第2章 その夏

「暑い!羅奈(らな)、やけどしそうなぐらい暑いから早く帰ろう?」


 高校の月曜日の放課後、また新しい週になり少しながら憂鬱を感じつつ、白い校舎が日差しを跳ね返し、僕、伊乃陽向人(いのひむと)は中庭がセミで煩く、サウナみたいな温度になっている中、校舎の壁に設置されている木目のベンチに座っていながら本を読んでいる黒髪のロングヘアーの真海羅奈(しんかいらな)をファミレスに一緒に行こうと約束していて羅奈を見下ろす姿勢で待っている。傍から見れば羅奈は色白で校舎と肌の区別がつかないほどきれいな白を身に纏っている。いつもこのように羅奈は僕のことを待たせる。高校一年生十六歳なのだがこの待ち時間だけで僕の何年分かの時間は奪っている。


お互い部活に励むことはなく、帰宅を楽しむ帰宅部に所属している。朝から高校に行き、先生の呪文のように聞こえる声を聴いて、家に帰ってゲームをする生活を送っている。ゲームの時間以外は睡魔と戦っているが。


 今、羅奈は絶賛読書中だ。羅奈は僕の言葉を聞いているはずなのに取り合ってくれないのでさらに言葉を紡ぐ。


「暑い中、ここで本を読まなくてもひんやりと涼しいファミレスで読んでもいいじゃんか。」


 暑い外から早く解放されたいのが本望だが、ベンチで本を読むのも悪くはないと思った。しかしさすがに暑すぎる。羅奈はどんな皮膚感覚を持っているのか。


「そんなに暑いなら先に行ってよ。この本は学校の図書館から借りて、今日まで読んで返さないといけないの」羅奈は僕を見上げる。


「それじゃあファミレスで読み終わったら図書館に返しに行こうよ」


「学校に引き返して図書館に返すのって面倒じゃない?学校で読み終わってから図書館に返してからファミレスに行くほうが良くない?」羅奈は首を傾げる。


「それじゃあどれくらいで読み終わるの?そんなに時間かからないでしょ」


 羅奈が持っている本を見ると終わりのページまであと少しだったからだ。


「読み終わった」


「はあ?全部読み終わっていないだろう?」


「子供の頃読んだもん」


「わかった。それじゃあ返して来い」


「はーい」


 羅奈は軽やかなステップで紺色のスカートと長い髪を揺らしながら図書館がある方向へ走っていった。


 僕は羅奈を待つべく、羅奈が座っていたベンチに腰を掛けた。


 体感は猛暑日だろうと思っているが真夏日でも夏日でも、僕は夏が猛暑日しかない季節だと思う。暑すぎる。外にいるだけで頭がクラクラする。僕は暑さに負け、眠りについた。



「お待たせ~」


 僕はその一言で痛い頭をこめかみに手を当て支えながら起き上がった。僕はどれだけ暑さに弱いのだろう。


「まさか寝てた?まだ眠っておく?」


 羅奈は右の口元に笑窪を作りながら訊いてきた。その癖はからかってやる心がある証拠だと分かった。羅奈とは長い付き合いだ。そんなのお見通しだ。


「ばーか。僕が暑いのが苦手だってこと知ってるだろ?」


「本当に陽向人は暑いのが嫌いなんだ。昔から変わらないね」


「用事が済んだろ?ふぁみれしに行こう」


「ふぁみれし?なにそれ」


 また羅奈の右の口元に笑窪を作らせた。羅奈にとって人の言い間違いもからかう対象なのだ。


「呂律が回らないだけだ。心配するな」


「わかった。ふぁみれしに行こう」


「まだからかう気か?」


「やめて欲しい?」


「もういいや。ふぁみれしに行こう。」


「もう、ふぁみれしを認めた~」


 こんな不毛な話をし続けるのが長い付き合いをしている証拠だ。


 


羅奈は幼稚園からの知り合い。俗にいう幼馴染だが僕たちは本当の幼馴染ではなかった。


僕は幼かった頃羅奈には馴染めていなかった。羅奈は十月から幼稚園に転入してきた。どうも前の幼稚園にあまり友達の輪に入れなかったらしく、新たな環境ならば友達が多くできるのではないか。という理由で転入してきた。と僕の叔父から聞いた。叔父は僕の唯一の信じられる家族だ。僕は一人っ子で、一言でいえば複雑な家庭だった。


父親から話しておくと、僕が生後一か月で行方不明になった。その後母親は僕が二歳の頃に父親がいなくなったストレスで飛び降り自殺し死亡した。その頃、僕は叔父のもとへと引き取られた。そして父親の生死が判らないまま七年が過ぎ法律上の死亡判定が下った。祖父母は僕が一歳の頃に父方の祖母が癌の治療にあたって入院していたが亡くなってしまった。その他の祖父母はとっくに死んでいた。


 ただ叔父だけが僕の心の拠り所だった。


 そんな僕と羅奈の仲良くなった理由はひょんなことだった。



 十一月。秋が深まり鈴虫がリンリンと鳴いていて紅葉が道に敷き詰められていた。


 叔父と手を握りながら幼稚園に向かっていた。


「またね。おじちゃん」


 幼稚園の園門の前で叔父の手を離した。叔父はサラリーマンで黒いスーツを身に着けていた。


「叔父ちゃんね、今日はお迎えに行けられないから、一人で気を付けて帰るんだぞ。」


「わかったよ」


 僕は園の中に全速力で走った。幼稚園などの年頃は移動手段が走りなのだ。



 幼稚園の名前はふたば幼稚園。市立の幼稚園で周りの住人たちにとって子供の声が聞こえるだだっ広い敷地だ。遊具などブランコやジャングルジム、滑り台など子供が好きな遊具が揃っている。


 僕は靴を自分の名前が書かれた靴箱のなかに入れ、幼稚園に来る時のルーティンである背伸びをして窓から部屋の中を見ると、ひとりいないことが分かった。真海羅奈だ。


「今日は羅奈ちゃんがお休みだって」


 声の方向に目を向けると幼稚園の先生がいた。


「羅奈ちゃんはお熱が出て、眠っているんだって」


 羅奈はあまり話したことがなかったから、どうでもいいなと感じた。


「さ、部屋の中に入ってお遊びしましょう」


「はーい」


 先生は僕の小さな背中を押して一緒に園児のいる部屋の中に入った。僕は先生とお話をすることがなんとなく苦手だった。


「おはよう!みんな!」


 先生は園児全員に聞こえるように大声であいさつをした。その大声は先生の近くにいる園児にはうるさく聞こえていたらしい。これは僕が小学生の同級生が悪口を言っていたのを小耳に挟んだ。僕にとっては騒音だとは思わなかったが元気な先生だなと思った。


 その日はとにかく全速力で遊んだ。ブランコとか追いかけっことか、いっぱい楽しんだ。


 楽しい時間はあっという間に過ぎた。もう帰る時間になった。


「羅奈ちゃんがいなかったけど、明日は羅奈ちゃんとおもいきり遊びましょう!」


「はーい!」


 園児の声が部屋に響き渡った。僕も声を張り上げた。


「じゃあ、お別れの挨拶をしますよ。」


「やだ!まだ帰りたくない!」「遊んでいたい!」


 そのような園児の声は毎日の恒例行事だ。


「また明日ね。」


 ばいばい、さよなら、じゃんけんぽい。


 このふたば幼稚園ではお馴染みのお別れの挨拶だ。じゃんけんポイで先生と一日一回のジャンケンだ。


 今日は先生がグーで、僕がパーだった。


 勝った。


 僕はその喜びのおかげがあり、全速力で外に向かった。


 一人ぼっちの悲しさなんて感じなかった。


 家に帰る道中、変なものを見た。


 そこは幼稚園から数分歩くと見えてくる十字路の近くだ。十字路を直進すると家へと辿り着くのだが、興味本位で右へと曲がった。すると道路脇の灰色の壁の真ん中に虹色の光を放つ穴があった。その穴は今まで見たことがないきれいさを放っていた。壁の後ろは駐車場だった。人気のない静かな道だ。反対方向から男が歩いてくる。男は大きな麻袋を肩にかけている。その麻袋に違和を感じた。僕は思わず電柱に身を隠した。


 その男は挙動不審で目をあちこちと配らせていた。麻袋が蠢いているのだ。


「ふくろのなかになにかいるの?」


 小声でふと独り言を言った。男は声がした方に目を向けた。つまり僕の方に目を向けた。


 僕は恐怖感を覚え、園児である小さな肺からの空気が押し出され、胸苦しくなった。


「そこに誰かいるのか?」


 僕はぎゅっと目をつぶり男が来ないように願うしかなかった。


 神様、仏様、だれでもいいからどうにか男が来ないように。


 幼い僕はこの言葉が脳に駆け巡った。


 目をつぶりながら、全速力で走った今までの疲れが頭に乗っかった。幼少期の体力はとても少なかったのだな。と今は暢気に考えることができるが、恐怖心と疲れとの闘いは意外にも短期決戦だった。


 どうやら疲れに軍配が上がったようだ。眠ってしまった。お空もオレンジ色に染まり始めていた。


 はっと、僕は電柱の陰から出て男の様子を見ると、男も、蠢く麻袋も、虹色に輝く穴も、跡形もなく、消えていた。


「きれいだったな」


 灰色の壁をじっと見ながら謎の虹色の穴の感想をぼそっと呟いた。そして帰り道で眠ってしまったことを思い出し、いつもの全速力で家のある方向へ走っていった。


 後で感じたことなのだが、麻袋を持った男は以前どこかで会ったことがある風貌だった。


「ただいま」


 二時間後、叔父の声が聞こえたので、全速力で玄関に駆けた。


「陽向人、よく一人で帰って来れたな。よしよし」


 叔父は小さい頭を鷲掴みにして左右に揺さぶった。


「今日は大人しくしていたか」


「うん!」


「そうか良かったな。よし、夕ご飯を食べるか」


「うん!」


 夕ご飯が待ちきれなく、いつも食卓のテーブルでご飯を待つ。


「今日は陽向人が大好きなカレーライスだ」


「やったー!」


 僕は小さな手足をバタバタさせながら食卓にカレーライスを乗せた皿が並べられるのを待つ。


「陽向人、幼稚園の先生からお電話がきているぞ。陽向人に代わりたいって。」


 叔父がガラケーを差し出しながら幼い僕に言った。その頃僕はカレーライスを食べ終え、アニメを見ていた。珍しいなと思った。滅多に幼稚園の先生から電話が来ることはなかった。


僕は叔父のガラケーを受け取り耳に当てた。


「陽向人くん?」


 先生は急いでいる口調で電話の相手が僕であるかを確認した。アニメを見たい一心でその時は気にも留めなかった。


「なに?せんせい」


 舌足らずの言葉で返事をする。


「羅奈ちゃん、陽向人くんの家にいる?」


「なんで?いないよ?」


 今、僕の家にいるのは僕と叔父だけだった。羅奈は家の中にいない。ましてや羅奈を僕の家に上がったことはない。


「あのね、羅奈ちゃんがいなくなっちゃったの。」


 僕は驚きが声に出来ないほど、びっくりした。


 まさか帰り道に見かけた男が持っていた蠢く麻袋に羅奈ちゃんが入っているのではないか。という仮説を立てた。よくドラマで麻袋を子供のような弱い人を被せて連れ去るシチュエーションをよく見るが、本当に現実で起こると分からなかった。


「どうしたの?何か思い当たることがあるの?」


 図星だ。まさに今思考している段階なのだ。


「あのね、せんせい。ぼく、みたんだけど…」


 幼稚園児の僕が十字路の右曲がり角の出来事を見たまま感じたままを丸ごとを先生に話した。勿論、虹色の穴のことも話した。現実では起き得ないことだが幼い子供にとって現実なのだから全部話した。


「教えてくれてありがとう。助かったよ」


「らなちゃん、おうちにかえってくれるといいね」


「そうだね。羅奈ちゃんが家に帰ってきたら、幼稚園で教えるよ」


「わかった!」


 とても清々しいと言ったら少し不謹慎かもしれないが僕にとっては正義感を感じた。この証言で羅奈ちゃんが帰ってくるかもしれない。


 もちろん、捜索願は出されて、警察が捜索しているだろうけど、羅奈を見た行動を少しのヒントになると思った。


 その一か月後、先生の報せが無いままだったが羅奈は幼稚園に姿を現した。


僕は突然だったのでびっくりしたのだが、羅奈の素振りは何もなかったように振舞っていた。先生も驚いていたが羅奈に何が起きていたのか、どこにいたのかと矢継ぎ早に質問をしても、何も覚えてないという一言の一点張りだった。


羅奈行方不明事件の後、もう一つ変わったことがあった。羅奈の独り言が異常に増えたのだ。まるで話しかけるような独り言だったので、周りの園児や先生は羅奈の独り言に嫌気がさしたようだ。


この幼稚園での出来事で二つ決心したことがある。一つ目は大人を過信することをやめにする。どうやら僕の出来事は警察には全く話されていないらしかった。どうやら先生は僕が話したことを嘘だと思ったようで信じることができなかった。僕が体験した恐怖感は無駄だったようだ。子供の話していることは信じられない。そう大人の固定概念を壊したかったが幼稚な僕は出来なかった。


そして二つ目はあの男と会いたい。



「陽向人、どうしたの?そんなボーっとして」


「ボーっとしていないよ」


 僕は頭を掻いた。


「やっぱりボーっとしていたんでしょ」


「なんでわかったんだよ」


「言われたことが図星だったら陽向人は頭を掻く癖があるんだよ」


 羅奈は得意げに少し鼻を膨らませた。


「何を考えていたの?」


 羅奈は首をかしげた。


「羅奈と僕、いつの間に仲良くなったんだろうね」


「なーんだ、そんなことか」


「そんなことって、気にしないのかよ?」


「そういえば考えたことがなかったな。小学生の頃から仲良くなったんじゃない?」


「なんでそう言えるんだよ?」


「なんとなく」


「なんとなくって…」


 だんだんとファミレスの黄色い蛍光灯が付いている看板が見えてきた。夜になると蛍光灯に電気が流れ、周りに黄色い光を放つ。


「陽向人は何を頼むの?」


「フライドポテト」


「他には?」


「フライドポテト」


「他には?」


「フライドポテト」


「フライドポテトしか食べないの?」


 羅奈は僕のつまらない冗談で口角を上げて笑ってくれた。


「羅奈は?」





私も陽向人のことを思い出してみよっと。


 まず私は小学生の頃になんだか陽向人のことが気になった。気になったというのは恋愛的感情ではなく、ただ単純に友達になりたいから気になった。


 陽向人に話しかけると、私と陽向人はすぐに意気投合した。私の好きなゲーム【デス・イレイズ・マイン】について話してみると池の鯉に餌を上げるときの鯉たちみたいに食いついた。


 デス・イレイズ・マインとはケモノから人々を守るPCアドベンチャーゲームである。だが、そんじょそこらのゲームではない。まず、如何にも現実的な世界観になっていて、まるで本当にある世界をそのまま画面上に映し出しているようなリアリティが溢れるゲームなのだ。そして最大の特徴だといっても過言ではないが、PCを使ってキャラクターを操るのだが戦うフィールドが地球規模で大きいのだ。だが、そんなゲームにも欠点が存在している。それはプレイできる時間が一時間なのだ。よく子供の頃に「ゲームは一時間まで」という約束をすることがあるだろう。一時間はとても短い。でも退屈なほど一時間は長く感じる。時間は恐ろしい。このゲームは一日につき、一時間しかプレイができないのだ。そしてこのゲームに同じキャラクターの姿、名前は例外なく同じキャラクターがいない。そしてそのキャラクターの名前や姿はプレイヤーで決めることが出来ず、自動決定される。さらにキャラクターの名前、姿そしてコンティニューが出来なくキャラクターが死んでしまったならばもう二度と同じキャラクターでプレイできなく、また違うキャラクターでプレイが出来ない。言い換えるならば一度キャラクターが死んでしまったならば一生プレイが出来なくなる。


 ただ、最近「一時間より長くプレイができる方法」と呼ばれる裏技が発見された。インターネットのデス・イレイズ・マイン界隈ではこれが流行っている。私はこの裏技に対して不満を腐るほど持っている。一時間が限度のゲームをやるより時間が無制限のゲームをやるべきではないか。デス・イレイズ・マインの特徴を一つ壊していることになっている。それで楽しいといえるのであろうか。


 まだまだ裏技を使っているプレイヤーの愚痴はあるのだが、止まらなくなってしまうために本題である陽向人のことを思い出してみる。



 小学校四年生の時だ。陽向人の複雑な家族事情を聞いた時、偶然だと思った。陽向人の父親が行方不明になった。母親が自殺で亡くなり、親戚に引き取られた。陽向人の話と私の家族事情がほぼ一緒だった。私の父親は行方不明になってはいないが、私が生まれた頃にはもうとっくに死んでいたと母親に聞いたことがある。私の母親はビルから飛び降り自殺をし、死んだ。そして私も陽向人と同じように親戚に引き取られた。


 まるで双子のように似ていた。運命だというと不幸な運命だが私の身の回りにほとんど同じような家族事情を持った人を聞いたことがないのだ。


 心は空しかった。ただ不運な家族が陽向人との共通点だなんて。


 もっと陽向人と分かち合いたい。共有したい情報も共有したい感情も全部陽向人と分かち合いたい。もっと一緒にいたい。


 そうだ。陽向人といる理由は分かち合いたいからなんだ。



「羅奈は何を食べるの?」


 陽向人は額から出ている汗を制服であるカッターシャツの裾で拭い上げる。


「何を食べようかな。陽向人は私に何を食べてほしい?」


「フライドポテト」


「じゃあ陽向人のフライドポテトをもらおうかな?」


「やめろよ。僕のフライドポテトは僕が全部たべるんだからさ」


 そうだ。こんなにも仲が良いのは、私が陽向人を認めて、陽向人が私を認めているのかな。こんな空想をしていても陽向人が私を認めているかはわからない。


 気が付くと、ファミレスの扉の前まで足を運んでいた。陽向人が扉を開けてくれた。


「ありがとう」


 聞こえていなかったのか、ファミレスの中へと進んでいく。ファミレスの中には私たちと同じく、制服を着た学生が席の大半を占めていた。テーブルの上には勉強をするのだろうかノートと教科書や筆記用具などの如何にも学生らしい道具が無造作に置かれていた。ファミレスは学生の巣のようだ。


「お客様、二名様でよろしいでしょうか?」


 ファミレスの服装をした店員さんが私たちに質問した。


「はい」


 陽向人はやっとエアコンが効いた室内に入れたのが嬉しかったのか、上機嫌な声で応答した。


 陽向人はファミレスの出入り口に近いテーブル席に座った。同じく私も陽向人の向かいに座った。特にほかの人と待ち合わせていないので、椅子にバッグを置く。またファミレスの中を見渡すと、不思議な恰好の人物がいた。不思議の原因は身に纏っていた冬物の服だ。


ベージュのトレンチコートと黒いニット帽。セミが鳴いているのが聞こえないのかと、心の中で大声のツッコミを入れた。


「ご注文がお決まりになりましたら、このベルでお呼びください」


 店員さんは従業員以外立ち入り禁止と書かれた扉を開け、中に入った。


「あの人、不審者っぽいよな。見た目は」


 陽向人がさしている人物は私が不思議と感じた冬物の服の人物と一緒だった。


「セミが鳴いているのが聞こえないのかって言いたくなるな」


 陽向人は私が先に突っ込んだセリフと全く同じセリフでツッコむ。私のテレパシーが通じたのか、もしくは陽向人がエスパーなのか。それが可笑しく微笑む。


「なにわらってるんだよ、まさか、羅奈の知り合い?」


「いやいや、私と同じセリフで突っ込んでいるから面白くて」


 私の笑いはツボに入った。


「何ずっと笑っているんだよ早く決めないとこのベルを押すよ?」


「わかったよ」


 私はメニューを開く。ふと目が付いたのが、かき氷だ。色とりどりのシロップがかけられている。その中でブルーハワイのシロップに目が惹かれた。


「かき氷おいしそう!」


「かき氷にするの?」陽向人は店員さんを呼び出すボタンへと手を動かす。


「待ってよ、言っただけでしょ」


 私は次々とページをめくるが、かき氷が気になり、ほかのメニューが霞んで見えた。


「私かき氷にする!」


「ベル押すよ」


 陽向人の大きな手でベルのボタンを押す。ピンポーン。店内に響き渡った。


「そういえば俺らの誕生日が近いな」


「そうだっけ?」


「七月三十一日、忘れたのかよ」


「ご注文を承ります」


 いつの間にか店員さんが注文を聞きに来た。


「かき氷ブルーハワイ一つ」私は青いかき氷に目を引かれブルーハワイを選んだ。


「フライドポテトとかき氷のイチゴを一つください」陽向人は店員さんの目を見ながら頼む。私は心の中でかき氷も頼む陽向人にツッコみを入れた。


「ご注文を繰り返します。かき氷のブルーハワイとイチゴが一つずつと、フライドポテトがおひとつで宜しいでしょうか」


「はい」


 店員さんが注文を聞いたため、また従業員以外立ち入り禁止の扉の中に入った。


「さっきの話の続きだけど、本当に誕生日忘れていたのかよ」


「忘れていたよ。でも今は覚えているよ」


「珍しいな。誕生日の話はいつも羅奈が話題に出していたのに」


 忘れるわけがない。陽向人が言う通り私達の誕生日が近づくと、私が話の話題にするのだが、陽向人が私達の誕生日のことを思い出してくれるか、期待を抱きつつ試してみただけだ。


 


小学校五年生の七月十三日。相変わらず蝉の鳴き声が煩かった。その日はたまたま金曜日で巷では十三日の金曜日で騒がれていた。


「羅奈さ、僕の家に来ない?僕の誕生日パーティーをするからさ。月末に」


「陽向人さ、私の家に来てよ。私の誕生日パーティーをするからさ。月末に」


 陽射しに照らされて放課後の公園でブランコに座りながらデス・イレイズ・マインとかのゲームの話や夏休みはどこへ行くかなどの会話をしていたのだが、会話の話題が尽きた頃、静寂に包まれていた。誘いの言葉が出たのは同時だった。誕生日が近くなったから、お互いはパーティーを招待したかったからだろう。四年生から付き合いがあったとはいえ、仲良くなったのは二学期の九月。七月からの溜まりにたまった夏休みの宿題の呪縛から解かれた頃に夏の勢いが余って私は陽向人に話しかけた。だからお互いの誕生日なんて知らなかった。


「陽向人さ、誕生日はいつなの?」


 誘いの言葉が同時に発せられて、また静寂が訪れた頃、思い切って聞いた。


「七月三十一日。羅奈は?」


 私は思わず黙ってしまった。陽向人と同じ誕生日だったからだ。


「い、一緒だ!七月三十一日!」


 途端に嬉しくなった。椅子代わりのブランコを漕ぎ始めた。


「奇跡だね!」


 だんだんとブランコの振れ幅が大きくなるのが風の感覚で分かった。


「靴飛ばしをしようよ!どっちが遠くに飛ばせるか勝負だよ⁉準備はいい⁉」


 嬉しくてたまらなかった。また共通点が増えた!


「パーティーはどうするんだよ」


 陽向人は私の誘いを無視して低いトーンで呟いた。悲しかったのかそれとも暑くて嫌だったのかどちらかは分からなかった。


「羅奈と僕の誕生日が一緒だから、羅奈の誕生日パーティーと僕の誕生日パーティー、同じ月末にやることになるだろ?」


 そうか。同じ日にやることになるのか。考えてなかった。


「時間が違えばどっちもお互いのパーティーをしてもいいけどさ。何時に、パーティーは始まるんだよ。」


「五時半」


「僕の誕生日パーティーと丸々かぶってる」


「あーあ」


 私が誕生日は陽向人と一緒に居ることを望んでいたのに、会えないなんて。しかも誕生日が一緒なんて。嬉しいのか悲しいのか心がもやもやしてきた。


「来年は一緒にお互いのことを祝おうな。約束だぞ」


 もう夕暮れだったので、家に帰った。



「陽向人は今年の誕生日プレゼントは何が欲しい?」


「なんだろうな…お金?」


「誕生日プレゼントが現金って生々しいでしょ。ほかに何が欲しいの?例えば、生活の中で不便だなって思うときない?これがあれば…ていう時ない?」


「あ!思い出した!」


「何々⁉」


私はテーブルの向かいに座っている陽向人に前傾姿勢になった。


「時間だ。」


「なんでよ。時間だ、って誕生日プレゼントって言ってるでしょ⁉あげられるものにして!」


「もう何でもいいよ。プレゼントは何でも嬉しいし」


「えー。困ったな」


誕生日プレゼントのヒントを聞こうとした私がバカだった。


「すみません」


突然陽向人とは違う男の声がした。


「今、お取込み中でしたら改めてお声掛けいたします」


冬物の服の男だ。男の顔はマスクを深く被っていたのでよく見えなかった。男はテーブルの横に立っていた。私は一瞬だけ陽向人の顔色を窺うと、話を聞いてみようという顔だった。


「いいえ。大丈夫ですが、その格好で暑くないですか?」


「できるだけ目立たないような服装が良いと思いまして」


「逆に目立ちすぎているみたいですが?」


辺りの他の客の視線を見ると、男の方に不思議そうな目を向けられている。その目は私達と同じ学校の生徒もいた。


「そうですか。しかし時間がありません。脱ぐ時間は省きたいと思いますので早速ですが、本題に入りたいと思います」


 冬物の服の男はトレンチコートのポケットの中から茶色い封筒を取り出した。


「あの、お話とは何でしょうか」


 男は封筒を私に差し出し、受け取った。中身は何だろうと封筒の封を開けようとしたが男はその私の姿を見、屈み私の耳元で呟いた。


「人気がない場所での開封をお勧めします」


 男はもう一度立ち上がり、話しかける。


「これからの私の会話はこのスマートフォンを使用させて下さい。これからは私が指示をする立場となります。これからはあなたたちにミッションを課しますが、ミッションの報酬はそれ相応とさせて戴きます」


「ちょっと待ってよ」


 陽向人の声だ。


「ミッションってのは何ですか。やるとは一言も言ってない」


 確かにミッションを課しますというのは初対面の人には無礼すぎる。


「すみません。無礼ですね。真海羅奈様、伊乃陽向人様。これも脅迫の一種とお考え下さい」


「脅迫ってなんですか?」


「時間がありませんので、質問等ございましたら、スマートフォンでの対応とさせていただきたいと思います。」


 本当に男には焦っているように見えた。


「ではこのミッションのことは誰にも口外したりなさらないでください」


 男はファミレスの外に出た。私はセミが鳴いているのが聞こえないのか。と改めて突っ込みを入れたが、男が汗を拭う仕草を見せないまま歩いて行った。男の先に虹色のワープホールが現れ、男はワープホールに吸い込まれるように走っていったように見えた。


「何だよ⁉あれ!」


 初めて見た光景だ。SFのような類でしか見たことがない。まさか男は人間ではないかもしれない。セミが鳴いているのが聞こえないのかという突っ込みが、現実味を帯びてきた。ふと気が付くと、ワープホールは消えている。男から渡された封筒をギュッと握るとスマートフォンが入っているのが感じられた。


「お待たせしました。フライドポテトと塩とケチャップです」


 店員さんは何も起こらなかったみたいな口調でロボットのように決められた言葉を言い、テーブルの上に陽向人が頼んだフライドポテトなどが置かれていった。


「店員さん。冬物の男の会計が済んでいないの気が付きませんでしたか?」


 陽向人は店員さんに顔を覗いた。男が座っていた場所を見てみると、コーヒーカップと一枚の皿が置いてあった。このファミレスは後払い制なので会計が済んでいないことになる。男は無銭飲食を犯しているのではないか。しかも目立った服装であり、印象的であった。


「冬物の男ですか?」店員さんは首を傾げ、言葉を紡ぐ。


「今は夏ですよ?そんな人いるのですか?」


 店員さんは何も覚えていない。いや、何事もないような顔をした。陽向人と私は何が起きているのか、見当がつかなかった。今の季節にはとても合っていないし一目見たときには記憶しようとしていなくても覚えているような人物を覚えていないと店員さんは暗に示している。再び、男がいたテーブルの上を見てみると、コーヒーカップとお皿が光に包まれながら、消えていくのが見えた。


「私、疲れてるのかな?」


 瞼を擦ったり目をパチクリしたが、どうも幻覚ではないことが分かった。


このようなことがあるのだろうか。私は夢を見ているのだろうか。幻覚なのだろうか。私は疲れているのだろうか。怖くなり、陽向人の顔を見ると、男がいたテーブルの上を見つめていた。超常現象が起きている。


 ありえない。何かのサプライズだろう。ドッキリ企画なのだろう。何処かにカメラが仕込まれていて私達をモニタリングしているのだろう。そうだとしか考えられない。最近流行っているのだから、私達の様な一般人をターゲットに笑い物にされているのだろう。そう考えれば、理屈が通る。ただし手が込んでいる。手が込みすぎている。男が虹色のワープホールに吸い込まれる演出はどうやって説明が付く?科学技術が進歩してきた今ではあの演出は容易いのかもしれないが、光に包まれコーヒーカップとお皿が消えるトリックは何なのだ?もはや疑心暗鬼になってしまうのは正当だと思えてしまう。握り締めている封筒にも何か仕掛けがあるのか?ならばドッキリ企画は進んでいるのだろう。もしここでカメラを見つけてしまうと、手の込んだ演出が水の泡になってしまうのだろうか。私の中で全員が仕掛け人で、この企画に盛大に騙された体で振舞えばいいという結論に至った。


「ごゆっくり」


 店員さんはまたもや従業員以外立ち入り禁止の扉に入った。


「陽向人」


 私は耳を貸すようにジェスチャーで伝えた。陽向人はジェスチャーの意図が分かり耳を貸してくれた。耳元で囁いた。


「これってもしかして、ドッキリなんじゃない?」


 陽向人は眉間にしわを寄せた。陽向人は手招きし言いたそうな身振りで私は耳を貸した。


「こんな田舎なのにドッキリをするのかな?」


 確かに陽向人の言った通り、都市圏には程遠い場所に私達は住んでいる。


「フライドポテトを食べようよ。一本戴き!」


 私は何もつけずにフライドポテトを口に運んだ。プレーンなフライドポテトもいいかもしれない。


 陽向人の言葉もあるけど、ドッキリと思うと気が楽になった。ただネタバラシのときにどうリアクションをしたらいいのかわからなくなっていた。ドッキリなのだからネタバラシがある。そう考えて当然だ。テレビで見たところ、芸人さんがドッキリを受けたときあえてネタバラシをしないまま日にちが過ぎ、番組の収録中にネタバラシをされるというのが現代の主流らしい。だが、リアクションの素人なのだからネタバラシはあるはずなのだ。


 封筒の中のスマホが振動した。


「人気がない場所での開封をお勧めします。」


 男はそう言っていた。ここでの開封はやめたほうが良い。というニュアンスで言ったのだろうと分かるのだが、メールの内容が気になる。


 ちょっと待てよ。


 男のある言葉が引っ掛かった。


「すみません。無礼ですね。真海羅奈様、伊乃陽向人様。これも脅迫の一種とお考え下さい」


 ある部分を除いては普通の会話の言葉だ。初対面のはずなのに名前を知っている?これがドッキリなら、何かがおかしい。ここに私たちが来るのがわかっていたようだ。ファミレスに行こうと誘ったのは陽向人だ。ならば陽向人は仕掛け人なのか?いや陽向人は何も知らされていない様子だった。ただ陽向人が芝居という可能性が無きにしも非ずなのだが、陽向人は芝居が苦手なのだ。ほとんど一緒に居るのだが、そのことは分かっている。


 またスマホが振動した。


 私は男の言葉を無視するような形で封筒を開けた。スマートフォンを立ち上げると、暗証番号や、パスワードの入力の必要がないような設定になっていた。画面には二文が書かれていた。


「ここの住所の会社に明日の午前十一時に訪問しろ」


「パスワードは0624」


 この二文だった。スマホではメールなどのやり取りでの画面の上部には名前が表示されるはずなのだが、そこだけは黒くつぶされていた。何か違和を感じる。


 その会社はデス・イレイズ・マインのゲームの開発をしている会社だった。名前は「ヨロズ」だ。この名前の由来は社長の名字が万(よろず)からだそうだ。


 一番大好きなゲームの会社の訪問なんて考えてもみなかった。住所を見てみるとどうやら私達の生活圏からはそれなりに近い。


「陽向人、これ…」


 陽向人にスマホの画面を見せた。


「何だよ。明日の午前十一時?学校の授業中じゃないの?途中で抜け出せっていうのか?」 


 確かにその通りだった。明日が土曜日など休日であれば午前十一時は訪問が出来るが、明日は火曜日。週の真ん中にも到達していない曜日だ。このメッセージには無理がある。万が一、早退など学校から出る口実を作り会社に訪問する方法は使えそうな手だが、ドッキリには適さない気がする。全くこのドッキリを仕掛けた意図が解らない。


 またスマホが振動した。


「見てみろよ」


 陽向人の言う通り、スマホの画面を見た。


「急ぎ足で済まない。そちらから何か質問はあるか」


 先ほどの男の口調ではない文章が送られた。あの口調は建前であり本音は見下しているのだろうか。どっちにしろ、相手の本体を知るまで何も考えないでおこう。


「何か質問はあるかって。陽向人は何か質問はある?」


 陽向人はテーブルの上に頬杖を付きながら男が座っていたテーブルを眺めていた。


「あなたは何者か。それが一番聞きたい。」


 陽向人は呟いた。


「あなたは何者かって聞くよ」


 私はスライドをしながら文字を入力し、送信をした。陽向人は相変わらず頬杖を付いたままだ。フライドポテトを早く食べないと冷めて美味しくなるだろうとは思いつつ、フライドポテトをつまんだ。


「なんか似ている気がする」


 似ている?何と似ているのだろう。


 またスマホが振動した。毎回送られてくる男からのメッセージはなんだか緊張する。次は何が送られてくるのだろうか。期待とは言えない興奮が沸き上がっていた。


「伊乃陽向人」


 スマホの画面はこの漢字五文字を映し出していた。


 伊乃陽向人。伊乃陽向人は目の前にいるのにスマホで会話している人は伊乃陽向人だと答えた。同姓同名でも伊乃は珍しいし、陽に向かう人と書くひむとはこの人生で聞いたことがない。時代が違えば主流の名前も変わってくるのだろうが、まだそんな時代ではない。何かのジョークなのだろう。そう考えれば楽だった。陽向人がスマホの画面をのぞき込んだ。


「は?なにこれ」


 そうなるだろう。だって私も陽向人の状態になっているのだから。


 伊乃陽向人とメッセージを送った人物の心理が良くわからない。伊乃陽向人と送って私達を混乱させる策略なのだろうか。ドッキリとしては感情を揺さぶる方法としてとても効果がある。


 伊乃陽向人。完全に私達の情報を持っているのか。その思考に辿り着いた時には人差し指が動いていた。


「私達のことをどれくらい知っているの?」


 そう送信したときに質問の内容が少しだけ解り難かったかなと思い返す。質問をするのなら私達の情報はどれくらい把握しているの?というべきだったか。


 またスマホが振動した。


「そちらが知っている情報はすべて知っている」次にこんなメッセージが送られた。


「質問は以上でいいか。無ければ応答をしばらくやめる」


 どうやら応答するのをやめるということなのだろうか。


「陽向人、ほかに質問はあるかって。無ければしばらくは応答しないって」


「ない」


 陽向人はフライドポテトをつまみ食べ始めた。私も質問が思い浮かばなかったので「ないです」と返事した。


「わかった。明日の午前十一時。頼んだぞ。健闘を祈る。また会える日まで」


 これが最後のやり取りであるかのような文が送られてきた。


 男は不可解な返答で私達を混乱させた。伊乃陽向人だの、そちらが知っている情報はすべて知っているだの、頭の回転をフル回転にしてもなんだかさっぱり分からなかった。


 私は男との会話が途切れたので自分のスマホでデス・イレイズ・マインの情報を調べるために検索アプリを開く。


高校生になってゲームに対する熱意が冷めてしまったような感じがする。なぜなら陽向人との共闘が出来なくなったのだ。共闘というものはゲームの主軸であるケモノはチームで討伐が可能であり、友達でも一緒にスリル満点のプレイができるシステムだ。陽向人との共闘が出来なくなったのは一年前のことである。



「あれ~?なんかプレイ画面が映らない…」


 その日はこのファミレスで陽向人との共闘の準備をしていた。私の操るキャラクター「カジ」はとても肌が白くまるで私がゲームの中に入っているみたいな感じのキャラクターが私の指の入力でパソコンの画面の中を動き回っていた。プレイ時間が一時間と定められているのでケモノの討伐は一時間以内でなければ攻略ができない。


 だがこの日は違った。


 陽向人のPCのデス・イレイズ・マインのプレイ画面が映らないのだ。マウスのクリックもキーボードも反応しなかった。何をしても何も起こらなかった。


 この日を境に陽向人はデス・イレイズ・マインの世界からおのずと離れていくことになった。たかがゲームだろうと言われるかも知れないが、まるで陽向人と気持ちが離れていく気がしてならなかった。デス・イレイズ・マインで陽向人と近づいたのだ。


 デス・イレイズ・マインは陽向人との懸け橋みたいな存在なのだ。


 だからこの世界にデス・イレイズ・マインがなければ陽向人と仲良くできなかった。



 スマホが振動した。誰からだろう?


「時は世紀末。人は荒れ果てた。心も荒れ果てた。だからこの景色は荒んでいる。人々の顔色を窺うことを忘れ我が我がと争っている。これがニンゲンの本性だと決めつければそれこそこの世の終わりを自ら予期しているのではないか。もしそれを定めればニンゲンは破滅の一途を辿る。それこそ彼らが思う壺だ。彼らの手に踊らされてはいけない。一度我らが彼らを手に踊らせた。当時の権力を掌返しにした神を恨まなくてはいけない。また友と日を過ごした日を回想する中で一人、今は亡き者がいる。だが今は解消された」


 別の人からだ。画面の上部に名前が表示されていたからだ。


 稔内峡。そう書かれていた。読めそうで読めない漢字が使われている。初めてみる人名だ。名前っぽく読むと(じんない きょう)と読むか(じんない かい)と読むか。ただ私の知識ではこのようにしか読めなかった。このような人が長々とポエムみたいなメッセージが送られてくるなどと意味が分からなかった。


「なんだそれ?」


 陽向人はフライドポテトを口に含みながら私の手元のスマホをのぞき込む。


 なんだか今日は奇妙な出来事ばかりだ。


 会計を済ませ、陽向人と別れ家路を歩いていると、デス・イレイズ・マインの情報を自分の水色のカバーの付いたスマホをいじりながら調べると目を疑った記事を見つけた。その情報が、「プレイ時間を長くする裏技を使いすぎると、起動が出来なくなる」だった。詳細を見てみるとプレイ時間が設けられている理由が、ヨロズの会社のサーバーはゲームのグラフィックのデータがとても多く、多数のプレイヤーが長時間プレイされると処理速度が遅くなってしまい楽しさが半減されるらしい。らしいというのもこの理由が書かれているブログが五年前でそれ一つしか理由が書かれていないし、根拠も何もない。もしこれが本当だとしても信憑性が低くて信じられない。


 何も成果はなかった。


 家に帰ると親戚が「おかえり」と声をかけたが、私は無視をする。絶賛反抗期中なのだ。悪いのは思春期だ。ニンゲンの性なのだ。


 私の部屋の明かりを点け早速デス・イレイズ・マインを始めるためPCの電源を点ける。裏技など使用したことがない純白なデータ。


ロードをする画面に切り替わった。背景が真っ黒で中央に大剣と拳銃が交差していて小刻みに揺れている。見慣れた光景だが改めて見るとなぜ大剣と拳銃なのか。確かに大剣や拳銃を使うプレイヤーをよく見かけるがポピュラーな武器ではないのだ。ちなみに私のキャラクターのカジはハンドガンの二丁拳銃を使い、陽向人が使っていたキャラクターの武器は小刀だった。


「コジ」。陽向人が使っていたキャラクターの名前だ。偶然にもゲームの中では兄妹でカジは妹、コジは兄にあたるらしい。それと名前も決められているのだ。まるで実在しているかのように。もちろん陽向人も私も自分がキャラクターを決めていないし名前も決めていない。


 陽向人と私はデス・イレイズ・マインで交流を深めた後、初めて共闘しようとする際に「エレクト」というプレイヤーにとても支えられていた。共闘は知らない人ともできる。小学四年生である私達からするとエレクトさんは眩しく輝いていてとても強かった。エレクトの武器は剣であり特殊効果で電気の魔法が使用できる特別な武器だ。殆どエレクト、コジ、カジの三人組でケモノ討伐に励んでいた。だがエレクトさんが何者か分からなかったため、陽向人と話す際には「エレクトさん」という愛称で呼んでいた。幸い会おうとか現実世界の交流を深めようとエレクトはしてこなかった。あくまでもゲームの世界だけの絆。いつでも切れてしまいそうで脆い絆だったけどその当時の私達はエレクトさんみたいにゲームが巧くなってエレクトさんに認めてもらいたいと思っていた時代があった。


 そうだ。明日はエレクトさんとの思い出を陽向人と話し合おう。


 ゲームが起動した。画面の左下には「残りプレイ時間」と数字がだんだん減っていく。これは一時間のプレイ時間の残りを表示されるものでゼロが並ぶとゲームが強制終了される。


 画面の中央に私が操るキャラクターのカジは草が萌えている原っぱで寝ているようだ。他のゲームでは当たり前のように付いている機能のセーブが設定されていない。このゲームではプレイしていない時間は操るキャラクターが自動的に動くシステムが搭載されているため、ロードする際にキャラクターがどこにいるかはプレイヤーの私達には分からない。私は上に動くよう指示するかの如くマウスを上にドラッグすると、カジはあくびをしながら走っていく。見慣れた光景だ。


 カジの左手首には再生機器(コンティニューブレス)が装着されている。この再生機器は画面の左下に表示されている残りプレイ時間と討伐中のケモノの体力や特徴が随時表示されている。髪型は肩まで伸びている。緑色だ。この髪色は気に入っている。上半身は白い布を纏っている。下半身は紺のショートパンツで脚が露わになっている。


 風がより一層強く吹いた。草達は流されるように倒れる。


 画面の上部に黒い影が映った。私はこの黒い影がケモノではないかと再生機器に目をやった。「このケモノはイノシシ型で約三メートルであり、キャラクターに突進してくるので避けながら急所である前脚を狙うように。」やはりケモノだ。このケモノは短い黒い剛毛を纏っている。ハンドガンの二丁拳銃を腰にある革であろう素材のホルダーから抜き出し、イノシシがどんな行動をしてくるか予見していた。いつこちらに突進するか、見計らう。


 静かな草原のなか。草達も倒れていたのが、風が穏やかになり地から真っ直ぐと立っていた。細々と草の先が動いている。私にとって追い風だ。緑色の髪がなびいている。イノシシは後脚を後ろに擦っている。


 ケモノは前脚を上げ野太い豚のような声を響かせる。これが発進の合図となる。ケモノが右前脚と左後脚を同時に曲げると同時に重心を前にかける。肢体をこちらへと向けて来る。


 イノシシは十二支の中で最後の動物だ。十二支の中で一番速いと予想できるがその反面曲がることが困難で制御できなくて最後の動物になったという逸話を小さい頃に聞いたことがある。この逸話が功を奏した。


右だ。


ケモノは私に猛スピードで突進してきた。それを見計らい体重を右にかけ転がり込んだ。ケモノは私の左をすり抜けた。いま思えば草達は自然のマットのように感じられて心地よかった。イノシシは次の突進の準備として前脚を踏ん張り急ブレーキをかけた。立ち上がりどのように討伐をしようか企てていた。


弱点は前脚。前脚に鉛弾を当てればケモノは立てなくなるだろう。次の突進も右に転がり込みケモノの攻撃を回避する。ケモノはまた急ブレーキをかけた。次の突進の時に転がりながら前脚に銃口を向け引き金を引けば討伐できるだろう。


突進してくる。右腰のハンドガンに右手をかける。それを引き出す。左腰のハンドガンに左手をかける。またそれを引き出す。右に体重をかける。転がり込む。銃口を前脚に向ける。人差し指に力を入れる。ハンドガンは声を上げる。ケモノは頭部を草原に落とす。反動で体が前に転がっていく。腹を見せ、天を仰ぐ。脚が麻痺させているかのように小刻みに動かす。


ケモノは仰向けになり呼吸困難になりもがいている。あとは球を二、三発ほど当てれば討伐成功といえるだろう。


画面越しに見ればケモノは眠っているかのように見えた。だが討伐中に見せた攻撃してきた姿を見ていると死んでいるケモノはかわいそうに思えた。私はキーボードから手を放す。これはゲームなのだ。そう思うとかわいそうな感情は無意味だ。死を迎えた生物に感情を入れても機械的でプログラムされた造られた死は無感情でそっけなかった。


これはゲームだから。そう片づけてしまってはゲームの意味がないと思う。子供の頃はゲームをすることが第一の幸せだった。成功すると喜ぶし、失敗すると悲しむ。でも大人に近付いてくるにつれてゲームに感情移入が出来なくなってしまう。


これが大人になっていく段階なのだろうか。いろいろな物事を知り想像力が失われてしまうことが大人のステップなのだろうか。


キーボードに手をかけた。死体になった肢体に弾を込めなければ無残な死がずっと画面に映し出されてしまう。


短く黒い剛毛とは違い、薄桜色で如何にも弱弱しい腹に銃口を近づける。また起き上がって襲ってくるかもしれない。引き金を引いた。ハンドガンが声を上げた。ケモノはただの屍となった。


ケモノの死体はもう生の息吹は感じられない。死体は黒い粒子状となり散った。このデス・イレイズ・マインの世界では死体が残留せずに消えていく。生きていた証拠が消滅されゆく景色は何故か心を傷ませる。


私はデス・イレイズ・マインのオンライン回線をプレイ可能時間三十分残し、切断した。


ふと我に返ると私がいる部屋の温度が高いことに気が付いた。デス・イレイズ・マインに熱中するあまり、暑さを感じなかった。プレイしている間、液晶の向こうにいるカジをまるで私の身体で動かしている感覚になる。これが、私がデス・イレイズ・マインを愛す理由になっているかもしれない。


私は黄色のベッドカバーをかけたシングルベッドに倒れこむ。明日の朝は早い。目を瞑り、体を休ませる。夢の世界へと意識が飛ぶ。





突然、私の枕元にあるスマホが大音量で電話の着信音が鳴り響いた。寝ぼけた頭で応答ボタンを親指で当てる。


「羅奈‼いつまで寝てんだよ!もう登校時間の三分前だぞ?」


 電話越しで陽向人の大きい声が私の耳を響かせた。大きな声のせいで内容を理解するのに少し時間がかかった。ベッドの上に掛かっている時計を見ると、陽向人の言う通り登校するタイムリミットの三分前を指していた。


「何してるんだよ!早く来いよ!もう切るよ」


 通話が切られたことを知らす機械音を聞き冷静に考える。でも冷静に考える必要もなく大声で叫んだ。


「遅刻する‼」


 私は急いで自分の扉に掛かっている制服を取りそれを着る。ここから学校まで走っても十分はかかってしまう。まずい。


 着替えを終え学校のバッグを持ち外へ出る。


 あー。朝ごはん食べられなかった。寝坊してしまったからと理由は片付いてしまうが授業ではお腹が減ってそれどころでもなくなってしまう。よく食パンを咥えながら走っている女子高校生がいる漫画での光景は現実ではそう見かけないしやったこともない。


 あー。髪がボサボサだ。髪をセットする時間がなかったからと理由は片付いてしまうが私は女子なのだという自覚がないように思われてしまう。女子力がないのは女子にとってつらい。この世の中には様々な女子のタイプがいて、女子でもイケメンな振る舞いをする人はいるが大半の女子はかわいく思われたい。私だって思春期なのだ。


 あー。先生に怒られる。しょっちゅう遅刻するような生徒ではないが絶対に遅刻をしない生徒でもない。怒られるとへこんでしまう性格なので調子が悪くなってしまう。


 寝坊して、いいことなんて一つもない。


 私は朝からどんよりとした心を持ちながら高校へと走っていった。


 ここでハプニングが起きた!ということは一つもない。漫画ではあるまいし。


 私は全速力で走った。



 *



僕はいつも通り登校時間の一時間前、七時に起床した。


ベッドから起き上がり、引き戸の扉を開ける。開くとまず見えるのは階段で一階へとつながる。ほかにも三つの扉が見える。無感情で一階へと階段を下り始める。


一階に着きリビングへと足を運ぶとテーブルに置かれた目玉焼きとソーセージとサラダがのっかった白い皿と湯気が立つ味噌汁が目に映った。横に折畳まれた一枚の紙が添えてある。「学校遅れるなよ。夜は遅くなるから早く寝なさい」と叔父が置手紙を残していた。


叔父は六十近くになり定年退職前の年齢になった。だが叔父は働けるときは働くことがモットーなので叔父の帰りが遅くなるのはテンプレートになった。


朝ごはんを食べ終え、半袖の制服に腕を通す。羅奈は起きているのか。ふと携帯を手に取りメールを送った。起きていたならば七時五十分ぐらいには返信が来る。


ズボンをはき替え、学校のバッグを肩にかけ、家を出る。


朝の陽射しは気持ちが良いと普段は思うのだが最近なんだか気持ちが良くない。


暑い。暑すぎる。


僕の最大の敵が夏といってもいいほど暑いのが苦手だ。


ただ登校時間には間に合うのでゆっくりとした歩調で学校へと向かう。


学校に着き校門をくぐり腕時計を見ると七時五十七分を指していた。そしてポケットから携帯を取り出し、見てみると羅奈からのメールの返信が来ていないことに気が付く。


あいつ、寝坊したな。


よし、電話をかけて起こしてやるか。


緑に表示された発信ボタンを押す。


通知音が鳴り響く。まだかまだかと僕は足で貧乏ゆすりをした。


ふとアイデアが浮かんできた。


大きな声で出てみたら羅奈がびっくりするのではないか。


面白そうだ。


まだ鳴り響く通知音のリズムに合わせ足を動かす。


羅奈とつながった。


「羅奈‼いつまで寝てんだよ!もう登校時間の三分前だぞ?」


 羅奈はびっくりしたのか黙ったままだった。追い打ちをかけよう。


「何してるんだよ!早く来いよ!もう切るよ」


 赤いボタンの通話終了ボタンを押す。


 いま羅奈はドタバタしているだろう。


 汗だくで教室の扉を開けている羅奈の姿を想像すると、なんだかおもしろくなってきた。


 どうやら何か忘れている。ポケットに手を突っ込むとスマホの感触が手にあたった。


 これだ。謎の男から貰ったスマホだ。ポケットに入れたままだった。


 学校を抜け出してデス・イレイズ・マインの会社を行こうと昨日起こった出来事も思い出した。僕の名前を名乗った男は何が目的なのだろう。



 *



 ふう。高校の校門にやっと着いた。高校の校門にはいつも朝に立っている体育担当の先生がいるが今はいない。いつも見慣れている光景だが少し違和感を抱いた。その先生の名前は佐藤一師(さとうひとし)先生だ。体育担当の先生は運動神経が良く頭が少し悪いというイメージが個人的にはあるが、佐藤先生は運動神経も頭もよい。佐藤先生は体育担当先生の中でも、ましてや学校中の先生の中で一番生徒の評価が良い。と噂は聞いている。私達の体育はまた別の体育担当の先生が授業に来る。噂を聞くたびに佐藤先生の授業を受けるクラスが羨ましいと思う。羨ましい。


 そう思っていると玄関に辿り着いた。鉄でできた扉付きの靴箱が六つ並んでいる。私の靴を置く場所を開ける。そしてスリッパを取り出し、靴を入れて扉を閉める。すりっぱに足を入れる。


 教室の前まで来た。あとは扉を開けるだけだ。


 扉を開ける。


 ガラガラと扉が鳴りみんなの視線を浴びた。


「真海、遅刻か」


 教卓の後ろに担任の先生がいた。


「すみません。寝坊しました」


 私は先生からの叱責を受けようと心構えをしていた。


「男から何もされなくて良かったな。心配したぞ」


 声は怒鳴り散らすような音ではなく優しく心を包むような音だった。とはいえ男から何かされるような出来事があっただろうか。しかも男はいったい誰のことを言ってるのだろうか。


「昨日夏の暑いときにトレンチコートを着た男がいたと聞いて警察は不審者だと男を捜査したらしい」


 何?警察が捜査を行っている?


「真海知らないのか?まあ事件の真相を言わなくてもいいか。そこに突っ立ってないで早く席に座りなさい」


 そんなに深刻なのか。


 私は陽向人の後ろの席に座る。そこが私の席で陽向人と授業中何度で話をする。まあほとんど毎日話したりするからほとんど席の配列はあまり関係ないが。


「なあ。今日の十一時はどうする?僕の名前を名乗っていた男のミッションとやらをやってみるか」


「本当にやるつもりなの?授業を抜け出す気なの?危ないって。先生が陽向人を名乗っていた人を警察が捜査しているって言ってたよ?」


 陽向人はそっぽを向き私の話なんか興味なさそうにしていた。



 *



 僕は昨日少し「ヨロズ」のことを調べてみた。社長の万師定は二十五歳という若さで会社を立ち上げた。そしてその会社の処女作のゲームはデス・イレイズ・マイン。今も新作は発表せずデス・イレイズ・マインの運営をしているらしい。これで商売が成り立つのだからデス・イレイズ・マインでとても稼いでいるのだろう。


 十時十分。授業と授業の合間の時間だ。もうそろそろ学校から抜け出さないとヨロズには行けない時間になってきた。僕は後ろを振り返り次の授業である数学の教科書を開き予習をしている真面目な羅奈に話しかける。


「もうそろそろ行かないとヨロズに間に合わないよ。さあ学校から抜け出そうよ」


「えー。陽向人が一人で行ってきてよ学校を抜け出すなんて後で怒られるだけだし」


「まさか、寝坊して先生に怒られるかもって少しテンションが下がったから行かないっていうの?こわいんだ。先生から怒られるのが怖いんだ?」


「いや?そうじゃないけど…」


 羅奈は数学の教科書にまた目をやった。


「デス・イレイズ・マインの会社だよ?行かないの?」


 そう呼びかけると昨日男が封筒に入れていたスマートフォンが振動した。


「さあ準備は出来ているかい」


 その一言だけだった。


 僕は学校から抜け出そうと席から立ち上がった。


「まさか、本当にヨロズのところに行く気なの?」


 数学の教科書に目をやったはずの羅奈が僕を見上げる。自然的に羅奈は僕を上目遣いで見ている態勢になっていたが、僕は気に留めずに靴箱に駆けだした。


「待ってよ!」


 羅奈も僕の後についてくる。


「さあ、始めよう」


 この言葉は羅奈とエレクトさんと三人でデス・イレイズ・マインでのケモノ討伐の時に掛け合った言葉だった。エレクトさんは直接話したことがない。エレクトさんは羅奈と二人で幼い頃に操作方法やケモノの攻撃方法など僕達のデス・イレイズ・マイン好きを助長させた一人だ。親切な人だった。


 始まりの出会いは三回目のプレイだった。


 その頃は再生機器に表示されているカウントダウンされている数字の意味が何となくだが分かってきた。もちろんグラフィックが繊細でケモノという存在もまだ知らなかった。


 その時だった。


 赤い竜のようなケモノが僕達(コジとカジ)に襲い掛かってきた。そこで剣を振り回してケモノを追い払ってくれたのがその人だった。


エレクトさんが守ってくれた。


 命を救ってくれた人。



 *



 私達は「ヨロズ」の住所が表示されたままのスマートフォンを持ちながら走った。


 その住所に書かれた建物の玄関に行くと、そこには思いがけない光景が待ち受けた。


「テナント募集  平塚ビル」


 見ての通りスマートフォンに表示された住所は会社がある気配もなく、ただ無人のビルが聳え立っているだけだった。


 時間を見ると午前十時五十八分。もうとっくに学校では授業を行っている時間だった。


「まさか、男がミッションって言ってたのって単なる嘘?」


 私はそう思った。


「まさか、これもドッキリの一つなんじゃないの?」


 私は能天気なことを言ってみる。


「ドッキリもこんなに迷惑じみたものは無いよ。絶対、絶対ないって」


 ヤバいとしか言いようがなかった。そんな言葉がポンポンと湧き水みたいに出なかった。


 午前十時五十九分。


「どうする?帰る?」


 私は学校をすっぽかした罪を償おうと速く学校に帰る提案をした。私は寝坊もしたのでこっぴどく叱られるだろう。しかしまだそんなに大ごとになっていないことを希望している。速く学校に帰らなくちゃ。そばの道路に走っている車やバイクの走行音が大きく響いた。


 


 *



 午前十時五十九分三十秒。


 男から渡されたスマートフォンが振動する。


「調子はどうだい?」


 この文面を見て、私の顔が真剣な顔になっているのが自覚できるぐらい表情が動いた。


 騙されたのか?


 陽向人の唇はそうつぶやいた。


 午前十時五十九分四十秒。


 陽向人はスマートフォンの液晶に指を動かす。


「嘘を吐いたのか?」


 陽向人はため息を吐いた。男に裏切られた思い。逆にこれがドッキリだとしても笑ってくれる人がいるのだろうか。


 午前十時五十九分五十秒。


 刻々と時間は過ぎていく。男の姿を見ようとしても煙に巻かれ見えなくなっている。


 私達は落胆していた。


 騙されたのか。時計の針は一定のリズムをとりながら音を立てる。


 午前十時五十九分五十九秒。時間は確実に十一時に向かっている。


 私の目の前が一瞬にして光に包まれた感覚になった。


 味覚の感触が失われる。


嗅覚の感触が失われる。


 触覚の感触が失われる。


 聴覚の感触が失われる。


 視覚の感触が失われる。


 ふわふわと浮かんだ感触が襲ってくる。


 火照っていた身体もないように感じられた。


 何も感じられなくなっていた。


 ただ脳が働いている。


 この光は熱中症での立ち眩みで引き起こされたものではないと後で確信した。


 この虚無感の先に待っていた時間は真夏の午前十一時ではない。


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