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こんなつきあい──時間の費やし方は俺がほんとに望んでるものではない。俺は何かを忘れているし、何かに気づかないでいる。頭ではわかっていても日々を切り抜けることで精一杯だ。
正直に言えば逃げ出したい。自分を取り巻くものすべてから逃げ出したい。すべてをとっぱらってから休息をとり、そこから新たにスタートを切りたい。
が、ありえない望みである。そんなことをすればたちまちいま座っている椅子は誰かに奪われる。
俺は何かの奴隷だ。椅子の奴隷だ。
そう考えていくとソロキャンプの達人として再ブレイクしたHさんはほんとうのしあわせを獲得した真の成功者だ。うらやましい。もう何年も会ってない。
ああなりたいけれども、自分はああはなれない。テレビのレギュラーがひとつあり、細々とした仕事はここ十年は途切れていないし、何も問題を起こさなければしばらくは途切れないと思われる。作家業では大きな賞をとり固定ファンもついている。
こっぱずかしい思いは少しあるものの、成功者として扱われることに気持ちよさがないと言ったら嘘になる。いまの俺は恵まれている。環境にも運にも。
しかし満たされてはいないのだ。時おり満たされることはあってもそれはほんのわずかな瞬間でしかない。俺はなんなのか?
人のしあわせって。しあわせってなんだろう。
賞を貰う、称賛を得る。これはポジティブ。
一方でごく一部だが芸人仲間にカメラが回ってる前で俺を先生と持ち上げるやつがいて、これは思い切りネガティブだ。究極的なセンスのなさに出会うと猛烈な怒りが込み上げてくる。これでは笑いに転化しようがない。
だいたいお笑いで使う“先生”はばかにする時に使うのだ。そういう使い方でしか笑いは生まれない。
そんなとき俺は身を縮こませただただ困惑することしかできないのだった。哀れである。
どこがどう成功者なのか。
俺は成功してなくともしあわせな人物をひとり身近に知っている。最近とくにその人のことを思い浮かべる。
先輩の北見アタル、五一歳である。年収八○万の先輩だ。名のアタルはキン肉マンソルジャーの正体キン肉アタルから来ている。アニソン好きの年収八○万の先輩だ。こう記述するとポエムみたいだね。
それはともかく五十代なのでアニソン好きと言っても古いロボットアニメの主題歌がレパートリーのメインなんです。ちょっと困る趣味です。
そしてカラオケボックスの中でだけ彼は後輩に命じ出すのです。特定の曲で彼は我々に合唱を強いる。ひとしきり歌い、気分が乗ってくると儀式が始まります。
北見さんはありったけの大声を振りしぼり、
「レ~~ッツ!!」と叫ぶ。
我々はもちろん、
「コ~~ンバ~~イン!!」と叫ばなければならない。
流れ始めるコンバトラーV主題歌のイントロと勝利の雄叫び。みなが合唱する。もちろん超電磁ヨーヨーのところは「YO! YO!」です。
敬語をやめますが、まあ、そんな感じの北見さんはみんなから愛憎からんだ存在になっている。時々、病を発症するように〈スラムダンク深津ブーム〉が彼の中で巻き起こり語尾にピョンをつける癖が出てしまうのでかしこまった場ではみんなを内心ヒヤヒヤさせていた。
「あれは誰ピョン?」とか、「行かないピョン」「行くピョン」「断るピョン」「びっくりしたピョンよ~」など、病が治まるまでピョンのオンパレードである。
芸人でなかったらどこかへ連れて行かれているはずだ。
いつだったかガラケー時代にやはりカラオケボックスの中で誰かの携帯からザンボット3の主題歌が流れ出したことがあった。着メロである。
サビから始まるこの曲は特殊なコーラス四回のあと主役ロボの名前を四回連呼する。
北見さんはロボの名前を叫ぶ最初の一回を大声で叫んだあと通話に出るのだが、それにつづけて居合わせた後輩たちは名前を三回連呼しなくてはならなかった。
「はいはい」と北見さんが言ってる声の後ろで、電話の相手は後輩たちの合唱を耳にするのだった。ゴーまで。
とりわけ北見さんのパーソナリティを決定づけるのは締めの二曲である。彼はダイターン3の主題歌のあとに大塚愛の『恋愛写真』を歌う。それは確かに感動的なフィナーレである。確かに前者は後者の前フリとなっている。
だが大塚愛の曲をひげ面の五一の男が歌う光景を想像してほしい。見る方からすればハードな悪夢でしかない。
いや確かに名曲だ。うたばんではベストパフォーマンスだった。
……うたばんはけっこうこうしたベストパフォーマンスあったように記憶している。木梨さんの『ギャランドゥ』とか。
……で、だいたいは後輩の誰かがダイターン3をアンコールするのだ。誰もがその流れのなかで再度イントロを聴きたくなる。
不思議なことにここでは『恋愛写真』の感動的なフィナーレはダイターン3オープニングの前奏曲にもなっている。
そして高らかに歌い上げる北見さんの姿はたとえようもなくしあわせそうなのだ。
後輩に囲まれ、好きな歌を力の限り歌い、それはまるでむりやりだが特別な何かをクリエイトしているように見える。
誰かが意図してサンライズと大塚愛を結びつくように謀ったわけではないだろう。まるで神の導きのようである。
彼はすべてをわかっていて選曲し、まるで秘めたる鋼鉄の意志に基づいて誰かに奉仕しているようなのだ。
それは誰かに与えられた役目を果たすかのように。彼はそのためにこの世に生まれてきたかのような確信に満ちているのだ。あれは、いったい何なのか?
いや俺にはほんとうのところはわかってる。認めたくないのだ。あれは彼が獲得したしあわせのかたちに他ならない。
本音では羨ましく妬ましい。どうやったらあんなふうに、手掴みで幸福を獲得することができるのだろう。どうやったら。
わからない。わからないので俺はもう眠ることにした。明日。また明日考えよう。
アニソン、それはさながら幸福のオーロラのように、輝く光のカーテンを心の空に与えてくれる。
それは俺たちがもう手に入れることのできない何かだ。
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