたのは事実だがこの男は何が目的なのか。


 肌の違和感に気づく。寒い。暑がりな僕でさえ寒いと思えた。脚から冷えている。僕は辺りを見渡す。するとクローゼットを見つけた。僕は両開きの木製の扉を開ける。その中には冬物の上着が十着ほど入っていた。すべて男性用のものだ。サイズを見るとすべて僕にぴったりなエルサイズのものだった。薄灰色のダウンジャケットを羽織り、パソコンの画面を見、ほかにも情報がないか探していると設計図のような線と数字が描かれた白黒のデータを見つけた。設計図の形を見ると女の人の身体のような絵があったが体のパーツが二五〇枚の設計図があった。


 何をしていたのだろう。


 また探しているとデスクトップにDEATH ERASE MINEと書かれたアイコンがあった。開こうとしたがロード画面にはならず全画面が真っ黒になった。僕が体験した時と同じだ。その時はもうデス・イレイズ・マインが出来ないことを思うと悲しくなった。


 さらにパソコンの中の情報を探っていくとユーザー名が「伊乃陽向人」となっていた。僕のパソコンのユーザー名と一緒だがここまできて気味が悪くなった。


 椅子から立ち上がりこの部屋を見渡す。そこら中にパソコンサーバーのようなものが散らかっていた。ほかにもコピー機やディスプレイ、キーボードなどパソコン関連のものが散乱していた。中には見覚えのない無機物の物体があった。広さは約四畳といったところか所狭しと感情のない物質があった。椅子はキャスターが付いているが物体が邪魔をして動き辛そうにしている。時々物体に付いているLEDが点滅しているがもう壊れているのか火花を散らす。


 汚いな。物が散乱して足の踏み場のない部屋を動こうとしているが何処に足を着地させようか迷ってしまう。これがごみ屋敷なのか。


 この部屋から出ようと木製の扉に付いているドアノブを回す。この扉は引き戸で開く際に無機質の物体が扉を邪魔し、開けづらかったがそれをどけ部屋の外に出た。するとそこにあったのは下へとつながる階段や部屋の扉がほかにも三つあった。


 家だ。しかも僕の壁紙と一致している。においも。床の歩いている感触もすべて一緒なのだ。今出た部屋は僕の部屋の位置と一致している。どこか僕の家と、この家の相違点を探そうと思うと部屋の汚さ以外見当たらなかった。


 緊張感も持ちながら安心感も持っていた。


 僕は震えた足を運び下へと運ぶ。またリビングがあるだろう方向を向くと、テーブルに何か置いてあった。一枚の紙だ。日焼けしていて一部が茶色く変色している。折り畳まれていてそれを開くとこう書かれていた。「学校遅れるなよ。夜はまた遅くなる。最近顔を見れていないが元気にしているか」


 叔父の文字だ。確かに叔父の文字だった。


 文章も叔父が考えたであろう特徴がある。


 安心感はもうとっくに消え薄れた。


 気味が悪い。何もかにも再現されているが、この家には人の気配があまりにもなさすぎる。置手紙を持った手は薄灰色のダウンジャケットのポケットの中へ入り、手紙を離した。孤独感に襲われた。羅奈はどこにいるのだろう。服のポケットに手を入れると四角い板のような感触があった。


 男から渡されたスマホがあった。


 僕の携帯がないか探しても男のスマホしか持っていなかったようだ。今このスマホではなく僕の携帯であればすぐにでも羅奈との連絡が出来るのに。


 男から渡されたスマホをいじくっていると、羅奈の連絡先だけが登録されていた。


 ほっとしたのもつかの間。僕は電話をかけた。


 通知音が耳で反響した。緊張感で通知音がやたら長く感じた。苛々と貧乏ゆすりをする。早く出てきてくれ。


 大声で言ってやりたい。


「今どこにいるんだよ⁉」


 そして羅奈をびっくりさせてやる。


 面白そうなんて感情は刹那に持てなかった。


 通知音がまだ鳴り響く。


 頼む。羅奈の声が聞きたい。


 ツーと電話が切れた音がした。


 ため息をつき外に出ようと僕に合った靴を探そうとするとどれも僕の足のサイズにピッタリであった。僕は他と比べ新しそうな埃の付いていない黒いスニーカーを履いた。玄関の扉を体で押し外へと出る。


 外へ出ると思わず鼻を覆った。何か焼けるようなにおいがしたからだ。ガソリンのにおいも鼻腔に広がる。においの元を探ると黒いボディーをした車体が炎を上げているのが見えた。それを消そうと近くにあった水道の蛇口の下にバケツを置いた。待てよ。ガソリンに引火した炎に水を撒けるとさらに燃え広がるといつかのテレビで聞いたことがあった。どうしようとあたふたしていると、ごみ収集場所に広くてある程度厚い布団があった。それを車に被せた。


 消火できたようだ。そのままにしておこう。


 改めて思い返すと違和感があった。いつも聞こえているはずの人々の生活音が聞こえない。ましてや人の気配も感じられない。静寂に包まれていた。僕が歩くと黒いスニーカーと黒いアスファルトがぶつかった音しか聞こえない。この世界は静寂に包まれている錯覚に陥った。途方もなく体感時間で十分歩いていると石で出来た階段を見つけた。階段の周りには植物に囲まれていて神秘的に感じられた。そこに身体を休ませた。体に石畳からの冷気が伝わったが緊張感を抱えた僕にとっては気持ちいい冷たさだった。


 羅奈はどうしてるのだろう。


 なんだかお腹が減ってきた。静寂な中、お腹が鳴った。普段より大きな音だった。


 さっきダウンジャケットのポケットの中に入れた叔父の手紙を取り出し、読み返す。


 いくら睨んで読んでも、叔父の文字で叔父の文章であることには変わりがなかった。孤独感。緊張感。違和感。今まで生活してきた中で抱いたことのない感覚が襲ってくるのは悲哀を感じた。羅奈でなくてもいいから誰かに会いたい。


 これまでの見た景色を思い出す。


遠くの場所でまた火事が起こっているのが見えた。煙が見えていた。歩いてくる道中にガラスの破片が散らばっていた。電柱と電柱をつなぐ電線が切れて火花が舞っていた。


 この世の終わりなのだろうか。


 建物にも破壊されていた部分があった。道路のわきの木々が倒れていた。そしてその車道も一台も車が走ることなく僕は中央車線の上で歩いていた。普段は出来ないことだが不思議な感覚が襲っていたので何も感じることが出来なかった。


 何か視線を感じる。


 重い身体を起き上がらせ辺りを見渡す。


 人がいれば話しかけよう。


 だが変わらず人の気配を感じず、視線の原因を探すのは諦めた。早く安心したい。それが今一番感じる欲望だ。破砕されている世界で一人。


 視線はまだ感じていたが変わり果てた世界に恐怖に思い気力を失った。目を瞑った。



 *



 俺はモニターに映った薄灰色のダウンジャケットの青年を見つけ違和を感じた。


「なあ。あそこにニンゲンがいるよ。あいつはデス・イレイズ・マインの会社員かもしくは俺たちの研究員ではないの?」


 俺は檻の外で一緒のモニターを見ている男に話しかける。


「あいつは会社員だろうが私達の研究員でもどうだっていい。あいつはどう見ても生き残るような術を持っていないだろう。じきに飢餓で死期を迎えるだろう。もしくは凍死かどちらかであろう」


 男はまともな回答をした。檻の中にいる俺を見向きもせずにただモニターを見ている。


「なあ。これからどうするんだ?こちらの世界の愚かなニンゲンに罰を執行するのか?」


 男は一度顎を撫で一瞬で思考し口を動かす。


「まずは五人を処刑する。話はそれからだ。お前はプレイヤーを処刑したときに再生身体(コンティニューボディー)がどういう結果になったか私に報告しろ」


 男はモニターと檻の部屋を後にしようとした。


「待て」


 男は足を止める。


「もしプレイヤーを処刑したときに再生身体が消滅したとしても俺が消滅していないと嘘を吐いたとしても俺を問い詰めるなよ?」


 男は聞いて鼻で笑った。


「お前がニンゲンだとしたら嘘を吐く理由はあるがお前はニンゲンではないから嘘を吐くメリットは無いし、デメリットの方が大きい。ハイリスクノーリターンだ。だからお前は嘘を吐かない。言い換えるとお前は信用できる。じゃあな」


 ちっ。俺がニンゲンではないから核心を突いて来やがる。


 だから服従はやめられねぇんだよ。


 俺は腰に巻かれた無機物を見る。


 あれは何年前だったか。


 この無機物を作り出したのもニンゲンだ。


 当初、このアイデアを提案されたときはニンゲンらしいと思った。


 俺はただこうやって特殊な化合物で作られた檻の中にいる以上は過去の栄光に縋っていることが今の生活の大部分だ。


 まあダウンジャケットを着た青年だけは覚えておこう。また会う機会がありそうだ。どんな形で会っても。青年が死んでいたとしても俺はあいつを覚えているのだろうか。


 モニターを再度見やった。すると青年は立ち上がり何か怯えていた。


 そうか。真実に出会ったのか。もしくはゲームに出会ったのか。


 どちらにしても楽しく見てやる。





 僕は眠っていた身体を立ち上がらせた。猫でも犬でもない生物の鳴き声がしたからだ。


 重い瞼を擦りながら目を開かせると一瞬で鳴き声の主を見つけた。


【グオォーーー】


 目の前に大きな生物の歯があった。飲み込まれる。僕は石の階段を駆け上げる。後ろを振り返ると八メートルはあろうか黒い体毛をしたカバのような怪物だった。


 なんだよこれ。まるで夢を見ているみたいな感覚だ。しかし僕は動いている。確実に体を動かし、懸命に逃げている。大きな怪物は僕を追いかけている。短足を上げ、下ろす度に腹の脂肪がたるみ、持ち上がるのを繰り返している。脚が地面に着くごとに地響きが鳴り響いた。


 逃げている間に都市部に辿り着いたようだ。ここは住宅地域で建設されて真新しいアパートや十階以上あるマンションが立ち並んでいた。


 地響きが鳴るたびにアパートやマンションの壁にひびが入っていく。


 丁字路に差し掛かる。横の壁も前にある壁ももう崩れかけてきそうだ。


 目の前の二十階建てのビルが崩れかけてきた。瓦礫が落ちていき僕はそれをよけながら逃げていく。怪物は上から落ちて来る瓦礫にあたろうと身体に蓄えられた厚い脂肪があり、何の損傷もない。


 まずい。


 横のビルがこちら側に倒れて来るのが見えた。このままでは頭にビルの壁に直撃して死んでしまう。


 僕は閃いた。だがそれは一か八かの作戦だった。


 全力疾走だった足を止め、前に行きそうになった体を後ろに体重をかけ、後ろを振り返る。ビルが倒れてくる風を感じた。脚を怪物の方向に向けた。怪物は僕を食おうと口をこれでもかと開ける。怪物は立ち止った。怪物の腹がたるみ地面と脂肪の距離が僕の身長より少し小さい長さだった。


 行くしかない。


 怪物の左足と右足の間に向けて走った。怪物の口が迫ってくるのを感じた。怪物の前脚の又に入り込む。


 上手くいった。


 天井が低い怪物の下のトンネルをくぐり、怪物の背後に回った。


 怪物は何が起こったかわからなくなったのか、立ちすくんでいたがそこにビルが倒れ、頭に直撃した。怪物は耐えらなかったのか四足を広げ、倒れこんだ。


 僕は短く深く呼吸した。息が白くなり白いものが風に吹かれて消えていた。


 なんなのだろう?


 大きな怪物がいるなんてこの世界は何かがおかしい。


燃え上がる炎。壊れていく建物。そして大きい怪物。


 時は世紀末なのだろうか。


 楽しいひと時を過ごさせてもらった。


 何ともニンゲンの世界で言うアクション映画というものなのか。大きなケモノに追いかけられながら武器も持たずに討伐が出来てしまうとは。


 モニターにはビルの下敷きになっているケモノが足を痙攣させている。


 青年は過呼吸になりながらもビルやマンションの塊を見渡す。


 この檻から出て青年の話を自身の口から聞いてみたいものだ。


 まだケモノは消滅していない。



 *



 私は部屋の扉を開けると、私の家と同じ風景を目の当たりにした。


 違うのは私の部屋の中身だ。


 学校の制服もバッグもなく壁にかけているはずの時計が見当たらなくなっている。ここは私の家なのか。その疑問が脳に残った。私の家のにおいなど一緒なのだ。


 ふと、外に行ってみたい衝動にかられた。


 玄関を開ける。


 一緒だ。玄関先の光景はいつもの私の家だ。外は日が傾いて私はいつの間にか家に帰っていたのか。だけど何かがおかしい。


 火のにおいがする。


 向かいの家の壁が朽ちている。そして蔦が付いている。向かいの家に住んでいる人は蔦が付いていたら取り除く性格のおばさんだが、そのままになっている。


 機械の音が鳴り響いた。この音は携帯の着信音だ。


 液晶画面を見てみると「陽向人」と書かれていた。私は電話に出るボタンを押し携帯を耳に当てる。耳にひんやりとした感触を味わう。


「もしもし、どうしたの?」


 荒い息遣いが聞こえる。


「どうしたのじゃないだろ?いまどこにいるんだよ?」


 陽向人はため息をつきながら話し続ける。


「この世界は何かがおかしい。どうしたらいいんだよ?」


「何言ってるの?今は家の前にいるし、この世界って何?ふつうだよ」


 私は陽向人にむかい笑ってみせた。


「羅奈は火のにおいに気が付かないのか?」


 玄関の扉を開けた瞬間陽のにおいは感じたけどそれがどうしたのだろう。


「周りを見てみろ。車とか家が燃えていないか?」


 陽向人の指示通り辺りを見渡す。


 丁度、家の向こうに煙が立っていることに気が付く。


 煙元を見てみると、近所の家が燃えていた。一軒だけでなくその先の家も微かに見えるマンションにも煙が立ち上っている。


陽向人に今見ている風景を説明した。


「なにかおかしいと思わないか?例えば…」


 消防車のサイレンが聞こえないとか。


 陽向人は言葉を続けたが、陽向人が指摘した点について思考を巡らせていた。


 確かに消防車のサイレンが聞こえない。普段ならば火事の時には近所にカンカンと消防車が通る鐘の音が聞こえるはずだ。だが静寂に包まれ火が燃えている音だけが聞こえる。陽向人の声と火の声。二つの音が私の鼓膜に響かせてきた。


 静寂に包まれた普段の光景。いつもは雑音が聞こえ日々を生きていくのだがその雑音が無くなることは違和感を生まれることになる。


 雑音がない世界。


 風が吹いてきた。風の影響で火が揺れるのが見える。


「そこに立ってどうしたんじゃ?さむいじゃろ?」


 人の声が突然聞こえてきた。足音も聞こえなかったので、少し驚いたが声の主を探すと背中を丸めた小柄なおじいさんが木の杖を突いて寒そうに身震いしながら左手を腰の後ろに置き、立っていた。おじいさんの目は開いているのかどうか怪しいぐらい小さい目をしているおじいさんの格好は白いマントのようなものを羽織り、紺色の足袋を履いていた。顔に長く白い髭が付いていた。その髭はサンタさんを連想させるようなものだった。その容姿に少し気がかりだった。一度会っているような、一度見たような感じがする。


「なんでボーッと炎を見つめている?」


 おじいさんは私の顔を見上げる。私はおじいさんと話をするため陽向人との通話を切った。


「炎は命を失うものなんじゃから一つの火ぐらい消しておいた方が身のためじゃないのかい?」


「おじいさん、どこから来たんですか?」


 おじいさんは目を真ん丸にして言葉を発する。


「どこに私に向かって【おじいさん】と呼ぶ者があるか!」


 杖を突きなおして、私に大声を上げる。


「わしにはちゃんと名前があるのじゃ。まずは名前を聞いてからお互いを呼び合うのがしきたりじゃろ?」


「ごめんなさい」


 おじいさんは迫力ある声で私に怒鳴った。


「わしの名前はセニオルじゃ。あんたの名前は?」


 セニオル。おじいさんはそう名乗った。セニオルは如何にも日本語の名前ではないと思った。てっきり和風な名前を想像したが驚いた。


「セニオルっていうんですか?」


 私は聞き返した。


「漢字で書くとどんな字を書くんですか?」


 セニオルの目線の高さと合わせるように少し屈んだ。


「カンジ?何を言っておる?セニオルはセニオルじゃ。カンジというものは存在せん!」


 どうも話はかみ合わない。私は名前を聞かれていたことを思い出す。


「私の名前は羅奈です」


「ラナか。かわいらしい名前じゃの」


 褒められた。嬉しくなったが改めて思い返すと名前を聞いた際の常套句だと気が付いた。


「ラナはどうして炎を見つめておる?早く消さんか!」


「は、はい!」


 私は水道を探した。


「何をしておるんじゃ!」


 水道を探せずにいる私に呆れてしびれを切らしたのか、大声を上げる。


「早く炎を消さんか!」


 セニオルは持っている杖を振り上げる。怒っている。その様子からはっきりと分かった。そして地面に叩き付けるかのように杖を突き落とす。


 その瞬間、水道を探す手間が省けた。


 近所の家を包んだ炎の音がぱたりとしなくなった。


 家を見てみると炎がもうなくなっていた。消えていたといった方が自然なのか。


「全く、あんたは何をあたふたしておる?」


 いや。セニオルこそ何をしたんだ?


「セニオルさん、今何をしたのですか?」


 あっけにとられている私に向かってセニオルは発した。


「何をしたって炎を消しただけじゃ。あんたが何もしないうちに消しておいた。」


 今、置かれている状況が呑み込めずにいた。


「炎を消したってどうやって火を消したんですか?」


「どうやってとは何じゃ?わしはただ炎を消そうと地に杖を突いたからじゃ」


私は開いた口が塞がらないままで炎に包まれていた民家を呆然と見ていただけであった。セニオルは超能力者なのだろうか。もしくは手品師なのであろうか。





「ったく、やっとの思いで電話が繋がったってのに勝手に切りやがって。」


 僕の家らしき建物に戻り毛布にくるまりながら静寂を共にしていた。この世界は何かがおかしい。もとは建物も燃え上げずに人々も雑音を立てながらも生活しているのに、目を開けたら何もないような錯覚にとらわれた。この世界に何もない。言い換えると虚無が存在しているだけの世界だ。そしてとんでもなく大きな怪物。バケモノといっていい。何もかも違う。僕以外。


 僕は温もりがある毛布から立ちお腹がすいたものだから冷蔵庫を引いて開ける。すると叔父の得意料理であり我が家の常備菜であるきんぴらごぼうがあった。


「本当に僕の家なのか?」


 ふと言葉に出す。反応して自分の意見を言う羅奈はいない。反響することもなく再び部屋の中は静寂に包まれた。何もかも再現されている。叔父の置手紙も家の間取りも、きんぴらごぼうでさえ再現されている。まるで仮想現実を見ているみたいだ。破壊されていく世界。これは夢でも見ているかのようだ。


 炊事場から食べる用の黒い箸を持ってきて、きんぴらごぼうが入った皿の上に箸を架けそれをリビングのテーブルに置き、先ほどまで着ていた薄灰色のダウンジャケットの掛かった椅子に座る。


「いただきます」


 一人で手を合わせる。


 人参とレンコンとごぼうと白ゴマと赤トウガラシと醤油とゴマ油。


 まさに叔父が作るきんぴらごぼうと一緒だ。


 おいしい。


 おふくろの味ではなく、おじの味。


 これを食べると叔父の顔が脳内でよみがえる。半年間も顔も合わせていないから顔が見たいものだ。


 きんぴらごぼうを食べ空腹感が満たされた後、また毛布にくるまろうとしたが寒い室温に快適さを覚えそのままにした。


 ダウンジャケットのポケットの中にしまっていた男からのスマホを取り出す。するとメッセージを受信されていた。開くと名前が表示されていない人からのメールだった。


「ヨロズの訪問は明日にしてくれ。今日訪問したら命の保障しない」


 なぜだ。


 スマホが振動した。


「急な用事が入ったから明日となる」


 こちら側の意図をくみ取るかのようにメールが送られてきた。


 またスマホが振動した。


「どうにか陽向人と羅奈は生きていてほしい。なんとか生命維持に全力を注げ」


 どうにか?生きてほしい?


 この世界は何かがおかしいのは向こう側の人間も感じ取っているのか。返信を行ってみる。


「お前は何者か」


 ファミレスで見たスマホの画面に映し出された回答が伊乃陽向人と表示されてきたときはさすがに驚いた。しかし二回目となる同じ質問にどうやって回答するのか。期待は持てないままだった。


 スマホが振動した。


「伊乃陽向人だ」


 また同じだ。


 スマホが振動した。


「お前はこれを見たのか?」


 スマホが振動した。


 送られたのは文字ではなく写真だった。



 *



 セニオルとの話は納得する形で終わらなかった。


 セニオルは杖を突き、炎を消したと言っていたが私は信じなかった。ありえないのだ。


「なんでこんなふうになったのかな?」私は摩訶不思議な出来事に疑問が残っている。


 ただ一軒の民家の消火活動をしたってその奥に立って燃えている炎に飲まれている建物は黒く炭になっていくばかりだ。


「すまない。今はやるべきことがある。またいつか会おうな」


 セニオルは曲がった腰に左手を添え、ゆっくりとした歩調で歩いて行った。


 私は家に帰った。絡まった情報を整理したい。


 私の部屋は休めるような場所ではなくなってしまったのでリビングで体を休ませた。


 テレビの前にあるソファに寝そべる。ほかの部屋にあった布団を運び、くるまる。


 ここはなんだろう。


 建物が炎に包まれ、セニオルが杖を地面につき火を消した。


 くどいようだがありえない。天と地がひっくり返るようなことがあればできるのかもしれないが、天と地はひっくり返っていない様子だ。


 想像を膨らませると脳が勝手に発想することをやめさせた。睡魔が襲い掛かってきた。


 自分たちが眠いのだから相手の国の人たちも眠いに違いない。というどこかの国と国が戦争を行っていた時に言い放った言葉だそうだ。この言葉は私の今の状況にあっている。人間の最大の敵は睡魔だ。そう私は思っている。余談だが国の人たちはその言葉を信じて眠りについたら、攻められて敗れたという逸話がある。



 *



 なあ。お前は何を望んでいる?


 檻に閉じ込められた状況は変わらないが、男の行動の理由がいまいち掴めない


 モニターは男を映し出していた。ここはどうやら人が自然と集まっていた集落にいるようだ。ニンゲンは何が起こるかわからない不安を募らせながら人工物の四角の中に身を隠すようにじっとしていた。


 男は動き出す。ニンゲンが隠れているであろう建物に入る。その建物は木で出来ており扉がなく、暖簾のような布が入り口にぶら下がっている。その先はモニターには映らない。その部屋の中にカメラはないからだ。カメラが設置されていれば部屋の中の言動を確認することができる。


 男は十と数えないうちに出てきた。男が歩いている後にニンゲンが付いてくるのが見えた。ニンゲンが大きいのが二匹とその子供らしい小さいのが二匹。小さい奴はお互いに手を握っている。髪が長い奴と髪が短い奴だった。大きいのはガタイがいい奴と丸みを帯びた奴がいた。家族というものだろうか。


 大きいガタイのいい奴が男に向かってすすり泣きながら何かを訴えている。


「助けてくれ。食べ物をくれ。なんでもやるから、助けてくれ」


 読唇術を使い、ガタイがいい奴がそう言っていたことを解読する。ガタイのいい奴が男の肩に手を置く。待ってくれという意味なのだろうか。


 男は肩に置かれた手を振り払った。


「ムスコが何をしたのかわかっているのか?」


 男はそう言った。


 ガタイのいい奴はあっけにとられていた。


「わからないならとやかく言われる筋合いがないな」


 男は小さい髪の短い奴の頭を持ち上げる。隣にいた髪の長い奴は握力を弱め髪の短い奴の手を離した。男は髪の短い奴の頭を鷲掴みだ。


「やめろ!」


 ガタイのいい奴がそう叫んで再度男の肩に触れるが流れるように振り払われた。


「こいつは罪を犯した。ルールを守れない奴は命がないのと一緒だ。この世界から消えてもらう」


 この発言で男の行動の真意が見えた。


「子供なんだよ!たとえルールの一つや二つぐらい破ったっていいじゃないか!」


 ガタイのいい奴は男に必死に抵抗する。


「子供なのだから、ルールを破ったっていいというロジックは突飛的だな」


 ロジック。論理。理屈。このガタイのいいニンゲンの思考力は支離滅裂だ。


「こいつが罪を犯したせいで、一つの命を失ったことを念頭に置いてもらいたい。罪深きものは刑を執行しなければこいつはのうのうと生きることが出来てしまう。罪を犯す行為はそれなりの覚悟が必要だということは、おまえらだってわかるだろう?」男はガタイのいいニンゲンに向け威圧する。


 男は大きい声ではないが、ニンゲンの心に突き刺さるような言葉をつらつらと並べている。喜怒哀楽が無いようにも思える。


 ガタイがいい奴は腕を脱力させながら膝から崩れ落ちる。


 男は髪が短い奴の頭を鷲掴みにしたまま、男の腕を黒く光らす。


 これは男がニンゲンを殺す合図だ。しかしニンゲン界でいうグロデスクな殺し方ではない。男が行う殺し方は眠るかのように死ぬ。


 髪が短い奴もなんの苦しい表情をする事もなく、瞼を閉じた。持ち上げられた身体はどさっと音がして地面に転がった。


 ガタイのいい奴が髪の短い奴の口に耳を当てる。髪が短い奴の呼吸は感じ取れられなかったのだろう。


「お前!よくも私のムスコを!」


 ガタイのいい奴は髪が短い奴の死に憤りを感じ、男に殴りかかる。だが男はその握り拳をつかみ、腕に力を込める。男は殴りかかろうとした拳を強く握った。ガタイのいい奴は痛みを感じ苦しそうだった。だが男はそれを見ても何の感情も持たずずっと握る。


「ムスコが死んだからと言って私を殴りかかろうとしたのはチチオヤとして立派な行動だったが殴る相手を間違えたようだな」


 男は殴りかかった拳をねじる。ガタイのいい奴は腕をひね曲げ、痛みに耐えた。


「お前が謝ったらこの手は離そう。だが逆らうならばお前もムスコと同じ様な一途を辿る。謝るか?」


 ガタイのいい奴は浅く短い呼吸をしながら答える。男は少し腕を黒く光らせる。


「謝る。許してくれ!」


 男は満足したのか拳を離した。ガタイのいい奴は脛と地面を合わせ、膝を曲げ、頭を下げた。降伏の姿だと男から教えられたことがある。男はガタイのいい奴のその姿を見て視線を残りの丸みを帯びた大きい奴と小さく髪の長い奴に移した。


「チチオヤはこの通りムスコのことを諦め、自分の命のために降伏したぞ。お前らは何をする?この男と同じ様に土下座するか、殺されるか」


 髪が長い奴は丸みを帯びた大きい奴に身体を寄せる。怯えている。それを見た男は小さい奴の目線を合わせるように屈み小さい奴の顔をのぞき込む


「この世界はお前のアニみたいな命を消すようなものはみんなバケモノなんだよ。いのちの尊さなど分からない奴には身をもって体感してもらわないと困る」


 男は怒りの表情もなくただ淡々に言葉を吐き出していく。言葉に表情が無かったからなのか小さい奴は髪の長い奴の服を握る。小さい奴の紅葉のような手は白く、まだ幼い。


「この子だけは許してください!そうじゃないと、私は生きていけなくなるの!」


 丸みを帯びた奴は必死に叫ぶ。


「なら、チチオヤと同じ体勢をとり、同じ言葉で訴えろ。許してくれとな」


 男は相変わらず無感情だ。


 怯えている二匹がガタイの良い奴と同じ体勢をとる。


 くそ、肝心な時に口が見えねえ。


 カメラが震える頭だけを映している。悲痛の叫びは俺には届かなかった。


 男は二匹のニンゲンに掌を向ける。腕が黒く光る。


「なら、許してやる。ついてこい」


 土下座の体勢だった三匹は涙の跡を顔に付けたまま男を見上げる。


 男の腕が黒く光る。


 するとニンゲンは立ち上がる。男は歩いて次の目的地に行くのだろうか、またゆっくりとした歩調で歩く。それに合わせ三匹のニンゲンも腕をだらっとしながら付いていく。


 俺は別のモニターに目をやった。


 ビルの下敷きとなったカバのようなケモノはピクリと動かなかったが黒い粒子を放ちながら跡形もなく消滅していった。


 ニンゲンはニンゲンを襲う。遠回しに言えばその通りになるが、全貌が露わになるのはまだ先の話かもしれない。



 *



 目を覚ました。今回は見たことがない光景が広がっていたわけではなく家の白い天井があった。どうやら毛布にくるまり寝ていたらしい。眠る前と何ら変わらない光景が目の前にあった。リビングの壁にかけられている時計は八時を指していた。外を見ると太陽が差していたことから夜が明けたようだ。セニオルについては夢の中で見た絵空事なのだろう。家が火事になったり人が全くいなかったり、全てが夢なのだろう。そうすると全ての怪奇現象に理由が付く。


 私はテーブルの上に置いていた携帯を取る。ソファに寝そべったまま見慣れた待受の前にメッセージがあることに気が付く。


「ヨロズの前で集合しよう」


 何が書かれているか分からなかった。学校から抜け出し指定された場所にそんな会社がなかったことは一緒に抜け出した陽向人だってわかるはずだ。


「ヨロズなんてなかったでしょ空きビルだったじゃん」


 返信し、送られてきたメールを見返してみると送り主の名前が書かれていないメールがあった。どうやら昨日送られてきたメールのようだ


 それを開く。


「ヨロズの訪問は明日にしてくれ。今日訪問したら命の保障はない」


 昨日の明日は今日だ。この口調には見覚えがあった。


 陽向人に送り主不明の連絡先が自分のスマホに入っていたことをメールで知らせる。


茶色いトレンチコートのポケットの中に携帯電話を入れ、眠っていた体を起こし窓の前に掛かっているカーテンを開き、外を見る。この家は住宅街に位置しているため普段窓を開けても隣の家のきれいな白い壁とコンクリートで舗装された道しか見えない。だが見たのは隣の家のきれいな白い壁でもコンクリートで舗装された道でもない朽ち果て、ひびが入った薄灰色の壁と黒いコンクリートがひび割れ下の茶色い土がむき出しになった光景だった。


 何が起こった? 


 まさかあの怪奇現象は現実だった?


 私は家を飛び出した。現実ならばセニオルが火を消した場所が本当にあるはず。


 懸命に走った。場所に着いた。肩で息をしながらその場所を見る。


 あれは夢じゃなかったんだ。


 辺りを見渡すとあの火事の家の残骸がまだ残っていた。消防署などのサイレンは目の前に光が包まれた後は一度も聞いていない。サイレンが聞こえるとどこで火事が起こったのかと不安を抱くのだが、いざカジを知らせる騒音が無くなるとそれはそれで不安が募る。


 まだほかの消火活動は行われていない。


「夜が明けたな、ラナ」


 振り向くとセニオルが立っていた。もちろん腰を折った姿勢で私を見上げていた。


「本当だったんですね。あなたが火を消したの」


「まさか、疑っておったのか?ラナは冗談で場を和ませようとしているかと思ったわ」


 セニオルは杖を突いている。


「そういえば、やるべき事をやるって言ってたのは?」


「よく、出会ったことの会話を覚えているのう。わしは忘れっぽいからのう」


 そう言いながらセニオルは曲がった腰を仰け反りながら高らかに笑った。


「ラナという面白いものに会えたんじゃ。存分に楽しませてくれ。またラナの前に現れるかもしれん。」


「ラナは友がいるのか?」


「友?友達ですか?ならいますよ」


 私は陽向人にセニオルのことについてメッセージを送ろうとスマホを取り出し画面をタッチし操作した。


「ラナ、それはなんじゃ?」


 セニオルは小さい目を広げ、驚いていた。


「これですか?これはスマートフォンって言います」


 そうすると私はカメラのアプリケーションを開きセニオルをレンズに収めパシャリと音を立てた。


「こうやってセニオルさんを絵みたいにとれるんですよ」


 またセニオルは目を広げる。


「ほう!これはたまげた!」


 どうやらスマホを見たことがないらしい。


 これはただ単純にお年寄りだからだと思っていた。


 セニオルとの会話を終え、陽向人と待ち合わせをし、あのファミレスの前で会った。


 ファミレスの中にも人気の姿がなかった。ただ陽向人と私だけが動いている世界だ。


「羅奈、なんか奇妙なことがなかったか?」


「奇妙なこと?セニオルってお年寄りに会ったことぐらいかな。目の前に火事の家があったけどセニオルさんが杖を突いた瞬間にその火を消したんだよ」


「この世界はおかしい」


 陽向人が小さく呟いたがはっきりと聞こえた。静寂だからなのだろうか。その言葉は私が思っていることだったからだろうか。


 陽向人が持っているスマホが振動した。


「ヨロズに潜入してもらう」


「今までの実体験からわかるようにその世界にニンゲンはいない。ましてや貴方達以外に信用できる人はほとんどいない」


「ヨロズにはセキュリティがかかっている。万が一に備えて各自の家にあるバリア装置を起動してくれ」


「このメッセージは見たら削除してくれ」


 名前がない。


 ヨロズには何かが隠されているのだろうか。


 


 *



 僕は知ってしまった。なぜケモノがいるのか。この世界が破壊されているのか。なぜこんな世紀末の時にゲーム会社であるヨロズに訪問しなくてはならないのか。


 名前がない送り相手からのメッセージで真相を知った。そのメッセージは一瞬では理解できない内容だった。最後には「陽向人だけが見たら誰にもバレずに、このメッセージを削除しろ」


 この真相はほかの一人にもばらされてはいけない暗示なのだろう。このメッセージを削除しろと最後に付けるのは同一人物と思うがまだ疑う余地はある。



 *



 陽向人とファミレスの前で別れた。また後でとお互いに手を振った。各自の家にあるシステムというのは変わり果てた自室の中にセキュリティを通すためのバリアがあるらしい。というのも謎の送り相手は自室に入り込んで、私達のために置いたらしい。


 すべて名前がない送り相手からだから、信用は出来ない。だが今は従うしかない。


 まず初めに私達の自室から入り込んでいることが、犯罪行為なのだ。れっきとした不法侵入罪なのだ。その行為を自白することが、何か裏があるのではないかと疑念を抱く。


 そしてそのバリアは自室に置いたことがなんだか背中に寒気を感じる。まるでその不法侵入者と同居しているかのように気味が悪い。


 そして変わり果てた自室に仕上げていたことだ。自室を使用不可にすることはいかに不愉快か。


 名前も知らない人が自室に入ったなんて。


 そう恐怖感は抱きつつも、やるべきことはそのメッセージを実行するしかないと思った私達はメッセージ通りに動くしかなかった。


 帰宅して目覚めた時と何ら変わりのない自室の扉のドアノブに手をかける。


 ふと疑問に浮かんだ。本当に何気ない疑問だ。


 いつ不法侵入したのだろうか。


 何気ない疑問だからすぐに頭から消え去った。


 扉を開くと何ら変わりのない変わり果てた部屋だ。


 この中にメッセージが言うバリアがあるらしい。


 どれを見ても壊れているただの無機物のように思われる。これが本当に必要な部品なのか何なのかわからない。私にはそれが解らない。


 それはそうと、一目見ただけだが、そんな機械があるというのは驚きだ。


 私達を通すためのバリア。万一のことがあってのバリアだが、万が一という言葉が引っ掛かる。


 私は家路へと帰った。



 *



 僕はもうバリアセキュリティ起動してあった。


 これもあの名無しの送り相手からだ。


「バリアセキュリティを起動してくれ」


「このことは羅奈に伝えるな」


「このメッセージを見たら削除してくれ」


 僕はこの時間を無駄には出来なかった。


 なぜ人がいないのか。


 そこが一番の疑問だ。


 今目の前で起きていることの真相は名無しの相手から聞いていたが、ずっと一番の疑問が解消できずにいる。


 僕が歩くと足音が反響する。今までにない静寂だ。


 あの真相が本当だとしたらこの静けさは生まれないだろう。


 なぜ人がいないのか。この疑問はなぜ人が起こす雑音が聞こえないのか。と捉え直してみる。


 それがゲームの性質だとしたら?


 突然目の前に現れたカバみたいな巨大のケモノが、何一つ音も立てなかった理由も説明が付く。これだ。人はいるけど、人の気配、人の音が聞こえないだけだ。


 これなら階段のところで人の視線を感じたのも頷ける。


 考察をしながら足音を立てて、何もすることがなく家に帰った。


 自分の部屋を片付けよう。


 散らかり放題にもほどがある。


 名無しの相手がなぜ散らかしたのか本意が見えないのだが、自分の部屋だ。


 家へと帰った僕は真っ先に部屋へと向かった。


 部屋を整理すると小学生のアルバムがあった。ただ壊れているパソコンの製品の中になぜアルバムがあるのか見当もつかないが、表紙には「小学校」と書かれていた。この小学校は僕の出身校だ。羅奈も同じ小学校である。


 昔のアルバムの表紙を久々に見ると中身が見たくなり、懐かしみたい欲求が沸き上がる。早速表紙を開く。


 懐かしい。


 まず校長先生と教頭先生が笑顔で映っている。校長先生は男性で黒縁の眼鏡をかけていて、かなりご年配な為、目尻の皴がとても深い。教頭先生も男性で実年齢より十歳若く見られるぐらい皴も疲れも見えない。


 二人の写真の下に校歌が書かれている。今では一小節も歌えなくなってしまったが菓子を見ただけで懐かしいと感じる。


 次のページには当時お世話になった先生が集まって笑顔で写真に映っている。


 ほかのページにも懐かしいと感じる顔がいっぱいあった。羅奈の幼かった顔もあったし羅奈は当時も白い肌だ。他にも修学旅行や林間学校など行事の写真もあった。


 僕達の学年では四クラスあったのも思い出した。六年生の時は二組だったこともアルバムから分かった。


 二組の出席番号一番、伊乃陽向人。僕の出席番号はほとんど三番か四番なのだがこの学年に限って一番になることができ、喜んでいたことも思い出した。


 見進めるとある人物に目が留まった。


 佐藤一師。今の高校での先生の名前が書かれていたのだ。同姓同名の可能性もあり、彼の写真を探すと、先生が幼い時に撮ったような顔があった。面影もある。同じクラスなのか。これに関しては全く記憶がない。他にも記憶がない人物がいた。佐藤一師をはじめとする四人だった。十師斜(とししゃ)、百師六(はくしろく)、千師燕(ちしつばめ)もその四人だった。


 見覚えがない。誰だろう。


 誰かは分からないが、今、その人たちを覚えた。



 *



 あった。私の部屋に置いてあるバリア装置は床の上に転がっていた。起動方法はあのメールに書いてあったが起動ボタンを押すだけだった。


 これでバリアになるのだろうか。


 スマホが振動した。


「バリア起動を確認した。ヨロズに向かってくれ」


 この名前がない送り相手はバリア装置が起動したことを確認できるのか。


 私は家を出た。


 やっぱり音がない。


 あまりにも静寂すぎる。人は本当にいないのだろうか。


 


 *



 見つけた。


 人だ。


 僕はアルバムを片付けて人がいないか家を出て探索していた。


 僕がいるこの場所はコンビニの中だ。人はレジの端っこの方に蹲っていた。まだ見つけたことに気が付いていない。他のコンビニは炎に包まれ近づくことができなかったり、瓦礫の山になっていたりして、原形をとどめていなかった。だがこのコンビニは都市部ではなく、俗に言う田舎のところに建っていた。そのためコンビニの横に森林が生い茂っていた。都市部の建物はほとんどコンビニと同じく瓦礫と化している。自動ドアが正常に作動しているコンビニを見つけたのが幸いだった。このコンビニは外装がまだきれいだった。蛍光灯は切れていたが窓から入る日光のおかげで充分に明るかった。商品棚もきちんと物が整列されていた。荒らされている形跡はない。


 人は音も立てず、気配を消していた。コンビニに入ったときは人の存在に気づかなかったが、人が息をするたびに動く背中が見えた時には安堵した。


 人は少し小柄だ。子供なのだろうか。話しかけようか迷っていた。この状況の真相を知っていた僕にとって、蹲っている人が「敵視する立場」にいることは分かっている。


 敵視してほしくない。ただ僕は分かり合いたいだけだ。


「どうしたの?」


 背中をびくっとさせて首を左にこちらへ向ける。


 目が合った。幼い女の子だ。女の子は赤い髪の毛のショートカットだ。頭の旋毛のところにアホ毛が立っていた。


「貴方は誰?」


 女の子は茶色い瞳を開き、僕を確認している。首を傾げ赤毛は重力で下に垂れていた。


「なんで私がここにいることが分かったの?偶然見つけたの?」


 女の子は質問を続けるが僕は何一つ答えることが出来なかった。女の子は不審に思ったのか蹲っていた体勢から立ち上がる。女の子の全身がはっきりと見えた。冬だというのに腕や足を曝け出している服だった。見るからに赤茶色い革の服だった。袖がなかった。下半身はスカートで膝が見え隠れしている。寒いのか疑問を持ったがすぐに忘れた。よく見ると右の二の腕を左手で庇っていて、指と指の間に赤い液体が見えた。血だ。服が赤茶色いのは、血が理由ではない。


「怪我をしているの?」


 二の腕から手を伝いながら赤い雫が垂れた。雫の先には血だまりがあった。大量に出血している。


「すぐに治療をしないと」


 僕は商品棚から包帯とペットボトルに入った水、念のため消毒液とガーゼを取り出し封を開ける。この際、精算していない商品を使うことは気にしなかった。


「こっちにきて」


 僕は女の子に言ったがあまり信用されていないようだ。


「傷つけることはしない。二の腕の傷を治すから」


 そう言うと女の子は狭いレジからこちら側に来てくれた。


「腕を伸ばして」


 女の子は座り右腕を伸ばした。また赤い雫が垂れた。出血が酷い。僕は女の子の隣にしゃがみ、ペットボトルキャップを開ける。


「何をするの?」


「傷口の洗浄だよ」


「センジョウ?」


「洗うことだよ。傷口に入ったいろんな殺菌を洗い流して血を止める。染みるかもしれないけど我慢してね」


 僕はペットボトルを傾け傷口に水を流す。女の子は少し震えたがすぐに止んだ。洗い流す。ガーゼの封を開け、それを傷口に被せる。ガーゼが血を吸収して赤く染まった。


 左の手の平が赤く染まっているのが見えた。濡れていた。


 二の腕に包帯をきつく巻き付ける。腕が細く巻き付けやすかった。僕は一息吐いた。女の子は息を上げた。


「良かった。ひとまずこれで安心だね。痛かったね」


 僕は肩を落とす。女の子は包帯に巻きつけられた腕を見ながら涙を流した。包帯は涙を吸った。


「ありがとう」


 息を交えながらも感謝を伝えてくれて嬉しかった。女の子は包帯を赤く染まった左手で撫でた。


「左手を洗ってきたらどう?あっちのトイレの横に洗面台があるから洗っておいで」


 僕は女の子の後ろ姿を見ながらため息を吐いた。なんで隠れているのだろう。


「ねえ」


 静寂のなか、女の子の声が聞こえた。


「これ、どうやって使うの?」


 僕がトイレの横の洗面台に行くと、女の子は突っ立っていた。


「どうしたの?」


「洗うって水が無いよ?」


 話を聞くと蛇口の使い方が分からないようだった。僕が蛇口をひねってあげると女の子は目を輝かせながらその光景に見入った。


「どうやって水を出したの?もしかして能力者?」


「いや違うよ」


 女の子の大袈裟な言葉に思わず微笑む。


「ここに入る時も扉が勝手に開いてびっくりした。あれ、すごいよね」


 女の子は水で左手を洗いながら自動ドアを指差した。自動ドアも知らなかったらしい。


「ここってからくり部屋なの?それとも能力者が住んでるのかな?」


 純粋な心を持っている。女の子は何も知らない。


 左手を洗い終わり僕たちはレジに腰を掛ける。普段はレジに腰を掛けることは滅多にないが、人がいないコンビニだからできることだ。


「どうして怪我をしたの?」


 女の子の傷を見ると擦ってできた傷だと推定される。


「林の中でケモノに襲われたの。そして逃げてきたの」


 コンビニ横の森林で傷を負ったらしい。逃げている際に擦れたという。


「家族はいないの?」


 女の子は一瞬言葉を詰まらせた。


「いない」


 少し気まずくなってしまった。女の子は一人で建物の中にいたから家族とはぐれてしまったのかと思った。家族がいないことは心の中に虚無感を感じるだろう。


「あなたの名前は?」女の子は首を傾げる。


「伊乃陽向人」


「イノヒムト?」アクセントをつけずに反復した。フルネームで呼ばれることは距離を感じてしまうから名前を呼んでもらおう。


「陽向人って呼んでよ」


「ヒムト?ヒムト!」


 最初に出会ったときの不信感は拭えたのか、女の子は無邪気に笑う。


「私の名前はアスカ」


 スマホが振動した。名前のない送り相手からだろう。振動の音を聞いてアスカはレジを乗り越え、身を隠す。


「ケモノが私達のところにいるのかな?」アスカはレジのテーブルから黒目を覗かせる


「ごめん。驚かせちゃったかな?」


 スマホを見せると、アスカは驚いた表情でスマホを見た。


「何その板!光るし、音が出るの⁉」


 アスカは無知だ。それがアスカのあどけなさを感じさせた。スマホの画面を見てみると、ヨロズに向かうように命令されたメッセージが書かれていた。そのメッセージの跡には「このメッセージを削除しろ」という常套句が入っていた。


「行かなくちゃいけないとこがあるからアスカ、バイバイ」


「待って」


 僕は足を止めた。


「また、会える?」


「会えるよ」


「すこしさびしい」


 アスカはレジに腰を掛け、脚を揺らしながら僕を見ていた。瞳の中では哀れんだ感情が見えた。


「じゃあ、約束をしよう」


 またアスカと会う約束。この世界で初めての友達。と言っていいのだろうか。


 アスカの前に小指を立て、指切りげんまんの手の形にした。すると、アスカは首を傾げ、突き出した僕の小指を手で覆い被せた。その柔らかな手は温もりを感じた。指切りげんまんも知らないみたいだ。


「小指と小指を重ねて、約束するんだよ」


 僕はアスカの小指を立たせて、僕の小指を巻き付ける。


「うそついたら はりせんぼんのーます ゆびきった」


 僕はそう歌うとアスカは微笑んでくれた。


「ここでまた会えることを信じてる」


 僕は笑顔を見ながら自動ドアの前に立ち、ヨロズに向かった。後ろで自動ドアが閉じる音が聞こえた。


 僕はアスカにもう一つ言いたいことがあることに気が付いた。


 もう一度自動ドアに立つ。


アスカがこちらを見ているのに気が付いた。


「アスカ、ケモノがここを襲ってきたら僕の約束なんか破って、ここから逃げる。アスカの命が消えたら元も子もないから」


「モトもコも?」アスカは首を傾げる。


 再度、コンビニから外に出る。メールの命令に従わなければいけない。


これから向かうヨロズには何があるのだろうか。


 送り主不明のメールには「万師定には気を付けて」と書かれていた。万師定はなにか真相のカギを握っているのだろうか。



 *



 スマホが振動した。それは陽向人からの電話の着信を知らせるものだった。スマホの画面には陽向人の名前と陽向人がこちらに笑顔で映っている写真が並べられていた。私はその電話に応答する緑の丸いマークに触れる。私はヨロズに向かっている道中だった。木枯らしが吹くたびに身体を縮こませながらも歩いていた。


「もしもし」


「あのさ、羅奈、これからヨロズに潜入するからどこかで待ち合わせをしないか」


「ヨロズの前でいいよ。待ち合わせすると面倒だし」


「そうだね。じゃあまた後で」


 電話を切った。


 ヨロズに向かう途中は変わり果てた世界を眺めながら歩いた。電柱も根元から崩壊して電線も電柱のせいで切れていた。電気による火花も散っていた。


 ヨロズのビルの住所に近づいていく。道脇の建物は高さが十分にあったのを覚えているが今は瓦礫と化しているため高さが失われている。道にも瓦礫が散らばっていてよそ見をすると躓いて足を挫く危険性もある。


 ビルの玄関には自動ドアがあった。自動ドアの向こうは蛍光灯に電気が点いていて明るかった。私は自動ドアの前に立った。本来ならセンサーが私を感知し扉が開くのだが、私が立っても扉が開く様子がない。


 扉が開かないのはおかしい。


 私はビルの横にあった駐車場の低いブロック塀に腰を掛ける。カーキ色のチノパンツが少し汚れることは頭の中で考えてなかった。


 五分後、陽向人が来た。


「とうとう、ヨロズに潜入するね」


今は送り主不明のメールの命令を聞くことしかやるべきことが見つからない。ただ変わり果てた世界の中でこのゲーム会社に潜入することは、何かしらのヒントがあるかもしれない。人がいない静寂な世界で、この会社は大きなカギを持っているに違いない。


この会社と変わり果てた世界。今思うと、何かしらの関係を持っているという確証はなかった。静寂の世界で私達は飢えているのだろう。


木枯らしは一向に止む様子はない。なにか不運なことでも起きるのだろうか雲は一層流れるのが速くなってきた。


スマホが振動した。


「ヨロズの中には十分注意をするように。危険信号を感じたら、すぐさま逃げるように」


 送り主不明のメールだ。この文面から分かるように私達に希望を望んでいることがひしひしと伝わってくる。


スマホが振動した。


「今から送られてくるメールは絶対に削除していけない」


 送り主不明の人からだ。


 今までとは違う。


「貴方達は人類の希望だ。貴方達が諦めてしまうことは人類にとって絶望を意味する」


「この言葉を胸に刻んでおくように」


「次からのメールは読んだら削除するように」


 このメール達を陽向人に見せた。


「僕達が人類の希望?今、いったい何が起きているのだろう?」


 人類の希望。その言葉には重みがある。


 手に持っていたスマホが振動した。


「今からヨロズのビルの自動ドアが開く。入る準備をしておくように」


 陽向人にこのメールを見せた。


「自動ドアが開かないのか?」


「そうなの。さっき自動ドアの前に立ってみたけど開かなかったの」


 私は自動ドアの前に立ってみる。


「ほらね」


「上を見てよ。センサーが起動していない」


 見てみるとセンサーの横を見ると起動を知らせるライトが光っていない。


「今から本当に開くのかな」


 陽向人に疑問をかけると陽向人は首を傾げた。


「開いた!」


 陽向人の声で自動ドアを見るとすでに開いていた。センサーのライトを見ると光っていなかった。


 手の中のスマホが振動した。


「あと約七秒で自動ドアが閉まる予定だ。早く中に入ってくれ」


 読み終わり削除する。


 陽向人に伝えると少し早い歩調で中に入った。


「約七秒って本当かな?」


 1…2…3…4…5…6…7…


 閉じた。約七秒どころか、きっかり七秒で閉まった。


 陽向人は閉じた自動ドアの前に立ってみる。


 開かなかった。


「まさか、閉じ込められた?」


「とにかく進まないと悪いみたいだね。羅奈、あれを見てみてよ」


 陽向人が顔を向いた方向と同じ方向に向いてみると


受付の後ろの壁に「ヨロズ」の会社のロゴらしきものが貼られていた。そしてその下に「DEATH ERASE MINE」と書かれていた。


手の中のスマホが振動した。


「今いるところから次のシャッターが約三十秒後に閉じる。その間に受付のカウンターの下からジェラルミンケースを探し出しシャッターの次の部屋に移動してくれ」


 読み終わり削除する。


「シャッター?」


 上に首を傾けシャッターが下りてきそうな場所を探す。


「階段のところだ」


 陽向人は指をさしている。見るとエレベーターの横に階段へ続くところにシャッターが見えていた。少しシャッターが下がっているが人が通るには十二分に開いている。


 受付を見てみる。


「ジェラルミンケースを見つけないといけないんだろ?」


 陽向人が受付のカウンターに手を置き、体を持ち上げ、乗り越えると私からは見えないカウンターの後ろを見回す。


「あった」


 陽向人は屈み、再度立つとカウンターの上にジェラルミンケースを一つ置いた。


「シャッターが閉じる前に行こうぜ」


 陽向人は乗り越えるためにカウンターに手を置いた。


 突然サイレンが鳴り響いた。


 シャッターが閉じるであろう階段前のシャッターを見ると金属音を上げながら閉じていくのが見えた。


「羅奈、走るよ」


 陽向人はカウンターを乗り越え動いているシャッターへと駆け抜ける。私も後に続き駆け抜ける。


 だが私とシャッターの距離が二十メートルしかないが、シャッターの下の間隔は私の身長しか開いていない。


 陽向人が持っていたジェラルミンケースを地面にしてシャッターの下へと滑り込んだ。どうやら私も同じ行動をしなければ玄関に閉じ込められるようだ。シャッターは下がり続け五十センチしか開いていない。


 体を斜めにする。


 体を地面へと付ける。


目を瞑る。シャッターが下がる音が近くに聞こえる。


「危ない!」


 足に陽向人の手の感触が伝わる。


 目を開ける。


「ふー。間一髪」


 シャッターを見てみると完全に閉ざされていた。


陽向人の手の感触が消え、立ち上がる。


シャッターを持ち上げようとしたがびくともしない。


「また次の指示が来るかもね」


 手の中のスマホが振動した。


「階段を上がり最上階に着け。最上階は十階にある。タイムリミットは二分五十三秒。」


 陽向人に見せメールを削除する。


「二分五十三秒?また細かい数字だな。だけど階段を上るしかないな」


 陽向人はジェラルミンケースを手に提げながら駆け上がる。


「ちょっと待ってよ~」


 私も駆け上がるが最上階には一体何があるのだろうか。


 ひたすら私達は駆け上がった。疲れ切った重い身体を何とか上へ上へと運ぶ。


 私達が二階に着くと同時に二階のシャッターが閉じ始めるのが見えた。ふと走るのをやめる。


「これって順番に下の階からシャッターが下りてくるのかな」


 私はそう陽向人に問いかける。


「そうだろうな。さっさと十階に上がるぞ」


 二階部分からサイレンが鳴り始めた。シャッターが閉じる合図なのだろう。私はまた三階へと駆け上がる。


 三階に辿り着くと同時にサイレンが鳴り響き三階のシャッターが閉じ始める。二階のサイレンは鳴り続けている。


 無心に階段を上り続けたが、八階へと辿り着いた時に九階のシャッターが閉じ始めるサイレンが鳴り響いていた。階段を上るペースが下がっていた。陽向人も同じくペースが下がっていることに気付いているらしく、何回か「急ぐぞ」と声をかけてもらっていた。


 だが九階に到着する前に最上階のサイレンが鳴り響いてしまった。


 私は一段飛ばしで駆け上がる。


「羅奈、急ぐぞ!」


 サイレンが鳴り響く中、一段でも速く上がろうと足を動かす。


 だがシャッターは待ってくれない。


「急げ!」


 陽向人は十階に到着しシャッターの先へと行った。


 シャッターが見えた。あと九十センチで閉まる。あと十三段。


 


 *



 シャッターが閉じた。


 羅奈は閉じ込められてしまった。


「羅奈!」


 金属の壁で隔てられた向こう側に羅奈がいる。


 ポケットの中のスマホが振動した。


 今までは羅奈のスマホで命令を見ていたが、これまでの命令は僕のスマホにも送られていたようだ。遂行した命令を削除する。そして新しく受信したメールを開く。


「その階からもう一つのジェラルミンケースを見つけ出してくれ。タイムリミットは危険信号を感じたら潜入終了だ」


 送り主は羅奈が階段の場所に閉じ込められたことを知らないのだろうか。いつものような同じ口調のメールだ。今こそ羅奈に何が起きるか分からないため潜入をやめた方がいいのではないだろうか。


 ただ潜入しているから何があるかわからない。ふとある言葉が思い浮かんだ。


「貴方達は人類の希望だ。貴方達が諦めてしまうことは人類にとって絶望を意味する」


 そうか。


「諦めること」は人類にとって絶望を意味するのならば、「諦めないこと」は人類にとって希望を意味するのだ。


 ここで諦めたら絶望を意味するのだ。


 今は命令に従い続けるしかない。


 メールの内容を理解し、削除する。スマホは上着の左側のポケットの中に入れた。ジェラルミンケースをもう一つ探す。僕の手に持っているジェラルミンケースに何が入っているのかわからないのだ。


 十階を上がると廊下が伸びていて、左側に二つの金属のドアがあり、右側に一つの木製のドアがあった。それぞれも閉まっていた。


 まず手前の金属のドアから開いて、ジェラルミンケースを探そう。


 ドアノブをひねり、押す。


 そこにはとても広い部屋の中に金属製のデスクが大量に整列されており、背もたれ椅子があった。机上にはデスクトップパソコンが起動したままデスクに各一つずつ置かれている。ヨロズの社員の仕事場なのだろうか。蛍光灯が点いていないため外から差す日を頼りにジェラルミンケースを探索する。


 ここに数多の社員がいたのか。


 試しに扉から近かったパソコンのマウスを操作した。すると画面上に矢印のカーソルが横切った。


 大量のデスクトップパソコンの画面を一つずつ見てみるとそれぞれ違ったものを表示されていた。中にはデス・イレイズ・マインのスタート画面を表示されていたものもあったし何やら地図が表示されているものもあった。


 一つずつパソコンの画面を見ていきたかったが指令を思い出し、椅子を動かしながら机の下のスペースにジェラルミンケースがないか確認していった。


 だが大量に机があったため断念した。まだ確認していない部屋が二つある。その部屋にジェラルミンケースが見当たらなかったら再度こちらの部屋に戻ろう。


 ドアノブに右手をかけた。


 上着のポケットが振動した。


 ドアノブにかけた手とは反対の手で取りだす。


 スマホの画面にはメールが一件入っていた。


 稔内峡からだ。だが今はヨロズに潜入しているためメールを読むのは後にした。スマホをまた左のポケットに戻した。


 ドアを開けて廊下に戻る。次はもう一つの金属製の扉に入ろうと考えた。


 シャッターの向こうから声がした。羅奈だ。だが耳を澄ませても単語すら聞き取れない。シャッター越しに聞こえるということは大声で叫んでいるのだろうか。



 *



 さあニンゲンはどうするのだろうか?


 檻の格子の隙間から見えるモニターはヨロズの社内を映し出していた。


 閉じ込められたニンゲンが一匹と何かを探しているニンゲンが一匹。閉じ込められているニンゲンは階段に座り込み、肩が少し震えているようだ。涙を流しながら叫んでいる。蛍光灯の光がやけに明るくニンゲンを照らしている。


「一体、どうなってるの!」


 俺は口元を見ながら読唇する。ニンゲンは握り拳を壁にぶつけた。


「みんな、どこにいるの!」


 ああ。理解した。


 このニンゲンはいま置かれている状況を理解していないようだ。


 もう一匹のニンゲンは落ち着きを感じられる。こいつは状況を理解しているのか。ならばこいつとの会話はスムーズに執り行えるだろう。


 決めた。


 こいつ達を見届けよう。


 よし。そうと決めたら男にこいつ達を紹介しよう。


 万が一、今までにこいつ達と遭遇していたとしたら奇跡だと言って歓迎しよう。


 叫んでいたニンゲンは両手で顔を隠している。叫び疲れたのだろう。ニンゲンは面白い。だから服従はやめられねぇんだよ。



 *



私は確かに夏の暑い日このビルが無いことを目にしたはずだが、今はデス・イレイズ・マインの会社のビルの中で泣いている。色々なことが頭の中で混乱している。夏の日から光に包まれてからは冬の寒い日となった。そして目覚めると変わり果てた自分の部屋と変わり果てた日常の風景が広がっていた。


少しだけ気が弱くなったかもしれない。


見慣れない景色で気が動転していた。


聴力を失ったかと錯覚させるような静けさが耳の周りにいつも漂っている。謎の光に包まれてからこの世界は変わってしまった。


だから、光に包まれても何一つ変わらない陽向人が私の心を落ち着かせると思う。


陽向人はシャッターの向こうで二つ目のジェラルミンケースを探しているのだろう。シャッターで隔てられて少し時間が経ったころにメールが来た。


「その階からもう一つのジェラルミンケースを見つけ出してくれ。タイムリミットは危険信号を感じたら潜入終了だ」


一階でシャッターが閉じられようとしたとき、滑り込んで脚に擦り傷ができてしまった。それが原因で階段を上るスピードが遅くなって二分五十三秒のタイムリミットでは十階に到達することが出来なかっただろう。


 今、ジェラルミンケースを見つけ出せたかな?


 陽向人、大丈夫かな?


 レストランで「伊乃陽向人」と名乗った人は誰だろう?





羅奈の声が聞こえなくなった。でもシャッターの向こうにはまだ羅奈がいる。僕はジェラルミンケースを見つけ出すだけだ。


僕は金属製のドアの前に立った。扉をよく見るとさっき入った部屋の扉の色と比べて若干だが黒ずんでいた。ドアノブを掴み、捻る。押し戸のため体を前に押し出した。


そこにはベッドとテーブル、チェストがありどれも本体が白く少し黒ずんでいた。この部屋の広さは1Kのマンションの一室ぐらいで、誰かが住んでいるような生活感があった。テーブルの上にはカップラーメンを食べた跡や空のペットボトルが無造作に存在している。ベッドには人型の皴がよった白く少し黒ずんだシーツがあった。シーツの皴を伸ばしてみようと撫でてみた。


「温かい…」


 シーツは人肌の温度のぬくもりが残っていた。さっきまで人間が寝ていたみたいだ。台所もあり冷蔵庫も電子レンジもケトルもある。一つの会社の中に人間が住めるスペースがあることは不思議であった。一応、もう一つのジェラルミンケースを探しては見たものの、見当たらなかった。ジェラルミンケースは持ったままだ。


 部屋を出る。あとは木製の扉の先にある部屋を探すだけだ。廊下を少しの距離を歩き、木製の扉の前に立つ。最上階の部屋は個人的に社長室があるイメージがある。僕はこの木製の扉の部屋は社長室だと推測する。この扉は引き戸のようだ。ドアノブを掴み引く。


 推測の通りだった。部屋に入ると正面に社長の名前「万師定」と書いてあるプレートが机の上にある。その奥に背もたれがある椅子がある。人が隠れるほど背もたれが大きく手前にある状態であるため座る部分が見えない。蛍光灯が点いている。


「おや、来客か」


 背もたれ椅子が回り、人が現れた。男であった。


「だれだ?」


 僕は男に質問する。


「分からないのかい?ここに書いてあるじゃないか」


 男は低い声を出しながら社長の名前が書かれているプレートを指差す。


「私の名前は万師定だ」


 万は視線を僕の目にずっと向けて来る。その仕草はぼくに圧力をかけているようだ。入ったまま扉から立ち尽くしている。


「玄関から入ってきたのは二人だったはずだが、今は君一人だけかい?」


 万は僕達が入ってきたことを知っている。二人で潜入してきたことも知っている。


「もう一人は体力がないから、階段で閉じ込められているのかな?」


 完全に監視している。


「お前達の目的は二つのジェラルミンケースを入手することなのか?」


 命令も完璧に読まれている。


 僕は万の視線での圧力、僕達の目的を正確に言い当てる言葉の圧力で圧倒されたまま立ち尽くすしかなかった。


「そうずっと立ち尽くすことはないじゃないか」


 僕の思考も読まれている。


「私はわざと最上階へとお前たちが来るのを待っていた」


「なんだって?」


「君に問いたい。DEATH ERASE MINEの真相は知っているのか否か」


 DEATH ERASE MINEの真相?まだ羅奈に言えていない真実のことか。


「ああ。知っているよ」


 万のプレッシャーで震えながら声を捻り出した。


「ならば、ニンゲンが見当たらない真相を知っているのか?」


 この質問の答えはNOだ。だが段々と心拍数は上がっている。


「い、いや、知らない」


「そうか。お前でも知らないのか」


 さっきまでは僕のことを君と呼んだが、お前に変化した。万は机の下にある何かを机の上に置く。


 それは探し求めていたジェラルミンケースだ。だが個数は一つではなく二つだった。一方は取手の内側が白く、もう一方は取手の内側が黒い。その他は同じ大きさ、同じ材質のジェラルミンケースが並べられていた。


「お前が持っているジェラルミンケースは私達ヨロズにとって大切なものなのだよ。だからこそ今からディール(取引)をしようではないか」


 取引内容は僕が持っている一つのジェラルミンケースと万が差し出した二つのジェラルミンケースだ。ここで僕は了承すると送り主不明からの命令の内容にはちゃんと従っている。


「さあ、お前が持っているジェラルミンケースを渡しなさい」


 万はまたもや机のしたにある物を机の上に置く。


 そのものは小型モニターだった。


 モニターに映っていたのは僕が見たことのある場所だ。いやさっきまで駆け上がっていった場所と言った方が正しいか。


「お前と一緒に来たこの女が捕らわれている」


 モニターに映っていたのは階段に蹲っている羅奈だ。


「そのジェラルミンケースを渡さなければお前も女もこの会社からは逃げられない」


 卑怯だ。取引だと言って行おうとしているのは脅迫だ。


 このジェラルミンケースには何かがある。それほど大事なものが入っていると万は言っていた。送り主不明からも僕達に受付カウンターにある物をわざわざ探し出させるほど子のジェラルミンケースには価値がある。


 スマホが振動した。


 これが危険信号なのだろうか。


「メールが届いたようだ。命令には従った方がいい」


 万は僕にメールの内容を確認するよう仕向けた。


 僕は左側のポケットから震える手を入れ、四角い無機物を取り出す。


 命令の内容をすぐに確認し、すぐに理解した。普通通りに命令を削除する。


「どうだ?命令の内容は「諦めろ」とかネガティブな感情があるのだろう?」


 いや違う。そんな文字数の少ない命令ではなかった。もっと何十倍の文字数であった。僕は記憶することが苦手だが僕が諦めてしまっては人類が絶望する。命令をちゃんとこなせるか不安は残るが、やるしかない。


「黙っていてどうする?「黙っていろ」が命令だったのか?」


 いや違う。黙っているのは理由がある。


 命令に「待っていてくれ」という言葉があったからだ。


 だが、さっきのメールにいつまで待っていれば良いのか詳細は書かれていなかった。


「もしくは時間稼ぎをしろという命令が書かれていたからか?」


 ほぼ同じ意義の命令だ。


「もし時間稼ぎが狙いで黙っているとしたらただじゃおかないぜ」


 万は椅子から起き上がった。万は赤のローブのようなものを身に纏い、背には黒いマントが付いていた。それだけではない。


 僕から向かって左側の腰の横にはホルダーがある。そのホルダーには何が入っているのか、僕が立っている場所では机が邪魔で見ることが出来なかった。


 立ち上がった万は立ち尽くす僕に向かって机を乗り越え、腰のホルダーに手をかける。


 万の威圧はとても敵うことは出来なかった。万が走ってくるのを見ているしかなかった。


 万は腰のホルダーから引き抜く。


 一瞬だけだが万が握ったものは黒かった。


 万は引き抜いたものを顔の横に持っていく。


 僕がそう思考している間にも万は近付いてくる。


 僕の顔の横で鈍い音が響いた。


僕と万との顔の距離がお互いの呼吸が聞こえるまでに狭まった。


「はやく、そのケースを渡せよ」


 万が耳元で囁いた。鈍い音と反対の方からだ。


 僕は鈍い音がした方へと顔を向ける。


 そこにはナイフが後ろの木製の扉に突き刺さっている。ナイフは刃渡りが小ぶりで、万の指と指の隙間から黒い持ち手が見えた。万の握っている拳は震えている。


「今、そのケースを渡さなかったらこのナイフを引き抜いて、お前の顔に突き刺す。その覚悟はできている。いいな?」


 僕の心臓が拍動しているのが意識せずとも聞こえてくる。


 小型ナイフの刃は少し黒ずんだ赤色の汚れがこびり付いている。これはニンゲンの血なのだろうか。僕は殺されるのか。


「俺はいつでもお前を殺せる」


 万の黒目が赤く鮮やかに煌めいた。


 赤い目は僕を見つめている。まるで餌を見つけたケモノのようだった。


 万の目には僕が敵だという認識なのだろう。


 小型ナイフが木製のドアから引き抜く音がミシミシと響いている。


「ぼくは、ぼくは、諦めない」


 赤く染まった小型ナイフの尖った先端が見えた。引き抜いたのだろう。先端が僕の目に襲い掛かる。


 僕は万の腹を蹴り上げた。万は蹴り上げた反動で後ずさりする。


「万に負けはしない」


 僕の呼吸は浅いが続いている。


「なんだ。お前には戦う意志が少しはあるじゃねーか。このまま命を絶つことなんて容易だというのに」


 万がまた小型ナイフを僕に降りかかる。


「僕が諦めてしまうことは羅奈が許さない」


 小型ナイフから体を斜めにして避ける。ナイフは木製のシェルフの横に突き刺さる。僕はジェラルミンケースを握り空いている左手を机の上に動かす。机に並べられている一個のジェラルミンケースを掴む。


「卑怯だぞ!」


「脅してジェラルミンケースを奪おうとしていた万が何を言っている?」


 万は突き刺さったナイフを引き抜く。


「ただし、この部屋から出ないとそのジェラルミンケースを外に持ち出せない。受付に会ったジェラルミンケースを床に置いてディールをしなければお前の命はない。お前の連れもディールをすれば命の保障をしてやろう」


 今、万は木製の扉の前にいる。部屋の中央に僕がいる。両手に持っているジェラルミンケースはとても重い。万の片手は小型ナイフで僕に向けている。機敏さでは、万が勝っている。蛍光灯はこんな緊迫した時でも僕を照らしている。


 そうだ。この社長室から出て、逃げ場を十階全体に広げよう。そうすれば命令の通り死なずに待つことが出来る。


「さあジェラルミンケースを二つとも置くんだ」


 よし。


 僕は机を乗り越える。


「どうした?悪足掻きしたって何も起こらない。時間稼ぎもいい加減にしたらどうだ?」


 万は僕にナイフを突き付けながら部屋の中央へと移動した。


 スマホが振動した。


こんな時になんで命令なんて来るのか。ただ万には聞こえなかったらしい。


「今だ」


 僕は机に足をかけ、机の上に立つ。


 万の肩に足を乗せて、万を飛び越える。


 木製の扉が目の前にある。ドアノブに手をかけ捻る。


 扉が開いた。


 と言えたらよかったのだが扉はびくともしなかった。


「もしかして、社長室から逃げ出して社員の作業室で時間稼ぎをしようとしたのか?」


 完全に思考を読まれている。


「すべての扉はコンピュータープログラムで開閉を制御することが出来る。今は階段に通ずるシャッターもここの社長室の木製の扉も閉じるように制御している。ジェラルミンケースを渡してくれたらお前の命は保証してやる」


「なんだって?」僕は呟いた。


 万の会社であるヨロズの構造なんて分からない。


「お前たちは俺の檻から逃げられないんだよ」


 また意識せずとも心臓が拍動している音が聞こえる。呼吸が浅くなっている。予想外だ。頭が白くなっている。今までの疲労が体中から出てくる。扉にもたれかかる僕の身体を僕は制御することは出来ない。瞼が閉じられていく。


「さあ。お前が出来る時間稼ぎはこれまでか。ならばここがお前の墓場だ」


 小型ナイフが僕の身体に突き刺さるのを覚悟した。


 スマホが振動した。


 さらに体が軽くなった気がした。


 僕の身体が床に落ちる感触が伝わる。


「なんでだ?」


 万の声が聞こえる。この声は威圧をかけるような低い声ではない。疑問を持った声だ。僕は重い瞼を開ける。


 すると、そこは薄暗い廊下だった。天井を見ると蛍光灯の電気は消されている。


「なんで扉が開いたんだ?」


 万は疑問を呟く。


 左側から音がする。そこを見やると、シャッターが開く様子が見れた。階段が開いたのだ。これでやっと命令に従えた。


 命令は稔内峡からだった。


「伊乃陽向人、今は万の中にいるのか?ならば今から出す命令に従ってほしい。


 命令は三つ。


一つ、身の安全を確保しておいて、待っていてくれ。


 二つ、社内の照明が消えたら、自由に動けるだろう。


 三つ、真海羅奈と合流して会社から脱出をするんだ。


 健闘を祈る。」


 命令の二つは遂行した。あとは羅奈と合流して会社から脱出するだけだ。


 僕の両手には各一個ずつジェラルミンケースが握られている。送り主不明からの命令も遂行できている。


 シャッターが開き切る。十階から一階へと逃げる。ここからでは羅奈が見えていない。


 階段へと走る。階段のところも蛍光灯の電気が消えている。


「羅奈!一階へと降りて逃げるぞ!」


「陽向人?その声は陽向人なの?」


「速く一階へと逃げるぞ!」


「分かった!」


 僕は後ろを見ると万が小型ナイフを握ってこちらに向かって追っている。


「ジェラルミンケースを返せ!」


 どんどんと万と僕との距離が縮まるが僕は階段を降りる。


 一段一段確実に下っている。


 下っている羅奈の姿が見えた。少し足を引きづっている。上には万の姿が見える。


 今は九階から八階へと下る階段にいる。


 羅奈に追いついた。


「速くしないと万の社長にナイフで殺されるぞ!」


 羅奈は頷きながら足を運ばせる。


 気が付いたら階段も残り数段となっていた。


 一階のスペースに辿り着いた。


「玄関の自動ドアが開いている!」


 羅奈の声が聞こえ、ラストスパートをかける。


 玄関の自動ドアを通り外へ出る。


 後ろを見るとまだ万が追いかけてくるのが見えた。会社の壁に、来た時には無かった穴があった。剣を突き刺したような穴だったが今は万から逃走しないといけない。


「羅奈、僕に付いてこい!」


 会社の脱出は出来たが、万の追跡から免れる所へと走らないといけない。



 *


 


 見事、二人のニンゲンはDEATH ERASE MINEの会社から逃げ出せたようだ。ニンゲンを閉じ込めた奴が見てみたい。


 俺は他のモニターに目をやる。すると赤黒く染まっている小型ナイフを持った奴が見えた。奴はカメラの角度が悪く顔が見えない。


「刃が赤黒い、ニンゲンを殺したのか?」


 モニターからでは判断できる範囲が限られている。カメラに映っているものは解析したら何もかも分かるのだが、なんせ檻からは出られない。


 奴が動いた。顔が見えた。


 どこかで見た記憶がある。その記憶から思い出す奴のこと。奴は最後の…


 この部屋の扉が開いた。男が帰ってきた。


「おかえり」俺は声をかけた。


「あのニンゲンが死んだとき、ボディーはどうなった?」男は俺に質問をする。


「小さいニンゲンのこと?なら跡形もなく死んだよ。これで仮説は立証されたね」俺は事実を男に伝えた。


「DEATH ERASE MINE」ニンゲンはそう呼んでいるらしい。男から教えてもらった。


「なあ。なんで俺は檻に入っているのか?」俺はいつも思っている疑問を問いかけた。


「そのうち分かるだろう」男は言い、モニターに目をやった。モニターはまだニンゲンを閉じ込めた奴が映っている。


「奴は誰だ?」男は呟く。


 俺は奴に名付けた名前を今でも鮮明に覚えている。俺の人生を狂わされた張本人。


 あいつは数少ない裏切り者だから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る