見傷む
私が未言について知りたいというと、旦那は喜んでいた。それで、自室の本を自由に読んでいいという許可をもらった。
しかし、読んでみるとやっぱりこの未言というのは、不思議な言葉達だった。
それから未言巫女という、未言を擬人化したキャラもよく出てくる。私が旦那のネクタイに刺繍していたのも、『指し凄む』という未言の未言巫女だったらしい。ややこしいわ。
「未言、か」
私は手にした本をテーブルに横たえて、代わりに針箱を取り出した。
一部の未言には、未言巫女という擬人化だけではなく、化身という動植物の姿もあるようだ。
指し凄むにも、その化身の姿が設定されていた。それは冷気を放ち、六花を散らす蛇の姿。
それから、指し凄むには、姉妹ともいうべき未言がいる。
指し染む。指先が何かに染まること。化身は光沢によって色合いが揺らめく白い蛇。
火食む。熱が体の中に溜まって蝕まれるように思えること。化身は赤熱した蛇。
指し失す。指先の感覚がなくなること。化身は透明の蛇……あ、これは刺繍できない。
他にも指し凄むの姉妹はいるようだけど、あんまり増やしすぎても糸が刺せなくなるから、これくらいにしてあげよう。
縫い付けるのは、旦那のワイシャツの袖と襟にしよう。
指し染むは、刺していて、なかなか楽しい。七本の針に色の違う糸を通して、白の糸を指していきながら時折違う色の糸を刺し込み、また色を重ねてあげると、錯覚のようにも思える色の変化を作っていける。
火食むは、緋色と茜色、それと橙と焦げ茶の色を均等に刺していくと、燃えてる様が満足いく仕上がりになった。
指し凄むは、光沢のある勿忘草色の糸で指し、周りに銀糸で六花を刺す。
指し失すは、透明にも見える極細の白糸で指すと、いい感じに見えにくい仕上がりになった。
「ただいま」
「ひっ!?」
いきなり耳に息を吹きかけられて、私は反射で仰け反った。
この声は間違いなく家の旦那である。
「ちょっと! 針使ってるんだから危ないでしょ!」
「いや、その、ごめん?」
そこは疑問符つけずにしゃっきりと謝罪してほしいところだ。
本当に変なところ子供っぽいのだから、行動が読めなくて困る。
「いいね、それ。シックな刺繍だから、仕事に着て行っても人気でそう」
「人気出るのは嬉しいけど、また店員の制服全部に刺繍とか絶対しないからね。あとどうしたの、その腕?」
旦那を避けようとして伸ばして腕が、彼のワイシャツの裾に触れて、その下の包帯が見えた。今朝までそんな怪我はしていなかったのに。
「ああ。新人がポカって樽を転がしたんだ。中身がぶちまけられる前に止められたよ」
「ちょ、なに止めたって!? 危ないでしょうが!」
この馬鹿ときたら、自分の身よりワインを優先したんだ。ワイン樽だなんて、人が自力で運ぶようなものじゃないのくらい知ってるんだぞ。
見ているだけで、私の腕までじくじくと痛くなってきたような錯覚を覚える 。
そんな風に傷つくのは止めてほしい。傷ついてほしくない。
傷つけたくない。
私は、臆病だ。頬が一筋、熱くなる。涙が零れていた。
「恵梨香、平気だから。樽が回る前に腕で押さえただけで、ちょっと打っただけだよ。包帯は湿布がはがれないように巻いてるだけ。そんな顔をしないでくれ」
「……うるさい、ばか」
きっと彼の言う通り平気なんだろう。
でも、海外出張に運搬、場末の卸し相手のところにも出向く彼は、けしていつも安全に仕事をしてきた訳じゃない。
そんな苦労人に愛の一つも囁けないだなんて、妻として自分が情けない。
「未言はね、違いを許してくれたんだ」
「違い?」
急な話の転換に、私は戸惑いを口にした。
それでも説明なく、旦那はその唐突な話題を続ける。
「味覚が昔から人より敏感だった。友達や家族がわからない味の些細な違いも強く感じた。料理の素材が新鮮じゃないだとか、安物だとか、わかってしまうと、気になって仕方なかった。そして、それを誰も理解し、共感してくれる人はいなかった」
旦那の味覚が鋭いのはよく知っている。ソムリエの資格も持ち、外食した店の味を丁寧に語ることがある。
だから旦那が選ぶ店は安いとか高いとか関係なく美味しくて、安心して入れたし、友達にも自慢と共にお勧めできた。
でも、それは旦那にとってよいものだと思っていた。こんな泣きそうな顔をするようなものではないと考えていた。
「未言はね、違うからなんだと跳ね返していたんだ。誰も見つけない言葉を、わたしが見つけたんだ、この素晴らしい言葉をみんなにも知ってほしいんだと、そう未言屋店主は伝えたいんだって。だから、俺はね」
旦那の目が真っ直ぐに私を映す。
その瞳は、とても、自信と自己肯定に満ちていて、美しかった。
「だから俺は、俺の持つ味覚を人にも伝えられる仕事を選べたんだ。未言に救われたんだよ」
救われたという言葉は、とても重くて深い意味で、大事な想いなんだろう。
私はこの日初めて、旦那の芯になっている強さを目の当たりにしたんだと、実感できた。
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