指し匂ふ

 バレンタインデーが来た。

 平日で旦那は仕事だから、昼間の時間をたっぷり使える。

 ひたすらに板チョコを包丁で砕き、砕き、砕いていく。

 それをボウルへあけて、湯煎で溶かす。

 とろりとしたチョコの液に、生クリームと、煮込んでぐずぐずにしたラズベリーを足して、均一に滑らかになるまで混ぜる。

 そして飛び切りの赤ワインを注ぐ。ワインの銘柄は、旦那がチョコに合うと絶賛していたものだ。

 私は、料理の味を組み立てる時は旦那の言葉を全面的に信用しきる主義だ。だけど、旦那よりも私の方が遥かに器用なのである。

 つまり、料理を作るという点においては、私は旦那に負けない。というか、旦那に結婚を決断させた最後の一押しが、この付き合ってから努力に努力と料理教室とレシピ本に給料の三割をかけて手に入れた料理の腕なのだ。

 ああ、あの頃の恋にまい進していた自分を思い出すと恥ずかしくなる。

 けれど、そんな恥ずかしさよりも、今は彼がこのチョコを口にした時の笑顔を想う気持ちが勝っている。

 全身全霊を込めてかき混ぜ、神経を研ぎ澄ませてタイミングを計る。

 未言では、こんなにも強く心を籠めたものは、うらっているというらしい。心と書いてうらと読む意味が私にはわからないけども、心が凝縮して形になっているというニュアンスは、よいものだと感じた。

 今この時は、少しだけ旦那を愛せている気がする。

 それに楽しい。そうだ、恋は、楽しいんだ。

 この年にもなって恋を自覚して楽しくなるとか、同時に恥ずかしさが積み重なるけれど、それは見て見ぬ振りだ。素に戻ったら、即座にのたうち回る自信がある。

 耐えろ私、恋に盲目になれ、後ろを振り向くな。脇目を振れば、また自分の弱さで逃げたくなってしまう。

 完成したチョコを刺繍を刺した布で包んだ時には、もう夕日が沈んでいた。

 チョコを包む白い布の刺繍には、私なりに心凝ると恋代をイメージしたデザインを施している。

 もう気恥ずかしさで今すぐ中身ごと粉砕したくなるが、我慢しろ私。

 旦那のことだ、これを渡したら、中を食べた後にこの恥の刺しこまれた布は自室のデスクに大切に仕舞われて、そうしたら私の目には入らなくなる。その瞬間までの我慢だ。

 いいか、旦那の喜びを思い込め。大切な人の笑顔を想像して、破壊衝動を抑えるんだ。

 負けるな……いや、勝つな、私!

 心を落ち着けようと手で口を覆って、深く息を吸う。

 すると自分の指からチョコの甘い香りがした。

 思わず、チョコの出来栄えに私は自然に口角を上げる。

 香りだけでもあのチョコは最高の味だと自覚できたのが、それを旦那のために作れるくらいには愛を持ち直せたのが、嬉しかったのだ。

 けれど、その結果に見合うだけの疲労が、体の奥からじわじわとせり上がってきて、私は逆らえずにソファに横になって、意識を少しだけ手放した。

 そして、私が起きた時、その手は旦那の手に取られて、直に香りを嗅がれていた。

 いや、だからいつも理解不能な登場をしないでほしい。寝起きの頭ではどうすればいいのか思考も定まらず、なされるがままになる。

「おはよ。いい香りが指し匂ってるね。美味しそう」

「たべないで」

 食べられたら痛そうだ。

 そう思って言葉を返すと、彼はくすりと笑った。

 そして旦那が私の手を、私のお腹の上に置く。

 ぼんやりとまだ眠気の波に揺られてる私は、旦那に抱きあげられた。

「チョコありがとう。嬉しい」

 柔らかく喜びを醸してる旦那の笑顔がすぐ近くになって、頬が熱くなった。

 いいな、この顔。素敵だ。

 あ、私、この人好きだ。

 旦那の腕の中で運ばれて揺られながら、私は自然とそう思った。

 それから、指先からなにか、熱とか、もしかしたら命みたいなものが、お腹の中へ潜り込んでいく気配がした。

「あのね、好き、よ」

「……うん。知ってる」

 旦那の腕からベッドに降ろされて、私は体の力を抜いた。

 そして私の肌を撫でる彼の手に、全てを委ねていった。

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