苛潜む

「いたいいたいいたいいたいー!」

「ぬぁにが、離婚したいよ、あんな優良物件捕まえておいて、この贅沢もんがー!」

 私の体が親友の手によって、極限まで捻られて、その痛みに悲鳴が上がる。

 これ、絶対マッサージじゃないでしょ、こっちはお金払ってる客なのに!

 タダでこんな重い話の相談に乗ってもらうのも悪くて、久しぶりにお店の予約を取ったというのに、この仕打ちはあんまりじゃないか。

 しかし、親友の深雪はさらに容赦なく私を責め立てる。筋が千切れそうだ。

「高収入のワイン卸業のやり手、趣味のワインは仕事で飲めるからと自分で買うこともほとんどなく、結婚してから七年間変わらない愛情を注いでくれて、不妊治療も真摯に受けてくれている。こんな出来た旦那他にいるか、手放すな!」

「いたいいたいいたい、千切れる! ちーぎーれーるー!」

「あんたのそのバカな考えごと千切ってやろうじゃないの!」

「ひとごろしー!」

 散々に痛めつけられた挙句、離婚の考えを一旦捨てることを約束させられてやっと私は解放された。

 なんなのよ、もう……、誰も私の味方はいないのか……。

 この親友にも考え直すように強要され、旦那は聞く耳を持たず、両親には正座で説教を受けた。相手の幸せを願って別れるのがそんなに悪いのか。好きじゃない相手が、他の人と付き合えるように手放すのがそんなにいけないのか。

「なによ、不満そうね」

「べつに」

 無理やりとはいえ、約束を結ばされた手前、離婚という選択は一度止めることにする。しかし実行と内情がそぐわないことだってあるのだ。

「あんたねぇ、流石に椿君に同情するわ。だいたい、あんたの話聞いてたら、あんた椿君のことだいっすきじゃないのよ。意固地になるな、素直になれ」

「好きと愛は違うのよ、私は素直にしているつもりよ」

 私が反論すると、深雪はこれ見よがしに溜め息を吐き出した。

「そりゃ、椿君は変人だけどさー。ま、未言好きな人は大抵変人で変態だけど」

「まるで一般論みたいにいうのね。うちの旦那はこの上なく変人だと思うけど」

「家の引きこもりだった弟もよ。趣味ができて活発になったと喜んで話を聞いたら、未言のこと話し出すと止まんないのよ、あいつ」

 そういう深雪は嬉しさをほのかに滲ませている。

 未言。未だ言にあらざる。

 その新しい世界観を知って、彼女の弟は、それまで拒絶していた世界に僅かな美しさを見つけ、未言を見つけるために外へ出ていったのだという。

「てか、彼、出会う前から未言が趣味なんでしょ? なのに、七年経っても全然わからないとか、あんた相手を知ろうって努力が足らないっての。相手に愛されてるからって甘えてんの?」

「うっ」

 確かに、深雪の言う通りかもしれない。愛せないとかいう前に、もう一度、旦那のことを知っていく必要はある気がする。

 もしかして、私は旦那に離婚の選択を理解してもらうよりも先に、旦那をまた愛せるようになる努力をしないといけないのではないだろうか。

「私、自分で考えてた以上に、バカだったかもしれない」

「やっと気づいたか、ばーか。あんな最高の旦那捕まえて離婚とかほざいてんじゃねー、こっちは独り身だぞケンカ売ってんのか、ばーか」

「ほんっとに容赦ないな!?」

「ははっ、気のせいだよ、喪女のやっかみだよ、気にすんな。ほら、迎え来てるからはよ帰れ」

 深雪が指さした外を見ると、我が家の車が店の前に駐車したところだった。

 なんだかんだで、いつもタイミングがいい旦那なのだ。だからこそ、その言動に抵抗できなくて厄介なこともあるのだけど。

 好意っていうのは、とてもきつくて強靭な束縛でもある。

「ま、ありがと、深雪。ちょっと考え直せた」

「おー、おー。またいちゃついて爆発しろ、バカップル」

「誰がバカップルか!」

 誰が何時いちゃついたというんだ。いちゃついてたとしても、見えるところではやってないぞ、断じて!

 私は悪友から逃げるように店を出て、旦那が運転席に納まる車へと足を進めた。

「もういいの?」

「うん、ありがと」

 ゆっくりと加速度の圧迫を感じさせない丁寧さで、旦那は車を発進させる。

 この人がとても素晴らしい人だっていうのはわかっている。

 けれど。それでも。だからこそ。なのに。

 指先がじんじんと痛むのは、親友の責め苦のせいか、自分の感情が定まらないからか。

 もう一度、知っていこう。また愛せるようになろう。

 そう決断したはずなのに、やり方がわからなくて、やっぱり私は彼を愛していないんじゃないかと、不安に苛まれる。

 今ここで、彼のことを全て忘れられたらどんなに楽だろうか。

 でも、そうなっても旦那は私に愛してもらおうと努力する気がする。

 そう思うと、少しおかしくなった。

「あ、久しぶりに笑った」

「前見て運転しなさいよ」

 何時でも私のことを見てるとか、どんだけ私のこと好きなのよ、この人は。

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