「なぁに、息を止めてりゃ平気だって」

 プロトナイトは破壊された船腹の大穴の端を蹴って海中に飛び込んだ。波しぶきがおさまってからも、起動状態の魔法鉱石を包む微弱なマジックフィールドのために細かい気泡が視界一面に発生し、鎖をたぐると、泡が一斉に後方へ剥離する。そうか、装甲が水を弾くから浸水してこないのか……。剣を抜き、鎖を自切されないうちにぐんぐん加速すると、青白くぼんやりした巨大な塊が六枚のヒレをせわしなく交互に掻いて、暗い海底へ後ずさりしようとしているのが見えた。距離を詰めてみれば、それは海の魔物などではなく単なる魔鉱兵であることが判る。海上の船と銛で引き合っているために身動きが取れず、手持ちの武器もない敵ならば仕留めることはたやすい。プロトナイトの突きが一直線に敵の胴体を刺し貫く……と、その裂け目から大量の気泡とともにどす黒い血がとめどなく溢れ出し、切っ先から鍔元へ刃を伝ってレオに襲いかかった。

《故郷で、もうすぐ子供が産まれるんです。帰れるといいなって》

《あと少しなんだ!俺は、生きて故郷に帰るんだああああっ!!》


 レオは寝床から飛び起きた。早鐘のように拍動する胸元は冷や汗でぐっしょりと湿っている。海賊船は夜の海を進み、階下からは一日の仕事を終えて酔っ払った船員達の馬鹿騒ぎが聞こえてくる。自室に運び込まれた記憶がないが、あのあと海岸でひとしきり吐いたのだろう。胸焼けがする。人恋しくなったレオはぼろ布で雑に汗をぬぐってから着替え、軋む廊下を渡ってエリシュの部屋の扉をノックした。

 レオが部屋に入ると、肌も露わな寝間着姿のエリシュと二人、寝床に腰掛けてなにやら話し込んでいたスズが立ち上がり、レオと目も合わせずにすれ違ってそそくさと退出した。

「俺、嫌われてます?」

「気のせいじゃないか?きっと忙しいんだろう」

「そのわりにはずっとお喋りしてたみたいですけど。何を話してたんですか?」

「そこは女同士の秘密というやつだ」


 あの子はおまえの話しかしないがな、という一言を、エリシュは口に出さずに飲み込んだ。


 エリシュに促されるまま寝床に腰掛けたレオは、神妙な顔で本題を切り出した。

「ウェルスランドの港にいた仮面の男って、エリシュさんのお兄さんなんですか?」

「なんだ、そんなことか」

 仮面の騎士は帝国軍人である。これから先、ウェルスランド王国軍が敵地へ深く攻め込めば、いずれまた対峙することになる。レオはそのときエリシュの目の前で、エリシュの肉親と知りながらあの騎士と殺し合いをする覚悟が持てないのだ。

「あの男……ノイシュ・フォン・スタインは、自分の出世しか頭にない狂人だ。家族親戚、友人知人、奴にとって自分以外の人間は踏み台でしかない。今のノイシュは明らかに皇帝の座を狙っているが、放っておいたら何をしでかすか……」

「それで家出を?」

「ああ。私はノイシュを止められなかった。そればかりか皇族に加わるため皇太子に嫁げと言われたよ。あんな奴、とうに兄でも妹でもない。見かけ次第殺して構わん」


 そこまでひと息に吐き出してから、エリシュはふと軍港奪還作戦でのレオとノイシュの一騎討ちを思い出した。人殺しをする覚悟がどうとかいう以前に、あんなに実力差が開いていては再戦の結末など知れている。こうして相談しに来たのも、おそらくレオナルド自身そのことに気づいているからだろう。

「……奴に勝ちたいか?」

「はい!」

 エリシュは甲板を稽古のために使わせてくれるようレッドクロスに交渉してみることにした。


「ダメだね。あたしの船は遊び場じゃないんだ。余ってる場所も時間もない。最初に説明したけど、あちこちうろつかれると迷惑なんだよ、お客様にはさ。部屋で筋トレでもしてな」

「レオナルドのためなんだ。敵の港に着いたら、そこはもう次の戦場だ。あの子は決して弱くはないが詰めが甘い。今のうちに誰かがきちんと腕を磨いてやらないと、やみくもに戦うだけでは、技量で上回る敵に遠からず殺されてしまう」

「うーん、坊やがいなけりゃあたしら今ごろ海の底だしねぇ……。分かった。条件付きで許可するよ」

 二人が稽古に使うぶんの時間は二人で働いて手に入れる。それがレッドクロスの提示した条件だった。エリシュとレオは甲板掃除をはじめとして、便所掃除、洗濯、芋の皮剥き、食器洗い、その他新入りの船員に割り振られるような、専門知識の必要ない雑用はなんでもやらされた。暇な時間はひとときもなくなったが、そうしてようやく船員二人ぶんの仕事をこなし、朝夕のわずかな時間に甲板の一部を使うことが認められた。


「オラオラ、見世物じゃないよ!とっとと持ち場に戻りな!」

 船員達をどやしつけるレッドクロスだったが、レオとエリシュが互いに一礼し、それぞれ護手に剣帯を巻き付けて鞘から刃が飛び出さないように固定した即席の練習剣を構えると、自らも船員達と一緒にしばし仕事を忘れて、騎士の礼法に則った洗練された立ち合いに見入ってしまうのだった。それはまさに剣と剣とで交わされる言葉なき対話だった。

 エリシュはレオの剣捌きを試すように踏み込み、レオが反撃してくれば退いて距離を取る。レオの剣はエリシュの剣を防ぐのに手一杯で、エリシュの身体には一向に有効打が届きそうにない。

「このままごとはなんだ。これでは実力をはかるどころではないぞ。魔鉱兵に乗っていたときの威勢はどうした?私をノイシュだと思って、もっと積極的に喰らいついてこい。おまえごときの攻撃でそうそう怪我はせん」

 ムキになったレオは剣を握る手に力を込め、エリシュ本体への攻撃をあきらめてエリシュの剣を執拗に叩き落とそうとした。しかし、力任せに戦うなと言うように受け流すエリシュの視線は、冷静に、半ば呆れたようにレオの剣の切っ先だけを追っている。レオがどこからどんな打撃を繰り出そうと、この一点にさえ注意を払っておけばいいからだ。そうか、そういうことか!レオは剣を振り抜くと見せかけて柄から手を離し、顔面めがけて投射した剣が打ち払われる一瞬の隙に甲板を蹴ってエリシュに体当たりを喰らわせようとした。だがエリシュは半身をひねってレオの突撃を躱し、すれ違いざまに手首を掴み上げると足払いをかけてレオの身体を甲板上に押し倒した。見守る船員達から唸るような野太い歓声が上がったが、レッドクロスがそれを遮った。

「そこまで!面白すぎてつい時間を忘れちまう。続きはまたあとにしな」


 エリシュはレオに手は貸さず、自分から立ち上がって一礼するのを待って返礼し、レオの剣を拾って手渡した。

「なるほど、おまえがお父君から学んだことはおおよそ分かった。敵の動きを読むのはいいが、今のおまえはただ、剣をここに打ち込んで下さいと身構えて待っているだけだ。相手の先を読んだのなら先手を打て」

「はい」

「それと、おまえの技量がすでにノイシュに知られているということを忘れるな。自分の強さにあぐらをかく者は、次の戦いで必ず弱点を突かれて死ぬ。奴を仕留めるまでは、常に以前のおまえ自身を超え続けろ」

「ありがとうございました!」


 レオは息を切らしながら、これまでに会話したときよりもずっと腹を割ってエリシュと語り合ったような気がした。


 一方、エリシュには心配事もあった。ノイシュはエリシュの剣の師匠でもあり、エリシュはまるで歯が立たなかった。したがってエリシュに師事している限り、レオがノイシュの腕前を上回ることはない。この子に必要なのは場数と強敵だ。手頃な強さの誰かが稽古をつけてくれれば手っ取り早いのだが……。

 天を割って雷鳴が轟く。見上げると、海賊船の行く手に分厚い灰色の雲が迫り、甲板にはぽつぽつと雨滴が黒い染みを作り始めていた。船がにわかに騒がしくなった。

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