指し凄む
あれだけはっきりと愛していないと言っているのに、「俺は愛してる」の一言で離婚を拒否するとか、家の旦那は頭がおかしくないだろうか。不妊治療しているのに子供ができないことのストレスが彼にも溜まって……いや、そういやあの人、通りすがりの私に開口一番で「運命を見つけた」とか言ったキチガイだったわ、初めから。
最初は私も引いてたけど、話してみたらいい人だし、素敵なバーにも連れていってくれて……私、もしかしてちょろいのか?
やめよう。こんなこと考えていたら、またあの人にほだされて別れる気をなくしてしまう。
どうにかして、旦那にも別れた方がいいんだと分からせないと。
でも何も思いつかなくて、私は針箱を取り出した。
とりあえず、刺繍の練習用にと安く買った端切れに、目に付いた針で糸を刺す。
自然とその糸は慣れた形を紡ぐ。
雪の花を描いて、青の糸は回る、巡る、舞う。
そうだ、この趣味を活かして嫌がらせをすれば、私の本気は伝わるんじゃないだろうか。
口では旦那で敵わないが、逆に旦那は家事は私に任せきりだ。
その家事の中で『不手際』を繰り返せば、旦那も私に愛想を尽かすに違いない。
私は旦那にネクタイの繕いを頼まれていたのを思い出し、その作業に入る。
旦那が気に入ってよく締めていたボルドーが光を美しく跳ね返すネクタイだ。単色で、フォーマルにもカジュアルにも合わせやすい。
このネクタイを繕うついでに刺繍を施してあげよう。
柄はそう……旦那の好きなアニメキャラとかでいいか。流石に恥ずかしくて外に着けてはいけないだろう。
私は一度、旦那の部屋に行き、参考資料を見繕うと、ちょうど良くアニメチックな美少女イラストを見つけて、私はほくそ笑む。こんな女の子キャラをネクタイに刺繍してるなんて、痛々しくてすごくいい。
一応、名前くらいは見て置こうか。
「指し……なんて読むの、この漢字。すさむ? 変な名前」
名前っていうか、むしろ動詞みたいじゃないの。最近はこういうネーミングが流行っているのか。少なくとも、私は子供にこんな変な名前は付けたくはない。
でも、イラストは可愛いらしさとボーイッシュな端整さが絶妙に調和してて、いい。
こう、早く糸を刺したくなる。
絵が決まれば、刺繍はその輪郭を思い描きながら糸で中身を埋めていけばいい。
旦那には刺繍で食べていけそうだね、と付き合ってる時に言われたこともあるけど、刺繍を生業にするとかどんだけ大変だと思っているのかと、たっぷり説教してやった。
全く、男は夢ばっかり見て、現実を見なくていけない。
そうだ、旦那は私に、私との関係にまだ夢を見ているんだ。早く覚めてもらわないといけない。ぐだぐだと恋愛ごっこに付き合ってあげる筋合いなんてないのよ。
「ねぇ、寒くない?」
「え」
どれだけ集中していたんだろう。旦那が暗くなっても暖房を入れていないリビングの入り口で、指を擦っていた。
日が落ちてきて、明かりを点けたところまでは覚えていたけど、あ、しまった、晩御飯の支度してない。
少し混乱していたのかもしれないし、指先が凍えて感覚がないように、頭も寒さでうまく回ってなかったのかもしれない。
ただ私は、帰ってきた旦那の動きを、機械人形みたいに目で追うしかできなかった。
旦那がエアコンを暖房で稼働させて、それからカーテンを閉める。
「あれ、指し凄むだ。相変わらず上手だな。いいね」
この人、頭おかしいんじゃないだろうか。なぜこんな痛々しい刺繍をお気に入りのネクタイに施しているのに、褒められているんだろうか。
「あ、周りに雪の結晶も入れてくれる? そしたら、公式グッズみたいだからさ」
「え、あ、うん。あ、ご飯、できてない、ごめん」
旦那の感覚に全然ついていけなくて、私は何故か食事の不在を謝罪する。
いや、待ちなさい、私。ここはむしろ、何時でもご飯ができてると思わないでよ、とか言った方が彼の気持ちを遠ざけられたんじゃ、いやそうじゃなくて、えと、六花を幾つか周りに刺繍すればいいのね?
「ん、そうなの。そっか」
夕飯ができないのを知って、旦那が悲しそうに顔を曇らせた。
この人、美味しい料理を食べるのが好きなのだ。私は彼と付き合ってすぐに料理を勉強して、結婚当初はその間に磨いた料理の腕を誇らしく思っていたものだった。
「でも、俺のためにネクタイ直しててくれたんでしょ。すぐに直せるのに、そんな工夫までして時間かけてさ」
あ、この天然、なんか勘違いしてる。しかも私にとってとても不本意な方に。
やばい、嫌われようとしてたことが全て裏目に出ている。
「大丈夫? 疲れてぼーっとしてる? とりあえず、夕食は外食しよ。久しぶりにフォルケッタのピザが食べたいよ」
私が何も言えずに口をぱくぱくさせている間に、旦那の手で針箱が閉じられて、私はコートを着せられていた。
ああ、どうして、私は、この人に口と行動で勝てないのだろう。ただひたすらに自己嫌悪を抱いて、近所のイタリアンレストランまで彼の後ろをしずしずと着いて行ったのだった。
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